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覚醒した彼女

母との時間

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 冬華は母と泊りがけの旅行に出かけた記憶がない。長期の休み中も母は仕事だったし、母の両親は冬華が生まれた時にはすでに亡くなっていた。父方の祖父母とも音信不通で一度も行き来したことがない。夏休み明けの二学期初日、同級生が有名なテーマパークや、祖父母の家に行ったと話す姿が羨ましくないと言えば嘘になる。彼女の夏休みは、日帰りで行ける動物園や水族館、近所の夏祭りで、元々海が苦手な彼女はどこにも行かない年もあった。

 中学生になると部活に加えて勉強が急に難しくなり、母との関係もぎくしゃくして、意図的に母を避けていた。
進路に悩み始めた頃、高校へ進学したいのなら、家から一番近い公立高校へ進学してねと母に言われていた。周囲の友人がいろんな高校のパンフレットを見比べていたり、県外の高校に通うため塾へ通っていたりする姿を見て、選択肢のない自分が悲しかった。何においても自分と友人とを比べてしまっていた。スマホは買ってもらえない、学習塾には通えない、欲しい服、可愛い文房具、家族旅行、ないモノばかりの自分に強い劣等感を抱えていた。なぜ自分が家事をしなければいけないのか。なぜ、制服が可愛い私立高校へ通えないのか。冬華が受験した(現在通っている)高校は、自分の成績で自宅から徒歩で通える唯一の公立高校だった。

 そんな毎日が続いた中学の卒業式の日、家に帰った母が突然散歩に行こうと言い出した。冬華は行かないと突っぱねたが、卒業祝いにスマホを買ってくれると言うので、渋々ついて行くことにした。中学校のクラスでスマホを持っていないのは冬華だけだった。

 先にファミリーレストランで食事をしようと言うので、仕方なく店に入る。

「冬華、卒業おめでとう。高校生活も頑張ってね」
 席に着くなり出た母の言葉に黙って頷いた。早くスマホを買いに行きたいなと、頭の片隅でずっと思っていた。

「ドリンクバーはいいの? 子供の頃はあんなに飲んでいたのに」
「いらない」

 さっさと注文し、黙々と食べた。母の問いかけにも『うん』『そう』と素っ気なく返した。
食事を済ませ、ファミリーレストランを出て少し先にある、スマホを取り扱う店へ向かう。店内に並べられた機種の値段に母は驚いていた。そういえば母は、画面の割れた同じものをずっと使っているなと思った。母に十万前後の機種は買えないと言われ、店にある一番安い機種を選んだ。

「やっとこれで普通の生活に近づけた」
 スマホを手にした冬華は嫌味のような口ぶりで言った。

「え? 普通ってなに?」 
 穏やかな口調で聞かれ、冬華はカチンときた。今まで自分がどれだけ惨めな思いをしていたのかこの人は知らないのだろうか。冬華は生まれて初めて母に対して声を荒げた。
「そんなことも分かんないの? 普通って言うのはね、私と正反対の生活だよ。賑やかな家族がいて、夏休みにはホテルに連泊して、美味しいもの食べて、誕生日やクリスマスには欲しいものを買ってもらって、やりたいと言えば習い事にも行かせてくれて、子供が家事もしなくていい普通の家庭のことだよ。私はどれも叶わなかった。好きで貧乏な家に生まれたわけじゃないのに」
 頭では分かっていた。母を責めたところで、自分を卑下したところで、人と比べたところで現実は何も変わらないということを。それでも、声に出して言いたかった。

「ごめんね。子供は親を選べないからね。本当にごめん。何もしてあげられなくて」
 母はそれだけ言うと黙った。

 一切の言い訳をしない母を見て、冬華には虚しさだけが残った。母がどれだけ頑張って働いているかなんて知っていたはずだ。これは誰の所為でもない。それなのに母を責めてしまった。けれども発した言葉は戻らない。

「ゴメン……なさい。言い過ぎた」
 冬華がそう言うと母は首を横に振った。
「全てお母さんが悪いの。冬華は今まで何一つわがままを言わなかった。ずっと辛かったんだよね。気づいてあげられなくてごめんね」

 母の目には涙が浮かんでいた。とてつもなく、酷く母を傷つけた。そう思ったが、どうすることもできなかった。

「おかあ、さん」
 冬華も泣きながら、母に近づいた。ずっと貯め込んでいた数年間の思いが涙に変わり、堰を切ったように溢れ出した。母がそっと冬華を抱きしめる。もうすぐ高校生になる娘は母の背丈を追い越していた。
道行く人が、不思議そうに二人を見ている。けれども親子はそれにも構わず抱き合って、二人とも声をあげて泣いていた。
 
 その日から散歩には行っていない。けれども家では笑い声が絶えない、穏やかな毎日が過ぎていった。

 二人は久しぶりに国道沿いのファミリーレストランへ行った。ここへ来るのは中学の卒業式の日以来だ。
「ドリンクバー頼もうかな」
 冬華がはにかんで言うと
「じゃあ、お母さんも」
 二人は顔を見合わせて笑った。

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