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3章
(28)邂逅
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ゼンの幻を追いかけたヤツカバネは、白髪の女性ごと樹海を飛膜で包み込む。その寸前、ゼンはヤツカバネの頭から落下し、鎖鎌を閃かせて地面から何かを救い上げた。
刹那、すべての生物が飛膜に優しく包み込まれ、黒い粘液となって崩れ去っていく。炎ですら生きることは許されず、水蒸気の断末魔を上げながらみるみる消え失せていく。白くけぶる飛膜の内側に、ふと白い髪をした女性が巻き込まれたのが見えて、俺はひゅっと息を呑んだ。女性らしき影は一瞬で黒く染まってしまったので確証はないが、討伐メンバーの一員ではない。おそらく彼女こそが建築部隊を襲撃した敵だったのだろう。そして敵の相手をしていたのは、樹海の惨状からして間違いなくミッサだ。
では、ミッサはどこに。
俺はすぐにゼンがヤツカバネから飛び降りた理由に思い至って、心臓を握りつぶされるような心地になった。
「ゼンさん!」
「──ここだ!」
遥か遠い地面から微かに声を拾い、俺は急いでそちらへ飛び降りる。その位置はヤツカバネの捕食が行われた場所から少し離れた場所で、ちょうど近くに建築途中の塔がある。俺は鬱蒼と茂る枝を切りながら地面に着地すると、動かない右足でつまずきそうになりながら走り出した。塔の足元には大勢の狩人たちがいて、彼らに囲われるようにしてゼンが座り込んでいる。俺は乱暴に人を押しのけてゼンの前に転がり、彼の腕に収まった赤いものを見て言葉を失った。
「み、ミッサさ……」
両腕がなく、子供がクレヨンでバッテンを書きなぐったような塊だった。まだ傷が少ない顔のお陰で、それが誰なのか辛うじて理解できる。掠れた呼吸と噴き出す血の滴る音が鼓膜にこびりつき、俺の息まで奪われてしまう。
青白い菌糸を光らせ、震える手で『雷光』を発動する。このぐらいの傷なら治せるはずだ。エラムラの里でも、どんな重傷者も救ったのだ。助かるに決まっている。
ミッサの欠けてしまった腕を両手でつかみ、喉から鳴らしそこなったリコーダーじみた音を立てながら力を込める。青白い燐光が流し込まれた腕から傷はふさがっていき、全身に行き渡ってミッサの姿がぼんやりと光る。やがて欠損していた手首からも筋肉と神経が植物のように伸び始め、肌が綺麗すぎる以外は完全に元通りとなった。
なのに、俺は最後まで嫌な予感を拭い去ることが出来なかった。治療が終わると、ミッサを膝に抱えていたゼンは彼女の手を取り大きな声で呼びかけた。
「ミッサ。ミッサ!」
揺すったり叩いたりしても、ミッサの瞳は固く閉じられたままだ。『雷光』なら失われた血液まで治せるはず。俺は掴んだままだったミッサの腕に、もう一度青い燐光を送り込んだ。二度、三度繰り返しても状況は変わらない。固唾をのんで見守っていた狩人たちの間に、徐々に諦めに近い空気が流れ始めた。
傷は治せても医療知識がど素人な俺では、目覚めない原因が全く分からない。だが重苦しい沈黙を味わうぐらいなら、いっそ責めてくれた方がまだマシだ。
行き場のない嘆きに肩を潰されそうで、俺は泣く資格もないのに頬を濡らすのを止められなかった。
「……リョーホ。ちゃんと息を吐け。過呼吸になるぞ」
密やかなゼンの声が聞こえ、俺は肺を引きつらせながら頷く。意識して息を吐くと、余計に涙が溢れて目の周りが擦られたように痛くなる。嗚咽を堪えながら顔を俯けると、ゼンは俺の肩を掴んで励ますように揺らした。
「ミッサの鼓動は安定している。大丈夫だ。貴君の尽力で彼女は助かった。礼を言う」
「そんな……起きなければ無事かどうかも分からないのに」
「落ち着け。ミッサの傷はヤツカバネによるものではない。ハインキーとは違う」
とん、とん、と肩を叩かれ、自分が何に怯えていたのかようやく自覚した。身体を完全に元通りにしたのに、土気色の皮膚で温度を感じないハインキーの遺体は、俺にとって相当なトラウマになっていたらしい。半身を食いちぎられたハインキーもきつかったが、血だるまになっている仲間の生死を握るのも辛い。あと少しでも合流が遅れていたら、俺が気づくのが遅れていたら、ミッサを見殺しにしていたかもしれなかった。
俺は荒れ狂う感情を一つ一つ受け止めた後、涙でくぐもった声で狩人たちに問いかけた。
「誰がミッサをここまで追いつめたんですか」
「それは……」
「リョーホ! 避けろ!」
突然背後からアンリの鋭い声がして、振り返った俺の視界を鎖鎌が覆った。瞬間、目の前で銀色の刃と群青が火花を散らし、遅れてゼンが風のごとくリョーホの横をすり抜ける。がぁん! と二度目の火花を散らした時、俺の目に襲撃者の全容が映り込んだ。
「だ、れだ……」
白髪と赤い瞳。絶世の美女としか言いようのない顔立ち。雰囲気はハウラに似ており、全く敵意が感じられない。しかし彼女の手には銀色のカトラスが握られ、ゼンの鎖鎌を切り裂かんと機械的に力を込めていた。
ゼンは鎖鎌を撓ませながら片腕で群青の刃をつかみ取ると、鎖と交差させるようにしてカトラスを噛み砕こうとした。寸でのところでカトラスは斜めに滑り抜け、ゼンの間合いから大きく下がる。謎の女性は感情のない眼差しで、ゼンではなく俺を見つめていた。
「見つけた。鍵者。世界を開く者」
「は……」
問い返すより早く、鎖鎌が閃き二度目のつばぜり合いが始まる。ゼンは爛々と瞳に殺意を滾らせながら、獣じみた声色で女性に吠えた。
「まさか、本当に貴様と相見える日が来るとはな……救済者トトよ!」
予想だにしない名前が飛び出してきて、俺は勢いよく地面から立ち上がった。ロッシュから警戒するように言われていたが、たった数日で会ってしまうなんていくら何でも早すぎるだろう。しかもこの女が、ミッサを傷つけ、建築部隊の皆を危険に晒したなんて。
いや、それ以前に彼女が生きていること自体おかしいではないか。視界がぼやけていたのは確かだが、ついさっきトトと思しき白髪の女性はヤツカバネの飛膜に食われたはずだ。まさかトトがもう一人いたとでもいうのか。
俺は乱雑な思考に振り回されながらも、掌から太刀を生み出して正眼に構えた。するとトトは俺の武器を見て薄っすらと目を細める。
「再現度まで完璧。でも、成長が早すぎる」
トトは鎖鎌を片手で軽々と弾くと、目にもとまらぬ速さで俺との距離を詰めてきた。咄嗟に太刀で迎撃しようと左腕を引いた瞬間、背後に何かが当たったような感触の後、上半身がぐらつくほどの衝撃が走った。
「やはり、弱い」
喉を鷲掴みにされ、華奢な腕の先で宙吊りになる。何が起きている。引きはがそうと腕を持ち上げたのに、左腕だけが意識についてこない。目を向けると、肘から先が消えて断面が見えた。腕がない。
「あ、あああああ!?」
「リョーホ!」
誰かが俺の名を呼んで、ミッサの傍に居た狩人たちが一斉にトトに襲い掛かる。四方から襲い来る武器は、しかしトトを貫く前に何もない場所で弾き飛ばされてしまった。さらに狩人たちは目に見えない風に斬られたように血しぶきを上げ、悲鳴を上げながら地面を転がる。
「貴様……!」
憤怒に染まったゼンが歯を食いしばりながらトトに鎖鎌を投げつける。それもまた何かに弾かれて、届く前に地面に突き刺さってしまった。
「夜気楼の、ゼン。以前の所属は、憲兵隊暗殺部隊の副隊長、ゼノン」
淡々と語られる過去の一端に、ゼンは動きを止め、俺も痛みを忘れて息を呑んだ。
憲兵隊とはリデルゴア国に属し、王の代わりに各地の里を監事するものの事。その中でも暗殺部隊はリデルゴア国の王族の地位を揺るがしかねない不穏分子を秘密裏に処理するものだ。彼らは滅多に表に顔を出すことはなく、一生をリデルゴア国のために捧げるため、狩人になることすら許されないはずだ。
トトは俺を地面に投げ捨てると、俺の首筋にカトラスを当てながらゼンの方へ振り返った。
「会いたかった。脱走兵ゼノン。ドラゴン化、あまり進行してないみたいで残念」
「いまだに……私を被験体と扱うか!」
鎖鎌が土を跳ね上げ、弧を描きながらトトの首を刈り取ろうとするが、またも虚空に弾かれる。それでもゼンは執拗に鎖鎌を振るい、何度も何度もトトを切り刻もうとした。
ゼンがノクタヴィスの惨劇の詳細を知っていたのは、彼自身が被害者だったからなのか。俺は重い真実に納得しながら、冷静さを欠いたゼンにつぶれた喉から呼びかけた。
「ゼンさ……げほ、待って!」
「……ッ!」
濁った瞳に僅かに光が戻ったのを見計らい、俺は左腕を再生させながらゼンの背後に目くばせする。意味を察したゼンは悔し気に拳を握りしめると、大きく腕を振りかぶり、鎖鎌を波打たせて土埃を弾いた。
どぱっ、と音を立てて噴火じみた勢いで土がゼンとトトを隔てる。その隙に俺は『雷光』をまき散らし、周囲で痛みに身もだえる狩人たちを治療しながらトトの足を右手でつかんだ。それと同時にトトのカトラスが俺の首筋を滑り、頭を断ち切らんと刃を返す。
瞬間、土埃に巨大な風穴を開けながら三つの『陣風』が殺到し、トトの腕、腹、足を正確に貫いた。
「ナイスだアンリ!」
俺は立ち上がりながらカトラスの斬首を転がって避けると、負傷から回復した狩人にミッサを任せ、ヤツカバネのいる反対方向へ走り出した。
トトの狙いが俺ならすぐに追いかけてくるはず。想定通り、後ろを振り返ればトトが白髪をなびかせながらカトラスを振り回してきた。
「あっぶな!」
頭を下げて回避し、いつの間にか無傷に戻ったトトに舌打ちする。ヤツカバネの捕食から生き残っていたため薄々察していたが、彼女も俺と同じように傷を治す力があるらしい。真正面から戦っても俺の方が先にすりつぶされてしまうだろう。
ならば、と俺は『雷光』で一気に加速し、トトの間合いから大きく離脱する。右足のせいでいつもより動きは鈍いが、速度に関しては俺の方が一枚上手のようだ。このまま逃げ回りながらアンリ達から離れるように誘導する。
しかしその矢先、トトのカトラスが一瞬だけ眩く光ったかと思うと、俺の腹部に鋭い衝撃が走った。
「がぼっ」
泡立った悲鳴を上げながら地面を転がり、勢いを殺しきれず幹の根元に衝突する。
まただ。俺の前方には何もなかったはずなのに、不可視の斬撃がいきなり現れた。俺は急激に血圧が下がっていくのを感じながら、急いで腹部の傷を治療しその場を転がった。直後、俺が蹲っていた場所に弾丸じみた速度でカトラスが突き刺さる。
口に残った血を吐きながら、俺は次に空へ飛んだ。深い葉の層を突き抜けて曇天の空へ躍り出ると、同じくトトが葉をかき分けてきて、カトラスが煌めくなり俺の背中がざっくり割れた。
「いってぇな、クソ!」
俺は背中の細胞を再生させながら身体を捩じり、全身のバネを使って太刀を投擲する。トトはそれを真正面から弾きながら、空中の何かを蹴りながら余裕で俺に追いすがってきた。
「……あの動き、なるほどな」
空中に突然出現する謎の斬撃は、カトラスに宿った菌糸能力の『斬空』だ。それは持ち主が視認できる範囲なら任意の場所に斬撃の地雷を設置でき、その場を通った物体にダメージを与える能力である。設置できる斬撃の数は最大で五つだが、同じ場所に置く場合は十まで斬れる。シンビオワールドでは設置するために数秒ほどの時間を要していたが、トトの場合はその制約もないらしい。その証拠に、空中で足場代わりにしている斬撃はどれも一瞬で設置されていた。
能力が分かってしまえば、対策もある。『斬空』を出すときは必ず武器が瞬き、さらにトトの視界内でなければ発動しない。つまり設置する際にトトの視界を潰してしまえば無効化できるのだ。
そしてチートに勝つには、同じくチートを使うしかない。
俺は上昇し続けていた身体から力を抜き、一転して自由落下に入る。
遮蔽物のない空はトトにとって絶好の狩場だ。対する俺は逃げ場がなく圧倒的に不利。必ず仕掛けてくる。
トトは逃げるのをやめた俺に微かに眉を顰めると、カトラスを連続で三回瞬かせた。瞬間、俺は上着から『紅炎』を放出し、正面から地雷に衝突した。足が切られ、脇腹に走った傷が背中まで貫通するが、まだ俺は生きている。治療範囲内だ。
「──!」
驚愕するトトに俺はそのまま急接近し、指先を振るって彼女の目に大量の血をふりかける。同時に彼女の襟首に腕を回し、躊躇いをかき消すように絶叫しながら太刀を突き刺した。
「かはっ……!」
そのまま俺は太刀を捩じり、トトを下敷きにするように落下を加速させる。このまま地面に叩きつけられれば、いくらトトでも無事では済まない。
だが、俺の拙い計画は空振りに終わった。
太刀に貫かれ、動けなかったはずのトトが、いきなり瞬き一つの間に掻き消えたのだ。
「なっ!」
俺は慌てて空中で制動をかけ、握りしめた太刀に眼を配る。そこにはトトの血液すら付着しておらず、俺の掌も、衣服からも、完全に彼女の痕跡が消滅していた。
この感覚は、ベアルドルフと共にニヴィを追い詰めた時と同じだ。今のがトトの菌糸能力だろう。しかしこのような効果を齎す能力なんて、シンビオワールドには全く出てこなかった。
こうなってくると、ゲーム知識がある俺でも対応は難しい。最初から勝てるとは思っていなかったが、ここまで来て自分が死んだら報われなすぎる。考えろ。せめてどんな能力かだけでも仮説を立てるのだ。
必死に思考を巡らせながらトトの姿を探していると、樹海の梢の先に目立つ白髪を見つけた。やばい、と俺は身構えながらそちらを向いたが、トトはなぜか俺を見上げるだけで、先ほどのように攻撃を仕掛けようとしてこなかった。過激な殺し合いの最中と思えない落差に、俺は眉を顰めながらじりじりとトトに近づく。地雷を警戒して太刀を前に差し出してみたが、想像したような衝撃はなく冷たい風が肌に触れるだけだった。
敵の狙いが全く分からない。さっさと俺を殺せそうなものなのに、トトは近づいてくる俺に無防備だった。一方の俺はいつでも攻撃されてもいいように、ゆっくりと距離を縮めていく。
そうして俺が枝の上に着地した頃、ごろごろと頭上の曇天で雷が唸った。遅れて、ぱらぱらと雨が降り始め、俺とトトの肩を濡らし始める。ミッサの菌糸能力で灼熱に包まれていた高冠樹海も、いつの間にか炎を消して腐臭だけが黒い大地を満たしている。ヤツカバネの気配も稲光にかき消されて酷く遠くに感じられた。
「さっき、わざと俺を殺さなかったな」
俺は雨粒で重くなった睫毛を揺らしながら鋭く言った。トトは無表情のまま濡れた前髪をかき上げると、ほんの少しだけ目を伏せて応えた。
「殺すのが目的じゃ、ない」
一瞬見えた感情は、憂いだろうか。雨音のせいか、トトの表情が先ほどより豊かになったような気がする。彼女に散々に身体を切り刻まれた俺としては、今更彼女の人間らしい仕草を見せつけられるのは不愉快だった。
「じゃあ、なんの目的でここに来た。なんで俺の仲間を殺そうとした!」
「……あなたを迎えに来たの」
白に縁取られた赤い瞳が、泣きそうな色を湛えて俺に注がれる。その時、俺はトトの顔に既視感を覚えた。エラムラの里に行く前の、ベートに攫われたときに助けてくれた謎の少女99に似ているのだ。99は髪を二つに結って、もっと厳つい服を身に纏っていたが、同じ服を着せたら見分けがつかないかもしれない。
「お前たちは、何者なんだ。なんでお前はハウラに似ている。あの子と姉妹なのか?」
「……違う」
トトは大きくかぶりを振ると、とん、と枝を蹴った。瞬間移動としか言いようのない速度でトトは俺の隣に来ると、俺の胸に掌を置いてゆっくりと顔を近づけた。顎先にトトの吐息が触れ、いきなり迫った命の危機に脈が弾む。間合いが近すぎて、太刀では迎撃できない。逆にトトはカトラスを俺の太ももに乗せており、いつでも致命傷を与えられる位置にいた。
「なん、なんだ、お前は……!」
「わたしたちは、作られた存在。人間を助けるのが使命。そのために生まれた、何者でもない人形」
不器用に威嚇することしかできない俺を嘲笑うように、トトは俺の顎に手を添えて無理やり目を合わせさせた。
「覚えてないならもう一度聞く。あなたは、何回、死んだ?」
言い聞かせるように、決して聞き間違えることのないように紡がれた言葉に、激しく心臓が脈打った。ベートに見せられた、血に染まった謎の砂漠とそこに佇む血まみれの『俺』が、カメラのフラッシュのように何度も何度も再生される。あの光景を見た時から薄々感じていた疑問が、トトの台詞を皮切りに徐々に実体を伴っていく。
俺は過去に、死んだのかもしれない。どう死んだのか、なぜそうなったのかすら知らない。漠然とした死の記憶が、俺の中で埃のように蟠っているだけだ。だというのに、自分が生きているはずがないと確信できてしまう。加えて、トトの口から流れ出た『作られた存在』という言葉が俺の不安を大きく揺さぶってくる。
……本当に、俺は地球から異世界転移したのだろうか。
その先を考えたくなくて、俺はへばりついたトトを押しのけながらその首元に太刀を構えた。
「お前は、俺の敵だ」
言い聞かせなければ、貧弱な俺の意思が逃げ出してしまいそうだった。しかし俺の動揺を汲み取ったかのように太刀は震え、明らかに狙いが定まっていない。そんな光景を否定するように俺は喉が裂けそうなほどに声を荒げた。
「もう一度聞く、なんで俺を殺さない!」
「大義のため」
「……大儀だと?」
トトは俺が構えた太刀にわざと頬を擦り付けながら、手負いの獣を慰めるようにゆっくりと近づいてくる。
「故郷に帰りたいでしょう」
「……!」
「わたしたちと共に、故郷に帰りましょう。あなたは利用されている。日本で、あなたの友達も、家族も、待っている。一緒に来てくれれば、あなたも帰れるから」
次々に連ねられていく言葉に、俺は後頭部を殴られたかのような衝撃に見舞われた。こいつは俺の故郷を知っている。しかもレオハニーですら知らない地球に帰る方法を熟知しているような口ぶりだ。
思えば、ベートたちと地球には何らかの関係性が見られるような気がする。ベートに連れ去られた謎の施設も地球のものとそっくりで、彼女が持っていた予言書も英語で綴られていた。そして予言書を作ったと思われる『博士』は人類に菌糸融合実験を行い、それと似たようなドラゴン化実験がノクタヴィスで行われた。ゼンの発言を考慮すれば、トトはドラゴン化実験の関係者であることは間違いない。
それらを総合して考えると、まるでこの世界が元々地球で、博士が行った菌糸融合実験のせいで文明が崩壊したようではないか。
だったら、予言書が書き綴っているのは俺たちへの警告というより、現代文明を取り戻すためにベート達に与えた台本と言った方が正しいのではないか?
ドミラスは『博士』の事を好意的に見て、俺たちの仲間だと言っていたが結局彼の主観でしかない。レオハニーもまた、俺が守護狩人になれば故郷の事を教えると言ったが、それが帰る方法だとは一言も言っていなかったように思う。
トトの言う通り、俺は利用されているのか。バルド村に拾われた時から。レオハニーにドラゴンから助けてもらった時から。
突拍子もない発想に俺は鋭く息を呑み、左手で強く胸元を押さえつけた。だが心臓から発される鋭い痛みはますます強くなり、へたくそに吸い込んだ酸素が喉で引っ掛かって咽そうになる。
騙されてはいけない。出会ったばかりの敵と、今まで一緒にいた仲間と、どちらを信じれば良いかは明白だ。
今の俺の憶測が正しいかどうかは、目の前にいる当事者に問い質せば済むことだ。しかし、相手が都合よくそれを利用しないとも限らないし、もし本当だった場合、俺は……どうすればいい? 異世界だと思っていたこの世界が地球だとしたら、俺が帰りたかった家も家族も全て失われている。それは言い換えれば、二度とあの平凡で幸せな生活に戻れないという証左にほかならない。
なによりも、俺がいない間も日常を謳歌していると思っていた人々が、とっくの昔に死んでいたという事実が酷く耐え難かった。
「かわいそう」
狭窄していた視界の奥から白い手が伸び、俺の頬を優しくなでてくる。
「な、にを……」
「故郷を失ったのは、わたしたちも同じ。あなたはもう戦わなくていい。後は全部、任せていい」
優しく囁かれる言葉に意志がぐらつく。もう何も考えたくない俺にとって、それは甘美な響きだった。シンビオワールドによく似たこの世界は、戦いと無縁だった俺にとって辛く苦しいものばかりだ。本来なら俺はこんなところにいなかったという思いがそれに拍車をかけ、故郷に帰りたい欲求が強く湧き上がってくる。
俺は強く歯を食いしばった後に脱力し、頬に触れるトトの手を上から握りしめ──強く振り払った。
「……どうして?」
「どうして、だと? 本気で分からないのかよ」
降りしきる雨を祓うように太刀を振るい、トトの鼻先へ突きつける。もう腕は震えていなかった。
「お前が俺の仲間を殺そうとした時から、何を言われたって願い下げだ」
「予言に従わなければ、あなたは二度と家族に会えない。それでも、断るの?」
「世界の扉とか予言とかどうでもいい。俺は遠い未来より、目の前の仲間を守るって決めたんだ。お前はすっこんでろ!」
雷雲の唸りをかき消すほどに叫ぶと、トトは大きく目を見開いたまま、中途半端に浮かべていた手をぱたりと落とした。
「仲間……」
ぽつり、と呟かれた声は消え入りそうなほどに小さく、俺は僅かに罪悪感に見舞われる。それでも睨む力を決して緩めず、一歩足を引いて太刀を正眼に構え直した。
しかしトトはそれに見向きもせず、カトラスを腰の鞘にしまって瞼を降ろした。
「おい……?」
「無理に連れていくのは本意じゃない。また、別の日に」
トトはそう言って、最後に悲し気な双眸を向けてから、ふっと目の前から消え去った。最初からトトがいなかったかのように、ひしゃげていた木の枝も元通りになっている。俺はだんだんと強くなっていく雨に打たれながら、虚空に向けられた太刀を降ろすしかなかった。
「なんなんだよ、一体……」
暗雲から、本格的に雷が近づいてくる気配がする。トトの行方は気になるが、あの様子ならもうヤツカバネ討伐の妨害をしてくるとは思えない。当初の目的は達成したが、俺の中には大きなしこりが残ってしまった。
俺はトトが最後に見せた表情に後ろ髪を引かれながらも、アンリ達と合流するべく枝から枝へと飛び移った。
刹那、すべての生物が飛膜に優しく包み込まれ、黒い粘液となって崩れ去っていく。炎ですら生きることは許されず、水蒸気の断末魔を上げながらみるみる消え失せていく。白くけぶる飛膜の内側に、ふと白い髪をした女性が巻き込まれたのが見えて、俺はひゅっと息を呑んだ。女性らしき影は一瞬で黒く染まってしまったので確証はないが、討伐メンバーの一員ではない。おそらく彼女こそが建築部隊を襲撃した敵だったのだろう。そして敵の相手をしていたのは、樹海の惨状からして間違いなくミッサだ。
では、ミッサはどこに。
俺はすぐにゼンがヤツカバネから飛び降りた理由に思い至って、心臓を握りつぶされるような心地になった。
「ゼンさん!」
「──ここだ!」
遥か遠い地面から微かに声を拾い、俺は急いでそちらへ飛び降りる。その位置はヤツカバネの捕食が行われた場所から少し離れた場所で、ちょうど近くに建築途中の塔がある。俺は鬱蒼と茂る枝を切りながら地面に着地すると、動かない右足でつまずきそうになりながら走り出した。塔の足元には大勢の狩人たちがいて、彼らに囲われるようにしてゼンが座り込んでいる。俺は乱暴に人を押しのけてゼンの前に転がり、彼の腕に収まった赤いものを見て言葉を失った。
「み、ミッサさ……」
両腕がなく、子供がクレヨンでバッテンを書きなぐったような塊だった。まだ傷が少ない顔のお陰で、それが誰なのか辛うじて理解できる。掠れた呼吸と噴き出す血の滴る音が鼓膜にこびりつき、俺の息まで奪われてしまう。
青白い菌糸を光らせ、震える手で『雷光』を発動する。このぐらいの傷なら治せるはずだ。エラムラの里でも、どんな重傷者も救ったのだ。助かるに決まっている。
ミッサの欠けてしまった腕を両手でつかみ、喉から鳴らしそこなったリコーダーじみた音を立てながら力を込める。青白い燐光が流し込まれた腕から傷はふさがっていき、全身に行き渡ってミッサの姿がぼんやりと光る。やがて欠損していた手首からも筋肉と神経が植物のように伸び始め、肌が綺麗すぎる以外は完全に元通りとなった。
なのに、俺は最後まで嫌な予感を拭い去ることが出来なかった。治療が終わると、ミッサを膝に抱えていたゼンは彼女の手を取り大きな声で呼びかけた。
「ミッサ。ミッサ!」
揺すったり叩いたりしても、ミッサの瞳は固く閉じられたままだ。『雷光』なら失われた血液まで治せるはず。俺は掴んだままだったミッサの腕に、もう一度青い燐光を送り込んだ。二度、三度繰り返しても状況は変わらない。固唾をのんで見守っていた狩人たちの間に、徐々に諦めに近い空気が流れ始めた。
傷は治せても医療知識がど素人な俺では、目覚めない原因が全く分からない。だが重苦しい沈黙を味わうぐらいなら、いっそ責めてくれた方がまだマシだ。
行き場のない嘆きに肩を潰されそうで、俺は泣く資格もないのに頬を濡らすのを止められなかった。
「……リョーホ。ちゃんと息を吐け。過呼吸になるぞ」
密やかなゼンの声が聞こえ、俺は肺を引きつらせながら頷く。意識して息を吐くと、余計に涙が溢れて目の周りが擦られたように痛くなる。嗚咽を堪えながら顔を俯けると、ゼンは俺の肩を掴んで励ますように揺らした。
「ミッサの鼓動は安定している。大丈夫だ。貴君の尽力で彼女は助かった。礼を言う」
「そんな……起きなければ無事かどうかも分からないのに」
「落ち着け。ミッサの傷はヤツカバネによるものではない。ハインキーとは違う」
とん、とん、と肩を叩かれ、自分が何に怯えていたのかようやく自覚した。身体を完全に元通りにしたのに、土気色の皮膚で温度を感じないハインキーの遺体は、俺にとって相当なトラウマになっていたらしい。半身を食いちぎられたハインキーもきつかったが、血だるまになっている仲間の生死を握るのも辛い。あと少しでも合流が遅れていたら、俺が気づくのが遅れていたら、ミッサを見殺しにしていたかもしれなかった。
俺は荒れ狂う感情を一つ一つ受け止めた後、涙でくぐもった声で狩人たちに問いかけた。
「誰がミッサをここまで追いつめたんですか」
「それは……」
「リョーホ! 避けろ!」
突然背後からアンリの鋭い声がして、振り返った俺の視界を鎖鎌が覆った。瞬間、目の前で銀色の刃と群青が火花を散らし、遅れてゼンが風のごとくリョーホの横をすり抜ける。がぁん! と二度目の火花を散らした時、俺の目に襲撃者の全容が映り込んだ。
「だ、れだ……」
白髪と赤い瞳。絶世の美女としか言いようのない顔立ち。雰囲気はハウラに似ており、全く敵意が感じられない。しかし彼女の手には銀色のカトラスが握られ、ゼンの鎖鎌を切り裂かんと機械的に力を込めていた。
ゼンは鎖鎌を撓ませながら片腕で群青の刃をつかみ取ると、鎖と交差させるようにしてカトラスを噛み砕こうとした。寸でのところでカトラスは斜めに滑り抜け、ゼンの間合いから大きく下がる。謎の女性は感情のない眼差しで、ゼンではなく俺を見つめていた。
「見つけた。鍵者。世界を開く者」
「は……」
問い返すより早く、鎖鎌が閃き二度目のつばぜり合いが始まる。ゼンは爛々と瞳に殺意を滾らせながら、獣じみた声色で女性に吠えた。
「まさか、本当に貴様と相見える日が来るとはな……救済者トトよ!」
予想だにしない名前が飛び出してきて、俺は勢いよく地面から立ち上がった。ロッシュから警戒するように言われていたが、たった数日で会ってしまうなんていくら何でも早すぎるだろう。しかもこの女が、ミッサを傷つけ、建築部隊の皆を危険に晒したなんて。
いや、それ以前に彼女が生きていること自体おかしいではないか。視界がぼやけていたのは確かだが、ついさっきトトと思しき白髪の女性はヤツカバネの飛膜に食われたはずだ。まさかトトがもう一人いたとでもいうのか。
俺は乱雑な思考に振り回されながらも、掌から太刀を生み出して正眼に構えた。するとトトは俺の武器を見て薄っすらと目を細める。
「再現度まで完璧。でも、成長が早すぎる」
トトは鎖鎌を片手で軽々と弾くと、目にもとまらぬ速さで俺との距離を詰めてきた。咄嗟に太刀で迎撃しようと左腕を引いた瞬間、背後に何かが当たったような感触の後、上半身がぐらつくほどの衝撃が走った。
「やはり、弱い」
喉を鷲掴みにされ、華奢な腕の先で宙吊りになる。何が起きている。引きはがそうと腕を持ち上げたのに、左腕だけが意識についてこない。目を向けると、肘から先が消えて断面が見えた。腕がない。
「あ、あああああ!?」
「リョーホ!」
誰かが俺の名を呼んで、ミッサの傍に居た狩人たちが一斉にトトに襲い掛かる。四方から襲い来る武器は、しかしトトを貫く前に何もない場所で弾き飛ばされてしまった。さらに狩人たちは目に見えない風に斬られたように血しぶきを上げ、悲鳴を上げながら地面を転がる。
「貴様……!」
憤怒に染まったゼンが歯を食いしばりながらトトに鎖鎌を投げつける。それもまた何かに弾かれて、届く前に地面に突き刺さってしまった。
「夜気楼の、ゼン。以前の所属は、憲兵隊暗殺部隊の副隊長、ゼノン」
淡々と語られる過去の一端に、ゼンは動きを止め、俺も痛みを忘れて息を呑んだ。
憲兵隊とはリデルゴア国に属し、王の代わりに各地の里を監事するものの事。その中でも暗殺部隊はリデルゴア国の王族の地位を揺るがしかねない不穏分子を秘密裏に処理するものだ。彼らは滅多に表に顔を出すことはなく、一生をリデルゴア国のために捧げるため、狩人になることすら許されないはずだ。
トトは俺を地面に投げ捨てると、俺の首筋にカトラスを当てながらゼンの方へ振り返った。
「会いたかった。脱走兵ゼノン。ドラゴン化、あまり進行してないみたいで残念」
「いまだに……私を被験体と扱うか!」
鎖鎌が土を跳ね上げ、弧を描きながらトトの首を刈り取ろうとするが、またも虚空に弾かれる。それでもゼンは執拗に鎖鎌を振るい、何度も何度もトトを切り刻もうとした。
ゼンがノクタヴィスの惨劇の詳細を知っていたのは、彼自身が被害者だったからなのか。俺は重い真実に納得しながら、冷静さを欠いたゼンにつぶれた喉から呼びかけた。
「ゼンさ……げほ、待って!」
「……ッ!」
濁った瞳に僅かに光が戻ったのを見計らい、俺は左腕を再生させながらゼンの背後に目くばせする。意味を察したゼンは悔し気に拳を握りしめると、大きく腕を振りかぶり、鎖鎌を波打たせて土埃を弾いた。
どぱっ、と音を立てて噴火じみた勢いで土がゼンとトトを隔てる。その隙に俺は『雷光』をまき散らし、周囲で痛みに身もだえる狩人たちを治療しながらトトの足を右手でつかんだ。それと同時にトトのカトラスが俺の首筋を滑り、頭を断ち切らんと刃を返す。
瞬間、土埃に巨大な風穴を開けながら三つの『陣風』が殺到し、トトの腕、腹、足を正確に貫いた。
「ナイスだアンリ!」
俺は立ち上がりながらカトラスの斬首を転がって避けると、負傷から回復した狩人にミッサを任せ、ヤツカバネのいる反対方向へ走り出した。
トトの狙いが俺ならすぐに追いかけてくるはず。想定通り、後ろを振り返ればトトが白髪をなびかせながらカトラスを振り回してきた。
「あっぶな!」
頭を下げて回避し、いつの間にか無傷に戻ったトトに舌打ちする。ヤツカバネの捕食から生き残っていたため薄々察していたが、彼女も俺と同じように傷を治す力があるらしい。真正面から戦っても俺の方が先にすりつぶされてしまうだろう。
ならば、と俺は『雷光』で一気に加速し、トトの間合いから大きく離脱する。右足のせいでいつもより動きは鈍いが、速度に関しては俺の方が一枚上手のようだ。このまま逃げ回りながらアンリ達から離れるように誘導する。
しかしその矢先、トトのカトラスが一瞬だけ眩く光ったかと思うと、俺の腹部に鋭い衝撃が走った。
「がぼっ」
泡立った悲鳴を上げながら地面を転がり、勢いを殺しきれず幹の根元に衝突する。
まただ。俺の前方には何もなかったはずなのに、不可視の斬撃がいきなり現れた。俺は急激に血圧が下がっていくのを感じながら、急いで腹部の傷を治療しその場を転がった。直後、俺が蹲っていた場所に弾丸じみた速度でカトラスが突き刺さる。
口に残った血を吐きながら、俺は次に空へ飛んだ。深い葉の層を突き抜けて曇天の空へ躍り出ると、同じくトトが葉をかき分けてきて、カトラスが煌めくなり俺の背中がざっくり割れた。
「いってぇな、クソ!」
俺は背中の細胞を再生させながら身体を捩じり、全身のバネを使って太刀を投擲する。トトはそれを真正面から弾きながら、空中の何かを蹴りながら余裕で俺に追いすがってきた。
「……あの動き、なるほどな」
空中に突然出現する謎の斬撃は、カトラスに宿った菌糸能力の『斬空』だ。それは持ち主が視認できる範囲なら任意の場所に斬撃の地雷を設置でき、その場を通った物体にダメージを与える能力である。設置できる斬撃の数は最大で五つだが、同じ場所に置く場合は十まで斬れる。シンビオワールドでは設置するために数秒ほどの時間を要していたが、トトの場合はその制約もないらしい。その証拠に、空中で足場代わりにしている斬撃はどれも一瞬で設置されていた。
能力が分かってしまえば、対策もある。『斬空』を出すときは必ず武器が瞬き、さらにトトの視界内でなければ発動しない。つまり設置する際にトトの視界を潰してしまえば無効化できるのだ。
そしてチートに勝つには、同じくチートを使うしかない。
俺は上昇し続けていた身体から力を抜き、一転して自由落下に入る。
遮蔽物のない空はトトにとって絶好の狩場だ。対する俺は逃げ場がなく圧倒的に不利。必ず仕掛けてくる。
トトは逃げるのをやめた俺に微かに眉を顰めると、カトラスを連続で三回瞬かせた。瞬間、俺は上着から『紅炎』を放出し、正面から地雷に衝突した。足が切られ、脇腹に走った傷が背中まで貫通するが、まだ俺は生きている。治療範囲内だ。
「──!」
驚愕するトトに俺はそのまま急接近し、指先を振るって彼女の目に大量の血をふりかける。同時に彼女の襟首に腕を回し、躊躇いをかき消すように絶叫しながら太刀を突き刺した。
「かはっ……!」
そのまま俺は太刀を捩じり、トトを下敷きにするように落下を加速させる。このまま地面に叩きつけられれば、いくらトトでも無事では済まない。
だが、俺の拙い計画は空振りに終わった。
太刀に貫かれ、動けなかったはずのトトが、いきなり瞬き一つの間に掻き消えたのだ。
「なっ!」
俺は慌てて空中で制動をかけ、握りしめた太刀に眼を配る。そこにはトトの血液すら付着しておらず、俺の掌も、衣服からも、完全に彼女の痕跡が消滅していた。
この感覚は、ベアルドルフと共にニヴィを追い詰めた時と同じだ。今のがトトの菌糸能力だろう。しかしこのような効果を齎す能力なんて、シンビオワールドには全く出てこなかった。
こうなってくると、ゲーム知識がある俺でも対応は難しい。最初から勝てるとは思っていなかったが、ここまで来て自分が死んだら報われなすぎる。考えろ。せめてどんな能力かだけでも仮説を立てるのだ。
必死に思考を巡らせながらトトの姿を探していると、樹海の梢の先に目立つ白髪を見つけた。やばい、と俺は身構えながらそちらを向いたが、トトはなぜか俺を見上げるだけで、先ほどのように攻撃を仕掛けようとしてこなかった。過激な殺し合いの最中と思えない落差に、俺は眉を顰めながらじりじりとトトに近づく。地雷を警戒して太刀を前に差し出してみたが、想像したような衝撃はなく冷たい風が肌に触れるだけだった。
敵の狙いが全く分からない。さっさと俺を殺せそうなものなのに、トトは近づいてくる俺に無防備だった。一方の俺はいつでも攻撃されてもいいように、ゆっくりと距離を縮めていく。
そうして俺が枝の上に着地した頃、ごろごろと頭上の曇天で雷が唸った。遅れて、ぱらぱらと雨が降り始め、俺とトトの肩を濡らし始める。ミッサの菌糸能力で灼熱に包まれていた高冠樹海も、いつの間にか炎を消して腐臭だけが黒い大地を満たしている。ヤツカバネの気配も稲光にかき消されて酷く遠くに感じられた。
「さっき、わざと俺を殺さなかったな」
俺は雨粒で重くなった睫毛を揺らしながら鋭く言った。トトは無表情のまま濡れた前髪をかき上げると、ほんの少しだけ目を伏せて応えた。
「殺すのが目的じゃ、ない」
一瞬見えた感情は、憂いだろうか。雨音のせいか、トトの表情が先ほどより豊かになったような気がする。彼女に散々に身体を切り刻まれた俺としては、今更彼女の人間らしい仕草を見せつけられるのは不愉快だった。
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「お前たちは、何者なんだ。なんでお前はハウラに似ている。あの子と姉妹なのか?」
「……違う」
トトは大きくかぶりを振ると、とん、と枝を蹴った。瞬間移動としか言いようのない速度でトトは俺の隣に来ると、俺の胸に掌を置いてゆっくりと顔を近づけた。顎先にトトの吐息が触れ、いきなり迫った命の危機に脈が弾む。間合いが近すぎて、太刀では迎撃できない。逆にトトはカトラスを俺の太ももに乗せており、いつでも致命傷を与えられる位置にいた。
「なん、なんだ、お前は……!」
「わたしたちは、作られた存在。人間を助けるのが使命。そのために生まれた、何者でもない人形」
不器用に威嚇することしかできない俺を嘲笑うように、トトは俺の顎に手を添えて無理やり目を合わせさせた。
「覚えてないならもう一度聞く。あなたは、何回、死んだ?」
言い聞かせるように、決して聞き間違えることのないように紡がれた言葉に、激しく心臓が脈打った。ベートに見せられた、血に染まった謎の砂漠とそこに佇む血まみれの『俺』が、カメラのフラッシュのように何度も何度も再生される。あの光景を見た時から薄々感じていた疑問が、トトの台詞を皮切りに徐々に実体を伴っていく。
俺は過去に、死んだのかもしれない。どう死んだのか、なぜそうなったのかすら知らない。漠然とした死の記憶が、俺の中で埃のように蟠っているだけだ。だというのに、自分が生きているはずがないと確信できてしまう。加えて、トトの口から流れ出た『作られた存在』という言葉が俺の不安を大きく揺さぶってくる。
……本当に、俺は地球から異世界転移したのだろうか。
その先を考えたくなくて、俺はへばりついたトトを押しのけながらその首元に太刀を構えた。
「お前は、俺の敵だ」
言い聞かせなければ、貧弱な俺の意思が逃げ出してしまいそうだった。しかし俺の動揺を汲み取ったかのように太刀は震え、明らかに狙いが定まっていない。そんな光景を否定するように俺は喉が裂けそうなほどに声を荒げた。
「もう一度聞く、なんで俺を殺さない!」
「大義のため」
「……大儀だと?」
トトは俺が構えた太刀にわざと頬を擦り付けながら、手負いの獣を慰めるようにゆっくりと近づいてくる。
「故郷に帰りたいでしょう」
「……!」
「わたしたちと共に、故郷に帰りましょう。あなたは利用されている。日本で、あなたの友達も、家族も、待っている。一緒に来てくれれば、あなたも帰れるから」
次々に連ねられていく言葉に、俺は後頭部を殴られたかのような衝撃に見舞われた。こいつは俺の故郷を知っている。しかもレオハニーですら知らない地球に帰る方法を熟知しているような口ぶりだ。
思えば、ベートたちと地球には何らかの関係性が見られるような気がする。ベートに連れ去られた謎の施設も地球のものとそっくりで、彼女が持っていた予言書も英語で綴られていた。そして予言書を作ったと思われる『博士』は人類に菌糸融合実験を行い、それと似たようなドラゴン化実験がノクタヴィスで行われた。ゼンの発言を考慮すれば、トトはドラゴン化実験の関係者であることは間違いない。
それらを総合して考えると、まるでこの世界が元々地球で、博士が行った菌糸融合実験のせいで文明が崩壊したようではないか。
だったら、予言書が書き綴っているのは俺たちへの警告というより、現代文明を取り戻すためにベート達に与えた台本と言った方が正しいのではないか?
ドミラスは『博士』の事を好意的に見て、俺たちの仲間だと言っていたが結局彼の主観でしかない。レオハニーもまた、俺が守護狩人になれば故郷の事を教えると言ったが、それが帰る方法だとは一言も言っていなかったように思う。
トトの言う通り、俺は利用されているのか。バルド村に拾われた時から。レオハニーにドラゴンから助けてもらった時から。
突拍子もない発想に俺は鋭く息を呑み、左手で強く胸元を押さえつけた。だが心臓から発される鋭い痛みはますます強くなり、へたくそに吸い込んだ酸素が喉で引っ掛かって咽そうになる。
騙されてはいけない。出会ったばかりの敵と、今まで一緒にいた仲間と、どちらを信じれば良いかは明白だ。
今の俺の憶測が正しいかどうかは、目の前にいる当事者に問い質せば済むことだ。しかし、相手が都合よくそれを利用しないとも限らないし、もし本当だった場合、俺は……どうすればいい? 異世界だと思っていたこの世界が地球だとしたら、俺が帰りたかった家も家族も全て失われている。それは言い換えれば、二度とあの平凡で幸せな生活に戻れないという証左にほかならない。
なによりも、俺がいない間も日常を謳歌していると思っていた人々が、とっくの昔に死んでいたという事実が酷く耐え難かった。
「かわいそう」
狭窄していた視界の奥から白い手が伸び、俺の頬を優しくなでてくる。
「な、にを……」
「故郷を失ったのは、わたしたちも同じ。あなたはもう戦わなくていい。後は全部、任せていい」
優しく囁かれる言葉に意志がぐらつく。もう何も考えたくない俺にとって、それは甘美な響きだった。シンビオワールドによく似たこの世界は、戦いと無縁だった俺にとって辛く苦しいものばかりだ。本来なら俺はこんなところにいなかったという思いがそれに拍車をかけ、故郷に帰りたい欲求が強く湧き上がってくる。
俺は強く歯を食いしばった後に脱力し、頬に触れるトトの手を上から握りしめ──強く振り払った。
「……どうして?」
「どうして、だと? 本気で分からないのかよ」
降りしきる雨を祓うように太刀を振るい、トトの鼻先へ突きつける。もう腕は震えていなかった。
「お前が俺の仲間を殺そうとした時から、何を言われたって願い下げだ」
「予言に従わなければ、あなたは二度と家族に会えない。それでも、断るの?」
「世界の扉とか予言とかどうでもいい。俺は遠い未来より、目の前の仲間を守るって決めたんだ。お前はすっこんでろ!」
雷雲の唸りをかき消すほどに叫ぶと、トトは大きく目を見開いたまま、中途半端に浮かべていた手をぱたりと落とした。
「仲間……」
ぽつり、と呟かれた声は消え入りそうなほどに小さく、俺は僅かに罪悪感に見舞われる。それでも睨む力を決して緩めず、一歩足を引いて太刀を正眼に構え直した。
しかしトトはそれに見向きもせず、カトラスを腰の鞘にしまって瞼を降ろした。
「おい……?」
「無理に連れていくのは本意じゃない。また、別の日に」
トトはそう言って、最後に悲し気な双眸を向けてから、ふっと目の前から消え去った。最初からトトがいなかったかのように、ひしゃげていた木の枝も元通りになっている。俺はだんだんと強くなっていく雨に打たれながら、虚空に向けられた太刀を降ろすしかなかった。
「なんなんだよ、一体……」
暗雲から、本格的に雷が近づいてくる気配がする。トトの行方は気になるが、あの様子ならもうヤツカバネ討伐の妨害をしてくるとは思えない。当初の目的は達成したが、俺の中には大きなしこりが残ってしまった。
俺はトトが最後に見せた表情に後ろ髪を引かれながらも、アンリ達と合流するべく枝から枝へと飛び移った。
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