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第4話「黒豹の獣人カリオンと、焦がすような匂いのスープ」
しおりを挟む「……妙な格好の人間だな」
低く擦れた声が、夜気を震わせた。
月光を背負って立つ黒い影――さっき獣たちを一瞬でねじ伏せた男は、じろりとこちらを見下ろしていた。
黄金色の瞳が、私の頭のてっぺんからつま先まで、一度だけゆっくりとなぞる。
爪についた血が、まだぽたりと地面に落ちる音がする。
怖い。
怖いのに、目が離せない。
(……人間、じゃない)
頭では分かっている。
黒い耳、しなやかに揺れる尾、血に濡れた爪。
どれもが、私の知る“人間”の体ではありえない。
それでも――顔立ちは人間に近くて、瞳だけが異様なほど鮮やかで。
整いすぎた輪郭のせいで、現実感が逆に薄れていく。
「……しゃべれる、の……?」
自分でも驚くくらい、情けない声が喉からこぼれた。
黒い耳が、ぴくりと動く。
彼は少しだけ顎を傾けて、私を見た。
「ああ?」
短く返された声は、言葉の響き自体は“普通”だった。
イントネーションも、使っている単語も、私の世界で使われている共通語とほぼ一緒。
だけど、ところどころで音の伸ばし方や、間の取り方が、ほんの少しだけ違う。
外国訛り、というほど極端じゃないけれど、微妙に耳に引っかかる。
それが余計に、私の不安を煽った。
「い、今の……助けて……くれたの?」
やっとのことで出した問い。
さっきまで私を追っていた獣たちの死骸に、視線を走らせながら言う。
喉が乾いて、声が震える。
男は、面倒くさそうに肩をすくめた。
「……勝手に目の前に転がり込んできて、勝手に襲われそうになってただけだ」
正論すぎて、何も言い返せない。
「だが――放っておくと、こいつらの餌になって、あちこち荒らされる」
彼は足元の獣の死骸を軽く蹴った。
死体が土を滑って、少し離れた場所まで転がる。
「それはそれで面倒だ。だから、ついでに片付けただけだ」
「ついで……」
命の恩人だと、感謝するべきなのかもしれない。
でも、あまりにも投げやりな言い方で、戸惑いの方が先に立つ。
彼の服――黒っぽい、露骨に“軍服”と呼べるほど整ってはいないけれど、動きやすそうな丈夫な布で作られた上着には、ところどころひっかき傷が見える。
しかし本人は、ほとんど気にした様子もない。
黒い耳が、夜風を切る。
黒い尾が、無意識のうちにゆっくり揺れている。
やっぱり、何度見ても“獣”だ。
それも、黒豹のような――静かで、爆発的な動きを秘めた、そういう種類の。
「で、人間」
突然、彼の視線がぐっと近づいた。
いつのまにか、一歩分だけ距離を詰められている。
「お前、何者だ」
「ひっ」
反射的に肩が跳ねる。
黄金の瞳が、思ったよりも近くで私を射抜いていた。
瞳孔が夜目のように細くなったり、少し開いたりするのが分かる。
「貴族の匂いはする。布も無駄に高そうだ。
だが、こんな森の真ん中で、そんな役に立たない靴を履いてる馬鹿は、俺の知る限りいない」
「ばっ……!」
言ってることは正しい。
さっきまで自分でも心の中で散々ツッコんでいたところだ。
でも、初対面で馬鹿呼ばわりはどうなの、と言い返す気力はなかった。
代わりに、別の言葉が口をついて出る。
「私は……ルシア・フォン・アルセイド。大公家の……」
そこまで言って、はっとした。
ここがどこだか分からないのに、“大公家”という肩書きが通じるかどうかなんて分からない。
むしろ下手に名乗ったら、厄介ごとを呼び込むかもしれない。
でも、もう遅かった。
「……ルシア?」
男は私の名前だけを繰り返し、わずかに眉をひそめる。
「変な名だな」
「余計なお世話よ」
条件反射で返してしまった。
怖いのに、口だけが勝手に動く。
男――獣人は、一瞬だけ目を丸くしたあと、ふっと口元を緩めた。
笑った、というより、ちょっとだけ興味を示した顔。
「口は生きてるようだな」
「当たり前でしょ……!」
反論しながら、気づく。
さっきまで、胸の奥を支配していた“死ぬかもしれない”という恐怖が、ほんの少しだけ和らいでいる。
代わりに生まれたのは、「このよく分からない男はいったい何なんだ」という別種の恐怖と興味。
あれだけの獣を秒で倒しておいて、この余裕。
しかも、言葉は通じる。
そして何より――私をすぐに喰い殺そうとはしない。
それは、この状況の中では、十分すぎるほどの希望だった。
「ここは……どこなの?」
私は、震える声で尋ねた。
「どこって」
彼は肩をすくめる。
「森だろう」
「そうじゃなくて!」
そういう意味じゃない、と言う前から、涙がにじんでくるのを自分で感じていた。
「ここは、王都からどれくらい離れてるの? アルセイド大公領からは? 最寄りの街は――」
畳みかけるように質問を投げる。
すがるような気持ちで。
男は、完全に理解できないという顔で首を傾げた。
「王都?」
その一言に、心臓が嫌な音を立てた。
「“アルセイド”とかいう名も、俺は知らない」
「……え」
「ここは、ナガルの森だ。領主の名なんざ知らねえが、人間どもの境界からは離れてる。少なくとも、ここら一帯じゃ聞かねえ地名だな。
“王都”、ね……そんな呼び方の場所も聞いたことがない」
世界が、もう一度ぐらりと揺れた気がした。
(知らない……? 王都を? 大公領も?)
そんなはず、ない。
王都と大公家の名を知らないなんて、この国ではほとんどありえない。
たとえ辺境の村でも、噂くらいは届いているはずだ。
なのに、彼は“ナガルの森”なんて聞いたことのない地名を当たり前のように口にする。
私の知っている地図のどこにも載っていない、世界の端みたいな名前。
「……ここ、どこなの……?」
さっきと同じ問いが、今度はもっと小さな声で零れる。
胸が苦しくて、呼吸がうまくできない。
大公家の館も、王宮も、父も、デュルクも――全部、手の届かない遠くに置いてきてしまったみたいで。
男は、不機嫌そうに頭をかいた。
「泣くな」
「な、泣いてない」
「顔がもう、泣く寸前って言ってる」
「……うるさい」
悔しいけど、図星だった。
涙腺が崩壊するぎりぎりのところで、彼のぶっきらぼうな言い方だけが、かろうじて私を現実に繋ぎ止めている。
「それに――」
彼はちらりと、私の膝に目をやった。
「その足、放っておいたら歩けなくなる」
見られた、と気づいた瞬間、膝の痛みが急に濃くなった。
ドレスの破れ目から覗く肌は、血と泥でぐちゃぐちゃになっている。
「お前、人間だろう? この森で、一人で歩き回れるようには見えない」
「それは……」
否定できない。
宮廷育ちの令嬢が、こんな獣のいる森で生きられるわけがない。
それを、彼は一瞬で見抜いている。
「放っておけば、また別の獣に食われる。
……それはそれで、この辺りの獣が無駄に味を覚えて面倒だ」
また“面倒”を理由にした。
けれど、その「面倒くさい」の裏に、ごくわずかな“情”の匂いが混ざっている気がした。
「ついてこい、人間」
彼はそう言って、くるりと背を向けた。
「えっ……どこに?」
「俺の巣。……“隠れ家”と言った方が、お前には分かりやすいか」
「ついてこいって……簡単に言うけど」
こんな得体の知れない男について行っていいのか――という迷いが、頭をよぎる。
でも、その迷いは一瞬で消えた。
ここに、ひとりで残る未来の方が、よほど簡単に想像できてしまったから。
獣に襲われて終わり。
怖さと痛みに泣き叫びながら、誰にも知られずこの森のどこかで朽ちる。
それに比べれば、この黒い獣人の背中を追う方が、まだマシだ。
何より――さっき、彼は私を助けた。
その事実だけは、疑いようがない。
「……わかった。行く」
私はなんとか立ち上がる。
足首がぐらりとするが、彼に見られたくなくて、無理やり踏ん張った。
「ついてこいと言っただろ」
振り返りもせずに、彼はぶっきらぼうに言う。
その黒い尾が、苛立ったように一度だけ強く揺れた。
「置いてかないでよ!」
「ゆっくり歩いてやってる。文句を言うな」
口が悪い。
でも、その“ゆっくり”は、明らかに私の歩幅と怪我した足に合わせた速度だった。
暗い森の中、彼の黒い背中だけが目印になる。
月明かりをまとったその影を見失わないように、私は必死に足を運んだ。
枝がドレスを引っかく。
裾はさらにぼろぼろになり、刺繍糸もところどころ抜け落ちていく。
それでも、もうどうでもよかった。
正装用のドレスも、大公家の令嬢としての見栄えも、今は何の役にも立たない。
ただ前に進める布でさえあれば、それでいい。
やがて、木々の密度が少しずつ変わり始めた。
高い木の合間から、岩肌が覗く。
しばらく進むと、小さな崖のような岩場に辿り着いた。
その一部が、まるで誰かがくり抜いたみたいに、ぽっかりと口を開けている。
「あれは……洞窟?」
「半分だけな。岩が崩れて、いい具合に屋根になっただけだ」
彼は手慣れた様子で中に入る。
私は足元を気にしながら、恐る恐る続いた。
内部は、想像していたよりも広かった。
完全な洞窟ほど湿っぽくはなく、外気も適度に入ってくる。
岩の壁には、獣の毛皮や、干された草束が掛けられている。
そして、一番奥――岩と岩の間に作られた小さな囲いの中央には、黒くなった石が積まれていた。
焚き火の跡だ。
「座れ」
彼が顎で指し示したのは、獣の毛皮を敷いた場所。
そこだけは、多少柔らかそうに見える。
「……ありがとう」
戸惑いながらも、私はそっと腰を下ろした。
背中が壁に触れ、ひんやりとした岩の感触が伝わる。
彼は、焚き火の跡のところにしゃがみこんだ。
周りに置いてあった木片を手早く組み直し、火打石らしきもので火花を飛ばす。
しばらくカチカチと音がして――やがて、小さな火がぱち、と灯った。
それが乾いた薪に移り、焚き火が少しずつ大きくなっていく。
オレンジの光が、岩肌と彼の横顔を照らした。
さっきまで月光だけだった世界に、ようやく“色”が戻ってくる。
「……器用ね」
「慣れてるだけだ」
彼は素っ気なく答えると、奥の方から大きな鍋を引っ張り出してきた。
鍋の中には、少し前に使ったらしい水の跡が残っている。
彼はそれを簡単にすすぎ、新しい水を注いだ。
どこから持ってきたのかと目を凝らすと、洞窟の端に、自然のくぼみを利用した簡易の水溜まりがあった。
そこから木製の桶で水を汲んだらしい。
(生活してる……ここで)
当たり前のことなのに、その事実に不思議な感動を覚える。
獣人は獣人なりに、ここでちゃんと“暮らしている”。
彼は、吊るしてあった干し肉と、麻袋に入った野菜らしきものを引き寄せた。
根菜や、見たことのない形のきのこ、青い葉。
それらを、躊躇なく刻んでいく。
ナイフさばきは驚くほど滑らかで、無駄がない。
硬そうな根菜も、すっと刃が入っていく。
そして――別の革袋から、何種類かの乾燥した葉や実を取り出した。
それを手のひらで軽く揉んで砕き、鍋の上でぱらぱらと落とす。
途端に、空気の匂いが変わった。
香ばしさと、少し刺激のある香り。
鼻腔の奥をやさしく撫でるような、スパイスの匂い。
「それ……」
「香草と、乾いた実だ。匂いで腹が鳴る」
彼はどこか得意げに鼻を鳴らすと、鍋を焚き火の上にかけた。
じゅっ、と水が熱せられる音。
すぐに、ぐつぐつと小さな泡が鍋の内側に生まれ始める。
肉と野菜が転がる音がして、香りが一気に濃くなった。
さっきまで冷えて縮こまっていた体の中に、
匂いだけでじんわりと温かさが広がっていく。
その瞬間――
ぐう、と、盛大な音がした。
自分のお腹から。
「っ……!」
顔から火が出そうになった。
よりによって、今。
よりによって、この黒豹みたいな男の前で。
視線をどうしていいか分からず、私は慌てて膝を抱え込む。
その動きで膝が痛んで、余計に変な声が出た。
「……」
彼は一瞬こちらを見た。
黄金の瞳が、ちらりと私の顔とお腹のあたりを往復する。
くす、と笑うかと思った。
あるいは、「みっともない」とか「静かにしろ」とか、何か言われると身構えた。
でも、彼は何も言わなかった。
ただ、鍋の中身を木の匙でゆっくりとかき混ぜる。
「すぐできる」
それだけ。
その“何も言わなさ”が逆に恥ずかしくて、私は膝に顔を埋めた。
(そういえば、朝からまともに食べてない……)
夜会の前に少しだけ口をつけた軽食と、
緊張でほとんど飲み込めなかったワインだけ。
そのあと、デュルクとのあの会話があって、泣いて、光に飲まれて――
森を必死に走って、転んで、怯えて。
当然だ。腹が鳴るのは。
匂いが、さらに濃くなる。
焚き火の熱が、頬に伝わる。
鍋の中で、肉と野菜が踊る。
やがて、彼は火から少し鍋を離して、ぐつぐつ鳴る音を弱めた。
棚代わりにしている平たい石の上から、木でできた椀を二つ取り出す。
スープを注ぎ分け、ひとつを持ってこちらに来た。
「ほら」
目の前に差し出された椀から、白い湯気が立ち上る。
スパイスと肉と野菜の匂いが混ざり合い、私の鼻腔を直撃した。
「た、食べていいの……?」
「いらないのか」
「い、いる!」
即答だった。
自分でも引くくらい、食い気味の返事。
彼は、ふっと口の端だけで笑ったように見えたが、何も言わず椀を私の手に押し付けた。
「食え。弱い人間は、腹を満たさないとすぐ死ぬ」
「言い方……」
でも、その乱暴な言い方の中に、“食べろ”という分かりやすい善意が込められている。
私は両手で椀を受け取った。
木の器は、程よく温かい。
中で揺れるスープが、薄暗い洞窟の明かりを反射してきらきらして見えた。
表面には、わずかに油が浮いている。
でも、しつこそうな感じはない。
野菜が柔らかく煮崩れ、肉は小さく切られていて、食べやすそうだ。
そっと、口をつけた。
一口目。
「……っ」
舌に、熱と味が一気に広がった。
最初に来るのは、塩気。
でも、それはきついしょっぱさじゃない。
野菜の甘みと、肉の旨味を引き出すための、ちょうどいい加減。
次に、スパイスの香りが鼻から抜ける。
少しピリッとしているのに、じんわりと身体の中を温めてくれる優しい刺激。
とろりとしたスープが、喉を滑り落ちていく。
そこからさらに、胸の奥へ、胃のあたりへ――じわじわと熱が降りていく。
「……おいしい」
ほとんど、反射的に言葉が漏れた。
宮廷で出てくる料理は、華やかで繊細で、見た目も味も完璧だった。
何十人もの料理人が腕を競い合って作る、最高の一皿。
でも、このスープには――それとは違う“なにか”があった。
荒っぽいところもある。
具はざっくり切られていて、盛り付けも丁寧とは言い難い。
決して“洗練されている”わけじゃない。
それなのに――いや、だからこそかもしれない。
一口飲むたびに、胸の奥で固まっていた何かが、少しずつほぐれていく。
(私、今日……全部失ったのに)
大公家の令嬢としての立場も、
デュルクへの恋も、
自分の世界そのものさえ、どこかに置き去りにしてしまった。
なのに、どうして。
どうして、このスープは、こんなに優しい味がするんだろう。
気づけば、二口目、三口目と、夢中で匙を運んでいた。
野菜は柔らかくて、かむとほろりと崩れる。
肉は、驚くほど臭みがなく、噛むたびに汁がじゅわっと広がる。
舌の上で、全部がひとつに溶け合っていく。
喉を通っていく温かさが、失恋の夜でも、知らない森でも、
“まだ生きていていい”と許してくれているみたいだった。
「……っ」
視界が、また滲む。
さっきまで涙をこらえていたのに、今度は別の理由であふれそうになっている。
「おいしい……すごく……おいしい……」
言葉が震えて止まらない。
彼――カリオンは、焚き火の向こう側から、じっと私を見ていた。
自分の椀を半分ほど空にしながら。
私が涙目になっているのを見て、少しだけ目を逸らす。
「そんなに腹が減っていたのか」
照れ隠しみたいに言った。
「ち、違う……そうじゃなくて……」
声がうまく出ない。
鼻の奥がツンとして、息を吸うたびに変な音がする。
恥ずかしい。
でも、止まらない。
「ごめんなさい……すごく……おいしくて……」
手の甲で目元を拭っても、すぐに新しい涙がにじんでくる。
失恋の痛み。
裏切られた苦しさ。
世界ごと奪われた恐怖。
それら全部が、スープの温かさに触れて、ぐちゃぐちゃに混ざってしまったみたいだった。
「なんで泣く」
カリオンの声が、少しだけ困ったように低くなった。
「まずいのか」
「まずかったら、こんなに泣かない……!」
「じゃあ、黙って食え」
ぶっきらぼうな言い方なのに、その声音はどこか優しい。
焚き火がぱちぱちと音を立てる。
鍋の中で、まだスープが小さく揺れている。
さっきまで冷たかったこの世界に、
ほんの少しだけ、暖色の場所ができた気がした。
(……なに、この人)
命の恩人で。
口が悪くて。
でも、やたら料理がうまくて。
胸の奥の、もっと奥――
普段なら絶対に触りたくないような場所を、
このスープと、この男の存在が、不器用に撫でてくる。
“胃袋”から心を掴まれるって、こういうことなんだろうか。
自分の中に生まれた、よく分からない感覚に、戸惑いと少しの興味が混ざる。
私は涙を拭きながら、もう一度スープを口に運んだ。
そのたびに、世界の輪郭が、少しだけ優しくなっていく気がした。
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