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覚醒した彼女

冬華、覚醒

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 二人は川べりを歩いた。梅雨も明け、照り付ける日差しも強い。太陽が高い位置にあり、光を浴びた川の水面は輝いていた。ニイニイゼミの声が聞こえる。本格的に夏が始まったのだと感じさせた。

「そういえば私、図書館で見つけた絵をコピーしたの。葛飾北斎の画集で義経と弁慶と静御前が描かれていたんだ。今持ってるから見てみる?」
「へぇ、絵は見たことなかったな。葛飾北斎って浮世絵の?」

 うん、と頷いた冬華が鞄からA4サイズの用紙を取り出す。『これなんだけど』と手にすると同時に一陣の風が吹いた。紙が彼女の手を離れ、蝶のように翻りながら宙を舞う。

「取ってくるよ」
 言うと同時に鷲は駈け出した。

「椎葉くん待って。川に落ちると危ないから。ねぇ、気を付けて」
 冬華は慌てて鷲の背中を追いかけた。届きそうで届かない距離。彼女の中で、得体の知れない何かが、ざわつく。

「え? これって……」

 彼女は以前、同じ感覚に囚われたと思い出した。
 彼が髪に触れたあの時、鷲の背中が『誰か』の後姿と重なった。あの時の冬華は懐かしいような、不思議な感覚に捕らわれて、無意識に彼の腕を掴んでいた。『どうか……ご無事で』と彼女の心の奥深い所で、何かが叫んでいたのだ。
 今、まさに同じ感覚が彼女を襲っていた。
 前にいるのにその背を掴めない既視感。意識が朦朧とする。『本当にすべて忘れたままで良いの?』と自分ではない誰かの声がした次の瞬間、ひどい頭痛が襲って来た。冬華は思わずその場にしゃがみ込む。彼女の異変に気が付いた鷲が駆け寄った。

「   」

 名前を呼ばれた気がするが、上手く耳に入らない。頭の中が、どこかに攫われそうな感じになる。過去と現在がぐるぐると混ざり合う。幼い頃の自分と、見た事もない自分が向かい合っていた。

 そして次の瞬間、走馬灯のように様々な光景が脳裏を駆け巡った。
 愛しい人との出会い、短い逢瀬、別れ。季節の移ろい。捕らえられ、尋問され、身籠った子を殺され、絶望の日々を過ごしたこと。京に帰った後、愛する人の最期を知り、会いたいと願っていたものの叶わず、失意のままその生涯を終えたこと。

 季節は夏のはずなのに、ざくりと雪を踏み分ける音が耳元で聞こえた。
 
 その中に身を置いていた時は、風景なんてものにほとんど注意を払ってはいなかった。周りの風景に気持ちを向ける余裕なんてなかった。目の前にいる愛しい人の姿だけをしっかりと目に焼き付けていた。でも、今浮かび上がるのは雪を纏った白い木々。冷たい風。何処までも続く冬の山。

『私は入るわけには参りません。吉野の山は女人禁制なのでしょう』

 懸命に微笑むと強く抱きしめられた。

『必ず生きて、また逢おう』

『ええ、必ず。どうかご無事で』

 彼に背を向け、正反対の道へと歩き始めた。あれが永遠の別れになるなんて思ってもみなかった。否、覚悟はしていた。けれど、もう一度、もう一度だけでいいから逢いたいと願っていた。冬華の意識がゆっくりと戻って来る。

「どうして、どうしてこんな……」

『愛おしいな、静は』

 耳の奥で優しい声が聞えた。その時、冬華の意思ではないところで唇が開いた。

「くろう、さま……」

 鷲が驚きの眼差しで冬華を見つめる。
「もしかして、思い出したの?」
 冬華は黙って頷いた。

「思い出したのなら、笑ってくれないかな」
 そう、あの頃のようにと鷲が微笑む。しかし、冬華は強張った顔で俯いた。

「無理だよ。笑うなんてできない」
「え?」鷲が聞き返すと冬華は強張った顔で彼を見つめた。
「笑えないよ。思い出したくなんてなかった。だってそうでしょう? 敵の前でたった一人、舞いを強要され、産んだばかりの子を殺されて、愛する人とは再び逢えず、失意の中、私がどんな思いで……こんなの知りたくもなかった。思い出したくも……なかった」
「それならば、何故この世に生まれてきた。何故、僕たちは再び巡り会ったんだ」
 穏やかな口調で鷲が聞くが、

「分かんないよ。そんなの、知らない。私は私の人生を生きたいの。他人の記憶なんていらない。私は、私以外の誰でもないから。こんなの、いらない」
 冬華が大声でまくし立てる。

「もう一度逢いたいと強く願ったから、この世に生まれてきたんじゃないのか」
 言うや否や、鷲は冬華を抱きしめた。抱きしめられた冬華は、ゆっくりと瞳を閉じた。トクン、トクンと彼の鼓動が伝わってくる。

 思い出さなければ、何も知らなければ、幸せでいられただろうかと冬華は考えた。永遠なんてないと思っていた。人の気持ちも然りだ。どんなに愛おしい相手でも、死んでしまえば二度と会えない。どれだけ会いたいと願っても、肉体が滅んでしまえば再び会う事はできないのだ。遠い遠い昔、愛する人の最期の姿を耳にしたあの時。その絶望感は今でも覚えている。だから思い出したくはなかった。あの人を想いながら、ただ時が流れた。己の命が尽きる時、私はもう二度と思い出さないと誓った。それでも、どこかで永遠を信じた自分がいたのだ。もう一度逢いたいと強く願っていたのは、いつのことだったのだろう。

「やっと……逢えたんだ」

 鷲の声がストンと冬華の耳の奥に落ちる。

「椎葉くん……ごめん……大声出して」
「いや、急に覚醒すれば誰だって混乱するさ。実際、僕もそうだったし」

 ゆっくりと身体を離して、鷲は冬華の顔を覗き込む。彼は続ける。

「あのさ、昔の名前で呼んでとは言わないから、せめて鷲って呼んでくれないかな」
「鷲……くん」

 逢いたかったと告げるような声でゆっくりと名を口に出すと、彼は穏やかに微笑んだ。

「それで、何が見えたの?」
「膨大な量の情報が一度に流れ込んで来たから、上手くは説明できないかも。時間にして一瞬だったし。ただ見終えた後、とても辛かったのだけは覚えている。だから、今まで思い出せなかった。ううん、そうじゃないね」
 言葉を区切り、溜息をつく。

「たぶん自らの意志で、思い出さなかったんだと思う」
「そっか」
「でもね、辛い記憶の中に一筋の光が見えたんだ。愛し人と過ごした短い日々の光景が
過ったの。私の中の誰かが、『本当にすべて忘れたままで良いの?』って言った気がした」
「良かったよ、思い出してくれて」
「でもね、これだけは言っておきたいんだけど、今の私は誰でもない夢野冬華だから」

 真っ直ぐな瞳を彼に向けると、彼は破顔した。

「それは僕も同じだよ。それでさ、夢野冬華さんは僕、椎葉鷲と付き合ってくれるのかな?」
「うん……よろしくお願いします」

 小さな声で呟いて頭を下げると、鷲は嬉しそうに手にした紙を差し出した。

「はいこれ、濡れる前に捕まえたよ。ええと、タイトルは葛飾北斎の堀川夜討図。版画じゃなくて肉筆画なんだね。ごめん、握りしめたからちょっと皺になっちゃった」
「ううん、ありがとう」
 二人は寄り添ってそれを眺めた。

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