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第3話「月光にさらわれ、森に落ちた令嬢」
しおりを挟む落ちているのか、浮かんでいるのか、それすらわからなかった。
耳鳴りといっしょに、さっきまでの世界の音が全部遠ざかっていく。
ワインの匂いも、夜会のざわめきも、デュルクの声も――何もかもが、白い光の向こう側に押し流されていく。
(ここ……どこ……)
問いは頭の中でぼやけたまま、形にならない。
やがて、ふっと重力が戻ってきた。
次の瞬間――
「っ……!」
背中を、土の硬さが容赦なく叩いた。
肺の空気が一気に押し出されて、声にならない悲鳴が喉で詰まる。
冷たい。
さっきまでいた庭園の整えられた芝生じゃない。
もっと荒くて、ごつごつしていて、湿っている。
鼻の奥に、土と草の匂いが一気に流れ込んできた。
湿った土、青くさい草、どこかで枯れた葉が腐りかけている匂い。
宮廷の庭では決して嗅いだことがない、むき出しの“外の空気”。
「……え?」
痛む身体を無理やり起こす。
背中と腰がじんじんしている。ドレスの中に土が入り込んだ感覚が気持ち悪い。
目を開けた先にあったのは――
見慣れた大理石の白い床でも、整えられた花壇でもなかった。
高い、高い木々。
幹は太く、何十年も生きてきたような風格を持っている。
枝は複雑に伸びていて、月明かりを切り刻んで、地面にまだらな影を落としていた。
葉の隙間から覗く夜空には、さっきと同じ満月が浮かんでいる。
だけど、その周りに散らばる星の形と配置が――微妙に、違う。
(星座……? こんな形、見たことない……)
小さい頃に星の名前を教えてくれた家庭教師の声が、頭の隅で蘇る。
でも、どれだけ記憶を辿っても、この空に浮かぶ線は、私の知っている星図には重ならなかった。
「ここ……宮廷の庭園じゃ、ない……?」
声に出してみても、現実感は戻ってこない。
むしろ言葉にしたことで、余計に“戻れなさ”が濃くなる。
周囲を見回す。
あるのは木々、草、茂み。人工物らしきものは何ひとつ見当たらない。
夜会ドレスの鮮やかな布地が、この場所にはあまりにも場違いで、
ひとりだけ舞台を間違ったみたいに感じる。
立ち上がろうとして、ドレスの裾が何かにひっかかった。
「あっ……」
足元を見ると、ドレスの裾が低い茂みに絡まっている。
引き抜こうと少し強く引っ張った瞬間――ビリッ、と嫌な音がした。
「ちょっ……うそでしょ……」
裾のレースが、容赦なく裂けていく。
さっきまで、宮廷の仕立て部屋でメイドたちが大事そうに広げていたドレスが、
今はただの布切れみたいに、枝に引き裂かれていく。
いくつもの細い枝が、宝石を飾った生地を容赦なく掻きむしる。
宝石だって、この森から見ればただの硬い石だ。
慌てて裾を持ち上げるが、場所が悪い。
ハイヒールは柔らかい土に埋まり、ぐらぐらとバランスを崩した。
「きゃっ――」
足首を捻りかけて、なんとか踏みとどまる。
けれど、かかとに鈍い痛みが走った。
(歩きづら……っ)
宮廷の床で映えるようにつくられた靴は、森には向いていない。
細いヒールは、ちょっとした段差や根っこでも簡単に取られそうになる。
背筋に、じわじわと不安が広がっていく。
「落ち着いて……ルシア。状況を整理するのよ」
自分に言い聞かせるように呟く。
声に出したところで、誰が助けてくれるわけでもないのに。
さっきまで、私は確かに宮廷の湖のほとりにいた。
足元が滑って、湖に映る月に手を伸ばして――
次の瞬間、光に飲み込まれた。
そして今、私は知らない森にいる。
これが夢だったら、どれだけよかったか。
でも、膝に食い込んだ小石の痛みも、頬を撫でる夜風の冷たさも、あまりにもリアルすぎる。
息が浅くなる。
胸がきゅうっと締め付けられて、呼吸がうまくできない。
「だ、だれか……」
思わず出かけた声を、途中で飲み込む。
こんな得体の知れない場所で、大声を出したらどうなるかなんて、想像しなくても分かる。
宮廷の庭みたいに、すぐ近くに衛兵がいるとは限らない。
むしろ――何か、呼び寄せてしまうかもしれない。
その“何か”が、人とは限らないことを、私も本能的に理解していた。
風が吹く。
木々がざわざわと揺れて、葉と枝が擦れ合う音が森に広がる。
その音に混じって、別の響きがした。
――グルルル……。
低く、喉の奥で鳴るような音。
獣の唸り声。
「っ……」
背筋がぞわりとした。
嫌な汗が、一気に吹き出る。
暗がりの向こうで、なにかが動いた。
茂みが揺れ、草が押し分けられる。
(やだやだやだやだ)
理性が、ぐしゃっと潰れていく。
足が勝手に動き出した。
私は、走り出していた。
ドレスの裾を乱暴にたくし上げ、ハイヒールのまま、とにかく遠ざかる方向へ。
どこから来たのかも分からないのに、ただ無意味に逃げる。
足元の根っこにヒールが引っかかる。
木の根が、土から盛り上がっているのを見落として――
「きゃっ――!」
バランスを完全に失った。
身体が前に投げ出され、地面に叩きつけられる。
ゴリ、と嫌な感触が膝を走った。
次に、焼けるような痛み。
「痛っ……!」
慌てて膝を見下ろすと、ドレスの生地が破れ、その隙間から白い肌が覗いている。
そこには赤い線が走り、じわじわと血が滲んで広がっていた。
「……うそ」
血なんて、普段ほとんど見ることがない。
侍女たちがすぐに手当てをしてくれる世界が、当たり前だったから。
だから余計に、このちいさな傷が、“守られていない”という事実をいやでも突きつけてくる。
「はぁ、はぁ……っ」
息が荒い。
肺が焼けるみたいに熱いのに、空気が足りない。
鼓動だけが、やけに耳にうるさい。
そのとき――
背後から、さっきよりはっきりした唸り声が聞こえた。
「グルルルッ……!」
振り返る勇気は、最初からなかった。
でも、気配で分かる。
“何か大きなもの”が、私を狙っている。
土を踏みしめる重い音。
草が押し分けられる音。
牙が、闇の中で静かに光るイメージが、勝手に頭の中に浮かんでくる。
(やだ……死ぬの? こんなところで?)
あまりにも理不尽すぎる。
デュルクに「感情が重い」と切り捨てられて、心が壊れたその夜の続きが、
まさか“森で獣に喰い殺されるエンド”なんて、あんまりだ。
立ち上がろうとしても、足が震えて言うことをきかない。
膝の痛みと恐怖で、身体が完全に固まってしまう。
近づいてくる足音が、ひとつじゃないことに気づく。
何匹かの獣が、一緒にこちらへ向かってきている。
逃げ場なんてあるはずもなかった。
「っ……!」
喉の奥から、変な声が出た。
情けないほど弱々しい、ひきつった息。
もう、どうしようもない。
今この瞬間、私にできることなんて――
目を閉じることくらいだった。
ぎゅっと、目を瞑る。
視界を遮ったところで、耳は相変わらず世界の音を拾い続ける。
草を踏みしめる音が近づく。
獣の唸りが、すぐ近くで鳴る。
(やだ、やだ……! 助けて……誰か……)
心の中で叫んでも、誰も答えない。
祈りは夜空に溶けて、温度も形もなくなる。
獣の気配が、目と鼻の先まで迫った――その瞬間。
「――ガァッ!」
空気が裂けるような、鋭い唸り声が響いた。
さっきまで聞いていた低い唸りとは、明らかに違う。
もっと重くて、鋭くて、喉の奥から絞り出されたような、獣の怒声。
ほぼ同時に、肉が裂ける音がした。
ズシャッ、という湿った音。
続けて、苦しげな鳴き声。
「ギャウッ!」
「グル、ル……!」
複数の声が入り乱れる。
足音が激しく交錯し、地面が揺れる。
風が、一瞬だけ鋭く頬を切った。
何か大きなものが、私のすぐそばを横切ったのかもしれない。
怖くて、目を開けられない。
だけど、聞こえてくる音だけで、今なにが起きているのかはおおよそ分かった。
――獣同士が、争っている。
しかも、その中心にいる“何か”は、明らかに他よりも強い。
低く短い唸り声ひとつで、空気の重さが変わるくらいの存在感。
草が裂ける音。
体と体がぶつかる鈍い音。
短い悲鳴。そして、急に静かになる気配。
どれくらいの時間が経ったのか分からない。
実際には、数十秒か、長くても一分ほどだったのかもしれない。
でも、私には永遠みたいに長く感じられた。
やがて。
唸り声が止んだ。
足音も、草をかき分ける音も、すべて消える。
聞こえるのは、自分の荒い呼吸と、遠くの虫の声だけ。
「……」
静寂が、逆に怖い。
獣たちは、本当にいなくなったのか。
それとも、今度は私の番なのか。
覚悟を決めるように、私はゆっくりとまぶたを持ち上げた。
視界に飛び込んできたのは――黒い影だった。
月明かりを背にしているせいで、最初は輪郭しか見えない。
でも、そのシルエットは、さっきまで私を追っていた獣たちとはまったく違っていた。
人のように二本足で立っている。
けれど、その身体つきは、明らかに人よりも大きくて、しなやかで、しっかりしている。
肩は広く、筋肉の線が衣服越しにでも分かる。
そして――頭の上には、黒い耳があった。
獣のような、尖った耳。
それが、月光を受けて、ぴくりと動く。
腰のあたりからは、長い尾が伸びていた。
なめらかな黒い毛並み。
その尾が、緩やかに空気を撫でている。
人間のものじゃない。
だけど、完全な獣とも違う。
ちらりと視線を落とせば、その足元には、さっきまで私を追っていたと思しき獣たちの亡骸が転がっていた。
大きな狼のような体躯。目を見開いたまま、動かない。
その死体に、黒い影は興味もないように視線もくれず――ただ、手を払った。
月の光が、その動きに合わせてキラリと反射する。
手の先――爪。
人間の指の形をしているのに、その先端には鋭く伸びた黒い爪が生えていた。
血がこびりついて、まだ滴を落としている。
ぞくり、と背筋を冷たいものが走る。
その黒い影が、ふとこちらを見た。
闇に慣れてきた目が、その顔の輪郭を捉える。
短く整えられた黒髪。
鋭いラインの頬と顎。
鼻筋はすっと通っていて、顔立ちだけを見れば、驚くほど整っている。
だけど、一番目を奪われたのは――目だった。
黄金色。
月光なんて比べ物にならないくらい、はっきりとした黄金色の瞳。
獣みたいな縦長の瞳孔が、じっとこちらを射抜いている。
「……っ」
息を飲む音が、やけに大きく自分の耳に響いた。
獣のような野性と、人間のような理性。
その両方が同時に存在している瞳。
その存在は、私が今まで知っている“人間”という枠にも、“獣”という枠にも、どちらにもきれいに収まらなかった。
――獣人。
頭のどこかで、その言葉が浮かぶ。
おとぎ話の中や、古い伝承の本の中でしか見たことがなかったはずの存在。
まさか、目の前に立っているなんて。
黒い耳が、かすかに動いた。
黒い尾が、少しだけゆっくり揺れる。
彼は、まっすぐに私を見ていた。
血のついた爪を、面倒くさそうに振り払いながら。
その黄金色の視線と、私の視線がぶつかった瞬間――
身体の芯が、ぎゅっと掴まれたような感覚がした。
(……なに、この人――じゃない、なに、この“なにか”)
息をすることすら、忘れそうになる。
森の闇と月光に溶け込んだ黒い影は、
まるで夜そのものが形を取って立ち上がったみたいに、そこにいた。
彼――カリオンが、ゆっくりと顎を動かし、こちらを見下ろした。
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