恋も地位も失った令嬢ですが、転移した森で出会った獣人に胃袋を掴まれました

タマ マコト

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第5話「帰る場所のない令嬢と、森に住む黒い影」

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 次に目を開けたとき、そこにシャンデリアはなかった。

 代わりに見えたのは、灰色がかった岩肌と、そこに映る揺れる光。
 焚き火の残り火が、まだほんのりと赤く息をしていて、その明かりが天井に影を踊らせている。

 鼻をくすぐるのは、花の香りでも香水でもなく、
 燃え残った木の匂いと、少し冷えた土の匂い。

(……夢じゃ、なかったんだ)

 意識がゆっくり浮かび上がってくるにつれて、昨夜の記憶が一気に押し寄せる。
 デュルクの言葉。湖の光。落ちていく感覚。
 獣の唸り声と、黄金の瞳。
 焦がすような匂いのスープ。

 胸の奥がきゅっと縮まった。

 身体を起こそうとして――自分の格好に気づいて、固まる。

「……え?」

 昨夜まで着ていたはずの、きらびやかな夜会用ドレスは、どこにもなかった。
 代わりに、簡素だけれど動きやすそうな服が身についている。

 膝までの丈の、柔らかい布のワンピース。
 上からは、厚手の布で作られた簡易な上着が羽織らされていた。
 色は地味だけれど、縫い目はしっかりしていて、妙に身体に馴染む。

 指先を滑らせると、ところどころに見覚えのあるドレスの生地が混じっている。
 胸元の装飾の一部や、袖口のレースが流用されていて、かろうじて“元・令嬢の服”の面影を残していた。

「……これって、もしかして」

「ようやく起きたか、人間」

 不意に、洞窟の入口の方から声がした。

 振り返ると、逆光気味の朝日を背負って、黒い影が立っている。
 黒い耳と、しなやかに揺れる尾。
 見間違えようもない――黒豹の獣人、カリオンだ。

 彼は片手に獲物らしきものをぶら下げ、もう片方の手で軽く頭を掻いた。

「その服、文句はあるか」

「文句って……これは……」

「昨日のあれは、森を歩くには邪魔すぎる」

 あれ、って私のドレスのことだ。

「枝に引っかかるわ、裾は重いわ、何かあったら逃げられないわで……あんな役立たずの布、森に持ち込むもんじゃない」

「役立たずって言わないで……!」

 思わず抗議する。
 あれは宮廷の仕立て屋が総力を挙げて作ってくれた、私のお気に入りのドレスだったのに。

 けれど、すぐに気づく。
 そのドレスの一部が、今の服の細部にちゃんと縫い込まれていることに。

「それ……あなたが?」

「他に誰がいる」

 そっけなく返される。

「寝ている間に、ナイフで切った。
 全部捨てるのは惜しかったから、動きやすい形に繋ぎ直しただけだ」

 彼は、まるで「壊れた道具を直した」とでも言うような口調で言った。
 でも、その雑な説明の裏に、夜の間縫い仕事をしていた姿が透けて見える。

 黒豹の獣人が、夜なべして令嬢の服を仕立て直す――
 想像して、変なところがじんわり熱くなった。

「……ありがとう」

 悔しいけど、そう言うしかなかった。

 カリオンは特にこちらを見ず、ぶら下げていた獲物――小さめの角のない獣――を壁際に置いた。

「感謝は、ちゃんと歩けるようになってから言え」

「う……」

 ぐうの音も出ない。

 膝に視線を落とすと、昨夜擦りむいたところには、簡単な包帯が巻かれていた。
 血は止まっていて、痛みもだいぶ引いている。

(手当てまで……誰がしたのかは言うまでもないけど)

 じんわりと胸の奥がくすぐったくなるのを、首を振って誤魔化す。

 カリオンは焚き火の前に腰を落とし、残っている炭に新しい薪を足した。
 火花が舞い上がり、炎が再び元気を取り戻す。

 しばらく、パチパチと木がはぜる音だけが洞窟に満ちた。

 沈黙が苦しくて、私は思い切って口を開いた。

「あの……」

「なんだ」

「昨日のことなんだけど……私、王都に戻りたいの」

 出した瞬間、自分の声の震えに気づく。
 “戻りたい”──その言葉に、自分自身が縋りついている。

「王都から、ここまでどれくらいかかる? 馬車なら何日くらい?」

 カリオンは、薪を組み直す手を止めた。

 黄金色の瞳が、ゆっくりとこちらを向く。
 さっきまで炎を見ていたせいか、少しだけ赤みを帯びているように見えた。

「昨日も言ったが――」

 彼は奥の方から、布で包まれた何かを引っ張り出した。
 布をほどくと、中からは粗く描かれた地図が現れる。

 羊皮紙のような材質に、この世界の輪郭が黒いインクで書き込まれていた。
 森、川、山、いくつかの町と思しき印。

「どれだけ眺めても、“王都”なんて名は挙がってこない」

 彼は地図を広げ、焚き火の明かりのもと、私の前に放った。

「……見ろ」

 私は地図を覗き込む。

 知らない地名ばかりが並んでいる。
 ナガルの森。ローヴァン山脈。ファラの谷。
 どれも、聞いたことのない名前。

 私の知っている王国地図の上には存在しない場所ばかりだ。

「ここが、今いる森のあたりだ」

 カリオンは指先で地図の一角を軽く叩いた。
 少し濃い緑で塗られた部分。

「ここから北に行けば人間の街がある。南は魔物の巣が多い。西は山、東は……まあ、いろいろだ」

「いろいろって」

「全部説明する気はない」

 相変わらず雑だ。

「で、“王都”とやらは、どこだ」

 カリオンは、地図の上を指でなぞりながら問いかける。

 私は、震える手で王都の位置を探そうとして――すぐに止まった。

 探しようがない。
 そもそも、この地図に、私の知っている地形が一つもないのだ。

「……ここに、ない」

 かろうじて出た声は、自分でも知らないほど薄かった。

「アルセイド大公領も……国境も……何も」

 目が、勝手に文字を探す。
 “王都”でも、“王都に相当しそうな華やかな名前”でも。
 でもどこにも、それらしい記述はなかった。

 吐き気みたいな感覚が、喉元までせり上がってくる。

「ねえ、カリオン」

「なんだ」

「ここって……本当に、私の知ってる国のどこかじゃないの?」

「さあな」

 彼は肩をすくめる。

「俺は地平の向こうの世界なんざ知らんが……少なくとも、この一帯に“王都”も“アルセイド”もない」

 あまりにもあっさりと告げられる現実。

 その一言で、心のどこかに残っていた最後の希望の糸が、ぷつんと音を立てて切れた気がした。

「……じゃあ」

 口が、勝手に動く。

「私……もう、帰れないの?」

 誰に向かっての問いか、自分でも分からなかった。
 カリオンに、というより、ここにいない誰か――世界そのものに問いかけているみたいだった。

 カリオンは、少しだけ黙った。

 軽々しく「帰れる」と言うタイプではないことくらい、昨夜一晩で分かっている。
 それでも、何か一言、救いになりそうな言葉を期待してしまう自分がいる。

 だけど、彼の口から出たのは、やはり現実だけだった。

「少なくとも、俺にはその方法は知らん」

 簡潔で、残酷で、正直。

 それが決定打になった。

 喉の奥から、変な音が漏れた。

 嗚咽にもならない、擦れた息。

「……っ、ぁ」

 視界が一瞬で滲む。
 地図の上の文字が全部ぼやけて、黒いインクの染みみたいに見える。

 失恋も、裏切りも、その痛みを抱えたまま落ちてきた異世界も。
 それでもどこかで、「全部夢で、いつか目が覚めたら元の世界でベッドにいるんじゃないか」なんて、甘い期待を握りしめていた。

 その期待が、今、完全に粉々にされた。

「いやだ……」

 声が震える。
 言葉にならない音が、喉の奥で行き場を失って震えている。

「私……全部失ったのに……帰る場所までないなんて……」

 大公家の館も。
 慣れ親しんだ部屋も。
 たまにだけ時間をくれた父の背中も。
 そして、あんな終わり方をしてしまったとしても、かつて憧れたデュルクのいる王宮も。

 全部、手の届かない世界になってしまった。

「うっ……ぐ……」

 堰が切れたみたいに、涙があふれ出た。

 大公家の令嬢として、泣き顔を見せないように訓練してきたはずなのに。
 こんな場所で、こんな格好で、こんな醜い声を漏らすなんて、昔の自分が見たら卒倒しそうだ。

 でも、もう止まらなかった。

 帰りたい。
 帰れない。
 捨てられた。
 必要とされない。
 全部混ざって、ぐちゃぐちゃになって、涙と一緒に流れ出ていく。

「あー……」

 頭上から、困ったような声が落ちてきた。

「泣くな、人間。うるさい」

「うるさいって何よ……!」

 しゃくりあげながら怒鳴る。
 でもその反論さえ、ぐずぐずで説得力がない。

 カリオンは、ほんの少しだけ眉を寄せたあと、洞窟の奥にある小さな棚から何かを取り出した。

 そして、焚き火のそばでそれを手早く温める。

 しばらくすると、ふわりと優しい香りが広がった。
 昨夜のスープほど強くはないけれど、どこか懐かしい匂い。

「ほら」

 差し出されたのは、小さな木のカップ。

 湯気が立ち上り、その上を薄く茶色い香りが漂っている。

「……なに、これ」

「葉っぱを煮たやつだ。飲むと少し落ち着く」

「……薬草?」

「そういうのも入ってる。毒は入れてない」

「当たり前でしょ」

 涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま受け取る。
 木のカップは、手のひらに優しく温かい。

 そっと口をつける。

 ほんのり苦くて、少しだけ甘い。
 喉を通ると、胃のあたりがじんわり広がる。

「……おいしい」

「昨日からそれしか言ってねえな、お前」

 呆れたように言いながらも、彼の声は昨日より少し柔らかかった。

 カップを両手で包み込むように持ちながら、吸い込む息が少しずつ整っていく。

 泣き続けていると、自分でも思考が泥みたいになっていくのが分かる。
 でも、このお茶の温度が、なんとかその泥をかき混ぜてくれている。

「……私」

 絞り出すように言う。

「本当に……どこにも、帰る場所がないんだ」

「家があるだろう」

「“あった”の。
 でも、そこにも、もう私の居場所はない」

 カップの中の液面が、わずかに揺れる。
 涙が一滴落ちたのかもしれない。

 ぽつり、ぽつりと、言葉が零れていく。

「私、大公家の一人娘で。
 ずっと“家の顔”として、ちゃんとしてなきゃいけなくて。
 王宮でも、いつも“アルセイド大公家の令嬢”としてしか扱われなくて」

 父の期待。貴族たちの視線。
 礼儀作法。微笑みの角度。
 全部、肩書きの上にのっていた。

「それでも……私、信じてたの。
 ただ一人くらい、ちゃんと“私”を見てくれてる人がいるって」

 デュルクの横顔が、脳裏に浮かぶ。
 冷たくなってしまった最後の表情まで、鮮明に。

「でも、違った。
 私のこと、大公家の令嬢としてしか見てなくて。
 “感情が重い”って言って……他の縁談を選んで……」

 言葉にするたび、胸の奥の傷口がズキズキ痛む。
 こんな話、見知らぬ獣人にするものじゃないのかもしれない。

 だけど、止まらなかった。
 吐き出さないと、もう心のどこかが壊れてしまいそうで。

「だから、私は……“捨てられた”の」

 最後の一言は、ほとんど囁きだった。

 大公家の令嬢として、その言葉はあまりに惨めすぎて。
 でも、それが一番近い表現だった。

 沈黙が落ちた。

 焚き火の音だけが、やけに大きく聞こえる。

 カリオンはしばらく何も言わなかった。
 その黄金色の瞳が、じっと私を見ている気配だけが伝わってくる。

(ああ、言いすぎたかな)

 後悔がじわじわ湧いてくる。
 彼にとっては、貴族だの宮廷だの、どうでもいい話かもしれないのに。

 ――けれど。

「……捨てられた、ね」

 低く、小さなつぶやきが返ってきた。

 その声には、さっきまでの軽さがなかった。
 何かを噛みしめるような、重たい響き。

 カリオンはゆっくりと息を吐き、目を細める。

「貴族だの、宮廷だのは、正直どうでもいい」

「でしょうね……」

「だが、“捨てられた”って言ったところだけは、耳に残った」

 黄金の瞳が、少し鋭くなる。

「そいつは……バカな男だな」

「……え?」

 思いがけない言葉に、涙がぴたりと止まる。

 カリオンは、ほんの少しだけ口角を上げた。
 焚き火越しに見えるその表情は、皮肉半分、本気半分。

「うまい飯も作れないくせに、いい女を捨てるとは」

「っ……!」

 カップを持つ手がぶるっと震えた。

「い、いい女って……誰のことよ」

「他に誰がいる」

「いないけど!」

 即座に否定したのに、自分で言ってから余計に恥ずかしくなる。
 顔が一気に熱くなるのが分かった。

「わ、私のどこが“いい女”なのよ。
 ドレスはボロボロだし、森も歩けないし、すぐ泣くし……!」

「そうやって、自分で自分を下げるところは“いい女”じゃないな」

「じゃあ違うじゃない!」

「でも、泣きながらも立とうとするところは嫌いじゃない」

 さらっと言われて、言葉が詰まる。

 心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
 さっきまで重かった鼓動が、違う意味でうるさくなっていく。

(なに、それ)

 初対面どころか、“昨日会ったばかり”の獣人に、そんなふうに評価されるとは思っていなかった。

 カリオンは続ける。

「森も知らない。火もまともに扱えない。
 獣に襲われれば、目をつぶって固まる。
 弱い」

「そこまで言う……?」

「だが、折れてはいない」

 その一言だけは、やけに優しく置かれた。

「普通の人間なら、そんなにあっさり捨てられたら、もっと壊れてる。
 お前は、壊れそうになっても、まだ“どうにかしたい”って顔をしてる」

「してない」

「してる」

 言い切られる。

 そんなふうに見られていたのかと思うと、恥ずかしくて、でも少しだけ救われる。

 自分では、“もう何も信じられない”と口にした。
 でも、完全に諦めきれていないのも、事実だったのかもしれない。

 カリオンは立ち上がり、焚き火の上に鉄串を渡した。
 先ほどの獲物の一部を手際よく切り分け、串に刺して火にかざす。

「しばらくは、ここで生きることになる」

 ゆっくりと動く尾が、彼の言葉と同じリズムで揺れる。

「この森で生きるには、覚えなきゃならないことが多い」

 火の起こし方。
 薪の選び方。
 毒のある実の見分け方。
 獣の足音と、風の音の聞き分け方。

 彼が口にする一つひとつが、私には“未知”の世界の知識だった。

「泣いている暇があるなら、火の起こし方を覚えろ」

 最後に、軽く突き放すような言い方でそう告げる。

 でも、その“突き放し方”の中に、はっきりとした誘いがあった。

 一緒に、生き方を覚えろ、と。

 すぐには返事ができなかった。

 だって――それは、ある意味で“この世界で生きることを受け入れる”という宣言になってしまうから。

 元の世界に戻れないかもしれないという恐怖と、
 戻りたくない場所もあるというわがままと、
 この見知らぬ森で、見知らぬ獣人と生きていくことへの不安と。

 いろんな感情が、喉の奥でつっかえていた。

 でも。

 煌びやかな大広間も、
 冷たい石造りの王宮も、
 肩書きと評価に縛られたあの日々も。

 二度と戻らないのだとしたら。

 今、目の前で焚き火の上に肉をかざしている黒い影と、
 この半分洞窟みたいな荒っぽい住処と、
 土と煙の匂いが混ざるこの場所こそが――

 私にとっての“現実”なんだ。

 カップを、ぎゅっと握る。

 涙の跡で濡れた頬を、手の甲で乱暴に拭った。

「……教えてください」

 自分でも驚くくらい小さな声だった。
 でも、その小さな声の中に、自分の中で一番大事なものを全部詰め込んだつもりだった。

「火の起こし方も、森の歩き方も。
 ここで、生きるためのこと……全部」

 カリオンは、少しだけ目を丸くした。

 すぐに、それがいつものぶっきらぼうな表情に戻る。

「仕方ねえな」

 言葉とは裏腹に、その声はどこか楽しそうだった。

「じゃあまず、薪の組み方からだ。
 お前、昨日から焚き火に頼りっぱなしだしな」

「昨日は死にそうだったの!」

「今日も似たようなもんだ」

「ひどい!」

 思わず言い返すと、カリオンはほんの一瞬だけ、口元で笑った。

 焚き火の火が、その笑みの輪郭を柔らかく照らす。

 こうして――
 大公家の令嬢と、森に住む黒豹の獣人の、奇妙で不釣り合いな共同生活が静かに始まった。

 帰る場所を失った令嬢の新しい“居場所”は、
 思っていたよりもずっと、土くさくて、煙たくて、あたたかかった。
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