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第2話「『感情が重いんだ』その一言で世界が割れる」
しおりを挟む夜会が終わりに近づく頃、シャンデリアの灯りは少しだけ弱くなっていた。
ワインの香りと、甘い菓子の匂いが溶け合って、空気はやけに重たい。
楽団が最後の曲へと移る気配を感じながらも、私はそれどころじゃなかった。
(来てくれるよね、デュルク)
テラスの前で立ち止まり、深呼吸をひとつ。
大広間から漏れてくる音楽と笑い声が、ガラス扉を挟んで遠のく。
扉を押して外に出ると、夜風がドレスの裾をふわりと揺らした。
ひんやりした空気が、熱をもった頬をなだめてくれる。
月が大きく浮かんでいる。
白い石畳の床に、薄く冷たい光が落ちている。
人の気配は、ない。
胸の中で、鼓動だけがやけに大きく響く。
(噂なんて、きっとただの悪ふざけ。
ちゃんと聞けば、笑い話で終わるかもしれない)
そう自分に言い聞かせながらも、胃のあたりがきゅっと縮む。
扇子を握る手に、じんわり汗が滲んでいるのが分かる。
やがて、テラスへの扉が内側から開いた。
黒い軍服。
整えられた銀髪。
見慣れたはずの横顔が、今夜は少し遠く感じる。
「……お待たせしました、ルシア様」
デュルクが一礼しながら歩み寄ってくる。
形式としては完璧な動作。それなのに、そこに微妙な“距離”が混じっている気がして、心臓が一度跳ねたあと、急に重く沈む。
「ううん、私が少し早く来ていただけよ。忙しいのにごめんなさい」
「職務の合間ですから。少しくらいなら」
少しくらい。
その言い方が、なんだか胸に引っかかった。
以前の彼なら、「ルシア様のためなら」なんて、冗談めかして言ったかもしれない。
そういう、さりげなく甘い言葉を、さりげなく紛れ込ませてくれる人だった。
でも、今の彼は、きちっとした線から一歩もはみ出さないような口調で話している。
(……怖がってる場合じゃない)
私は自分の指先をぎゅっと握る。
今ここで聞かなければ、一生後悔する気がして。
「デュルク」
「はい」
振り向いた彼の瞳が、月明かりを映して薄く光る。
その色を見た瞬間、喉がきゅっと締まる。
それでも、言葉は出した。もう戻れない。
「私たちの関係って……これから、どうなるの?」
テラスに流れ込んでいた音楽が、遠くで途切れる。
ちょうど曲が終わったのだろう。
その静寂のタイミングが、あまりにも残酷だった。
問いかけが、夜気にくっきりと浮かんでしまう。
デュルクは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
その仕草に、“面倒だな”という影のようなものがちらっと見えて、心臓がひゅっと縮んだ気がする。
「……ルシア様」
彼は小さくため息をついた。
その音は、仕事で厄介な書類を渡されたときのような、そんな色をしていた。
私の、恋の話じゃなくて。
「君は優秀だし、大公家の令嬢としての価値は高い」
最初の言葉は、いつもと似ていて。
私はほんのわずか、胸に希望が灯るのを感じた。
(ほら、やっぱり。
私を“価値”じゃなくて、ちゃんと見てくれて――)
「でも……」
その一文字で、希望がぴたりと止まる。
続きが、雪崩になる予感だけを残して、口から零れた。
「……感情が重いんだ」
テラスの上で、時間が止まった。
風の音も、遠くの笑い声も、月明かりも。
全部が、一瞬、無音になる。
「……え?」
自分の声が、驚くほど間抜けに聞こえた。
「君は、真面目で、責任感が強い。それは立場上、正しいあり方だと思う。
でも、君は“それ以外”の部分でも、相手に多くを求めすぎる」
何を言われているのか、頭に入ってこない。
でも、言葉は容赦なく続く。
「一つひとつの言葉に意味を求める。
ちょっとした態度の変化を敏感に拾っては、そこに感情を乗せる。
君と話していると、常に“向き合わされている”感覚になるんだ」
心臓のあたりが、じわじわと冷たくなっていく。
それは寒さじゃなくて――凍りつくような、冷え。
「……それが、嫌なの?」
やっとのことで絞り出した問い。
喉が乾いて、声は掠れていた。
デュルクは、少しだけ視線を逸らしてから、薄く笑った。
それは優しさに見せかけた、距離を置くための笑い方だった。
「……疲れるんだよ、ルシア様。
君の感情に、いちいち向き合っていたら」
胸の真ん中に、杭が打ち込まれた気がした。
感情が、重い。
そのフレーズが、頭の中で何度もこだまする。
(私は……ずっと、“正しく”あろうとしただけなのに)
泣きたいときも、怒りたいときも、飲み込んできた。
求めたい言葉が喉元まで来ても、令嬢としての礼儀を優先してきた。
それでも抑えきれずに零れた、たまの質問や不安さえ――
彼にとっては「重かった」のだと突きつけられる。
「……ごめんなさい。そんなつもりは――」
「わかっている。君は、悪意があってそうしているわけじゃない」
きっぱりと切られる。
それが逆に、逃げ場を全部塞いでくる。
「ただ、私はもっと軽い関係でいたいんだ。
必要なときに必要な会話だけをして、互いの領分を侵さない、そんな関係で」
それは、
「君と“恋人”でいる気はない」と、そう言っているのと同じだった。
胸の奥で、何かがはっきり音を立ててひび割れた。
「……じゃあ、私のこと、なんだと思ってたの?」
声が震えているのがわかる。
見られたくなくて、つい俯きそうになるけれど、私は無理やり顔を上げた。
「大公家の令嬢としての、君だよ」
即答だった。
迷いなんて、ひとかけらもない。
「君は大公家の一人娘で、この国にとって重要な存在だ。
君との繋がりは、私にとっても、王宮にとっても価値がある」
「価値」という言葉が、やけに生々しく耳に残る。
「……それって」
喉の奥が焼けるように熱い。
言葉を出すたび、どこかがちくちく痛む。
「最初から……“大公家の令嬢”としての私しか、見てなかったってこと?」
デュルクは、一瞬だけ口を閉じた。
視線が揺れる。その揺れに、ほんの少しの罪悪感がにじむ。
彼は、答えなかった。
曖昧な笑みだけを、薄く浮かべる。
その沈黙が、何よりも雄弁な「はい」だった。
「……そう」
声が出た瞬間、自分でも驚くほど、音が軽かった。
中身が空っぽの鈴を鳴らしたみたいな、そんな軽さ。
(ああ、そうなんだ)
頭のどこかで、妙に冷静な声がした。
納得してしまいそうになる自分がいて、腹が立つ。
だって――思い返してみれば、当たり前なのだ。
彼が褒めてくれたのはいつも、「大公家の令嬢としての君は」だった。
私の努力も、私の笑顔も、全部“家の顔”とひとまとめにされていた。
そこに違和感を覚えながらも、見ないふりをしてきたのは、他でもない私自身だった。
「……それに」
デュルクは、追い打ちをかけるみたいに、さらりと言葉を継ぐ。
「君よりも、政略的に有利な縁談がある」
頭の中が、一瞬真っ白になる。
「……え?」
「君も聞いているかもしれないが――エリセ・ラングフォード侯爵令嬢との話だ」
エリセ。
さっき、女官たちの噂話に出てきた名前。
彼女の明るい笑い声と、誰とでも軽やかに踊る姿が、頭に浮かぶ。
私とは真逆の、太陽みたいな令嬢。
「彼女の家は、王宮にとって今後重要になる。
その縁を結ぶために、私が婚約者として選ばれた。それだけのことだ」
“それだけのこと”――じゃない。
それは、私にとってすべてだった。
初恋の相手が、勝手に終わりを決めてしまう言葉だった。
「ちょっと待って」
自分の声が震えている。
視界の端がにじんでいく。
それでも、必死に睫毛を上げる。
「じゃあ、あなたは……私を捨てて、その侯爵令嬢のところへ行くってこと?」
デュルクは、「捨てる」という言葉に一瞬だけ眉をひそめた。
「そんな感情的な言い方はやめてくれ。
君と私の間には、正式な婚約など、最初から存在していない」
「でも……周囲は、そう見てた。私も、そう思ってた!」
声が、初めて夜を震わせた。
テラスの向こう、庭園の影が揺れたような気がする。
「“大公家の令嬢と、第二王子側近は将来結ばれるのだろう”って、皆……」
「それは周囲の憶測だ。
君も貴族なら分かるだろう? 確定していない話を、外野が勝手に盛り上げることくらい」
冷静な口調。
合理的で、正しい。
それが、なおさら私の心を切り裂く。
「君は、周囲の期待と、自分の感情を混同している。
“そうだったらいいな”という願望を前提に、私との関係を見てきたんだ」
言葉が鋭利すぎて、息をするたび傷が抉られる。
「……私が、勝手に夢見てただけだって、言いたいの?」
「そういうことだ」
あまりにも簡単に。
私の何年分もの感情が、そう一言で片づけられた。
足元がふらりと揺れる。
ヒールの細い踵が、石畳の目地に軽く引っかかる。
「……最低」
口から零れた言葉は、自分でも驚くほど小さくて、かすれていた。
デュルクは、それに眉ひとつ動かさない。
「感情的な言葉をぶつけられても、困る。
君は大公家の令嬢だ。もう少し落ち着いて――」
「ねえ、デュルク」
気づいたら、彼の言葉を遮っていた。
自分でも制御できないくらい、喉からこみ上げてくるものがあって。
「私のこと、一度でも“ルシア”として見てくれたこと、あった?」
“大公家の令嬢”じゃなくて。
“価値”じゃなくて。
ただの、私として。
デュルクは、少しだけ目を細めた。
そして――答えなかった。
口元に、うっすらと苦い笑みを浮かべただけ。
その沈黙が、「いいや」と言っていた。
「……そっか」
胸の奥で、何かが壊れる音がした。
ぱきん、ぱきんと、氷を細かく割っていくみたいに。
私は、もうこれ以上ここにいたら崩れると直感した。
「ごめんなさい。
……今まで、勝手に期待して、勝手に喜んで、勝手に好きでいて」
それは、ほとんど告白みたいな言葉になってしまっていた。
でももう、取り繕う余裕なんてない。
「安心して。これからは、もう重くならないようにするから」
笑ったつもりだった。
自分では、ちゃんと“令嬢らしい微笑み”を作ったつもりだった。
でも、唇の端が震えているのが分かった。
デュルクは何か言いかけたが、私はもう聞きたくなくて、テラスから踵を返した。
扉を開ける。
大広間の音が、怒涛のように押し寄せてくる。
音楽。笑い声。グラスの触れ合う音。
さっきまでと何も変わらない世界。
ただ、私の中だけが、完全に崩れていた。
視界が滲む。
涙をこらえようと瞬きを重ねるほど、溢れていく。
(ここで泣いたら、全部終わる)
そう思っても、もう腕で堰き止めきれないほど、胸の奥が痛かった。
誰かが何か言った気がする。
呼び止められたような感覚もあった。
でも、足は勝手に動いていた。
大広間を横切り、視線を避けるように、裏手の廊下へ。
人の少ない通路を抜け、出口へ向かう。
頭の中では、デュルクの言葉が何度もリピートされていた。
『君は優秀だし、大公家の令嬢としての価値は高い』
『でも……感情が重いんだ』
「……重い、んだ」
小さく口に出した瞬間、胸の中で何かがぷつんと切れた。
私が今まで必死に押し殺してきた感情を、
彼は、重い、面倒くさい、と切り捨てた。
その事実が、一番堪えた。
もう、夜会場に戻る気力なんてどこにもなかった。
誰かに見つかって「どうかなさいました?」なんて訊かれたら、その場で崩れ落ちてしまいそうで。
私はそのまま、宮廷の庭園へと出た。
*
夜の庭は、昼間よりずっと広く見えた。
満月の光を受けて、白い砂利道が淡く光る。
噴水の音。木々を揺らす風。
遠くで、夜鳥の声がする。
ドレスの裾を引きずるように歩き続ける。
足元なんて見ていないから、砂利が靴の中に入り込んで痛い。
それでも構わなかった。
視界は涙でぼやけて、世界の輪郭が全部滲んでいる。
「もう、何も信じられない……」
ぽつりと漏れた声が、夜気に溶けた。
子どもの頃から信じてきたものが、連続で崩れていく。
大公家の令嬢としての役目。
父の期待。
そして――デュルクへの恋。
それら全部が、実は“私”のためではなく、“家”や“政治”のための飾りにすぎなかったのだとしたら。
「私は、何のために……」
問いは途中で途切れた。
答えを出す前に、喉が痛くて、それ以上言葉が続かなかった。
気づけば、庭園の奥深くまで来ていた。
大きな湖が、月をそのまま映している。
水面は鏡みたいに滑らかで、でも、風が吹くたびに細かく揺れる。
それが、今の自分の心みたいで、無性に腹が立った。
「……っ」
顔を覆う。
手袋越しに感じる自分の頬は、熱くて、湿っていた。
泣きたくない。
ここで泣いたら、きっともう戻れない。
分かっているのに、涙の蛇口は壊れたみたいに閉まらない。
足が、ふらつく。
細いヒールが、湖の縁の石に中途半端に乗ってしまう。
ぐらり、と視界が傾いた。
「あ――」
滑る。
ドレスの裾が水面を撫でる。
冷たい感触に、思わず手を伸ばした先にあったのは――月だった。
湖に映る満月の光へ、反射的に手を伸ばす。
届くはずもない光が、指先を白く照らした。
次の瞬間。
世界が、白く弾け飛んだ。
耳鳴りがする。
重力の感覚が、一瞬消えた。
足元がなくなる。
身体が空に放り出されたみたいに、ふわりと浮く。
月の光が、目の前いっぱいに広がる。
まぶしくて、何も見えない。
(なに……これ……)
思考が追いつかない。
でも、ひとつだけ分かることがあった。
さっきまで感じていた、胸の痛みも、涙の熱も――
全部、光に溶かされていく。
ぐん、と何かに引かれる感覚。
落ちているのか、昇っているのかも分からない。
ただ。
確かだったのは――
さっきまでいた世界から、私は綺麗に剥がされてしまった、ということだけだった。
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