恋も地位も失った令嬢ですが、転移した森で出会った獣人に胃袋を掴まれました

タマ マコト

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第6話「火おこしと包丁の持ち方から始まる再スタート」

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 その日から、本当に“再スタート”が始まった。

「まずは、火だ」

 朝の空気はひんやりしていて、洞窟の入口から吹き込む風が肌を撫でる。
 カリオンは、いつものようにぶっきらぼうな声で言った。

「ここじゃ、火を扱えない奴は生き残れない。飯も食えないし、夜に凍える」

「火……」

 王宮の暖炉の前で、飾りのように座っていた自分が頭をよぎる。
 あのときは、暖炉の火は“眺めるもの”でしかなかった。

 今は――“生きるために必要なもの”なんだ、とやっと実感する。

「これが火打石だ」

 カリオンが見せてきたのは、少し黒みがかった石と、その相棒の金属片。
 どちらも、握りやすいように角が削られている。

「こっちを持って、こっちをこう。石を擦って火花を飛ばす。
 その火花を、この乾いた草に落とす」

 足元には、細かくちぎられた草や木の皮が小さな山になっていた。
 昨日集めた薪を割ったときに出た、乾いた繊維。
 これが火種になるらしい。

 カリオンは実演して見せる。
 火打石と金属をカチ、と鋭い音でぶつけると――瞬間、白い火花が散った。

 火花が、乾いた草に吸い込まれるように落ちる。
 数度繰り返すうちに、草の一部がじわっと赤くなり、煙が上がった。

「ここからは、息だ。強くじゃない。優しく、包むように」

 彼は顔を近づけ、そっと息を吹きかける。
 頬がわずかに動く程度の、柔らかい呼気。

 赤い点が、ふっと広がる。
 炎が小さく生まれ、草に移り、ぱち、と音を立てて燃え上がった。

 その炎を、小枝へ、さらに太い薪へと移していく。
 あっという間に、焚き火が形になった。

「……簡単そうにやるわね」

「慣れだと言っただろ」

 私は、ごくりと唾を飲み込む。

(やると言ったのは、私だ)

 泣いている暇があるなら覚えろ、と言われて。
 “教えてください”と返したのは、間違いなく自分だった。

 逃げるわけにはいかない。

「やってみろ」

 火打石と金属片が、私の手に渡される。
 思っていたよりも重みがある。

 火打石を左手に、金属片を右手に持ち替えて、さっき見た通りに構える。

(こう、だったはず)

 恐る恐る、カチ、と擦る。

 火花は――出た。
 出たけど、軌道がずれて、乾いた草の手前で消える。

「あっ……」

「狙いが甘い。もっと近づけろ」

 カリオンの短い指示が飛ぶ。

 もう一度。
 火打石を持つ角度を少し変え、強めに擦る。

 パチッ。

 火花は勢いよく散ったけれど、今度は強すぎて、草の山を飛び越えた。

「いや、飛ばすな」

「む、難しい……!」

「手元を見すぎるな。狙うのは火花じゃなくて、“ここに落ちろ”って場所だ」

 言われている意味はよく分からない。
 でも、一回でできるとは思っていない。

 何度も、何度も、火打石を擦る。
 手のひらが少し痛くなる。
 火花だけは立派に散るのに、肝心の草にはなかなか火が入らない。

「ちょっと休んだらどうだ」

「やだ」

 即答だった。

 カリオンが、目を細める。

「意地になっても火はつかねえぞ」

「でも、ここで諦めたら……きっと、また何も変わらない気がするから」

 自分で言って、自分で少し驚く。
 そんなことを口に出せるほど、私は素直だっただろうか。

 でも、あの夜から何かが変わってしまったのは確かだ。

 デュルクに捨てられ、世界からも切り離されて。
 今、私の目の前にあるのは、この火打石と、カリオンと、森だけ。

 ここで火も起こせないまま終わったら、本当に、“何もできないままの飾り”で終わる。

「もう一回」

 深呼吸をして、握り直す。
 今度は、火打石と金属片の距離をぎりぎりまで近づけた。

 カチッ。

 白い火花が、さっきよりも低い軌道で散る。

 乾いた草の端に――触れた。

 じわ、と微かに赤い点が灯る。

「……!」

「そこだ。息を吹きかけろ」

「ふ、ふぅ……っ」

「強すぎる。飛ばしたいんじゃない、“育てたい”んだ」

 カリオンの声が、頭のすぐ上で聞こえる。
 いつの間にか、彼は私のすぐ後ろに立っていて、肩越しに火種を覗き込んでいた。

 近い。
 黒い耳が、視界の端でふわっと揺れる。
 彼の体温が、背中越しに伝わってきて、心臓が余計にうるさくなる。

(落ち着け、私。今は火)

 意識を、目の前に集中させる。

 慎重に、そっと息を吹きかけた。
 草の赤い点が、ふわりと広がる。

 もう一度。
 今度はさっきよりも少しだけ強く。

 ぱっ、と炎が上がった。

「ついた……!」

 自分の声が弾む。
 カリオンも、短く「おう」とだけ返した。

「これを小枝に移せ。慌てるなよ。火は急に太い薪に移してもすぐ消える」

 言われた通り、小枝を炎にかざす。
 枝の先に火が燃え移る瞬間、胸の奥で何かが同時に灯る気がした。

(私でも、できた)

 たったこれだけのことなのに、涙が出そうになる。

 今まで、何もかも“与えられる側”だった。
 暖炉の火も、料理の皿も、温かい毛布も。
 誰かが用意したものの中に、ただ座っていればよかった。

 自分で火を起こしたのは、生まれて初めてだ。

「ふふ……」

 気づいたら、笑っていた。

「なんだ、その顔」

「え? どんな顔?」

「ずいぶん、楽しそうだ」

「だって、嬉しいもの」

 素直に言えば、カリオンは一瞬だけきょとんとした。

 すぐに小さく鼻を鳴らし、焚き火に適した薪を足していく。
 炎は、しっかりと形を保ち始めていた。

「火は、味方にも敵にもなる。
 扱いさえ覚えれば、夜でも寒くないし、獣もある程度は避ける。飯も作れる」

「私、ようやく“人間”になれた気がする」

「人間だったのは最初からだろ」

「……うん、まあ、そうなんだけど」

 自嘲気味に笑うと、カリオンはじっとこちらを見た。

「火が起こせる人間は、“ただの飾り”じゃない」

 何気ないように言ったその一言が、妙に深く胸に落ちる。

 “飾りじゃない”――その言葉が、じゅっと心の奥に染み込んでいくのを感じた。

 *

 火の次は、薪集めだった。

「見ろ」

 カリオンは森の中を歩きながら、足元に転がる枝や葉を示していく。

「こういう濡れた枝は駄目だ。夜露を吸っている。燃えにくいし、煙ばかり出る」

「じゃあ、どれならいいの?」

「音で分かる」

 そう言って、彼は一本の枝を拾い、軽く折ってみせた。
 パキン、と乾いた音。

「こういう音がするのが、よく乾いた枝だ」

「音で……」

 私も、見よう見まねで枝を拾う。
 握った感触が、さっきカリオンが拾ったものと違う気がした。

 折ってみる。

 ぐにゃ、と曲がるだけで、折れない。
 音も、湿っていて鈍い。

「それは駄目だな」

「やっぱり……」

「何本もやって、手で覚えろ。目で選ぶ前に、指先で選べ」

 言うことは乱暴だけど、教え方は意外と丁寧だ。

 それからしばらく、私は枝を拾っては折り、捨てては拾い直す作業をひたすら続けた。
 手のひらに小さな擦り傷が増えていくけれど、気にならない。

 時々、カリオンが私の拾った枝をチェックして、「これは良い」「これは駄目」と判定を下す。
 少しずつ、“いい枝”の割合が増えていく。

「お前、案外しぶといな」

 ふいに、そんな言葉が落ちてきた。

「しぶといって……褒めてる?」

「褒めてる」

 即答だった。

「最初の一時間で泣いて投げ出すかと思ってた」

「そんな信用のなさだったの、私」

「ああ。貴族の娘なんて、手が汚れる前に悲鳴を上げるもんだと思ってた」

「偏見がすごい!」

 文句を言いつつ、胸のどこかでちょっと誇らしくなる。

「でも、お前は指を擦りむらせても、枝を折るのをやめなかった」

「……やめたら、きっと怖くなるから」

「何が」

「何もできないまま、ここにいる自分が」

 自分の口から出た言葉に、自分で少し驚く。
 でも、それが本心だった。

「大公家の令嬢だったときは、“できないこと”があっても許された。
 それが“当たり前”だったから。
 でもここじゃ、それはただの足手まといでしかない」

 枝を一本握りしめる。
 乾いた音が、指先に伝わる。

「だから、せめて……火くらい起こせるようになりたい。薪くらい、自分で選べるようになりたい」

 その気持ちは、意外なほどまっすぐだった。

 カリオンは、しばらく何も言わなかった。

 森の風と、枝の折れる音だけが続く。

「……そういうのを、“しぶとい”って言うんだろうな」

 やがて、ぽつりと呟く。

「弱いのに、諦める気配がない。
 それは、森じゃ案外嫌われない性質だ」

「“案外”って何よ」

「全部は好かれないって意味だ」

「正直すぎる」

 でも、少しだけ笑ってしまう。
 こんなふうに、肩書き抜きで評価されたことなんて、今までなかった。

 *

 薪集めを終えたあとは、料理の手伝いだった。

「包丁は持ったことあるか」

「ないとは言わないけど、“触れたことはある”くらい」

「それは“ない”だ」

 即、切り捨てられる。

 洞窟の奥から取り出されたのは、しっかりした刃を持つ一本の包丁。
 鍛冶屋が作ったのだろうか、刃先に無駄な装飾はないが、よく研がれている。

「まず、握り方からだ。柄を掴むんじゃない。“添える”」

「添える……?」

 言われるまま、柄を握ろうとして――すぐに手首を軽く叩かれた。

「力が入りすぎ。刃が暴れる」

「じゃあ、どうやって」

「こうだ」

 背後に気配が回り込む。

 次の瞬間、私の手に、別の手が重なった。

「――っ」

 包丁の柄に添えた自分の指の上から、カリオンの大きな手がそっと被さる。
 手のひらが、私の指と柄をまとめて包み込むように。

 背中と彼の胸の間に、半歩分の距離。
 それでも、体温と鼓動が、うっすらと伝わってくる。

(近い、近い、近い……!)

 頭の中で警報が鳴る。
 でも、逃げるわけにもいかない。包丁を持っているから、変に動く方が危ない。

「柄を握りつぶす必要はない。
 中指と薬指で支えて、親指と人差し指で“挟む”。
 刃の重さを感じろ」

 耳のすぐ近くで、低い声が落ちる。
 息が、かすかに耳朶をかすめてくすぐったい。

 言われた通りに意識を向けると、包丁が不思議と安定した。

「手首で振るんじゃない。肘から、肩から。
 こうやって――」

 カリオンの手が、私の手を導いて動く。

 トン、とまな板の上に刃が落ちる。
 切る、というより、重さで落とす感覚。

 硬めの根菜が、すぱっと切れていく。

「な、できるだろ」

「これは……私の力?」

「半分は俺」

「やっぱり!」

「でも、感覚は覚えただろ。あとは一人でやれ」

 カリオンの手が離れる。
 急に風通しがよくなったみたいに、背中がスースーする。

 さっきまで感じていた体温が消えたことに、安堵と物足りなさが同時にやってくる。

(何考えてるの、私)

 自分で自分にツッコミを入れつつ、包丁に集中する。

「ええと……こう、ね」

 さっき教わったとおりに、柄に指を添える。
 肘から動かす感覚で刃を落とす。

 トン、トン、トン。

 最初は切るたびに厚さがバラバラだったけれど、何度も繰り返すうちに、少しずつ揃ってきた。

「悪くない」

 カリオンが横から覗き込みながらぼそりと言う。

「想像してたより、手が震えてない」

「震えたら危ないって言われたし」

「言わなくても分かるだろ、普通」

「普通が違うのよ、こっちは」

 言い返しながらも、心の奥がじんわり温かい。

 “悪くない”という評価だけで、こんなにも救われる日が来るとは思っていなかった。

「それにしても……」

 ふと、疑問が浮かぶ。

「あなた、本当に何でもできるのね。
 狩りも、裁縫も、料理も、火も」

「生きるのに必要だからな」

 即答だった。

「俺には、大公家も王宮もない。
 誰かが用意してくれるものなんて、最初から何もなかった」

 さらりと言われたその言葉に、どこか胸がざわつく。

 “何もない”ところから、自分の手で全部作ってきた人。
 私とは、あまりにも違う。

 だからこそ、今の私には眩しく見える。

「……私も、そうなれるかな」

「どういう意味だ」

「自分の手で、ちゃんと生きられる人に」

 ぽつりと漏らすと、カリオンは少しだけ目を細めた。

「さあな」

 期待した返事は返ってこない。

 だけど、その代わりに――
 彼は、いつもよりほんの少しだけ優しい声で付け足した。

「とりあえず、指を切らずにその山を全部刻めたら、“一歩目”ってことにしてやる」

「ハードル低いんだか高いんだか分からない!」

 そう言いながらも、包丁を握る手には、さっきより確かな力が宿っていた。

 *

 日が落ちる頃には、身体中がだるかった。

 慣れない動きの連続。
 薪運びで腕はパンパン。
 包丁作業で肩も重い。

 それでも、不思議と嫌な疲れではなかった。

 森の虫の声が、じりじりと夜の到来を告げる。
 焚き火の炎が、洞窟の中を柔らかく照らしている。

 鍋の中では、今日もスープが静かにぐつぐつと音を立てていた。
 午前中に自分で起こした火が、その下でちゃんと燃えているのが嬉しい。

「はい」

 カリオンが木の椀を差し出してくる。
 今日は、私が刻んだ野菜もたっぷり入っている。

 椀を受け取り、一口すすった。

 昨日とは違う味だ。
 同じ肉と野菜のスープなのに、何となく塩加減も香りも違って感じる。

「……あ」

「まずいか」

「ううん。昨日より……ちょっとだけ、優しい味がする」

「何だそれは」

「分からない。でも、そう感じるの」

 私の言葉に、カリオンは一瞬だけ笑いそうになって、すぐに表情を引っ込めた。

「お前が手伝ったからだろ。
 自分で刻んだ野菜は、うまく感じるもんだ」

「そういうもの?」

「そういうものだ」

 焚き火のぱちぱちという音。
 虫の声。
 遠くで、夜鳥の鳴き声が一度だけ響く。

 静かな夜の音が、スープの温かさと一緒に胸に染み込んでいく。

 椀を抱えたまま、私はふと、口を開いた。

「ねえ、カリオン」

「なんだ」

「ここで、生きていけるようになったら……」

 一息置く。

「私は、“誰かの飾り”じゃなくなれるのかな」

 王宮で、いつも並べられていた絵画や花瓶と同じように。
 “いると場が華やぐ”以上の意味を持たなかった自分。

 あの世界ではずっと、“飾りとしての価値”だけで測られていた気がする。

「火も起こせるようになって。薪も選べるようになって。
 包丁も、もう少しマシに扱えるようになったら……」

 言葉が、少し震えた。

「私は、ちゃんと“私”でいられるのかな」

 問いかけというより、自分自身への願いだった。

 カリオンは、すぐには答えなかった。

 焚き火の炎が彼の横顔を照らし、その影が揺れる。
 黄金色の瞳は、鍋の奥を見ているのか、それとも私の心の中を覗いているのか分からない。

 沈黙が少しだけ続いたあと――
 彼は、何も言わずに私の椀に手を伸ばした。

「え?」

 空になりかけていたスープを受け取り、鍋からたっぷりとおかわりを注ぐ。

 そして、それをまた私に返してきた。

「……答えは?」

「腹を満たしてから考えろ」

「そこ?」

「飾りがどうとか言うのは、そのあとでも遅くない」

 ぶっきらぼうで、雑な答え。

 でも。

 椀を持った手の中で、スープがとろりと揺れる。
 その匂いだけで、さっきまで少し沈みかけていた心が、また温かくなる。

(……そうかも)

 お腹が空いているときに考えたことって、だいたい暗い結論になる。
 満たされているときの方が、少しだけ前向きになれる。

 宮廷の心理学者が聞いたら苦笑しそうな単純さ。
 それでも――今の私には、それで十分な気がした。

「……じゃあ、今は食べる」

「そうしろ」

 スープを口に運ぶ。
 今日一日の疲れと、少しずつ増えていく“小さなできること”が、
 全部溶け込んだような味がした。

 焚き火の向こうで静かに座る黒い影は、
 相変わらず不器用で、言葉が足りなくて、
 それでも――私の“再スタート”に、確かに付き合ってくれている。

 飾りだった令嬢の指先に、火の温度と、包丁の重さと、薪の感触が刻まれていく。

 それは、小さくて地味で、だけど確かな、“生きる技術”だった。
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