恋も地位も失った令嬢ですが、転移した森で出会った獣人に胃袋を掴まれました

タマ マコト

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第11話「デュルクとエリセ、損得で探しに来た二人」

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 王都に、冬の気配が降りてきていた。

 高い塔の先端に積もる雪はまだわずかだが、石畳を這う風は冷たく、王城の回廊を通るたびに、骨の芯まで冷やされるような感覚がする。

 その冷たさは、外気だけのせいじゃなかった。

「……大公家から、また書状が来ています」

 第二王子付き執務室の扉を叩いた文官が、伏し目がちに告げた。

「“娘の捜索に、王家はどこまで責任を持つつもりか”……だそうです」

 机の上に置かれた書状には、見慣れた家紋が押されていた。
 月と剣を組み合わせた、アルセイド大公家の紋。

 デュルク・ヴァレンツは、その紋章を見た瞬間、ごくりと喉を鳴らした。

「またか」

 短く吐き捨てる。
 けれど、その声には焦りが滲んでいた。

 ルシア・フォン・アルセイド失踪から、すでに数ヶ月が経っていた。

 王都中の騎士団が総動員され、近郊の森も川も、古い地下通路までも捜索された。
 目撃情報は錯綜し、偽情報も飛び交った。
 “攫われた”“駆け落ちした”“身投げした”――好き勝手な噂も、街の隅々まで広まっていた。

 だが結局、ルシア本人は見つからなかった。

 デュルクの肩書きは「第二王子の側近」だが、今、その名前の後ろには別の言葉がまとわりつく。

 ――大公家の令嬢を失踪させた男。

 誰一人口には出さない。
 だが、視線がそう言っていた。

「失踪の前夜、最後に一緒にいたのはお前だろう?」

「テラスで何を話した?」

「口論だったという噂だが」

 それが全部真実に触れているぶん、否定の余地がなかった。

(“感情が重いんだ”なんて、言わなければよかったか?)

 ふと、あの夜の自分の言葉が頭をよぎる。

 テラスに立つルシアの姿。
 月光を受けた横顔。
 眼差しの奥に、いつもより濃く沈んでいたなにか。

 けれど、デュルクはすぐに、その記憶を切り捨てた。

(違う。あれは間違ってなかった)

 ルシアの感情は、たしかに彼にとって重すぎた。
 大公家の令嬢として、完璧に振る舞うことを求められ続けてきた彼女の“本当”は、時折、彼の想定を超えてくる。

 あの夜もそうだ。

『私たちは、これからどうなるの?』

 まっすぐな視線と、まっすぐな問い。

 それは、政治的な駆け引きや、家同士の損得勘定で塗り固められた世界からすれば、あまりにも“生々しすぎる本音”だった。

(あのまま“うん”と言っていれば、俺は大公家と正式に繋がった。
 だが――)

 今、彼の隣にいるのは、別の令嬢だ。

「また大公家から?」

 執務室の隅に座っていた女が、静かに口を開く。

 淡い桃色のドレス。
 膝の上で重ねた指先には、繊細な宝石の指輪。
 顔立ちは柔らかいが、その瞳の奥には計算高い光が揺れている。

 侯爵令嬢、エリセ・ローレン。

 今や、デュルクの婚約者候補として、王宮の誰もが認識している女だ。

「ああ。今度は“王家が捜索に本気かどうか”を疑っているような文面だ。」

 エリセは文官から書状を受け取り、躊躇なく封を切った。
 さらりと目を走らせる。

 眉が、わずかに動く。

「“まさか、私的な感情問題を隠蔽するために、捜索の手を緩めているのではないか”……」

「……っ」

 デュルクの喉がひくりと動いた。

 文面は丁寧だ。
 だが、その一文はあまりにも鋭かった。

『私的な感情問題』――それは、ルシアとデュルクの間にあったものを指している。

 誰かが、なにかを嗅ぎつけたのだ。

 テラスでの口論。
 その直後の失踪。

 繋げられてもおかしくない。

「ひどい言いがかりね」

 エリセは、あくまで穏やかな声でそう言った。

 その横顔は、どこから見ても“婚約者の立場から、現在の婚約者候補に同情している、優しい令嬢”のものだ。

 この場に第三者がいたら、きっとそう受け取るだろう。

 でも――

(本当に、そう思っているわけじゃない)

 と、デュルクには分かる。

 この数ヶ月、エリセと共に過ごす時間の中で、彼女の“本音”の輪郭くらいは掴めるようになっていた。

「“失踪した令嬢の元想い人”と、“その後釜に据えられた侯爵令嬢”」

 エリセは、書状をぱたんと閉じて、肩をすくめた。

「街で、私たちがどう噂されているか、知ってる?」

「……あまり聞きたくはないな」

「“男は結局、より有利な駒を選んだ”」

 あっけらかんと言う。

「“大公家の令嬢は感情をこじらせて姿を消し、侯爵家の娘がちゃっかり第二王子の側近の隣に収まった”」

 その言葉に、さすがのデュルクも顔をしかめた。

「言い方ってものが――」

「世間は、いつだって残酷よ、デュルク」

 エリセは微笑んだ。

「でも、私には悪くない噂だわ。“ちゃっかり”って、案外褒め言葉よ。
 それに――」

 一瞬、彼女の瞳の色がすっと冷える。

「ルシア様が戻らないなら、なおさらね」

 その言い方は、あまりにも自然で。
 そこに“罪悪感”の影は一切なかった。

 デュルクは、微かに眉をひそめる。

「……ルシアが戻ってくれば、大公家と王家の関係は繋ぎ止められる。
 だが、俺の立場はどうだ?」

 自嘲気味に言う。

「“大公家の令嬢を泣かせて失踪させた男”という汚名は、消えないかもしれない。
 だが、“見つけた男”という功績で多少は薄まるだろう。王宮の上層部も、それを期待している」

「ええ、その通り」

 エリセはあっさり肯定した。

「だからこそ、王宮は“体裁”のために、あなたに捜索の指揮を任せた。
 大公家の怒りを鎮めるためにも、“当事者であるあなたが一番危険な場所に行った”という実績が必要なの」

「俺が死ねば、“責任を取って命を捧げた”という物語になるわけか」

「そうね」

 さらりと言った。

 そこに躊躇いも悲しみもない。
 ただ、状況を正確に言語化しているだけ。

「でも、あなたは死なないわ」

 その言葉だけは、少しだけ柔らかかった。

「生きてルシア様を見つければ、“失点を取り戻した男”になれる。
 大公家も、あなた一人を責め続けるのは難しくなる。
 王家も、“誠意を尽くした”という言い訳が立つ」

 つまり――
 ルシアは、“彼らにとって必要な駒”なのだ。

 大公家の体面。
 王家の権威。
 デュルク自身の評価。

 それらを守るために、彼女の捜索は行われる。

(彼女が聞いたら、どう思うだろうな)

 ふと、ルシアの顔がよぎる。

 真面目で、頑なで、感情を抑え込んできた令嬢。
 他人の損得を計算しながらも、それ以上に“正しさ”を求めてきた女。

 その彼女自身が、今は“損得で語られている”。

「……ルシアを見つければ、すべて元通りになる」

 デュルクは、あえてそう口に出した。

「大公家との関係も。王家の体面も。俺の役目も」

「“元通り”にはならないわ」

 エリセがあっさり否定した。

「一度崩れたものは、二度と同じ形には戻らない。
 大公家も王家も、あなたのことを“一度問題を起こした男”として見続けるでしょうね」

「慰める気はないのか」

「現実を言っているだけ。
 でも、“完全に崩壊する未来”と、“かろうじて繋ぎとめている未来”なら、どちらがいいかは明白でしょう?」

「……なるほど」

 デュルクは乾いた笑いを漏らした。

(こいつは、本当に冷静だ)

 だからこそ、王宮はエリセを気に入っている。
 感情と理性を切り分けて、最適解を選ぶ女。

 “感情が重い女”とは真逆のタイプ。

「さて」

 エリセは椅子から立ち上がった。
 スカートの裾が、滑らかに床を撫でる。

「あなたが捜索隊の隊長に志願した件、王宮は正式に承認したわ」

「……決まったのか」

「ええ。正式に。
 “ルシア様を見つけ出し、大公家との関係修復を図るための、第二王子側近による自発的な捜索”」

 それは、“どこからどう見ても美しい物語”だ。

 失踪した令嬢。
 彼女を傷つけてしまった男。
 悔いを胸に、危険な旅に出る騎士。

 市井の芝居にでもなりそうな構図。

「人々は、そういう物語が好きなの。
 だからこそ、利用する価値がある」

 エリセは微笑んだまま、冷酷な事実を告げた。

「でも、あなたが本気で動かなきゃ、その物語は空虚な茶番で終わる。
 あなたにとっても、私にとっても、それは困るわ」

「……俺にとっては分かるが、お前にとっては?」

「ルシア様が戻ってきたら、あなたは“大公家の令嬢を失踪させた男”から“見つけ出した男”に変わる。
 その隣に立つ侯爵令嬢の立場は、悪くないはずよ?」

 エリセは、自分の胸元にそっと手を当てた。

「“元婚約者を捜しに行った人を支え続けた婚約者”。
 それもまた、物語としては悪くないわ」

(本当に、損得でしか見ていないんだな)

 デュルクは、どこか他人事のように思った。

 ルシアが聞いたら、きっと傷つくだろう。
 それでも、王宮に生きる者は、こういう計算を止められない。

 彼自身も、その一人だ。

(俺だって、“ルシアを見つければ自分の失点を取り戻せる”と考えている)

 その自覚はある。

 だからといって、ルシアへの感情が完全に消えたわけではない。
 彼女が笑っていたときの姿も、傷ついたときの顔も、まだ記憶の中に鮮明だ。

 だが――そのすべてを、“政治”の天秤に乗せてしまった自分を、今さら否定することはできない。

「デュルク」

 エリセが一歩近づいた。

 彼のネクタイ代わりのリボンを、そっと整える。
 その仕草は、誰が見ていても“優しい婚約者”にしか見えなかった。

「無事に戻ってきてね」

「……心配してるのか?」

「もちろん」

 微笑み。

 けれど、その瞳の奥には、別の色が混ざっていた。

(――戻らなかったら、それはそれで)

 口には出さない。
 でも、その“計算”があることを、デュルクは理解していた。

 ルシアが戻らず、デュルクも帰らなかった場合。
 “失踪した令嬢”と“責任を取って命を落とした男”という物語で幕を下ろせる。

 そのとき、エリセは“悲劇の婚約者”として同情を集め、別の有力者との縁談を進めることもできるだろう。

 それはそれで、彼女にとって悪くない未来だ。

 全ては損得の天秤の上。

「安心して。私はどちらの未来にも耐えられるように、準備をしておくわ」

 ささやくように言うエリセの言葉は、ひどく正直だった。

 だから、デュルクも、正直に返すことにした。

「……俺は、戻ってくる」

「ええ、そうね」

 エリセは笑った。

「“戻るつもりで行った男”と、“戻らない未来も見ている女”。
 ちょうどいい組み合わせだわ」

 *

 異世界への“穴”がある森に向かう捜索隊は、王都の中でも選りすぐりの騎士で構成された。

 経験豊富な隊長格。
 地理に明るい者。
 魔術師。
 文官兼監視役。

 その先頭に立つのが、デュルクだ。

「気分はどうだ、閣下」

 騎士の一人が、軽口を叩く。

「さすがに第二王子の側近自ら森に入るなんて、王都も本気を出したもんだ」

「“本気を出したように見せている”の方が正しい」

 デュルクは肩をすくめる。

「王都の外で何があっても、最悪、切り捨てられる程度の布陣だよ」

「自分で言うなよ、そういうこと」

 笑いが起きる。

 彼らにとって、これは「仕事」であり「任務」であり、その先にある出世の階段でもある。

 道中、誰もがルシアのことを口にした。

「本当に、あの大公家の令嬢が、こんな森にいると思うか?」

「さあな。
 でも、見つければ間違いなく褒美も昇進も手に入る」

「“失踪令嬢の救い主”って肩書きは悪くないよな」

 彼らの会話の中にあるのは、ルシアという“人間”ではなく、“駒”だった。

(俺も、その一人だ)

 デュルクは自嘲する。

 森の中に足を踏み入れると、世界の空気が変わった。

 湿った土の匂い。
 木々のざわめき。
 鳥の声。

 王都の庭園とは違う、“手入れされていない自然”の感覚。
 だが、それはまだ“人間の領域”の中の話だった。

 境界線――彼らが「異世界の穴」と呼んでいる場所に近づくにつれて、空気の密度が変わる。

 目に見えない膜を通り抜けたような、音の響き方の違い。
 魔術師が小さく呟く。

「……空気の魔力の流れが違うな。
 ここから先が、“こちら側ではないどこか”だ」

「分かりやすい境目があれば楽なんだが」

 デュルクは、あたりを見渡した。

 木の幹に刻まれた古い傷。
 地面に走る見慣れない足跡。

 馬でも、狼でもない。
 爪を持つ四足の獣と、人間の靴の中間のような痕跡。

「……何だ、これは」

 騎士の一人が、地面にしゃがみ込んだ。

「獣の足跡、にしては変だ。
 人間の靴のような形なのに、指の先に爪の跡がある」

「新しいか?」

「比較的新しい。少なくとも、雨で流れる前だ」

 デュルクは膝を折り、足跡に指を這わせた。

 土はまだ柔らかい。
 誰かが、最近ここを通った証拠だ。

 ただし、その“誰か”が、人間かどうかは分からない。

「他にもあるぞ」

 別の騎士が、少し離れた場所を指さした。

 そこには、木の幹に引っかいたような傷が残っていた。
 高さは人間の肩より少し上。
 斜めに走るその傷は、刃物ではなく、何か鋭いものでざっくりと裂かれたようだった。

「獣の爪か?」

「……こんな鋭い獣、見たことがない」

 魔術師が、小さく呟く。

「少なくとも、この森の“こっち側”にはいない」

「ああ?」

 騎士の一人が顔をしかめる。

「じゃあ、“あっち側”かよ」

「異世界の……住人?」

 その単語に、空気が少しだけ重くなった。

 デュルクは、無意識に剣の柄に手をやった。
 指先に冷たい金属の感触が伝わる。

(人間ではない)

 頭の中でその言葉が響く。
 そして、ふと、別の可能性が浮かぶ。

(もし、ルシアが――人間ではないものの側にいるとしたら?)

 ありえない想像だ。
 大公家の令嬢が、異世界の獣の中に紛れ込んでいる姿なんて、想像するだけでも滑稽だ。

 けれど、“穴”を通り抜けてしまった以上、何があってもおかしくない。

「閣下」

 騎士の一人が、低く呼びかけた。

「どうします? 足跡を追いますか?」

 デュルクは、少しだけ空を見上げた。

 木々の隙間から、鈍い灰色の雲が覗いている。

(王宮は、俺に“ルシアを見つけて来い”と言った。
 大公家も、“娘を探せ”と言った)

 その裏にある思惑も、全部理解した上で。

(ルシア。
 本当に、お前を見つければ、俺は“失点を取り戻せる”のか)

 心のどこかで、かつての令嬢の横顔がよぎる。
 あの真面目な瞳は、今、どこを見ているのか。

「追う」

 デュルクは、はっきりと言った。

「人間であれ、人間でなかろうと、この足跡の先には“今のこの世界にとって重要な何か”がある」

 それが、失踪した大公家令嬢なのか。
 異世界の獣なのか。
 そのどちらでもない、もっと厄介なものなのか。

 それはまだ分からない。

「だが――」

 デュルクは、剣の柄にかけた手に力を込めた。

「俺たちは、“人間中心の価値観”を持ったまま、この森に踏み込んでいる。
 そのことを忘れれば、足をすくわれる」

 騎士たちが顔を見合わせた。

「難しいこと言うなよ、閣下」

「俺たちにできるのは、剣を振るうことと、命令に従うことだけだ」

「それで十分だ」

 デュルクは短く言い捨てた。

「命令はひとつ。“ルシア・フォン・アルセイドを探せ”。
 王家の旗の下にいようと、異世界の獣の巣にいようと、見つけ出す」

 その言葉には、打算と責任と、わずかな後悔が混じっていた。

「了解」

 騎士たちが一斉に頷く。

 風が吹いた。
 背後の方で、王家の旗がばたばたとはためく音がする。

 “古い世界”の象徴が、森の境界線の手前で揺れている。

 その向こう側に、“新しい世界”が静かに息をひそめていた。

 デュルクたちが踏み出した一歩が、
 獣人の森の地面に、新しい足跡を刻む。

 その足跡は、やがて黒豹の獣人と大公家の令嬢の暮らす場所へと、
 確実に近づいていく。

 そしてその途中で、彼らは初めて“それ”を目にすることになるのだ。

 ――人間ではない、何かの痕跡を。

「……これは」

 木の幹に刻まれた、鋭い爪の跡。
 地面に残された、肉球と人間の足の中間のような足跡。

 騎士の一人が、思わず呟いた。

「人間ではない……?」

 異世界の影が、静かに彼らを見下ろしていた。
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