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2章
(27)真髄
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「オレを差し置いて鍵者に手を出すとは、良い度胸だ」
しゃがれた声が、首筋に迫るレイピアを弾き飛ばした。
俺は頭上を横切った分厚い拳に目を見開き、それが飛んできた方向へと目を向けようとした。だがそれより早く、うつ伏せだった俺の襟首を巨大な手が掴み上げ、はるか後方へと投げ飛ばしてしまった。
「おわあ!?」
一瞬の浮遊感の後に背中から激しく地面を転がり、視界がぐるぐると地面と空を行き来する。かなりの時間をかけて止まったころ、俺の隣には地面に寝かされたシャルがいた。
「え……は?」
「呆けてないで立て!」
有無を言わせぬ鬼教官の声が降ってきて、俺は勢いよく飛び起きた。だが両腕が使えないことをすっかり忘れ、重心を崩してひっくり返ってしまう。そこから慌てて胡坐をかくようにして何とか座ると、俺の前ではベアルドルフとニヴィが対峙していた。
死んだかと思った。いや、ベアルドルフが割り込まねば死んでいた。
でも、何故だ?
一度は俺を殺そうとしたくせに、なぜ俺を助けたんだ。
「どうして邪魔をするのかしら。その子を捕まえたら、次は貴方の番だったのに」
俺の疑問を、奇しくもニヴィが代弁してくれた。しかしベアルドルフは答えることなく、肩で風を切るようにニヴィへ近づいていく。ベアルドルフの手には何も握られておらず、腰や外套の下にも武器らしきものはない。触れた者の菌糸を殺すニヴィ相手に素手で挑むなぞ、自ら死にに行くようなものではないか。
「ちょ、おっさん! 待てって! 素手で勝てるわけないだろ!?」
思わず止めに入るが、ベアルドルフの歩みは止まらない。それどころか諌めるように口を開いた。
「貴様ではあの女に勝てん」
「答えになってない! つか、おっさんが戦う理由もないだろ!? あんたはもうシャル連れて逃げればいいだけじゃんか!」
「……逃げるだと?」
地獄の底から響くような声色は、一瞬で心胆を寒からしめるものだった。
「オレは元よりあの化け物を殺すためにここに来たのだ。目的は何一つ変わっていない」
振り返った隻眼が射貫いてきて、俺は石化したように動けなくなる。忘れかけていた恐怖を自覚したことで、遠のいていた両腕や背中の痛みまで戻ってきてしまった。
ニヴィも大概だが、ベアルドルフも意味が分からない男だ。ミカルラだけでなくハウラまで殺しに来て、かと思えばハウラそっちのけでニヴィを殺しに行って、何がしたいのか俺にはさっぱり分からない。これなら無差別殺人鬼の方がまだ理解できる。
特に一番気に食わないのは、今しがた発言したこの戦争の目的だ。ダウバリフはシャルを助けるためにベアルドルフを里に引き入れたのに、肝心のベアルドルフは娘よりもハウラたちを優先している。シャルが父親に対してどんな思いを抱いているのか分からないが、少なくとも俺には、ベアルドルフが娘を無下にする最低な野郎にしか見えなかった。
「あんたは……シャルのことはどうでもいいのかよ」
恐怖より怒りが勝った。『雷光』で両腕の修復をして、返答次第では一発ぶん殴れるように準備する。
重度の貧血であろうと、ベアルドルフならばニヴィに勝てるだろう。しかしクソ野郎に手柄を渡すぐらいなら、俺が瀕死になってでも両方に喧嘩を売った方がまだマシだ。
はたして、ベアルドルフは足を止めて静かに答えた。
「……片方しか選べぬのなら、オレはニヴィを選ぶだろう。だが、両方を選べぬと誰が決めた?」
その時、ベアルドルフの背中から巨大な圧迫感が放たれた。ただ相手を威圧するだけではない、危険から遠ざけようとする不器用な威嚇に、俺の怒りは一瞬で削がれてしまった。同時に、何も知らないくせにシャルの味方になろうとする自分に気づいて恥ずかしくなった。
異世界転移した最初の日、俺はドミラスから学んだはずだ。専門家でもないのに専門分野に素人が口出ししても碌なことにはならないと。俺はベアルドルフでも、シャルでもない。ただの部外者だ。本人にしか分からぬことを知ろうとせずに、上っ面だけでベアルドルフを評価してしまっていた。
俺は力の入らない両腕をもどかしく思いながら、ベアルドルフの背に問いを投げかけた。
「なら、あんたはなんで戦ってんだ」
一瞬だけ間を置いて、ベアルドルフは言った。
「シャルに世界を残すためだ」
俺は否定するのではなく、一度ベアルドルフの言葉を飲み込んで考えた。巫女を殺すことと、世界を残すことに一体どんな因果関係があるのかは分からない。だが、ニヴィが俺を『博士』のところに連れて行こうとしたことや、ベートに連れて行かれた謎の施設のことを考えると、俺もきっと無関係ではないのだろう。
これだけ異常な体験をしてきたのに、俺は何一つベアルドルフと繋がる背景を知らない。いや、知ろうとする努力を怠ってきたのだ。どうせ守護狩人になればレオハニーから故郷に帰る方法を教えてもらえると思って、自分を強くすることだけに集中している怠惰な人間だった。だから訳も分からないまま戦争に巻き込まれて、肝心な時に役に立てないのだ。
そして、こんなことになるまでエトロが抱えていた復讐の念に気づくことができなかった。
俺は知らなければならない。『鍵者』の意味も、エトロが俺をエラムラに連れてきた理由も、ベアルドルフが俺を生かそうとする理由も。
今はせめて、一つも取りこぼさずにベアルドルフの戦いを目に焼き付けたい。討滅者の戦いから、何か少しでもヒントが得られるのなら。
「……ふん」
ベアルドルフは俺を一瞥した後、襟元に指を添えて外套を捨てた。外套は風に煽られることなく、鎖の音を立てながら地面に蟠った。そして、赤と黒が入り混じる分厚い鎧と、そこからはみ出した褐色の剛腕が顕わになる。
「貴様らに討滅者の真髄を見せてやろう」
瞬間、俺の目の前にある空間が、魚眼レンズを通したように歪み始めた。
歪んだ空間の中にも関わらず、ニヴィとベアルドルフは何事もなかったかのように激しくぶつかり合う。
拮抗したように見えたのはほんの数秒だけだった。
ベアルドルフが拳を振るった瞬間、ニヴィの羽が不可視の攻撃でむしり取られ、破片が糸屑のように飛び散る。俺の目は辛うじて、咢のように閉じられた空間が羽を食いちぎったのを見た。
ニヴィは突然腰の羽が消えたことに驚いていたが、微笑みを絶やすことなくベアルドルフへ飛び掛かった。
「羽をちぎったところで、また生やせば――」
その言葉は鼻頭に叩き込まれた拳で遮られた。
素手でニヴィに触れば『支配』で殺されるはず。しかしベアルドルフは全く動じず、怯んだニヴィを殴り続ける。
思えば、『雷光』を持つ俺でさえも即座に菌糸を死滅させられたのに、ベアルドルフは素手でニヴィのレイピアを弾いてもなんともなかった。
よく見るとベアルドルフの拳周辺に歪みがある。直接拳で殴っているのではなく、圧縮された空間が押し出されているようだ。
そこでようやく、俺はベアルドルフの菌糸能力がなんなのかに思い至った。
『圧壊』
変幻自在に空間を操り、瞬間移動、時間操作、錯覚など、ありとあらゆる現象を引き起こせる規格外の能力だ。
例えば『圧壊』で空間が拡張されれば、敵との距離は長距離走となり、逆に空間を縮小されれば短距離走となる。しかし能力者でなければどれだけ走ってもゴールに辿り着けない。空間内を自在に動けるのは、能力者たるベアルドルフだけだ。
つまり、一度『圧壊』の空間範囲内に捕まってしまえば勝ち目はない。
その先はただの蹂躙だった。
俺の視点では超高速すぎてベアルドルフを見ることすらできない。
拡張された空間の中ではニヴィの動きが全てスローモーションだ。対してベアルドルフは縮小された空間にいるため、次元を超えた速度で一方的にニヴィを殴りまくる。
あのニヴィがまともに反撃できない恐ろしい戦法に、俺は真っ青になりながら震えることしかできなかった。
ここまで『圧壊』を極めた人間はシンビオワールドでも存在しなかった。使い熟せれば最強であるが、とんでもなく使い勝手が悪いせいで誰も扱えなかったのである。
例えば『圧壊』で任意の場所に瞬間移動する時、ボタンを押す時間が一瞬短いだけで発動しない。さらに『圧壊』で操る空間の範囲を広げれば広げるだけ、長押ししなければならないボタン操作が増えるため、千手観音でもなければ『圧壊』を極められないとネットでもかなり話題だった。
ゲームでさえ操作が困難な菌糸能力を、現実に置き換えればどれほど至難になるかは想像に難くない。
広大な空間を操り、さらに瞬間移動まで立て続けに成功させているベアルドルフ。その苦労を例えるなら、両手両足に四つのコントローラを持たせ、さらに別々のゲームをプレイしているようなものだろう。
鍛えればできるかもしれない。だが実際にやってみて、達人レベルまで極められる人間はどれほどいるだろう。常人では達し得ない努力の先にいるからこそ、ベアルドルフは討滅者となったのだ。
数分に及ぶ蹂躙の後、再び空間が歪み、俺とベアルドルフたちとの時間が同期する。
ベアルドルフが難なく地面に着地すると、空中に放り出されていたニヴィが頭から落下した。驚くことに、あれだけの猛攻を受けてもなおニヴィはまだ呼吸していた。
「ば……かな……私は、ミカルラ様より……強くなったのに、どうして……」
ニヴィはほとんど虫の息で、砕けた鱗と血に塗れながら頭をもたげた。その額をベアルドルフは容赦なく踏みつける。
「言え。貴様が十二年前のあの日、何を見たのか。ミカルラの真の仇は誰だったのだ!」
――真の仇だと?
エトロから聞いていた十二年前の話と食い違いがあり、俺は思わず立ち上がった。
「な、何の話だよ。ミカルラを殺したのはおっさんなんだろ? まさかそっちが嘘だったってことか?」
ベアルドルフは俺に目もくれず、掠れた息を吐くニヴィに詰問した。
「答えろ、ニヴィ! 貴様が真にミカルラを愛しているのなら答えられるはずだ!」
裏返っていたニヴィの目がぐるりと戻る。血を吸ったせいで彼女の両目は真っ赤であり、ドラゴン化の進行が止まっているかすら定かではない。
ニヴィは奥歯を噛み締めながら呻き声を上げると、ベアルドルフの足を額で押し上げながらじわじわと起き上がり始めた。やがてニヴィの後頭部が完全に地面と離れたところで、彼女の乾いた唇が明確な意思を持って言葉を紡ぐ。
「……トト」
途端、ベアルドルフの下からニヴィが消えた。
あまりにも唐突で、なんの前触れもなかった。周囲に引き摺った後もない。ベアルドルフの足も浮いたまま。
「消えた!? さっきまでそこにいたのに!?」
俺は血溜まりに駆け寄った。しかしベアルドルフは全く探すそぶりを見せず、逆に得心がいったように顎に手を当てて笑っていた。
「……ククク、ついに尻尾を出したな」
「一人で分かった気にならないでくれよ! 俺にも説明してくれ! さっきの話本当なのか!? おっさんはミカルラを殺してないのか!?」
「喚くな」
ぴっと突きつけられた太い人差し指に俺は即座に口をつぐむ。次いで自分に降りかかってくる殺気に気付き、ベアルドルフとはまだ敵の敵は味方というだけの関係であることを思い出した。
そも、ニヴィが消えたのなら次の標的は俺だ。一度助けてもらったとしても、今この瞬間殺されないという保証もない。
俺は生唾を飲み込みながら、干上がった喉から声を絞り出した。
「これだけ聞かせてくれ。おっさんは本当にミカルラを殺してないのか?」
ベアルドルフは隻眼を尖らせ、固く引き結んだ口から低く答えた。
「ミカルラはオレが殺した。……だが、オレにミカルラを殺させた者がいる」
「……じゃあ、トトってやつが十二年前の全ての元凶ってことでいいんだよな?」
消える前にニヴィが口にした『トト』という人が、ベアルドルフにミカルラを殺させた黒幕なのだろう。そしてニヴィをベアルドルフから救い出したのも『トト』である可能性が高い。
多分、俺の推測は合っているはずだ。
ベアルドルフは沈黙する。そのまま俺に背を向けて、地面に寝かされたままのシャルの方へと歩き始めた。
丸太のように太い足がしゃがみ、大きな手がシャルを抱き抱える。その時一瞬見えたベアルドルフの顔は、これまでの闘気が嘘に思えるほど静かだった。
ミカルラの死が仕組まれたことだとしても、実際に手を下したのはベアルドルフだ。その事実がある限り、ベアルドルフはエラムラの里にとって大罪人である。
だとしても俺はベアルドルフを助けて正解だったと思う。エトロはきっと怒るだろうし、他のエラムラの人が知ったら今度は俺も同罪扱いされるかもしれない。
その時はその時だ。俺は別に死にたいわけじゃないが、人殺しになってまで生き延びたくはない。
それにもしもの話、ベアルドルフとミカルラ、二人が謀られた証拠があれば、シャルの迫害も止められるかもしれない。
そんな都合のいい未来に想いを馳せていると、ベアルドルフが徐にシャルを抱えたまま俺の方に近づいてきた。
ベアルドルフはいつでも俺を殺せるはずなのに全くそんな素振りを見せない。先ほど向けられた殺意はかなり恐ろしかったが、本当に殺してこないと分かる程度には余裕があった。
そも、なぜベアルドルフが俺を助けたのかも不明のままだ。
聞いたら答えてくれるだろうか。虎の尾を踏みたくはないが、放置するのも気味が悪い。
悶々と悩んだ末に口を開こうとした途端、ベアルドルフはゆったりとした動作でシャルを投げ寄越してきた。
「うお!?」
咄嗟に横抱きに受け止めるが、まだ『雷光』で治りきっていない腕のせいで見事にひっくり返った。後頭部や背中を強かに打ち付けて、俺は足をばたつかせながら悶絶する。
ベアルドルフは動けない俺を見下ろすと、神妙な顔つきでこう告げた。
「貴様にシャルを預ける。オレはまだ、調べねばならん事がある」
「は……ちょ、なんで俺!?」
自分で連れて行けと叫びたかったが、そんな度胸があるわけもなく。パクパクと魚になった俺に向けて、ベアルドルフは不敵に笑って見せた。
「貴様ならシャルを守れるはずだ。『地球の日本』から来た異世界人なのだろう?」
……今日だけで何度驚かなければいけないのだろう。
「……あんたも知ってるのか。俺の故郷のこと」
「討滅者に知らぬ者はいない。――そうか、レオハニーは貴様にも全てを話していないのか」
含みのある言い方に俺の脳裏で色々な憶測が飛ぶ。だが唯一の故郷の手掛かりを持つレオハニーを疑いたくなくて、俺はベアルドルフを黙って睨みつけた。
ベアルドルフは黙って俺の目を受け止めると、外套を肩に引っ掛けながら俺に背を向けた。
「真実を知りたければ、ヨルドの里へ向かえ。奴らの痕跡がそこにある。今の貴様には到底生きて辿り着けぬ魔境だがな」
それ以上語る言葉はないと言わんばかりだ。
俺は苦労してシャルを抱えたまま起き上がると、去り行く背中に短く問いかけた。
「なんでそれを俺に教えるんだ」
「貴様が『鍵者』だからだ」
振り返ったベアルドルフの顔を見た瞬間、俺の声帯は縮み上がってしまった。
それはソウゲンカの形相が霞むほどの凶暴な笑みだった。深い皺の寄った目元は愉悦と憤怒が複雑に絡み合い、鬼神すら薙ぎ倒しそうな貫禄がある。
「いずれ見定めさせてもらうぞ。ウラシキリョーホ」
ふっとマイクを叩くような音がして、ベアルドルフの姿が見えなくなる。
俺は口を中途半端に開けたまま、冷たい風の中で立ち尽くした。
上には上がいる。俺が底辺に位置しているのは知っていたが、討滅者との隔たりをこうもまざまざと見せつけられては、芽生えかけた自信も一瞬で砕け散ってしまった。
俺ではニヴィに勝てなかった。ベアルドルフがいなければ死んでいた。
敵に救われ、見逃されるなんて最悪の屈辱だ。
俺はシャルを横抱きにしたままその場に崩れ落ち、深々と嘆息した。
「っつーか、なんで俺のフルネーム知ってんだよ。どいつもこいつも……」
誰にも拾われない俺の呟きは、ようやく鎮火し始めたエラムラの虚空へ吸い込まれていった。
残ったのは死体と瓦礫。城壁の上では気絶した巫女が見える。広場の方では救助活動が着々と進んでおり、怪我人がテントで寝かされていた。
「……行くか」
俺は重い腰を上げると、気絶した巫女を回収するべくシャルを小脇に抱え直した。
・・・───・・・
「ベアルドルフが『鍵者』を見逃しましたか」
戦いの余波で半分ほど崩れ落ちた城壁の足元で、ロッシュは腕を組みながらほくそ笑む。そのすぐ傍ではシュイナが目を伏せるように佇んでおり、彼女の菌糸がゆっくりと点滅していた。彼らの視線の先には、シャルを抱えて歩くリョーホの姿がある。
「シュイナ。トトの姿は見えましたか?」
「いえ……取り逃しました。ニヴィに掛けていた『保持』の能力が、いつのまにか消えてしまいました……すみません」
「謝らないでください。お陰で知りたいことは知れましたから」
シュイナの保持の能力が効かないのであれば、トトはベアルドルフと同じく空間に影響を及ぼす能力者だ。ニヴィがいきなり消えたのも、ロッシュの前から鎧の男とダウバリフを逃がしたのと同じ手口だろう。能力の系統が分かれば今後の対策も練りやすい。
ロッシュは顎に手を当てようとして、右手が砕けているのを今更思い出した。代わりに左手を持ち上げながら、右手を打ち砕いた鎧の男の姿を脳裏に描く。
「トトはともかくとして、あの鎧の男の正体が気になりますね」
「……ロッシュ様。本当にあの男に心当たりがないのですか?」
「ええ。僕の能力を知る人間は貴方とレブナ、そしてハウラだけです。ですが僕が殺すつもりで『響音』を使ってもあの男は死ななかった……よほど近しい人間でなければ、それはありえないはずです」
ロッシュは幼いころ、『響音』を使いすぎたせいで両親を誤って殺してしまったことがある。その日から自分の大切な人間を殺さないよう、『響音』のあらゆる周波数に適応させる癖をつけていた。その周波数はロッシュが一人一人に的を絞っているため、不特定多数の人間には決して伝わらない。なので、見知らぬ人間が『響音』の最高出力に耐えられるわけがないのである。
それに、鎧の男の傍にいたダウバリフまで生き残ったことや、スキュリアの狩人たちに『響音』が効きにくかったのも気になる。奇襲された当初は周波数を何かしらの媒体で記録され、エラムラの住人と同じように適応したのかと思ったが、事はそう単純ではないのかもしれない。
「ロッシュ様……」
「うん?」
「ここは冷えます。右手の治療もしなければなりませんから、そろそろ……」
「そうでした。シュイナは気が利きますね」
ロッシュはシュイナに微笑みかけた後、気絶したハウラの運搬に難儀するリョーホへ目を向けた。リョーホは瓦礫の山に隠れているロッシュたちに気づいた様子はなく、シャルとハウラを両脇に抱えて長い階段を降り始めていた。
「『鍵者』はドラゴンの征服者と聞いていましたが、想像以上ですね。放っておけば世界の調和が崩れかねない能力です。ベアルドルフが危険視する理由も良くわかります」
もしリョーホがこのまま上位ドラゴンの能力を習得し続ければ、誰も手を付けられない討滅者が誕生するだろう。最強の討滅者たるレオハニーでも、すべての能力を手に入れたリョーホに勝てるかどうか。
「……ですが、ロッシュ様。あの方は予言の通りにはならないでしょう」
「なぜ?」
「リョーホは……人間に憎しみを抱いていません。自分の危険を省みず、シャルやわたし達を守ることを優先しました……」
「そうですね。彼は自覚がなさそうですが、自分より他人を大切にしたいのでしょう。ですが、今後もそうとは限りません。機械仕掛けの世界の真実を知ってしまえば、リョーホさんもベートのように歪んでしまうかもしれません」
善意が悪意に逆転すれば、凄まじい憎しみが生まれる。その矛先が人類に向けられたなら、討滅者の間で聞かされる予言の通りに世界の破滅が訪れるだろう。
「世界が滅びてはエラムラも消えてしまいますからね。リョーホを連れてきてくれたレオハニーには感謝しなければ」
ロッシュはにっこり笑いながら言うと、リョーホが階段の向こうへと消えたのを確認して、込み上げてきたため息を飲み込んだ。それからシュイナに左手を差し出しながら口を開いた。
「シュイナ。本当は今日眠らせて上げるつもりだったのですが、もう少しだけ堪えてください。いつか必ず、君が安心して眠れる里を作りますから」
「……ええ。その時までお供いたします。二年後に目覚めた後も、きっと」
躊躇いもなく手を取ってくれるシュイナに、ロッシュはゆっくりと目を伏せる。
ロッシュは以前シュイナにこう言った。眠る時間が長くなるということは、生きている時間も短くなるということ。貴方のそれは寿命の前借りでしかないと。それに対してシュイナは、寿命を惜しんでドラゴンに家族を食わせるぐらいなら、命を燃やした方が幸せだと笑った。
ロッシュが里長である限り、シュイナはずっと眠ろうとしないのだろう。心の底からシュイナを救いたいと思うのなら、里長の座を早く誰かに譲ってしまえばいい。それでもそうしないのは、私情より大局に目先が向いてしまう己の性か。
「ベアルドルフ。貴方の気持ちなんて僕は分かりたくありませんでしたよ」
シュイナに聞こえぬようにロッシュがつぶやくと、頭上の月が分厚い雲で隠れ、エラムラに暗く影が落ちた。
しゃがれた声が、首筋に迫るレイピアを弾き飛ばした。
俺は頭上を横切った分厚い拳に目を見開き、それが飛んできた方向へと目を向けようとした。だがそれより早く、うつ伏せだった俺の襟首を巨大な手が掴み上げ、はるか後方へと投げ飛ばしてしまった。
「おわあ!?」
一瞬の浮遊感の後に背中から激しく地面を転がり、視界がぐるぐると地面と空を行き来する。かなりの時間をかけて止まったころ、俺の隣には地面に寝かされたシャルがいた。
「え……は?」
「呆けてないで立て!」
有無を言わせぬ鬼教官の声が降ってきて、俺は勢いよく飛び起きた。だが両腕が使えないことをすっかり忘れ、重心を崩してひっくり返ってしまう。そこから慌てて胡坐をかくようにして何とか座ると、俺の前ではベアルドルフとニヴィが対峙していた。
死んだかと思った。いや、ベアルドルフが割り込まねば死んでいた。
でも、何故だ?
一度は俺を殺そうとしたくせに、なぜ俺を助けたんだ。
「どうして邪魔をするのかしら。その子を捕まえたら、次は貴方の番だったのに」
俺の疑問を、奇しくもニヴィが代弁してくれた。しかしベアルドルフは答えることなく、肩で風を切るようにニヴィへ近づいていく。ベアルドルフの手には何も握られておらず、腰や外套の下にも武器らしきものはない。触れた者の菌糸を殺すニヴィ相手に素手で挑むなぞ、自ら死にに行くようなものではないか。
「ちょ、おっさん! 待てって! 素手で勝てるわけないだろ!?」
思わず止めに入るが、ベアルドルフの歩みは止まらない。それどころか諌めるように口を開いた。
「貴様ではあの女に勝てん」
「答えになってない! つか、おっさんが戦う理由もないだろ!? あんたはもうシャル連れて逃げればいいだけじゃんか!」
「……逃げるだと?」
地獄の底から響くような声色は、一瞬で心胆を寒からしめるものだった。
「オレは元よりあの化け物を殺すためにここに来たのだ。目的は何一つ変わっていない」
振り返った隻眼が射貫いてきて、俺は石化したように動けなくなる。忘れかけていた恐怖を自覚したことで、遠のいていた両腕や背中の痛みまで戻ってきてしまった。
ニヴィも大概だが、ベアルドルフも意味が分からない男だ。ミカルラだけでなくハウラまで殺しに来て、かと思えばハウラそっちのけでニヴィを殺しに行って、何がしたいのか俺にはさっぱり分からない。これなら無差別殺人鬼の方がまだ理解できる。
特に一番気に食わないのは、今しがた発言したこの戦争の目的だ。ダウバリフはシャルを助けるためにベアルドルフを里に引き入れたのに、肝心のベアルドルフは娘よりもハウラたちを優先している。シャルが父親に対してどんな思いを抱いているのか分からないが、少なくとも俺には、ベアルドルフが娘を無下にする最低な野郎にしか見えなかった。
「あんたは……シャルのことはどうでもいいのかよ」
恐怖より怒りが勝った。『雷光』で両腕の修復をして、返答次第では一発ぶん殴れるように準備する。
重度の貧血であろうと、ベアルドルフならばニヴィに勝てるだろう。しかしクソ野郎に手柄を渡すぐらいなら、俺が瀕死になってでも両方に喧嘩を売った方がまだマシだ。
はたして、ベアルドルフは足を止めて静かに答えた。
「……片方しか選べぬのなら、オレはニヴィを選ぶだろう。だが、両方を選べぬと誰が決めた?」
その時、ベアルドルフの背中から巨大な圧迫感が放たれた。ただ相手を威圧するだけではない、危険から遠ざけようとする不器用な威嚇に、俺の怒りは一瞬で削がれてしまった。同時に、何も知らないくせにシャルの味方になろうとする自分に気づいて恥ずかしくなった。
異世界転移した最初の日、俺はドミラスから学んだはずだ。専門家でもないのに専門分野に素人が口出ししても碌なことにはならないと。俺はベアルドルフでも、シャルでもない。ただの部外者だ。本人にしか分からぬことを知ろうとせずに、上っ面だけでベアルドルフを評価してしまっていた。
俺は力の入らない両腕をもどかしく思いながら、ベアルドルフの背に問いを投げかけた。
「なら、あんたはなんで戦ってんだ」
一瞬だけ間を置いて、ベアルドルフは言った。
「シャルに世界を残すためだ」
俺は否定するのではなく、一度ベアルドルフの言葉を飲み込んで考えた。巫女を殺すことと、世界を残すことに一体どんな因果関係があるのかは分からない。だが、ニヴィが俺を『博士』のところに連れて行こうとしたことや、ベートに連れて行かれた謎の施設のことを考えると、俺もきっと無関係ではないのだろう。
これだけ異常な体験をしてきたのに、俺は何一つベアルドルフと繋がる背景を知らない。いや、知ろうとする努力を怠ってきたのだ。どうせ守護狩人になればレオハニーから故郷に帰る方法を教えてもらえると思って、自分を強くすることだけに集中している怠惰な人間だった。だから訳も分からないまま戦争に巻き込まれて、肝心な時に役に立てないのだ。
そして、こんなことになるまでエトロが抱えていた復讐の念に気づくことができなかった。
俺は知らなければならない。『鍵者』の意味も、エトロが俺をエラムラに連れてきた理由も、ベアルドルフが俺を生かそうとする理由も。
今はせめて、一つも取りこぼさずにベアルドルフの戦いを目に焼き付けたい。討滅者の戦いから、何か少しでもヒントが得られるのなら。
「……ふん」
ベアルドルフは俺を一瞥した後、襟元に指を添えて外套を捨てた。外套は風に煽られることなく、鎖の音を立てながら地面に蟠った。そして、赤と黒が入り混じる分厚い鎧と、そこからはみ出した褐色の剛腕が顕わになる。
「貴様らに討滅者の真髄を見せてやろう」
瞬間、俺の目の前にある空間が、魚眼レンズを通したように歪み始めた。
歪んだ空間の中にも関わらず、ニヴィとベアルドルフは何事もなかったかのように激しくぶつかり合う。
拮抗したように見えたのはほんの数秒だけだった。
ベアルドルフが拳を振るった瞬間、ニヴィの羽が不可視の攻撃でむしり取られ、破片が糸屑のように飛び散る。俺の目は辛うじて、咢のように閉じられた空間が羽を食いちぎったのを見た。
ニヴィは突然腰の羽が消えたことに驚いていたが、微笑みを絶やすことなくベアルドルフへ飛び掛かった。
「羽をちぎったところで、また生やせば――」
その言葉は鼻頭に叩き込まれた拳で遮られた。
素手でニヴィに触れば『支配』で殺されるはず。しかしベアルドルフは全く動じず、怯んだニヴィを殴り続ける。
思えば、『雷光』を持つ俺でさえも即座に菌糸を死滅させられたのに、ベアルドルフは素手でニヴィのレイピアを弾いてもなんともなかった。
よく見るとベアルドルフの拳周辺に歪みがある。直接拳で殴っているのではなく、圧縮された空間が押し出されているようだ。
そこでようやく、俺はベアルドルフの菌糸能力がなんなのかに思い至った。
『圧壊』
変幻自在に空間を操り、瞬間移動、時間操作、錯覚など、ありとあらゆる現象を引き起こせる規格外の能力だ。
例えば『圧壊』で空間が拡張されれば、敵との距離は長距離走となり、逆に空間を縮小されれば短距離走となる。しかし能力者でなければどれだけ走ってもゴールに辿り着けない。空間内を自在に動けるのは、能力者たるベアルドルフだけだ。
つまり、一度『圧壊』の空間範囲内に捕まってしまえば勝ち目はない。
その先はただの蹂躙だった。
俺の視点では超高速すぎてベアルドルフを見ることすらできない。
拡張された空間の中ではニヴィの動きが全てスローモーションだ。対してベアルドルフは縮小された空間にいるため、次元を超えた速度で一方的にニヴィを殴りまくる。
あのニヴィがまともに反撃できない恐ろしい戦法に、俺は真っ青になりながら震えることしかできなかった。
ここまで『圧壊』を極めた人間はシンビオワールドでも存在しなかった。使い熟せれば最強であるが、とんでもなく使い勝手が悪いせいで誰も扱えなかったのである。
例えば『圧壊』で任意の場所に瞬間移動する時、ボタンを押す時間が一瞬短いだけで発動しない。さらに『圧壊』で操る空間の範囲を広げれば広げるだけ、長押ししなければならないボタン操作が増えるため、千手観音でもなければ『圧壊』を極められないとネットでもかなり話題だった。
ゲームでさえ操作が困難な菌糸能力を、現実に置き換えればどれほど至難になるかは想像に難くない。
広大な空間を操り、さらに瞬間移動まで立て続けに成功させているベアルドルフ。その苦労を例えるなら、両手両足に四つのコントローラを持たせ、さらに別々のゲームをプレイしているようなものだろう。
鍛えればできるかもしれない。だが実際にやってみて、達人レベルまで極められる人間はどれほどいるだろう。常人では達し得ない努力の先にいるからこそ、ベアルドルフは討滅者となったのだ。
数分に及ぶ蹂躙の後、再び空間が歪み、俺とベアルドルフたちとの時間が同期する。
ベアルドルフが難なく地面に着地すると、空中に放り出されていたニヴィが頭から落下した。驚くことに、あれだけの猛攻を受けてもなおニヴィはまだ呼吸していた。
「ば……かな……私は、ミカルラ様より……強くなったのに、どうして……」
ニヴィはほとんど虫の息で、砕けた鱗と血に塗れながら頭をもたげた。その額をベアルドルフは容赦なく踏みつける。
「言え。貴様が十二年前のあの日、何を見たのか。ミカルラの真の仇は誰だったのだ!」
――真の仇だと?
エトロから聞いていた十二年前の話と食い違いがあり、俺は思わず立ち上がった。
「な、何の話だよ。ミカルラを殺したのはおっさんなんだろ? まさかそっちが嘘だったってことか?」
ベアルドルフは俺に目もくれず、掠れた息を吐くニヴィに詰問した。
「答えろ、ニヴィ! 貴様が真にミカルラを愛しているのなら答えられるはずだ!」
裏返っていたニヴィの目がぐるりと戻る。血を吸ったせいで彼女の両目は真っ赤であり、ドラゴン化の進行が止まっているかすら定かではない。
ニヴィは奥歯を噛み締めながら呻き声を上げると、ベアルドルフの足を額で押し上げながらじわじわと起き上がり始めた。やがてニヴィの後頭部が完全に地面と離れたところで、彼女の乾いた唇が明確な意思を持って言葉を紡ぐ。
「……トト」
途端、ベアルドルフの下からニヴィが消えた。
あまりにも唐突で、なんの前触れもなかった。周囲に引き摺った後もない。ベアルドルフの足も浮いたまま。
「消えた!? さっきまでそこにいたのに!?」
俺は血溜まりに駆け寄った。しかしベアルドルフは全く探すそぶりを見せず、逆に得心がいったように顎に手を当てて笑っていた。
「……ククク、ついに尻尾を出したな」
「一人で分かった気にならないでくれよ! 俺にも説明してくれ! さっきの話本当なのか!? おっさんはミカルラを殺してないのか!?」
「喚くな」
ぴっと突きつけられた太い人差し指に俺は即座に口をつぐむ。次いで自分に降りかかってくる殺気に気付き、ベアルドルフとはまだ敵の敵は味方というだけの関係であることを思い出した。
そも、ニヴィが消えたのなら次の標的は俺だ。一度助けてもらったとしても、今この瞬間殺されないという保証もない。
俺は生唾を飲み込みながら、干上がった喉から声を絞り出した。
「これだけ聞かせてくれ。おっさんは本当にミカルラを殺してないのか?」
ベアルドルフは隻眼を尖らせ、固く引き結んだ口から低く答えた。
「ミカルラはオレが殺した。……だが、オレにミカルラを殺させた者がいる」
「……じゃあ、トトってやつが十二年前の全ての元凶ってことでいいんだよな?」
消える前にニヴィが口にした『トト』という人が、ベアルドルフにミカルラを殺させた黒幕なのだろう。そしてニヴィをベアルドルフから救い出したのも『トト』である可能性が高い。
多分、俺の推測は合っているはずだ。
ベアルドルフは沈黙する。そのまま俺に背を向けて、地面に寝かされたままのシャルの方へと歩き始めた。
丸太のように太い足がしゃがみ、大きな手がシャルを抱き抱える。その時一瞬見えたベアルドルフの顔は、これまでの闘気が嘘に思えるほど静かだった。
ミカルラの死が仕組まれたことだとしても、実際に手を下したのはベアルドルフだ。その事実がある限り、ベアルドルフはエラムラの里にとって大罪人である。
だとしても俺はベアルドルフを助けて正解だったと思う。エトロはきっと怒るだろうし、他のエラムラの人が知ったら今度は俺も同罪扱いされるかもしれない。
その時はその時だ。俺は別に死にたいわけじゃないが、人殺しになってまで生き延びたくはない。
それにもしもの話、ベアルドルフとミカルラ、二人が謀られた証拠があれば、シャルの迫害も止められるかもしれない。
そんな都合のいい未来に想いを馳せていると、ベアルドルフが徐にシャルを抱えたまま俺の方に近づいてきた。
ベアルドルフはいつでも俺を殺せるはずなのに全くそんな素振りを見せない。先ほど向けられた殺意はかなり恐ろしかったが、本当に殺してこないと分かる程度には余裕があった。
そも、なぜベアルドルフが俺を助けたのかも不明のままだ。
聞いたら答えてくれるだろうか。虎の尾を踏みたくはないが、放置するのも気味が悪い。
悶々と悩んだ末に口を開こうとした途端、ベアルドルフはゆったりとした動作でシャルを投げ寄越してきた。
「うお!?」
咄嗟に横抱きに受け止めるが、まだ『雷光』で治りきっていない腕のせいで見事にひっくり返った。後頭部や背中を強かに打ち付けて、俺は足をばたつかせながら悶絶する。
ベアルドルフは動けない俺を見下ろすと、神妙な顔つきでこう告げた。
「貴様にシャルを預ける。オレはまだ、調べねばならん事がある」
「は……ちょ、なんで俺!?」
自分で連れて行けと叫びたかったが、そんな度胸があるわけもなく。パクパクと魚になった俺に向けて、ベアルドルフは不敵に笑って見せた。
「貴様ならシャルを守れるはずだ。『地球の日本』から来た異世界人なのだろう?」
……今日だけで何度驚かなければいけないのだろう。
「……あんたも知ってるのか。俺の故郷のこと」
「討滅者に知らぬ者はいない。――そうか、レオハニーは貴様にも全てを話していないのか」
含みのある言い方に俺の脳裏で色々な憶測が飛ぶ。だが唯一の故郷の手掛かりを持つレオハニーを疑いたくなくて、俺はベアルドルフを黙って睨みつけた。
ベアルドルフは黙って俺の目を受け止めると、外套を肩に引っ掛けながら俺に背を向けた。
「真実を知りたければ、ヨルドの里へ向かえ。奴らの痕跡がそこにある。今の貴様には到底生きて辿り着けぬ魔境だがな」
それ以上語る言葉はないと言わんばかりだ。
俺は苦労してシャルを抱えたまま起き上がると、去り行く背中に短く問いかけた。
「なんでそれを俺に教えるんだ」
「貴様が『鍵者』だからだ」
振り返ったベアルドルフの顔を見た瞬間、俺の声帯は縮み上がってしまった。
それはソウゲンカの形相が霞むほどの凶暴な笑みだった。深い皺の寄った目元は愉悦と憤怒が複雑に絡み合い、鬼神すら薙ぎ倒しそうな貫禄がある。
「いずれ見定めさせてもらうぞ。ウラシキリョーホ」
ふっとマイクを叩くような音がして、ベアルドルフの姿が見えなくなる。
俺は口を中途半端に開けたまま、冷たい風の中で立ち尽くした。
上には上がいる。俺が底辺に位置しているのは知っていたが、討滅者との隔たりをこうもまざまざと見せつけられては、芽生えかけた自信も一瞬で砕け散ってしまった。
俺ではニヴィに勝てなかった。ベアルドルフがいなければ死んでいた。
敵に救われ、見逃されるなんて最悪の屈辱だ。
俺はシャルを横抱きにしたままその場に崩れ落ち、深々と嘆息した。
「っつーか、なんで俺のフルネーム知ってんだよ。どいつもこいつも……」
誰にも拾われない俺の呟きは、ようやく鎮火し始めたエラムラの虚空へ吸い込まれていった。
残ったのは死体と瓦礫。城壁の上では気絶した巫女が見える。広場の方では救助活動が着々と進んでおり、怪我人がテントで寝かされていた。
「……行くか」
俺は重い腰を上げると、気絶した巫女を回収するべくシャルを小脇に抱え直した。
・・・───・・・
「ベアルドルフが『鍵者』を見逃しましたか」
戦いの余波で半分ほど崩れ落ちた城壁の足元で、ロッシュは腕を組みながらほくそ笑む。そのすぐ傍ではシュイナが目を伏せるように佇んでおり、彼女の菌糸がゆっくりと点滅していた。彼らの視線の先には、シャルを抱えて歩くリョーホの姿がある。
「シュイナ。トトの姿は見えましたか?」
「いえ……取り逃しました。ニヴィに掛けていた『保持』の能力が、いつのまにか消えてしまいました……すみません」
「謝らないでください。お陰で知りたいことは知れましたから」
シュイナの保持の能力が効かないのであれば、トトはベアルドルフと同じく空間に影響を及ぼす能力者だ。ニヴィがいきなり消えたのも、ロッシュの前から鎧の男とダウバリフを逃がしたのと同じ手口だろう。能力の系統が分かれば今後の対策も練りやすい。
ロッシュは顎に手を当てようとして、右手が砕けているのを今更思い出した。代わりに左手を持ち上げながら、右手を打ち砕いた鎧の男の姿を脳裏に描く。
「トトはともかくとして、あの鎧の男の正体が気になりますね」
「……ロッシュ様。本当にあの男に心当たりがないのですか?」
「ええ。僕の能力を知る人間は貴方とレブナ、そしてハウラだけです。ですが僕が殺すつもりで『響音』を使ってもあの男は死ななかった……よほど近しい人間でなければ、それはありえないはずです」
ロッシュは幼いころ、『響音』を使いすぎたせいで両親を誤って殺してしまったことがある。その日から自分の大切な人間を殺さないよう、『響音』のあらゆる周波数に適応させる癖をつけていた。その周波数はロッシュが一人一人に的を絞っているため、不特定多数の人間には決して伝わらない。なので、見知らぬ人間が『響音』の最高出力に耐えられるわけがないのである。
それに、鎧の男の傍にいたダウバリフまで生き残ったことや、スキュリアの狩人たちに『響音』が効きにくかったのも気になる。奇襲された当初は周波数を何かしらの媒体で記録され、エラムラの住人と同じように適応したのかと思ったが、事はそう単純ではないのかもしれない。
「ロッシュ様……」
「うん?」
「ここは冷えます。右手の治療もしなければなりませんから、そろそろ……」
「そうでした。シュイナは気が利きますね」
ロッシュはシュイナに微笑みかけた後、気絶したハウラの運搬に難儀するリョーホへ目を向けた。リョーホは瓦礫の山に隠れているロッシュたちに気づいた様子はなく、シャルとハウラを両脇に抱えて長い階段を降り始めていた。
「『鍵者』はドラゴンの征服者と聞いていましたが、想像以上ですね。放っておけば世界の調和が崩れかねない能力です。ベアルドルフが危険視する理由も良くわかります」
もしリョーホがこのまま上位ドラゴンの能力を習得し続ければ、誰も手を付けられない討滅者が誕生するだろう。最強の討滅者たるレオハニーでも、すべての能力を手に入れたリョーホに勝てるかどうか。
「……ですが、ロッシュ様。あの方は予言の通りにはならないでしょう」
「なぜ?」
「リョーホは……人間に憎しみを抱いていません。自分の危険を省みず、シャルやわたし達を守ることを優先しました……」
「そうですね。彼は自覚がなさそうですが、自分より他人を大切にしたいのでしょう。ですが、今後もそうとは限りません。機械仕掛けの世界の真実を知ってしまえば、リョーホさんもベートのように歪んでしまうかもしれません」
善意が悪意に逆転すれば、凄まじい憎しみが生まれる。その矛先が人類に向けられたなら、討滅者の間で聞かされる予言の通りに世界の破滅が訪れるだろう。
「世界が滅びてはエラムラも消えてしまいますからね。リョーホを連れてきてくれたレオハニーには感謝しなければ」
ロッシュはにっこり笑いながら言うと、リョーホが階段の向こうへと消えたのを確認して、込み上げてきたため息を飲み込んだ。それからシュイナに左手を差し出しながら口を開いた。
「シュイナ。本当は今日眠らせて上げるつもりだったのですが、もう少しだけ堪えてください。いつか必ず、君が安心して眠れる里を作りますから」
「……ええ。その時までお供いたします。二年後に目覚めた後も、きっと」
躊躇いもなく手を取ってくれるシュイナに、ロッシュはゆっくりと目を伏せる。
ロッシュは以前シュイナにこう言った。眠る時間が長くなるということは、生きている時間も短くなるということ。貴方のそれは寿命の前借りでしかないと。それに対してシュイナは、寿命を惜しんでドラゴンに家族を食わせるぐらいなら、命を燃やした方が幸せだと笑った。
ロッシュが里長である限り、シュイナはずっと眠ろうとしないのだろう。心の底からシュイナを救いたいと思うのなら、里長の座を早く誰かに譲ってしまえばいい。それでもそうしないのは、私情より大局に目先が向いてしまう己の性か。
「ベアルドルフ。貴方の気持ちなんて僕は分かりたくありませんでしたよ」
シュイナに聞こえぬようにロッシュがつぶやくと、頭上の月が分厚い雲で隠れ、エラムラに暗く影が落ちた。
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