ライトブルー

ジンギスカン

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6、Beautiful Flowers

Beautiful Flowers

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 放課後になって、私は2年生の教室を訪れた。
 早瀬さんは普通に3年生の教室に来ていたけれど、原則として、他学年のフロアへの移動は禁止されていた。何か問題があった時、他学年の生徒が絡んでくると問題がややこしくなるからとかそんな理由らしい。当然そんな2年生だらけの空間では私は異分子で、居心地の悪さを感じずにはいられなかった。
 それでも、私は早瀬さんと話がしたかった。
 彼女からの返信はない、昼休みに彼女が尋ねてくることも、当然なかった。
 このまま何もしなければ、彼女と私との繋がりはぷつりと絶えてしまうだろう、その強迫観念から私は遂に直接早瀬さんを訪ねることにした。
 しかし、
 彼女の姿はどこにも見えない。
 もう、帰ってしまったのだろうか。
 他学年の教室までやって来て一人の女子を探す。まるでストーカーみたいだ。幾人かの生徒が怪訝そうに私を見る。そう言えば、私は校庭で早瀬さんと一緒にお弁当を食べていた。当然その姿は多くの生徒の注目を集めただろう。私を見て何やらヒソヒソと囁く者、がるるるると歯を剥き出しにして威嚇する者、「涼香は俺のものだ、すっこんでろ」と胸ぐらを掴んでくる者まで現れだした。今日は諦めて帰ろう、そう思った時。
「椚田先輩ですか」
 突然背後から声を掛けられる。
 女子の声。
 振り返るとそこには、ウェーブがかった髪を垂らした女の子が立っていた。
「そうだけど」
 謎の男子生徒に胸ぐらを掴まれたまま、私は応える。
「あの、えっと、ちょっと荒木、その手を放しなよ」
 私は荒木と呼ばれた男子生徒に視線をやる。こいつさっき、早瀬さんは自分のものだと言ったな、どういうことだ。やはり、兄が言うように、そういうことだったのか。
「豊島、今俺が話してるんだ、後にしてくれるか」
「あんた部外者なんだから引っ込んでてよ」
 荒木と呼ばれる男子生徒と豊島と呼ばれる女子生徒がバチバチっと火花を鳴らす。なんだこれ。
「俺はこの芋先輩に身の程をわきまえるよう忠告しているだけだ」
「身の程って、あんた何様なの」
 なんだかよく分からないが、この男はムカつく。そう思い、胸ぐらを掴む手を左手で、その手首を右手で掴み、その手首に思いっきり体重を乗せた。
「いててててててっ!」と手首を極められた荒木と呼ばれる男子生徒はその場で跪いた。鎮圧完了である。
「君は、早瀬さんの、彼氏なの?」恐る恐るその疑問を口にする。
「しょ、将来的に、彼氏になるんだ」息も絶え絶えに荒木と呼ばれる男子生徒が答える。なんじゃそりゃ。私は腹いせに再度彼の手首に力を入れる。
「いててててててっ!すっすいませんでしたぁ‼」
 抵抗の意思がなくなったことを確認し、私は荒木と呼ばれる男子生徒の手首を解放する。彼は解放された手首を哀れむように見つめ、ふぅーふぅーと優しく息を吹きかける。無論、その動作に効果はない。
「すっすごいですね、流石です」
 豊島と呼ばれる女子生徒が感嘆とした様子でそう言った。
「今まで、松山先輩に抗い続けただけのことはありますね」
「いや、別に」松山達はちょっかいこそ出したが手は出さなかった。手を出した瞬間、先生にチクると警告していたからだ。その点この哀れな男子生徒は私の胸ぐらを掴んでしまった。威嚇のつもりでも、立派な正当防衛の理由となる。万が一の対松山用の知識がこんなところで役に立つとは思わなかった。
「あ、荒木のことは気にしないでください、こいつ、1年の時に涼香に告って振られて、現実が見られなくなってしまったんです」
 さらっと恐ろしいことをいう。振られただけで現実が見られなくなる?やはり早瀬さんは恐ろしい女である。明日は我が身である。そう思うと目の前で蹲ってしくしく泣いている荒木という男子生徒が不憫に思えて仕方がない。
「涼香を、探しているんですよね?」
 豊島と呼ばれる女子生徒が私に目を向けて言う。
「う、うん、そうだけど」
 私も哀れな男から彼女に視線を移す。
「ちょっと、いいですか?」
「え?」
「大事な話があるんです」
彼女が醸し出す不穏な空気に気圧されて、何も言うことができなかった。
「ここじゃ、ちょっと」
 そう言う彼女に連れられて、私たちは場所を移すことにした。
   *
 できるだけ人目がない所ということで、私たちは、学校近くの小さな公園のベンチに二人腰掛けた。まるでカップルみたいだ、と思う。もちろんそこには高揚はなく、ただ、こんな姿を早瀬さんに見られる訳にはいかないという不安があるだけなのだが。
「はじめまして、急にお呼び立てしてすみません、私は豊島恭子といいます。涼香の友人です」
 豊島という名前は先ほどの男との会話から把握していたが、なるほど、早瀬さんの友人だそうだ。
「僕は、椚田司です。僕は——」
 私は、なんだ?早瀬さんの、なんだ?
「いいえ、なんでもありません、その、用件はなんでしょう」
 私は何者でもない。まだ、彼女にとっての、何者でもない。
「その、涼香と、先輩の、関係についてなんですけど」
 どこか、ためらいがちに、豊島と名乗る女子生徒が言う。
 ウェーブがかった前髪の奥で、理知的な瞳が懸命に言葉を探している。
 私と、早瀬さんの関係。
 今にも霧散しようとしている関係が、どうしたというのだろう。
「余計なことだってのは重々承知しています。そしてこれは、友人である涼香を裏切る行為だということも、ただ、先輩は、知るべきだと思ったんです」
 なんの話だろう、早瀬さんを裏切る?私が知るべき?話がまるで見えない。
「それはつまり、どういうこと——」
「これを聞いてください」
 私の言葉を遮るように、豊島と名乗る女子生徒が鞄から何かを取り出した。
「それは?」
「ボイスレコーダーです」
「ボイスレコーダー?」何故一介の女子生徒がそんなものを?そう疑問に思う私を余所に彼女は再生ボタンを押した。私は頭の整理がつかないまま、そこから聞こえてくる音に意識を向けた。


『うわぁ素敵です!素敵です先生!』
 嬉しそうにはしゃぐ、早瀬さんの声。先生?
『喜んでもらえてよかったよ、涼香』
 応ずるは、どこか大人びた男の声。
『やっぱり付き合うべきは、先生ですね、うんうん』
『いつも言ってるけれど、この事は内緒にしといてよ?公になったらもうこんなお店、連れて来られないよ?』
『そのための口止め料ですよね』
『あはは、ほんと、悪い子だ』
 親し気な、早瀬さんと、男性教師の会話。
 なんだこれは、なんなんだこれは。
「豊島さん、これは——」
 問いかける私の言葉を、豊島と名乗る女子生徒の視線が遮る。黙って聞けと訴えている。
『でもさ、涼香、いいの?今3年生の男の子とも付き合ってるんでしょ?』
『あはは、やだな、先生、仲良くしているだけですよ、付き合ってる訳ではありません』悪魔的な笑い声。
 世界が音もなく崩壊していくような錯覚に陥る。なんだこれは、これは、この声は本当に早瀬さんのものか?誰か別の女性の声ということはないか?
 しかし、絶望的に分かってしまう。あの絶対的に可愛い声を、聞き間違えるはずがない。
『だいたい彼、月のお小遣い3000円なんですよ、3000円て、まぁ、普通のぼっち高校生なら問題ないかもしれませんが、私は無理です』
『そういう意味では涼香に釣り合う高校生はいないかもしれないね』
 今更ながら、自分の話をされていると気付く。胸が急激に締め付けられる。
『てか先生、聞いてくださいよ、この可愛い私がですよ、せっかくその少ない資源も有効活用しようとサービスしてあげてるのに、彼の家族、めちゃくちゃ反対してくるんです』
『涼香のそういう底意地の悪いところが漏れ出てたんじゃない?』
『ちょっと先生ひどいんですけど、てかさ、だからと言って、ドリルですよ、ドリルぎゅいぃぃぃぃんと回して脅してくるって普通にやばくないですか?』
『えぇぇ⁉それは、無事だったの?』
『颯爽と逃げ帰りました。まぁ、私としてはあの先輩と縁を切って、また新しいターゲットを探す口実ができたので良かったですが』
『はぁ、呆れた。まぁいいや、冷めないうちに食べよう』
『うん、いただきます』

 それからはお皿をつつく音が聞こえるだけだった。
 豊島と名乗る女子生徒は再生ボタンをオフにすると、憐れむような目で私を見る。
 なんだこれは、現実が受け入れられない。
 私は今、何を聞かされたんだ?
 今のは一体なんだったんだ。
 食事中の会話?早瀬さんと、相手は誰だ?先生って、うちの学校の?
 なんで早瀬さんと先生が一緒に食事なんてするんだ、それも、親しそうに。
 おかしい、おかしいだろ。
「今の会話は、いったい何?」震える声で、ボイスレコーダーを手にする女子生徒を見る。
「涼香と、うちの学校の先生との会話ですね」俯きながら、彼女は応える。
「なんで君がそんなものを⁉」
「すみません、趣味で」
 どんな趣味だよ!あ、いや、待てよ、この学校に巣食う数いる変態の噂を思い出せ。
 訪れる場所を聖域へと変えてしまう変態。
 学校中を徘徊し人の弱みを捜し歩くという変態。
 放課後突如現れ女子の椅子に蜂蜜を塗りたくって去って行くという変態。
 モテない輩に悪戯に慈愛を振りまき、回りまわって破滅に至らせるという変態。

 そうか!今全てが繋がった!この学校には変態しかいねぇ!
「君は、変態なんだね?」
「え?」豊島と名乗る女子生徒はぽかんと口を開く。しまった、言葉を間違えた。
「あ、いや、ごめん、その、もう一回、聞いていい?どうしてこれを僕に?」
 学校一のアイドル、早瀬涼香の一大スキャンダルである。変態なら嬉々として喜ぶ情報なのに、何故私に教える?
「涼香は、友達です」豊島と名乗る変態は訥々と語る。
「友達が、間違ったことをしているのに、見過ごす訳にはいきません!」
 君がそれを口にするのか、恐ろしい女である。
「お願いです、先輩、涼香の目を、覚まさせてやってください」
 自分を棚に上げる変態が頭を下げる。
 その下げられた後頭部を見て、私は承諾の意を伝える。
 今度は感謝の言葉を交えて私に頭を下げる。
 私は下げられた後頭部を見ながら、別のことを考えていた。
 踏みにじられた私の胸の中の黒いものを、どうやって早瀬さんにぶつけるかということを。

  *

 私はその晩、何度も早瀬さんに連絡を試み、大事な話があるからと翌日の放課後美術室に呼び出した。
 火曜日、早瀬さんと出会って、ちょうど一週間だ。

  *
 美術部の活動日は月水木で、火曜日は休みである。
 放課後の美術室で早瀬さんと二人きりで対峙する。
「先輩、その、すみません、無視、していた訳では、ないんです」
 絶対的に可愛く、訥々と、早瀬さんが語る。
「その、怖かったんです、このまま、先輩との関係を、続けるのが」
 ずっと心を惑わせていた。演技なのか、本心なのか。
「先輩が悪くないのは分かってるんです、ただ、また、先輩のお母様がお怒りになられたらと思うと、私…」
 演技だとは思いながらも、本心であって欲しいという期待が拭いきれなかったから。
「だから、無視するような形になって、本当に、すみませんでした」
 しかし、今なら分かる。演技か本心か。
 この恐ろしい魔女の口先に騙されてはいけない。
「嘘はもういいよ、早瀬さん」
 冷たくあしらう様に、私は言う。
「嘘?」
 不穏な私の空気を察したのか、早瀬さんの顔にわずかだが怯えが見える。
「私、嘘なんてついていません!本当は私、ずっと先輩と一緒にいたいんです!」
 白々しい台詞に苛立ちを覚える。
「どうして嘘だなんていうんですか!私が!私が逃げているからですか?だって仕方がないじゃないですか!ドリルでっ!ドリルで脅されたんですよ!本当に、死ぬかと思ったんです。怖くなって当り前じゃないですか!」
 胸が苦しい。なんという演技力だ。あの会話を聞いていなければ、今でも信じてしまいそうになる迫力がある。綺麗な花には棘があると言うが、彼女はなんと禍々しい棘を持っていたことか。その先端には毒が詰まっている。その毒に冒された者は正気ではいられない。
「先輩はいつもそうです、私、薄々気付いていましたよ、先輩はいつも疑心暗鬼に捕らわれて、本当の私を見てくれない、どうしてですか、どうして誰も私を信じてくれないんですか!」
 今でも、縋りたくなる。あの会話が、豊島と名乗る変態により捏造されたものである可能性に。しかし、そんなこと、あり得るはずがない、あの声はまさに早瀬さんの声で、第一豊島と名乗る変態がドリルのことを知っていたはずがないのである。
「本当の私っていうのは、これのことかな?」
 私は豊島と名乗る変態から譲り受けたボイスレコーダーを鞄から取り出し、再生ボタンを押す。

『うわぁ素敵です!素敵です先生!』
『喜んでもらえてよかったよ、涼香』
 早瀬さんの顔が、凍り付く。
『やっぱり付き合うべきは、先生ですね、うんうん』
『いつも言ってるけれど、この事は内緒にしといてよ?公になったらもうこんなお店、連れて来られないよ?』
『そのための口止め料ですよね』
『あはは、ほんと、悪い子だ』
「止めて」ぽつりと、覇気のない声で早瀬さんがこぼす。
『でもさ、涼香、いいの?今3年生の男の子とも付き合ってるんでしょ?』
『あはは、やだな、先生、仲良くしているだけですよ、付き合ってる訳ではありません、だいたい彼、月のお小遣い3000円なんですよ、3000円て、まぁ、普通のぼっち高校生なら問題ないかもしれませんが、私は無理です』
『そういう意味では涼香に釣り合う高校生はいないかもしれないね』
「止めてください」止まらない。
『てか先生、聞いてくださいよ、この可愛い私がですよ、せっかくその少ない資源も有効活用しようとサービスしてあげてるのに、彼の家族、めちゃくちゃ反対してくるんです』
『涼香のそういう底意地の悪いところが漏れ出てたんじゃない?』
『ちょっと先生ひどいんですけど、てかさ、だからと言って、ドリルですよ、ドリルぎゅいぃぃぃぃんと回して脅してくるって普通にやばくないですか?』
『えぇぇ⁉それは、無事だったの?』
『颯爽と逃げ帰りました。まぁ、私としてはあの先輩と縁を切って、また新しいターゲットを探す口実ができたので良かったですが』
「止めてください!」
 そう言って、彼女は私に走り寄り、ボイスレコーダーを奪い取ろうとする。私はボイスレコーダーを彼女に取られない様に高く掲げる。
『はぁ、呆れた。まぁいいや、冷めないうちに食べよう』
『うん、いただきます』
 彼女は私の腕に抱きつき、私の手に握られた証拠を隠滅しようとジャンプする。
「これは!何かの間違いです!これは私ではありません!私、こんな会話してません!罠です!誰かが私たちを嵌めようとしてるんです!信じてください!」
 証拠を突き付けられてなお、彼女は抵抗する。
「この男は誰?」
「知りません!」
「いつから騙してたの?最初から?」
「騙してなんていません!だっ誰ですか!そのデータを先輩に渡したのは!」
 ここまで白を切ろうとするとは、余程隠し通したいものなのだろう。
 当たり前か、このことが公になれば、いくら絶対的に彼女が可愛かろうと、誰も相手にしようとは思わないだろう。もう他の誰かに寄生することもできない。悔しいが、兄の言ったことは正しかった。私は騙されていたのだ。
 私は片手でドンっと彼女を突き飛ばす。
 いや!と悲鳴を漏らして彼女は尻もちをつく。
 これだけ証拠を突き付けているのに自らの非を認めないとは、流石にイラっと来る。東雲も無様に抵抗する私を見て、さぞ腹立たしかったことだろう。
「別に認めなくてもいい、ただその場合、この会話を全校生徒に聞いてもらう、早瀬さんも、相手の教師もおしまいだね」
「いや!やめて!なんでそんなことするんですか!やめてくださいよ!」
「じゃあ証拠を示してよ、この会話が君のものではないってことを!この会話は君が僕の家を出て行った後の土曜日か日曜日に録られたはずだ。その間のアリバイを証明できる?」
「そっそんな!それは——」
 とっさのことに頭が回転しないのだろう。何も言い訳を思いつくことができないようだ。
 彼女は遂に諦めたのか、頭を下げた。
「何が、目的なんですか?」
 震える声で、早瀬さんが尋ねる。
「それは、認めるってこと?」
「何が目的なんですか?こんなことをして、先輩は私をどうしたいんですか?」
 語調を強めて彼女が言う。だけど、ここははっきりさせないといけない。
「それは、認めるってことでいいんだね?」
 彼女の目が見開かれる。認めるのか、このまま嘘を貫き通すのか、逡巡する顔。
「ご想像に、お任せします」か細い声で、彼女が答える。あくまでも濁すか。
だけどそれはもう認めない。本当は私だって否定して欲しい。こんなの出鱈目だって、嘘だって否定して欲しい。だけど、これ以上疑心暗鬼に陥りたくない、これ以上彼女を疑いたくない。だから、ここで真実を話してもらう必要がある。
「早瀬さん、君はまだ自分の立場をよく理解していないようだね、認めるか認めないかを聞いているんだ。それ以上反抗しようものなら本当にこのデータ、拡散させるよ!」
 彼女は瞳を潤ませ、空気を求めて何度も何度も息を吸う。
 長い沈黙の後、彼女は目を閉じて、言った。
「責められるのって、こういう気持ちになるんですね」
 ぽかんと、口が開いた。何を言っているのだ、彼女は。
 早瀬さんの口から出た空気は、それまでのものとはどこか違っていて、
「失礼ながら、少し、興奮してしまいました」
 彼女は、妖艶に笑った。

  *
「それで、先輩、大事な話ってなんですか、まさか、これだけってことは、ないですよね?」
 ぱんぱんと、おしりについた埃を払い、立ち上がりながら早瀬さんは言う。
 今までの怯えた様子が嘘のように、あっけらかんと。
 開き直ったのか。
「これだけって、僕は!」
 彼女は自覚しているのだろうか、私がどれだけ傷ついたのかということを。
 恋心を弄ばれた屈辱を。
「これだけって!本当にバラすよ!早瀬さんの印象も地に堕ちるだろうね、相手の教師もどうなるかな、生徒に手を出す教師なんて、どうなってもかまわないけど」
「あははは!地に堕ちる、地に堕ちるでしょうか?」
 愉快そうに、早瀬さんが笑う。
「松山さんのように、ですか?」悪戯っぽく、彼女が笑う。
「っ!」
「松山先輩の堕ちっぷりは凄まじいものでしたね。でも先輩、いくら愉快だからって、『ぶひぃーーっ‼』は駄目ですよ。私、びっくりしました。何を松山先輩と仲良く『ぶひぃーーっ‼』談議に花を咲かせているんですか。隣で笑いを堪える身にもなってくださいよ」
 顔がかぁーと熱くなる。
「『ぶひぃーーっ‼』は今関係ないよね!」
「あははは!すみません、『ぶひぃーーっ‼』に触れるのはNGでしたね。でもでも先輩、私には仰ってくださらないんですか?可愛い可愛い私が地に堕ちようしているのに、『ぶひぃーーっ‼』と仰ってくださらないんですか?私、すっごく期待して待っていたんですよ?」
 何を言っている?「ぶひぃーーっ‼」と言わない理由?何故そんなことを気にするのか、まさか「ぶひぃーーっ‼」のメカニズムに気付いたというのか?
 それは、まさか——!
「何が言いたいのかな?」
「何が?いえ、ただ、残念だって思っただけですよ、先輩の、勝ち誇り、愉悦に浸った『ぶひぃーーっ‼』が聞けなくて、非常に残念でした。わざわざこんな小細工を弄したというのに、徒労に終わってしまいました。」
 小細工?何を言っているんだ?彼女が一体何をしたって言うんだ。演技?なんの演技をした?
 いや、まて、落ち着け、この状況こそ演技ということはないか、追い詰められた彼女が、なんとか現状を打開するために適当なことを言っているという可能性は。
「早瀬さん、状況が分かっているのかな?このデータが流出すれば、君も、相手の教師も終わりなんだよ?」
「あはははは!」
 またしても哄笑があがる。
「嫌ですよ先輩、私たちは運命共同体じゃないですか?そんな死に急がないでください、一緒に生き残る道を探しましょうよ」
 その言葉に、疑惑が確信に変わる。
「まさかまさか!相手の弱みを握っているのは、自分だけ!なんて、今更思っていませんよね⁉」
 彼女は、やはり——。
「松山先輩の名を語り、気持ちの悪いラブレターを金谷先輩の机に入れた変態は、椚田先輩、あなたですよね?」

  *
 驚きがなかったかと問われると、否定はできない。初めから彼女は怪しかったし、私の犯行を暴くために接近してきたという線もずっと疑って来た。だから、全く危惧していなかった訳ではない。
 しかし、いざ、指摘されると——。
「何を言っているのか分からないな、とんだ言いがかり——」
「あはははは!いいですね先輩!その調子でお願いします!そんなすぐに負けを認められても、興ざめですからね」
 ぎりっと奥歯を鳴らす。どこまでも、馬鹿にした様子で。
「さっきの私を追い詰める先輩の顔、素敵でしたよ。苦しみに歪む私はいかがでしたか?興奮されましたか?先輩すごく楽しそうでした。次は私の番ですね!わくわくです!」
 早瀬さんはルンルンとした様子で小悪魔めいた笑みを浮かべる。
 調子づいているところ悪いが、主導権を握らせる訳にはいかない。
「じゃあ、僕が犯人だって言うならさ、証拠を見せてよ?論理とかはいいよ!確かな物証をさ!」
 東雲由紀乃を破った必勝パターン、これで黙らせる。
「いいですよーはい!」
 こともなげに早瀬さんは自身の鞄から一冊のノートを取り出した。
 松山の、現代文のノート。
 犯行に使われた、偽りのラブレターが記されたノート。
「なんで、早瀬さんが、それを持ってるの?」
「今それ関係あります?」不服そうに早瀬さんが目を細める。
 いや、関係ない、関係があるのは、
「何故このノートが物証足り得るのか、問題はそこですよね?」
 ニヤニヤと、彼女が笑う。
「あはは!先輩ぽかんとしちゃって、可愛い。全然ピンと来てないって顔してます。え?そのノートがなんで物証になるの?分かんないよー!て顔をしています、ほら、分からないなら論理を疎かにしないでしっかり人の推理を聞いてください。私だって、直感で先輩を疑っている訳ではないんですから、馬鹿にしないでください」ぷくぅと、かわいらしく頬を膨らませる。悔しいが絶対的に可愛い。
「では、先輩、そもそも私がどうして先輩を疑うようになったのか、ご存知ですか?先輩ずぅと疑ってたじゃないですか、こんな可愛い女の子が僕のことを好きになる訳がないって、何か裏があるはずだと、確かに本筋とは関係ありませんが、この際、知りたくありませんか?」
 挑むような目で、早瀬さんが私を見る。
 いつから私を疑っていた?そもそも何故彼女は私に近づいた?やはり松山と繋がっており、私の犯行を暴くため?ではしかし、あの男性教師の声はなんだ?モテない男子に取り入って、金をせびるために近づいて、その過程で私を怪しむようになった?悔しいが、知りたい。自身の身を守りたいという思いとは別に、彼女についての真実を知りたいという欲求も拭い去ることができない。
「僕を疑った理由は、僕が松山を憎んでいたから」いつからかは、知らない。
「えぇ、正解です、流石です」
 なんだ、それは。
「なんだよそれ、結局、松山や先生たちと一緒じゃないか!怪しいからって疑って、小学生でもできる推理じゃないか!そんな理由で言いがかりをつけられても困るんだけど」
「小学生でも分かるシンプルな構造なのだから、仕方ありません、非難すべくは私ではなく、小学生でも思いつくような動機で犯行に移ってしまった自身の幼稚さではないですか?」
 幼稚、という言葉に、感情を逆撫でられる。
「ところが安心してください、早瀬涼香って、意外とポンコツで、小学生でも分かるシンプルな構造なのにとんだ回り道をしてしまうんです、愛着が湧きますね!」
 そう言って、目の横にピースサインを作る。
「十中八九、犯人は椚田先輩だと思いましたが、万が一!万が一そうではない可能性はないかと、私、考えてしまったんです。まぁ、そういった裏つぶしが、びったりと先輩に張り付いて身辺を探るだけの行動力と決断力を与えてくれるんですけどね、聞きますか?」
 それは、聞けという、無言の圧力を放っていた。
「私は今回の事件を保健室のベッドの下に隠れながら松山さんから盗み聞きしました、とても面白い事件だと思いましたね。その話を聞きながら私は犯人の狙いはなんだったのか、という点に着目しました。ミステリで言うところのWhy done itって奴ですね、覚えなくていいです」
 私の狙いはなんだったのか、それは、松山が気持ちの悪い恋文を相対的に可愛い金谷美奈へ送ったと錯覚させること。
「松山さんから話を聞くところ、恋文の内容は大変おぞましいものだったと、実際私も一度読んでみましたが、先輩、とんでもない文章を書きましたね、あれから毎晩悪夢にうなされて、布団に入るのが怖くなってしまいました。夜更かしは美容の天敵なんですからね!私から可愛さを取ったら、何も残りませんよ!」
「いちいち脱線が多いんだけど、本題に入ってくれないかな」
「もう、せっかちですね、先輩、そんな人だとは思いませんでした。いいでしょう、本題です。恋文の文章がおぞましかったというのがポイントです、では、そのおぞましい恋文で犯人は一体何を狙ったのでしょう?シンプルに、次の2点が挙げられますね。

①松山先輩が金谷先輩のことを好いていると思わせる
②金谷先輩が松山先輩のことを嫌いになる

 さてさて、以上が例のおぞましい恋文の効力です。これに、③天文学的確率で、金谷先輩が松山先輩のことを好きになる、を加えたいと思います。ないとは思いますが、一応は恋文です、視野には入れましょう。
 では、以上3点の効力を踏まえた上で、犯人の狙いはなんだったのかということを考えます。私は次の仮説を立てました。
一、金谷先輩に好意を寄せる松山さんの背中を後押ししようとした。
二、金谷先輩に好意を寄せる輩が、恋愛敵である松山さんを排除しようとした。
三、松山先輩に私怨を持っており、故意に陥れようとした。
 私のお粗末な頭ではこれだけしか仮説を立てられませんでした。とほほ。仕方がないので手元にある材料で推理を進めます。
 まず一つ目の背中後押し説なのですが、この説が正しかったら爆笑ものですよね。『頑張れえいっ!』と背中を押したはいいものの、押した先が地雷地帯で爆死だなんて、哀れすぎて言葉も出ません。ですが大丈夫です、こんなサイコ野郎な犯人は実在しませんので。
 先輩が知っている通り、私は可愛いです。可愛い女の子はモテます。よって、私はモテます。先輩がお気づきだったか分かりませんが、松山先輩も私に好意を寄せる一人だったんですよ。先週までろくに話したことはなかったのですが、私を視界に収めるやいなや声のボリュームが二段階あがり、ちらちらと見てくるので察しました。何回かストーキングまがいの行為にも及ばれていたので確かですね。もちろんその時ご学友さんも一緒にいます。松山先輩の背中を押すとしたら、このご学友さんたちでしょう。ご学友さんたちは松山先輩がダダ漏らす私への好意に気付いていたでしょうから、恋の後押しをするのなら、私の机の中にこの兵器めいたノートを入れるはずですよね?以上の観点から二つ目の恋愛敵説も否定できます。松山先輩は私に好意を抱いていたのですからそんな松山先輩と金谷先輩を取り合うだなんて見当外れもいいところです。
 そもそも金谷先輩は事実古畑先輩と付き合っている訳なんですから、わざわざ松山先輩をターゲットにするのはおかしな話ですよね。古畑先輩名義であのノートが金谷先輩の机に入ってないと筋が通りません。
だからもうこれは、私怨説しかないんです。酉川くん、泉川君には別個接近し、アリバイを確認したので、椚田先輩が容疑者筆頭候補となった訳です」
 淡々と、早瀬さんが捲し立てる。
 随分と、回りくどく推理したものだ。
 この過程をすっとばせる松山はやはり強キャラであった。
「アリバイって言うのなら、僕にもアリバイが——」
「あっあの稚拙なアリバイ工作なら秒で見抜きましたので、そのことはもう置いておきましょう、夏休みの自由研究じゃないんですから」
 ち、稚拙だとぉ!
「随分と得意げに話していたけれど、単に僕が怪しいって思うようになっただけじゃないか」
 そういうと、早瀬さんはムスッとした顔をする。可愛い、絶対的に。
「簡単に言ってくれますけどね、犯人様と違ってこちらは最初から真実を知っている訳ではないんです。石橋は叩きすぎて叩き割る勢いでないと駄目なんですよ、分かります?この苦労?むしろ私が疑心暗鬼になります、助けてください」
 そう言って彼女はかぶりを振り、はぁとため息を吐く。
「安心してください、犯人はちゃんと、先輩ですから」
「何を根拠に——」
「私が先輩=犯人説を強く疑いだしたのは、苺パフェの後、先輩が松山先輩との勝負を引き受けた時です」
 私の言葉を遮るように、彼女が言う。
「松山との勝負を受けた時?」それが、なんだというのか。
「えぇ、そうです。松山先輩が不敵な笑みを浮かべ私たちの恋の道を阻むように立ち塞がり、それに先輩が応じたあの時です」
「あれは、松山が変な言いがかりをつけて来たから、今後の面倒事を避けるためにも僕が犯人ではないと証明する必要があっただけで、別におかしな点はないはずだよ?」
 あはははっと早瀬さんが笑う。
「いえいえおかしいですよ、おかしいと思うんですけどねぇ、だって、もし先生とかに『早瀬、ちょっとこい』なんて呼ばれたら私もはいはいなんですかぁ~ってついていきますよ?でも『お前、昨日の放課後男子トイレの便器に蜂蜜塗りたくってただろ!ちょっと来い!』って言われたら、えっやってませんよ?で終わりません?わざわざ自分の無実を晴らしに行く必要がありますか?わざわざ三〇分も対決の場を求めて?そんなもん、可愛い私とデートしてるんですから断ってくださいよ。先輩が松山先輩との論理合戦を受けたのは、まだ松山先輩の頭の整理がつかないうちに彼の戦意を折る必要があったからです、違いますか?」
 じとーっとした目で、彼女が見つめてくる。
 私の額に、汗の粒が浮かんでくる。これは、彼女に対する認識を改める必要があるかもしれない。別に金髪だからという理由で見下していた訳ではない。なんらかの罠である可能性は十分考慮していたし、終始恐ろしい女性であるとは思っていた。しかし、これ程よく周囲を観察し、理路整然と物事を考える娘であるとは想像していなかった。
「他にも『ぶひぃーーっ‼』とか、疑わしい様子は沢山ありましたが、以上の理由で私は先輩が例の松山先輩の事件の犯人だと推定したのです。要するに、私は初めから、先輩に初めて声をかけたあの日から先輩を疑っていたのです、こんな可愛い女の子が何故僕に⁉という最大の謎が、解けましたね!」
 きゃぴきゃぴと彼女は笑う。
 私は全身の毛が逆立つのを感じた。
 最初から、疑われていた、全てが嘘だった。
 いや、その可能性は、はじめからずっと視野に入れていた、そのことに、今更驚きはしない、そりゃショックは大きいけれど、驚くことではない。
「別に先輩も今更こんなことでは驚きはしませんよね?ずぅーっと、私のこと、疑ってましたもんね?下手なラブコメの主人公みたいに」
「あぁ、てっきり君がエスパーか何かだと思っていたよ」
 早瀬さんが口をぽかんと開けてその絶対的に可愛い目をぱちくりさせている。「まさかそこまで迷走されているとは思いませんでした。流石先輩、一筋縄ではいきませんね」
「早瀬さんの言動には何度も動揺させられたからね、この僕が何度もマウントを取られるなんておかしいと思ったんだ」
「糞みたいな理由でしたね」
 私は「女の子が下品な言葉を使ってはいけない」と早瀬さんをたしなめた。早瀬さんはジェンダー協会に訴えますと私を脅迫した。恐ろしい女である。
 しかし、先ほどから話を聞いていて、不可解な点が脳裏によぎる。
「早瀬さんは、僕が君を疑っていたことを、知っていたの?」
「先輩が犯人かどうか、私が疑っていると先輩が疑っていたということを知っていたのか?ってことですか?」
「え?あ、え?う、うん、そうだよ」何故分かりにくく言い換えた?
「はい」意地の悪い笑みを、彼女が浮かべる。「そういう風に演出しましたから」
 そういう風に、演出した?
「わざと、自分が怪しい女であると、演出した?」
「はい、そうです」彼女は即答する。「脈略もなく『ぶひぃーーっ‼』について切り出したり、あざとく初デートを強調したり、怪しさ満点でしたでしょ?」
 そうだ、彼女はまさに怪しさの化身であった。しかしそれは演技だった。私に好意を寄せていると信じ込ませるためではなく、私を疑っていると信じ込ませるための演技だった。
 しかし、なんのために?そんなの、余計な警戒を生むだけじゃないか。
 私が犯人であると言う証拠を掴みたければ、私に信用されるように振舞うべきだったのでは?
「先輩、私が蛇に見えましたか?」
「え?」何を言い出す?
「私が蛇に見えたなら、先輩こそが蛇なんです」
 何故急に、某ギャンブル漫画の引用をする?
「こんなに可愛い私が好意をフルオープンにしているんですよ?疑心暗鬼に陥る理由がどこにあります?とっとと恋仲になってしまえばいいじゃないですか?この可愛すぎる私の好意が受け止められない、それこそが、先輩に何か後ろめたいことがあるという証拠です」
 な、何を言っているのだ彼女は、絶対的に可愛い彼女の好意を受け入れられなければ犯人だと?なんという暴論だ!松山でもこのようなイカれた推理は持ち出すまい。恐ろしい女である。
「とんでもない暴論ですが、心当たりはありますよね?」
 悔しいことに心当たりしかない。もし私が今回の件に無罪であれば、甘美な彼女の誘いにほいほいと乗っていたことだろう。絶対的な可愛さの、なんと理不尽なことよ。
「まぁ、安心してください。これは先輩が犯人だと80%思っていたものが99%の疑いになっただけの可愛いお話です。私は別に疑われたって痛くも痒くもないんです。だって、こんな可愛い女の子が好意マックスで歩み寄ってくるんですよ?どれだけ怪しくても1%でも可能性があるのなら手放せませんよね?むしろ魔性の女っぽさが出て、余計惹かれますよね」
 自身の絶対的な可愛さを過信しすぎでは?これが相対的な可愛さと、絶対的な可愛さの差か。最早何も言い返せない。
「そんなことより、本当に先輩が聞きたいことは、そこではありませんよね?」
 早瀬さんに言われてハッとする。
 そうだ、ずっと疑問に思ってきた。
 彼女が私を疑っていたことは分かった。
 となれば。
 今、最大の謎は。
「君の目的は、なんなの?」
 彼女は、私の問いを妖艶な笑みで受け止める。

  *
「君の目的は一体何なの?早瀬さんが僕を怪しいと思ったのは分かる、でも、だからってどうしてこんな面倒臭いことを?今回の事件、早瀬さんは部外者だよね?なんでわざわざ犯人探しに加担する必要が?まさか、やっぱり早瀬さんは松山と付き合っていて、裏で僕を探るように言われたとか——」
「ちょっと先輩!その冗談は酷いです!全く笑えません!私は紳士的な男性が好きなんです。松山先輩は紳士とは程遠い存在です。よって私は松山先輩を到底受け入れられません、手をつなぐことすら抵抗があります!二度とそんな不快な誤解、しないでください!」
 早瀬さんは松山との関係を力いっぱい否定した。
「じゃあ、なんで、こんなことを——」
「知りたいですか?」
 再びその顔にニヤついた笑顔が浮かぶ。
「誰の差し金?」
 なおも彼女はニヤニヤ笑う。
「誰が君に、こんなことをするよう頼んだの⁉」
あはははは!両手を叩いて彼女が笑う。
「ちょっと先輩、人を、言われないと動けない、使えない部下みたいに言わないでください」
 メっ!と𠮟りつけるようなしぐさをして彼女が言う。
「さてさて問題です!どうして可愛い可愛いこの小娘は他人の問題に首を突っ込んでくるのでしょう?」
 だから、それを聞いているのに・・・
「犯人を、奴隷にするため?」
 きょとんとした顔を、彼女は浮かべる。
「な、生々しい言い方は止めてください」
 人の弱みを掴んで奴隷にするだなんて、とんだ変態である。
 変態?
 人の弱みを握る、変態?
 どこか聞き覚えのある話に、思考がめぐる。
 変態?いや、でも待て、それだと、豊島はなんだ?
 どういうことだ?変態は一人ではなかった?
 何が起こっている?これは——
「あはは!どうやら先輩、ようやく察しがついたようですねぇ」
 私の推測が正しい?だとすれば彼女は、
「君が、学校中を徘徊し、人の弱みを捜し歩くという変態、なのか?」
 彼女はパンっと両手を合わせ、嬉しそうに言った。
「いかにも、私が、学校中を徘徊し、人の弱みを捜し歩くという変態です」

  *
 早瀬さんは恐ろしい女であると思っていた。それはもう、常々思っていた。
 エスパーで人の心を見透かしたり、絶対的な可愛さで男心を弄んだり、しかし、まさか、変態であっただなんて——
「同じ変態同士、仲良くしてくださいね」
 にっこりと、彼女が笑う。
 ごくりと唾が鳴る。
「正式には、壁新聞部です。特ダネ求めて獅子奮迅しているうちに変態だなんて悪名付けられてしまって、失礼しちゃいますよね。こんな可愛い女の子を変態扱いだなんて、まぁ、やっていることは色仕掛けですから変態呼びされても文句は言えませんが」
「壁新聞部?」
 そんな、漫画とかではよく見るけど、実際誰が入るねんと皆が突っ込むあの壁新聞部だと?
「はい、ということで、今回のこの松山先輩の事件、とっても面白そうだと思いました!地道な取材が功を奏して、いい記事が書けそうです。脱稿が終わったら、是非読んでみてくださいね!」
 記事にされる?そんなことされれば、私の作戦は——
 ——私のスクールライフは!
「さてさて先輩、お気づきですか?私の取材は今、犯人である先輩との対談を以って終了となります。果たしてこの事件の真相やいかに?記事に不都合なことを書かれたくなければ、先輩はここで無実を証明しなければなりませんよ?
 準備はできていますか?そろそろ次の話題に移ってもよろしいですか?せっかちな先輩が知りたくて仕方がない、この松山先輩のノートが何故物証足り得るのか?その謎に迫って行ってもよろしいですか?」
 ぞわりと、恐怖のようなものを感じる。
 何を言い出す?何を見つけた?
 いやいやあり得ない、あんなもの、物証になる訳がない。
 あのノートに、私との関係を示すものなど一つもない。
 ノートだけではない、コールドスプレー、フリクションのペン、全部高校生が持っていてもおかしくないものばかり、科学捜査が行えない学校という空間で、明らかな物証など、提示できるわけがない。
 私が負けを認めざるを得ない証拠など、出てくるはずがない。
「教えてもらおうかな、何故、そのノートが物証になるのかを、分かっている?早瀬さん?中途半端な証拠を振りかざすと、君の書く記事の信憑性は一気に薄れるよ?」
挑むように、彼女を見る。
「御心配ありがとうございます、それでは、次の質問に答えてください」
 目を細めて、彼女が言う。
「先輩が購入した大学ノートは、今どこにあるんですか?」

 ・・・・・・・は?
 大学ノート?何を言って——
「ねぇ、どこにあるんですか?」
 私が購入したノートは今、彼女が手に持っている……。
 全身が熱を帯びる。心臓がバクバクと激しくなる。
「聞いてます?大学ノートはどこにあるんですかって聞いているんですが」
 どこって、え、なんて答える、何て答えるのが正解なんだ?
 不意に思い出す、先日彼女が私の家を訪ねた時の出来事を。彼女は私の無地のノートを目にし、非常に興味を持っていた。そう、異様なまでに。
 何故彼女は、私が大学ノートを購入したことを知っている?かまをかけているのか?そうだとしたら…白を切るか?そんなノート買ってないって。
「何を、言ってるの?僕が買ったノート?なんの話?僕が無地のノートしか買わないって、早瀬さん、知ってるよね?」
 そうだ、白を切れ!先日のやり取りがこんなところで活きてくるとは思わなかった。棚から牡丹餅とはこのことだ。
「おや、先輩、いいんですか?このノートを購入したことを、否定してしまいますか?本当にそれでいいんですか?言葉は慎重に選んだ方がいいですよ?」
 悪戯っぽく彼女が笑う。
「慎重も何も!買ってないんだから、買ってないとしか言えないよね⁉」
 失くしちゃったということもできた、しかし、無地のノートしか買わないと言っているのに一冊だけ大学ノートを買うということは、怪しさ極まりない。
「では、先輩は本当に大学ノート、このノートを買ってないんですね?」
「そうだよ」
 何を、何を握っている、この、人の弱みを握ることを喜びとする変態は。
「なるほど、先輩はこのノートを買っていないんですねぇ、あれ?でも、変ですよ?」
「何が、変なのかな?」
 心臓がうるさい、何を、この嫌味たらしくニヤついた口は、何を言おうとしてる?
「だって」
 早瀬さんは満面の笑みを浮かべる。
「店員さんは、先輩がこのノートを確かに買ったと、証言してくれましたよ?」
「なっ!」何をっ⁉
「先輩が御贔屓にしていらっしゃる文房具屋さんは先輩の顔を覚えていてくださったんですねぇ!良かったですね?普段無地のノートしか買わないから印象に残ってると仰ってましたよ?え?否定します?今から一緒に文房具屋さんに行きますか?僕、この店でこんなノート買ってませんよね?って?いつぞしたデートの約束が果たせそうで嬉しいです!」
「店員の、証言⁉」
「はい、しっかりと、いただきましたよ!録音データもありますが、聞きます?」
 目をキラキラと輝かせ、彼女が録音したという音声を流す。
 私が罫線のノートを買っていったという店員らしき者の証言が、彼女のスマホから聞こえる。
 目撃証言、それは裁判でも立派な証拠として扱われる。私の犯行を証明する力が、十分にある。
「先輩の写真、入手しておいて正解でした。何がどう役立つか、分かりませんね」
 私の写真?何を・・・。不意に思い出す。朝礼台に二人腰かけた昼休み、握られた手、シャッター音。
「どうです先輩?どう言い訳します?あはは先輩いい顔しますねぇ!興奮しちゃうじゃないですか!先輩の言い訳、楽しみです!」
「おっ思い出した!確かそれは、兄に頼まれて買ったんだ!」
「あははははは!先輩最高です!無地のノートの取り方を教えてくれたお兄さんが罫線のあるノートを買って来いと!ありがとうございます!最高の言い訳をありがとうございました!しかし残念ですが、先輩のお兄様もお母様もそのようなお使いを頼んだことはないと仰ってましたよ!残念ですが、先輩が一生懸命考えたその言い訳は無効です!」
 あははははと腹を抱えて早瀬さんが笑う。
「なんでっ⁉いつ兄からそんな話を——」
「あれあれ先輩、本当に鈍感なんですね?まさか、私のせいで家族関係が悪くなってしまいました?それはすみません、後日お詫びに伺いますね」
 何を言ってるんだ、この娘は。全然理解が追い付かない。
「あれは先輩のお家にお伺いする前、そう、金曜日ですね、私、道中呼び止めて、白状してしまいました。私がイケナイ女の子であること、先輩もイケナイことに手を染めている疑いがあるということ、だから知っていることを全部話してほしいと、先輩にお使いを頼んだかどうかはその時伺いました。
 早瀬さんを見た時の母と兄の反応が思い出される。「え?」と驚いた顔、あれは、私を疑っている女の子が、私と一緒に家に入ってきたから。
「ちなみに、コールドスプレーなど所持していないということも、ご家族からちゃんと伺っていますよ。言うなれば、コールドスプレーも確かな物証となりますね。」
 そう言って、早瀬さんは鞄から、コールドスプレーを取り出して私の前に置く。
「どうしてそれを、早瀬さんが?」
「あはは!あれ?もうこれが自分の物だって認めてしまうんですか?」
「っ⁉」
「大丈夫ですよ、先輩のお母様から許可を得て拝借しました。お母様が証人ですから、先輩の自白はどっちでもいいんです。先輩は私が家に来ると聞いて、慌てて証拠を隠滅しようとされたのでしょうが、残念、燃えないごみの収集日は過ぎてしまっていたようですね、油断大敵です。」
 証拠を入手するために、彼女は、そんなことまで・・・
「しかし私もびっくりしましたよ、まさかドリルで威嚇してくるだなんて、正気の沙汰とは思えません。まさにお母様が穴を開けられた位置に私は座っていたので、もう少し逃げるのが遅かったらと思うと今でもぞっとします。第一印象が悪かったんですかねぇ、あれはお母様が私と一対一で話す場を作るためにされたそうなのですが、あの時は本当に、死ぬかと思いました。結果ご理解いただけたので良かったですが」
 彼女は両肩を抱えて、ぶるぶる震えてみせる。
「君は、人の家族も巻き込んで、迷惑とか考えないのか?」
「あははははは!迷惑?面白いことをいいますね!私を誰だと思っているんですか?壁新聞部ですよ?スクープのためなら親兄弟がいくら迷惑しようが構わないマスゴミですよ?そんなこと気にしていたら食べていけませんよ」
 言葉が出ないとはこのことだった。
 何もかもが違う、私の知っていた、早瀬涼香と、あの優しい微笑みが今はどこにもなく、そこにあるのは嗜虐的な眼差しのみ。
「先輩、悪あがきはおしまいですか?もっともっと抵抗して下さってもいいんですよ?ほら、先輩が購入した大学ノートはどこにあるんですか?川に落としてしまいました?びりびりに破いて捨ててしまいました?なんでもいいですが、これまでの言質との相違の理由も添えてお答えくださいね」
答えろって、今更何を、どう足掻けっていうのだ。私が購入した、私が買うはずがない罫線の入ったノート、そして、運動部ではない私が買う必要のないコールドスプレー。どう足掻いたって詰んでいるではないか。むしろ足掻くことにどれほどの意味があるだろうか。目の前の早瀬さんは、私が足掻けば足掻く程喜びを感じる変態である。いっそ全て白状して楽になったほうが良いのでは、そのような考えすら浮かんでくる。
 どうする……いや、どうするも何も。
「得意になっているところ悪いんだけど、早瀬さん、一つ忘れていないかな?早瀬さんだって僕に弱みを握られているんだよ。君だって教師との恋愛がバレたら、ただでは済まないよ」
「おや、それは認めると取ってよろしいんですよね?」
「っ!」この流れは
「認めるってことで、いいんですよね?椚田先輩が、松山先輩の名前を語り金谷先輩の机に偽りのラブレターを入れた変態だということを」
曖昧な回答は許さないという目で、彼女が睨む。
「認めるならさっさと認めてください、執筆の作業も残っているんですから」
 先ほど私が、彼女を追い詰めた手口を、返されている。
 認める?認めたらどうなる?私のハッピースクールライフは一転して、再び、いや、より地獄のような日々を送ることになる。友達もいない、自尊心が傷つけられるだけの日常を、そんな中私はこの学校の敷地に足を踏み入れることができるだろうか?認められない、認める訳にはいかない!
「もしこのことを記事に書いたら、僕もこの会話データを流出させるよ!」
 私たちが運命共同体と言うのなら、私の破滅は早瀬さんの破滅でもある。勝手なことをさせてたまるものか。
 しかし、早瀬さんは呆れた顔をして言った。鈍いですね、と。
「鈍い?」何が、鈍いというのか。
「先輩、私の正体は、もう明かしましたよね?」
 早瀬さんの、正体——。
「学校中を徘徊し人の弱みを捜し歩くという変態」
「えぇ、その通りです。いかにも私が学校中を徘徊し人の弱みを捜し歩くという変態です。ところで先輩、先輩はその音声データを、誰から受け取りました?」
 誰から?
「その女子生徒は、豊島恭子と名乗りませんでしたか?」
「っ!なんで早瀬さんが、それを!」
「学校中を徘徊し人の弱みを捜し歩くという変態は今先輩の目の前にいます。それでは、その豊島恭子と名乗ったであろう女子生徒は、いったい何者なのでしょうか?」
 何者?
「二人目の、変態?」
ぶふぅーっと彼女が噴き出して笑う。
「ちょっと!恭子に言いますよ!恭子はただのお友達です。彼女は私が先輩をターゲットにしていることに気付いてしまったので、協力を要請したんです。彼女には先輩を誘うために一芝居打ってもらいました。」
「一芝居?」
「先輩、昨今は情報社会ですよね、メディアリテラシーは大切ですよ?情報を取り扱う時は、その真偽を見定めないと痛い目を見ます。マスゴミのマスゴミたる所以は情報を切り取って都合の良い方に真実を捻じ曲げてしまうところですよねぇ。どんな聖人も、ほんの一部を切り取るだけで極悪人に仕立て上げることができますから、恐ろしい時代です」
「なんの話を、している?」
 悪寒が、ぞわぞわと広がって、止まらない。
「嘘の情報に騙されるなってことですよ」
 そう言って彼女は、自身のポケットからスマートフォンを取りだして、私に歩み寄ると、先輩、一緒に動画を観ませんか?と椅子に座るよう促した。
 訝しみながらも私は差し出された椅子に座り、早瀬さんと二人並んで彼女のスマートフォンに視線をやる。
 スマートフォンの画面に、教室が映し出される。
『先生、そこに座ってください』
『ここ?』
 画面に、男性教諭が映し出される。
『はい、あ、これ、食器と、台本です』
『ねぇ、ほんとにこれ読むの?』
その男性教師の声を聴いて、ハッとする。この声は——
『はい、名演技、期待しますよ』
 そう言った早瀬さんも画面に登場し、椅子に腰かける。
『よーいアクショーン————うわぁ素敵です!素敵です先生!』
『喜んでもらえてよかったよ、涼香』
 言葉を、失う。これは——
 スマートフォンから目が離せない私の顔を、ニヤニヤしながら早瀬さんが覗き込んでくるのが分かる。
「なんですかねぇこれ?演劇の練習でしょうか?少なくとも、問題になる程イチャイチャラブラブしているって訳ではなさそうですね、先輩的にはどうですか?これは、破廉恥ですか?」
 淡々と流れる、ただただ台本を読み上げるだけの光景。
「あはは、衝撃的でした?今先輩、すっごく素敵な顔をしてますよ、でーなんですか?例の音声データを流出させる?どうぞお好きになさってください。私はこのデータを拡散させるだけですから、メディアリテラシーの低い先輩のような人は騙せるかもしれませんね」
 上手だ
 絶対的に可愛いだけでマウントを取ってくるものだと思っていた。しかし違う、何枚も何枚も彼女が上手だから、マウントを取られ続けてきた。彼女の手の平で、転がされ続けてきた。
 負ける?
 この私が負ける?
 落ち着け、まだ諦めるのは早い、何か方法が!何か方法があるはずだ!
 私はおもむろに自身のスマートフォンを取りだし、それを唱える。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多事 照見五蘊皆空度一切苦厄
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ しょうけんごうんかいくうどいっさいくやく)」
「・・・え?先輩?」彼女は突然の般若心経にきょとんとした顔をする。
「舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受相行識 亦復如是
(しゃりし しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう くうそくぜしき じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ)」
「先輩?ちょっと、え?また?」勝利を確信していた早瀬さんの顔に戸惑いが浮かぶ。
「舎利子 是諸法空想 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色無受想行識
(しゃりし ぜしょほうくうそう ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん ぜこくうちゅう むしきむじゅそうぎょうしき)」
「椚田先輩?どうして急に般若心経を?気でも触れましたか?」
「無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
(むげんにびぜっしんに むしきしょうこうみそくほう むげんかい ないしむいしきかい むむみょう やくむむみょうじん ないしむろうし やくむろうしじん)」
 視界が一気に開けたような気がする。私は何と狭い世界で生きていたことか。今まで心を騒がせていたのが馬鹿みたいである。
 私は目の前でぽかんと口を開けている早瀬さんを見る。その表情に怯えを含んだ様子が可愛らしい。こんな小娘に何故私は恐怖していたのか不思議で仕方がない。私は自身の鞄からフリスクミント味を取り出すやぽかんと開いた彼女の口に放り込む。あむぐっと可愛らしい声を早瀬さんがあげる。すぐさま私は飲みかけの麦茶を取り出し彼女の口に押し込む。驚いた彼女は必死に抵抗しようとするがそれを私は力で押さえつけた。彼女の口からは溢れた麦茶がごぼごぼと零れる。苦しくなったのか、彼女は目に涙を浮かべ、ごくごくと麦茶を飲み干していった。
「けほっけほっ!」
 麦茶から解放された彼女は空気を求めて盛大に咽た。
「な、何を、飲ませたんですか?」
 フリスクミント味である。
「何を飲ませたんですか!」
 語調を強めて彼女が言う。
 フリスクミント味である。
 彼女はおもむろに自身の口の中に指を突っ込み、今飲み込んだものを吐き出そうとする。私は彼女の両手首を捕まえてそれを阻止する。
「先輩、何を、飲ませたんですか?」か細い涙声で、彼女が言う。
 フリスクミント味である。麦茶で流し込んだので分からなかったようであるが、フリスクミント味である。少し大きめの、いい奴である。どうやら彼女は何らかの毒物を飲まされた可能性を危惧しているようである。あらゆるケースを想定してしまう哀れな彼女の頭は、今頃最悪のイメージを脳内で再生しているのであろう。
「先輩!笑えない冗談です!お、教えてください!今、何を私に飲ませたんですか⁉」半狂乱になって、彼女が言う。彼女の瞳はうるうる震え、次第に涙がこぼれ出す。さっきまでの愉悦が嘘のようである。彼女の手首を拘束しながら彼女の脈拍を測る。どうやら彼女は今、すごく動揺しているようである。この怯えようは、演技ではない。攻めるなら今しかない、流石にいつまでもフリスクミント味で騙し通すことはできないだろう。彼女が動揺しているうちに、彼女に不利な状況を作る。
「教えて欲しかったら、その動画、消してくれるかな?」
「っ!そ、それは——」怯えた様子で彼女は思考する。だが、考える時間を与えるつもりはない。
「嫌だったら別にいいよ、このまま効果が表れるのをゆっくり待つだけだから」
「そんな!」フリスクミント味の効果。数分ブレスケアをしてくれる、以上。
「5、4、3、——」時間なんて与えてやらない。このまま私の逆転勝利だ。
「先生!たすけて——」悲鳴にも似た声で、彼女が叫ぶ。思わず私は彼女の口を塞いだ。すると、
 ドン——
 後方で扉の開く音。掃除用具入れの、扉が。
 反射的に後ろを振り向いた私は、目を瞠った。
 そこにいるのは、白衣を着た男。
 動画に映っていたあの男が、掃除用具入れの前に立っている。
 その男を視界にとらえた早瀬さんは私の手を口から振り解き、叫んだ。
「あきちゃん助けて!」

  *
 何が起こっている?養護教諭が、掃除用具入れの中に隠れていた?
 事態を呑み込めずにいると、養護教諭がぐんぐんと近づいてきて、私の鞄に手を突っ込む。
「フリスク、ミント味だね」
「ふぇ?」と間の抜けた可愛らしい声が、早瀬さんの口から上がる。
「うん、フリスクミント味だね」中身を確認した養護教諭が、再度言う。
「え?嘘、え?ほんとに?え?」私とは違った意味で早瀬さんも状況が呑み込めていない様子である。
「そ、涼香ちゃんはフリスクミント味で死ぬぅ助けてぇと大騒ぎしていたってことだね」
 早瀬さんの顔がみるみる赤くなる。
「なっ!」それ以上言葉が出てこないらしい。
「涼香ちゃんはいっつもすぐ調子に乗って足元掬われるよね、この間の蜂蜜事件、もう忘れたの?」
「わっ!あきちゃん!その話は忘れてって言ったでしょ⁉」
 早瀬さんが既に赤い顔を更に赤くする。
「蜂蜜、事件?」
「せ、先輩には関係のない話です!」それ以上の追及は許さないというように彼女が突っぱねる。最早その目に先程までの嗜虐的な色は微塵も宿っていない。
「兎に角、これで先輩は万策尽きた訳なんですから、潔く負けを認めてください」
 今の彼女からは勝者の威厳のようなものがまるで感じられないが、確かに私は彼女に負けたのだ。いや、正確には、この男が登場しなければ、私が勝っていたのだが——
「先生がなんで、掃除用具入れの中に隠れてたんですか?」
 あきちゃんと呼ばれる養護教諭が私に視線を向ける。私は挑むようにその目を見返す。
「涼香ちゃんは女の子だ、頭はよく回るけれど、今君がしたように力で伏せられれば抗うことができない、万が一に備えて、控えていたのさ」
「グルだったってことですか?早瀬さんと組んで、僕を追い詰めようと——」
 ふと、思い当たることがあった。
「だから!早瀬さんが松山のノートを持っていたんですね!おかしいと思ったんです!先生は職権を乱用し、生徒の秘密を犯人捜しのため一生徒に漏らしたんだ!」
 本能がここだと叫んでいる。付け入る隙があるとすればここ!教師の社会的地位の弱さを突く!
「それってどうなんですかね⁉教師失格じゃないですか?信用失墜行為ですよね?このことが公になれば、懲戒処分になってもおかしくありませんよね⁉」
「ちょっと先輩!往生際が悪いですよ!あきちゃんは——」
 そういう早瀬さんの口を、養護教諭が塞いで言った。
「生徒の前で、あきちゃんは止めて?誤解される」え?今それ言う必要ある?
 なんだかよく分からないがこの養護教諭は全く反論してこない、これは、チャンスである!
「僕が犯人だって、好きに言いふらせばいいじゃないですか!でも先生、覚悟してくださいよ!その瞬間、あんたの首も飛ぶんだ!」
 養護教諭は何も応えない、答えようとしない。
「それだけじゃない!先生は早瀬さんと仲が良いんですよね?教師なのに特定の生徒と親しくするのはどうなんですかね?これも問題じゃないですかね?先生!生徒を指導する前に自身のあるべき姿を正したらどうですか?話はそれからですよ!」
 養護教諭は答えない。ただ、私の目をじっと見つめている。
「なんとか言ったらどうなんですか?黙って聞いてないで!」
 呼吸が荒くなる。大丈夫、もう少しだ。もう少しで勝てる。この男さえ黙らせたら私の勝ちだ。早瀬さんも、自身のせいで教師が処分されたとなっては都合が悪いのだろう、口を閉ざしたままこちらをただただ見つめている。
 養護教諭の言葉を待つ。
 どんな答えが返って来ても、撃墜する。
 私は養護教諭の目を見た。
 その目も私を見ている。
 しかしその口は、開こうとしない。
「なんで、黙ってるんですか?」沈黙に耐え切れず、私が口を開く。この流れが断たれるのを、恐れたからかもしれない。何も言わないのなら。
「黙っているってことは、負けを認めるってことでいいですか?じゃあ僕はもう帰りますね」
 もう帰る作戦、こうされたら教師は引き留めざるを得ない。
 私は荷物をまとめる。とはいえ、鞄のチャックを閉めただけなのだが。
 養護教諭は何も言わない。いや、言えないのだ。
 この勝負は私の勝ちだ、心の中でほくそ笑み、私は出口へ向かう。
 その時、ようやく養護教諭が口を開いた。
「椚田さんは、それでいいの?」
 その言葉が、私の背中に投げかけられる。
「どういうことですか?僕は現状に満足ですが?」
 踵を返して、養護教諭を見る。
「困るのは先生ですよね?不祥事を抱えてるんですからね」
 あはは、と養護教諭が笑う。
「PTAにでもなんでも、言えばいいよ、私は、自分が正しいと思って行動したんだから、何も後ろめたいことをしたとは思わない、でも、椚田さんはどうだろうか?このまま有耶無耶にして、本当にいいの?」
 何を言っている?立場的に都合が悪いから、情に訴えようとしているのか?その手に乗ってたまるか。
「いいって言ってるじゃないですか、言いたいことはそれだけですか?」
「言いたいことはそれだけさ、でも、伝えたいことはそれ以上だよ。ただ、椚田さんに聞く余裕がないのなら、私にできることは何もない。帰っていいよ」
 妙に引っかかる言い方をする。聞く余裕がない?なんだその、上から目線は。
 帰っていいと言われた。このまま帰るとどうなる。
 しばし考える。
 恐らく、どうにもならない。
 私の平穏は守られる。本当にそうだろうか。松山を陥れてからの1週間、どこか充実した気がしたのは、早瀬さんがいてくれたからだろう。しかし、もう、これから先、仮初の形であろうと彼女が私の隣にいてくれることはないだろう。そんな世界で何が残される?教師との関係は壊れ、友人もいない、早瀬さんという美少女に一週間で捨てられた男と笑いものにされるかもしれない。
 友達はおらず、教師には疎まれ、一人で過ごした空虚な時間だけが積み重なる。歳を取って振り返った時、そこにあるのは酸化した炭酸飲料水のように何の感慨も持たれぬ青春と、一酸化炭素のような罪の意識だけ。
 それが私の望んだハッピースクールライフか?そんな虚無を掴むためにこんな事件を起こしたのか?
「椚田さんは、怖いんだよね?罪の代償を、背負うのが」
 怖い?
「自分が犯人だと知ったら、松山さんはどれだけ怒るだろう、周りの生徒の自分を見る目はどうなるのだろう、そんな不安から、自分がしたことを素直に認められない、違うかな?」
 怖い?あぁそうだ、怖い。周りの私を見る目が、家族の目が、教師の目が、怖い。あの文章を自分が考えたと知られるのが怖い、積年の恨みを晴らすため、異様な犯行に及んだ頭の可笑しい生徒という烙印を押されるのが怖い。
「罪を認めるっていうのは、怖いものだよ。一生自分の中だけで、抱えていたいと思う、その気持ち、分からなくないよ。嫌われるのは、怖いから、誰も弱い自分を他人に見せたくはない」
 嫌われたくない。罪を認めることで、沢山の人が私を嫌いになるだろう。それも、私の望んだハッピースクールライフに反する。
「だから、このまま帰りたいのなら、帰ってもいいよ、自分の傷を、自分だけで抱え込んでおきたいのなら、そうすればいい」
 逃げたかったら、逃げたっていい、傷つきたくないのは、誰だってそうだろう。
「でもね、自分の腕に抱え込んだ罪は、消えないんだよ。自分の心が、忘れさせてくれない、長い長い時間が経っても、振り返った時、その思い出は、自分の心を抉るんだ。どれだけ周りの目から罪を隠しても、自分を騙すことはできないんだよ」
 罪は、消えない。
 罪を犯してしまったら、もう、取り返しがつかない?
 罪を告白しても、抱え込んでも、待つその先は苦しみしかない。
 そうなのか?もう、どうすることもできないのか?
「だから私が言いたいのは、これだけなんだよ、しつこいようだけれど、椚田さんは、本当にそれでいいの?」
 本当にそれでいいのか?
 いいはずがない、だけど、犯してしまったことはもう取り返しがつかない。
「じゃあどうすればいいんですか!もうどうしようもないんですよ!起きてしまったことはどうしようもない!松山は学校に居場所をなくし、今は学校に来ていない!でも、もし僕がやったって公表したら、今度こそ僕のいる場所がなくなる!」
 言葉が、堰を切ったように出てくる。
「だいたい、松山が悪いんじゃないですか!あいつが深く物事を考えず、自分の立場を保つためだけに僕を攻撃してくるから、僕はずっと我慢してきたんです!ずっと!1年生の頃からですよ!どうして毎回クラスが一緒なんですか?仲が悪いのくらいわかりますよね⁉もっと考えてクラスを決めてくださいよ!兎に角、あいつはやり返されたって、文句は言えない!なんで僕ばっかり責められないといけないんですか!今まで何も対処をしてこなかったあんたたち教師が無能だったから、僕がやる羽目になったんだろ!」
 言葉にする度に思い知る、自身の不格好さを。どうしようもない弱さを。
 わざわざ指摘される必要がない程に痛感している、自身の過ちを。
 自覚しているが故に隠滅を図ったのではないか。松山を、東雲を追い込んでまで。
 それでも認められない。誰かのせいにせずにはいられない。
 こんな未来が欲しかった訳じゃない。私が望んだ訳じゃない。
「どうすれば、良かったんだよ」
 誰も助けてくれない、一人戦い続けた日々。
 嫌気がさしてどこが可笑しい。
 解放されたいと望んで何が悪い。
 お前らのどこに私を責める資格がある。

 養護教諭は静かな声で言った。
「椚田さんは、助けを求めたの?」
 私は、助けを求めたか?
 私は誰にも助けを求めなかった。
 それは——
「助けてって言われなくても、助けるのが教師だろ」
 どこかで期待していたのか、不幸ばかりが続く日常で、誰かが手を差し伸べてくれるのを。不意に幸運が訪れるのを。
 誰かが、自分はまだ、見捨てられてはいないと教えてくれるのを。
「それでも、助けてって、言って欲しかった、苦しいんだって、教えて欲しかった。」
「なんで!それは教師が努力すべきところだろ!生徒が困っていることくらい把握できなくて、何が教師だ!」
 助けてだなんて、言える訳がないだろう。
 それではまるで、認めてしまうも同然ではないか。
 自分が松山に屈したことを、己の哀れな境遇を。
 そんなこと、認められる訳がないではないか。

「先輩は勘違いをしてますよ」
 それまで静観していた早瀬さんが、ぴしゃりと言った。
「学校という場は、教師だけの努力では成立しません。生徒の努力も不可欠なんです。社会だってそうですよ、環境が変わるのを待っているだけでは私たちは一向に成長しません。何より、自分の人生を他人に委ねるのって、愚かな選択だとは思いませんか?」
「それは!まるで僕が何の努力もしていなかったみたいじゃないか!僕だって考えたよ!どうやってこのクソみたいな現状が改善されるのか!毎日、毎時間と言ってもいい!あの馬鹿が絡んで来る度に!そうした試行錯誤の結果が例のノートなんだよ!何もしてないみたいに言われる筋合いはない!」
「うん、だから、助けを求めて欲しかったんだよ」
 真っすぐ私の目を捉え、養護教諭が言う。
「まず、今まで椚田さんの痛みに気付いてあげられなくて、ごめんね。椚田さんの言う通り、これは私たちの落ち度だ。そして椚田さんが言う様に、君は何もせず受け身的でいた訳ではないことも知っている。君は一日一日と戦って来たんだよね」
 何も知らない癖に、私の心を知っているように、養護教諭は語る。
「椚田さん、君は本当に毎日必死に戦っていたんだろうね。屈辱に耐え、感情を押し殺して、負けないために、ただただ必死に」
 授業中、教師が黒板に何かを書いている時、後方から丸められたティッシュが飛んできて、私の頭にあたる。拾って後ろを見ても、白々しいように皆がとぼけてみせる。そのティッシュを床に放ると「ごみを床に捨てた」「ちゃんとごみ箱に捨てろよ」とどこからともなく野次が飛ぶ。だから無視をして、やり過ごす。その背中に嘲笑を浴びながら。
 廊下を歩いていると、松山が私に向かって歩いてくる、そのまま歩くとぶつかるので避けて進むと「ビビッて逃げた」と嗤われる。かといって、むきになってこちらも進路を譲らずにいると、「邪魔だ」「なんのようだ」と絡まれる。
 教室でお弁当を食べていると、どこからともなく私の名があがる。「椚田司」という名前は、気持ちの悪いものや人を不快にさせるもの、理解できないものなど、およそマイナスに見られるものの象徴として度々話題に上がる。誰も弁護する者などいないから、その名が持つイメージの悪さは増幅するばかりであった。
 だからといって、抗議することなどできない。誰も味方をしてくれないことは分かっているから、その行為が、ますます自身のネームヴァリューを貶めることを知っているから、私にできることは、ただ、耐えることだけだった。
 それが私の戦いだった。

「ただ、負けないことに必死になるあまり、椚田さんは大切なことを見失ってしまったんだ。」
 大切なものを見失った?大切なものなど、一つとしてあっただろうか。
 私が、いったい何を——
「自分が、何のために、何と戦っているのかということを」
 何のために、何と戦っているのか?
「椚田さん、君は、松山さんに勝つために戦っていたの?楽しいと思える高校生活を手に入れるために戦っていたんじゃないの?」
 私が欲しかったもの、望んでいたもの
「松山さんに勝ちたかったなら、おめでとう、今君は、松山さんに復讐を果たし、彼を懲らしめることができた。彼はもう君に逆らわないだろう。手段はどうあれ、望みは達成できたね。椚田さんの勝利だよ。でも、椚田さんは今この現状を、本当に心から喜んでいるのかな?」
 私は現状を喜んでいるのか?喜んでいるはずがない。
 確かに松山を陥れることはできた。しかしその行為は、私という人間を決定的に醜悪なものへと変えてしまった。「椚田司」という醜さの象徴は、その魂さえも濁らせてしまったのだ。
 こんな結果を誰が望んだ?
 こんな惨めな高校生活を送りたかった訳じゃない。
 ただ、
 本当は、
 もっと楽しい高校生活を送りたかった。
 友達と一緒に、お弁当を食べながら、どうでもいい話をして笑い合いたかった。
 好きだと思える人と一緒に歩いたり、勉強を教え合ったり、幸せだと思える時間を共有したかった。
 大人になっていく過渡期にあって、誰かにこの手をとって欲しかった。
 
 どこで間違えた?どうして間違えた?
 松山に対する積み重なった憎悪が私を盲目にした。
 松山を排除すれば、私の高校生活はバラ色に輝くと思っていた。
 輝くわけがない、こんな醜く薄汚れた手で掴んだものが、光り輝く訳がない。

「私には椚田さんが、現状に満足しているようにはとてもじゃないけど見えない。本当に欲しかったものはもういいの?諦めるの?だから、それでいいのかって聞いたんだよ」

 本当に欲しかったもの。
 しかしそれはもう、
 どう足掻いたって、手に入れられそうもない。

「どうすれば、いいんですか?」
 どうすれば、こんな地獄から抜け出せる?

 養護教諭が、ニコリと笑って、言った。
「助けを求めて欲しい」
 
 助けを求めれば、何か変わっていたのか?
 辛い日々の只中で、東雲がかけてくれた言葉を思い出す。
 「大丈夫?困ってることはない?」
 あれは、一人で溺れる私を引き上げるために差し出された手ではなかったか。
 本当に教師たちは無能だったのか、少なくとも、東雲は私を助けようとしてくれていたのではないか?
 それに私はなんと答えたのか。その手を、振り解きはしなかったか?
 あれ程求めていた救いの手を何故掴むことが恥だと感じたのか。
 あの手を掴んでいたら、この歪んだ現状は、もう少し違ったものへとなっていただろうか。
 だが、今となってはもう全て後の祭り。
 私はその手をはねのけただけではない。その優しい手を差し伸べてくれた彼女を、深く深く、この手で、この言葉で、傷つけてしまった。


「今更、ですか?」
 今更助けを求めろと言うんですか?
 もう手遅れじゃないですか?
 しかし養護教諭は笑う。
「いつからだっていいんだよ」
 今からでもまだ、間に合うというのか。
 こんな醜悪に腐りきった、今からでも——

 半信半疑ではあった。
 むしろ殆ど信じてなどいなかった。
 ただ養護教諭のその微笑みだけを、縋るように、口を開いた。
 その言葉は容易にはこの口から出ようとしない。
 何度も喉の奥でつっかえながら、それでも這い出ようと藻掻いている。

「じゃあ、助けてください」
 ようやく言葉として形になったそれは、ひどく不愛想なものだった。
 しかし養護教諭は、頼ってくれてありがとうなだんて、たいそう間の抜けたことを抜かす。
「お節介には、限界があるんだ」
 養護教諭が、スマートフォンを取りだし、画面を操作してから、耳に当てる。
「由紀乃ちゃん、入ってきていいよ」
 ゆきのちゃん?頭の中で少し考えて、それが東雲の名前だと思い出す。
 何故、今東雲を呼ぶ?
 何を考えている?訝しみながら、養護教諭を見る。
 ふと、廊下を歩いてくる影が見える。
 二人分の影、
 東雲と
「松山?」
 東雲の陰に隠れるように、どこか気まずさを嚙み殺すように、松山が歩いてくる。私は美術室の出入り口から距離を取った。
 その出入り口から東雲が、そして、その東雲に導かれるように、松山が、美術室に入ってくる。
「これは、どういうことですか?」
 私は養護教諭を睨む。
 私は助けを求めたのだ、何故、松山を連れてくる。というか、松山は学校を休んでいたのではなかったのか?
「椚田さん、今君に必要なことは、話し合うことだよ。今私と話してくれたように、松山さんと、ちゃんと向き合って、話してみてほしい」
 松山と話し合う?そんなこと、できる訳ないだろ。話が通じない猿に。
 私は松山に視線を向ける。
 少し、目を瞠った。
「お前、ライトブルーはどうしたんだよ」
 東雲が慌てたように口を開け、両腕でバツ印をつくる。
「ライトブルーは今関係ないだろ!」と松山が怒鳴る。
 東雲が決まり悪そうな顔をする。なるほど、私の「ぶひぃーーっ‼」同様、ライトブルーは松山にとって禁句らしい。
 松山はちっと舌打ちをして頭を搔いて「やっぱりお前、むかつくわぁ」とこぼした。
 私は養護教諭を見る。こんなやつと、何を話し合えと言うのか。
「何しに来たんだよ」
 私は松山に向けて、言い放つ。
 私に謝れって、そう言いに来たのか?
 謝ると思ったのか?謝ってもらえると思ったのか?

 松山は顔を上げて、私を見た。
 とても情けない顔をしていた。
 何度も歯を食いしばり、何か言葉を発そうとする。
 その口が開こうとした瞬間、松山の頭が垂れて、松山の顔が見えなくなる。

「ごめん」という声が、弱弱しく震える身体から発せられ、空間に沁みわたる。

「今まで、ごめん、赦してくれとは言わねぇけど、ほんと、悪かった」
 松山の声は、震えていた。
 声が大きいだけで粋がっていた松山の、これほど情けない声は初めて耳にする。松山がごめんと言っている。己の過ちを認めた。私の絶対的大勝利。
 しかし、「ぶひぃーーっ‼」は出なかった。
「どういう心境の変化だよ」
 どうしてお前が謝るのだ。怒っていないのか?
 私が犯人だって、お前も勘づいているんだろ?ただ、証拠を掴めないだけで。
 お前だって私に怒りを抱いているんだろう?私もお前を憎んでいる。
 お互い様だ。お前の方が罪は重いが、お前が謝る道理はないだろう。
 どうして、お前が謝るんだ。馬鹿で糞野郎なお前が。
「俺は馬鹿で糞野郎だ」
 不意に松山が告白する。知っている。皆知っている。
「でも、そんな自分に嫌気がさした」
 そんなこと言っても、お前はお前だろう。
「俺は変わりてぇ」
 無理だよ、馬鹿だもん、お前。
「そう思っても、なかなか変われねぇ馬鹿だけどさ」
 分かってるのかよ、じゃあ——
「でも変わりてぇ!いつまでも糞野郎でいたくねぇ!」
 絞り出すように、松山が言う。
「だからごめん、椚田、本当にごめん!もう絶対お前に、嫌がらせなんかしねぇ、浅井と堂島にもさせねぇ!だから、見ていてくれ、糞野郎な俺が、少しでもまとまな人間になれるように、赦してくれだなんていわねぇ、ただ——」
 ただ?
「ゆ、赦してくれ」
 いや赦して欲しいのかよ、心の中でツッコミが漏れる。
「どっちなんだよ」
「赦してくれ」念を押すように、松山が言う。何かかっこいいことを言おうとしたのだろうが、松山の頭ではこれが限界なようだった。
 深く頭を垂れる松山を見る。
 ひどく情けない。真摯に謝る姿勢はかっこいいというけれど、やはり、かっこ悪い。無様だ、哀れだ。
 罪を犯した者が、かっこいい訳がない。
「あの、金谷さんへのノート、あれは僕が書いた。教室でお前の居場所がなくなるように、わざと書いたんだ」
 松山は顔を上げず、俯いたままでいる。
「お互い様だ」
 自分でも何を思ってその言葉を口にしたのか、定かではない。確かめたかったのか?松山の反応を。
「元々の原因は俺にある。悪かった。」
 松山はそう言った。
「怒ってないのか?」
「俺には怒る資格がない」
 ライトブルーは怒ったくせに
「言いたいことはそれだけか?」
 突き放すように、私は言う。
 松山はしばらく悩んだ後、「あぁ」と漏らした。「俺が悪かった、赦してくれ」

 養護教諭が私を見る。
 松山の言いたいことは、それだけなのだろう。
 後は、私の問題だ。そう諭すように、私を見る。

 どうすれば正解なのだ。
 正論だけでは生きていけない。
 私たちには感情がある。正しい事ばかりを飲み込んで生きていけるほど、私たちは器用じゃない。
 松山につけられた傷は今もなお、私の中で痛みを伴って疼いている。
 これほどの傷を負わされて、赦せと言うのか、虫が良すぎる話ではないか。
 しかし、感情に流されたからこそ、私は見誤ったのではないか?
 本当に大切なもの、私が憧れたハッピースクールライフにこの憎悪は、本当に必要であろうか?
 赦さないという感情を選択することに、どれほどの魅力があるだろうか。
 これは、松山のためではない
 自分のために、赦すのが正解なのだ。

「顔を上げろ、松山」
 松山は、きまり悪そうに、顔を上げる。
 松山と目が合う。
「僕も悪かった、謝る。ごめん」
 どこか上から目線で、私は言う。
 和解と言うのは、大抵そういうものなのだろう。先に謝られることで、後で謝る方は幾分も心理的に楽になる。先に謝らせてやったという優越感からか、それとも未だに罪を告白できない劣等感からか、如何せん、何の抵抗もなく、謝罪の言葉が私の口から漏れた。
 たったそれだけのことなのに、今まで私の胸を占めていた黒いもやもやが、嘘のように霧散していった。
 たったそれだけのことで、長い間私を苦しめてきた松山との闘争は、終わりを迎えた。
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