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第12話「森の中で、元恋人と再会するという悪夢」
しおりを挟むその知らせは、焚き火の火がちょうど落ちかけた頃に届いた。
「――東の境目にいた人間の一行、こっちに向かってきてる」
里の見張り役の少年が、息を切らせながらカリオンの住処に飛び込んできた。
耳は真横、尻尾は完全に警戒モード。いつもののんきさなんて一欠けらもない。
その一言で、心臓が、嫌な音を立ててひっくり返る。
「本当に、こっちに?」
自分でも驚くほどかすれた声が出た。
少年は、私をちらりと一瞥してから、カリオンの方を見た。
「森の獣道を避けてはいるけど、進んでる方角的に、里の外れは間違いなくかすめる。
旗は少し後ろの方に下げてたけど……あの紋、間違いなくさっきの“王家の旗”だ」
胸の奥が、ぎゅっと掴まれたみたいに縮む。
あの青い布。
金の刺繍。
双月と茨。
――古い世界の影。
「距離は?」
カリオンの声は、いつも通り低くて落ち着いていた。
「このまま進めば、日が落ちる前に“あの丘”まで着くはず。
そこから更に踏み込んでくるかは分からないけど……獣の足跡の跡も見てたから、多分偵察はしてる」
「数は」
「十人前後。重装備が多い。
偉そうなのが、その中の一人って感じかな」
「偉そうなの、ね」
口の中が、急に砂みたいに乾いていく。
十人前後。
王家の旗。
重装備。
その先頭に立つ男の横顔を、想像しない方が無理だった。
――デュルク。
私を「重い」と言った男。
“飾りとしての令嬢”に、最後まで本気で向き合わなかった人。
名前を口にしなくても、胃のあたりがぎゅう、と痛くなる。
「ルシア」
名前を呼ばれて顔を上げると、カリオンの黄金色の瞳が真っ直ぐこちらを見ていた。
その視線は、いつも獲物を値踏みするときより、ずっと慎重だ。
「会いたくないなら、隠せばいい」
あまりにもシンプルな言葉。
“それでいいだろ”と、当然のように続く気配さえあった。
「人間の匂いが強くなったら、里ごと森の奥に引っ込むことだってできる。
穴の近くに別の道もある。お前一人くらいなら、いくらでも姿を消せる」
この人は、本気でそう言っている。
“逃げること”を、恥ずかしいことだとは思っていない。
生き延びるための選択肢のひとつとして、当たり前に提示してくれている。
「……会いたくない」
正直な本音が、喉から零れた。
だって、怖い。
怖くないわけがない。
“元恋人”なんて綺麗な言葉で言ってほしくないくらい、あの夜は後味が悪かった。
砕けた心。
足元から崩れた世界。
その直後に、私は落ちた。
あのテラスに。
あの湖に。
この森に。
また彼の顔を見たら、あの瞬間に引きずり戻されそうで。
「会いたくなんて、ない。
“どうして勝手にいなくなった”とか、“心配した”とか、“みんなが君を必要としている”とか――」
自分でも、言葉が止まらなくなるのが分かった。
「そんなこと言われたって、信じられない。
だってあの人、自分の損得でしか人を見てなかったもの」
全部吐き出したら、一瞬だけ空気が静まった。
少年が居心地悪そうに耳を伏せる。
カリオンは、しばらく黙っていた。
焚き火の火だけが、ぱちぱちと音を立てる。
「じゃあ、隠れろ」
やっと出てきたのは、最初と同じ言葉だった。
「会いたくない相手の前にわざわざ出ていくのは、獣の感覚なら“自殺”だ。
嫌いで、信用もできなくて、牙も持ってない奴の前に歩いていく理由なんか、どこにもない」
「……でも」
唇が震える。
「逃げてばかりいたら、また同じ場所に縛られる気がするの」
自分の声なのに、少しだけ他人事みたいだった。
「今までだって、ずっとそうだった。
父の言うこと、王宮のルール、周りの目。
イヤだって思っても、“逆らったら居場所がなくなる”って怖くて、何も言えなかった」
だから、あの夜も。
テラスで、“感情が重い”と言われたとき。
本当は、「そんなふうに言うあなたの方が、ずっと残酷だ」と言いたかった。
でも、言えなかった。
言葉が凍りついて、喉で砕けた。
「ここに来てから、少しずつ変わったと思う。
“嫌だ”って言っていいって、やっと知った。
火を起こせるようになって、包丁が持てるようになって、“誰かの飾りじゃない”って思えるようになってきた」
カリオンの家。
里の匂い。
リュナの皮肉。
ハルクの笑い。
全部が私を、“何かを選んでいい存在だ”と教えてくれた。
「なのにここでまた、会うのが怖いからって逃げたら――」
喉の奥で、言葉が詰まる。
「また“あのテラスの私”から、何も変わってない気がする」
会いたくない。
でも、向き合わなければ、ずっとあの夜に縛られたままだ。
それは、今の私には耐えがたい。
カリオンは、しばらくじっと私を見ていた。
その瞳は、獲物を見るときのそれじゃない。
森を渡る風の具合を確かめるときの、あの慎重な目だ。
「……行くのか」
「行きたい、わけじゃないけど」
自分で言って、自分で苦笑する。
「行かなきゃ、前に進めない気がする」
「前に、ね」
カリオンは焚き火に視線を落とした。
「じゃあ、条件だ」
「条件?」
「一人で行くな」
当たり前みたいに言われた。
「俺が一緒に行く。
お前はただでさえ人間に囲まれると頭が真っ白になる。
“向き合う”って言葉と“突っ込んでいくバカ”は違う」
「……それ、褒めてる?」
「半分はな」
片方の口角だけが、ほんの少しだけ上がる。
「俺がそばにいる。影になってやる。
嫌になったら、合図しろ。いつでも引き上げる」
獣人から見たら、人間の騒ぎなんて、ただの面倒事だ。
それでも、カリオンは“私が前に進む”ために、その面倒事に付き合おうとしている。
胸が、じんわりと熱くなる。
「ありがとう」
「礼は、帰ってきてから飯で払え」
「……うん」
こんなときでも、胃袋で話をまとめようとするあたりが、本当にこの黒豹らしい。
*
夕刻近く、森の片隅に人間たちのキャンプが見えてきた。
木々の間から漏れる、見慣れたオレンジ色の光。
――焚き火。
湿った森の匂いに、鉄と革の匂いが混ざる。
鎧と剣と馬具。
王都の兵士たちの野営の匂いだ。
「ここから先は、あまり近づきすぎるな」
ハルクが小声で忠告する。
「黒豹、お前とあの人間の娘は、木陰ギリギリで止まれ。
“こっちにも目がある”って知らせたいだけなら、それで十分だ」
「分かっている」
カリオンは短く答えた。
私は、彼のすぐ後ろ。
背中より少し下の位置に収まる。
そこから、キャンプの様子を伺った。
人間たちは、半円形に焚き火を囲んでいた。
鎧を脱いで寛いでいる者もいれば、警戒を続けている者もいる。
その中で、一際目立つ青いマントの男がいた。
第二王子直属の……いや、今はただの“王宮の側近”かもしれない。
デュルク・ヴァレンツ。
私の、元“恋”の相手。
心臓が、どくん、と跳ねる。
喉の奥がきゅっと狭まる。
あの横顔。
少し眠そうに見える目元。
綺麗に整えられた金茶色の髪。
――変わらない。
数ヶ月前、テラスで見たときと、ほとんど同じ。
ただひとつ違うのは、その目の下に薄く刻まれた疲れの影だった。
彼の隣には、薄い桃色のドレスを身にまとった女性が座っていた。
こんな森の中でも、彼女の所作だけは“宮廷”から一歩も外に出ていない。
侯爵令嬢、エリセ・ローレン。
彼女の視線が、一瞬こちらに向く。
(見えた?)
森の影に紛れているはずなのに、狐のような勘の鋭さを感じて、背筋がひやりとした。
カリオンが、そっと手を伸ばしてきた。
指先が、私の手の甲にかすかに触れる。
「行くか、行かないか。今ならまだ、戻れる」
囁き声。
私は、息を吸った。
気づけば、震えは少しだけ収まっていた。
代わりに、妙な静けさが胸の中に広がっている。
「……行く」
はっきり言って、前に出る。
木々の影から一歩、二歩。
地面の草が、足首に絡む。
焚き火の光が、私の姿を照らし出した。
最初に気づいたのは、警戒の眼差しを周囲に向けていた騎士だった。
「誰だ――」
ぴんと張り詰めた声が途中で途切れる。
「……ルシア様?」
焚き火の向こうで、デュルクが振り向いた。
その瞳が、確かに私を捉える。
一瞬だけ、時間が止まったような感覚。
「ルシア……?」
かすれた声。
立ち上がる動作は、わずかに乱暴だった。
彼は、焚き火を回り込み、こちらに数歩近づく。
信じられないものを見るときの顔。
そして、その直後に――
「ルシア!!」
はっきりとした叫び声が森に響いた。
次の瞬間、彼は安堵を滲ませた表情を作っていた。
「本当に……よかった、生きていてくれて」
その言葉が、こんなにも簡単に出てくるんだ、と冷静な自分がどこかで笑った。
(“本当に”“よかった”)
以前の私なら、きっとそのまま泣いて縋りついた。
“心配してくれていたんだ”って、素直に受け取った。
でも今は――香りが違って聞こえる。
言葉の表面に塗られた優しさの、さらに奥。
そこに、薄く、損得の匂いが混ざっているのが分かる。
――これで“大公家と王家の関係が繋ぎ止められる”。
――“自分の失点を取り戻せる”。
そんな計算の影が、声の端から零れている。
(ああ、この匂い……)
宮廷の大広間で、何度も嗅いだ匂いだ。
微笑みながら、心の中で打算を重ねている人たちの、あの薄い匂い。
私は、立ち止まったまま頭を下げた。
「……お久しぶりです、デュルク様」
自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。
彼は、目を見開いたまま、私を上から下まで見た。
森仕様の簡素な服。
裾を結んだスカート。
手には、火と包丁の跡が刻まれている。
宮廷の令嬢が持つはずのない傷と日焼け。
「そんな格好で……森の中で、ずっと?」
「はい。しばらくは」
短く答えると、彼の眉が苦しげに寄った。
「一体どうして……あの夜、突然姿を消した。
テラスからいなくなって、誰も君を見ていない。
俺は――」
「探してくれて、ありがとうございます」
それ以上を言わせたくなかった。
言われたら、またあの夜の続きを聞かされてしまいそうで。
デュルクは、一瞬だけ言葉を飲み込んだように口を結んだ。
その表情は、“同情”と“安堵”と、それから少しの“自己弁護”でできている。
「ルシア。
大公家も王宮も、君を必要としている」
予想通りの言葉が落ちてきた。
「父上も、陛下も、君の失踪を大きな問題として受け止めている。
王都では、いろんな噂が出ている。
だが、君が戻れば、それも全て“誤解だった”と収まる」
言葉のひとつひとつが、“政治の言語”だ。
“君が必要”
“戻れば収まる”
“誤解だった”
それらは全部、“大公家と王家の関係を修復するための駒として、君が必要だ”という意味を、きれいな飾りで包んだもの。
以前の私なら、それに気づかなかった。
それどころか、「私にも価値がある」と喜んでいたかもしれない。
けれど今、その薄さが嫌になるほどはっきり見える。
「……そうですか」
そっと、息を吐く。
「大公家のために。王家のために。
私が戻ることが“必要”なんですね」
「そうだ。君はアルセイドの令嬢だ。
君が戻れば――」
「でも、“私自身”がどう生きたいかは、考えたことありますか?」
口が、勝手に動いた。
自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
デュルクが目を見開く。
「……ルシア?」
「大公家の体面とか、王家との関係とか、あなたの立場とか。
そういうことは、きっと誰よりもよく考えているんでしょう」
だって、それがデュルクだ。
それが、私が昔“賢い”と憧れていた彼の姿だ。
「でも、私がここで火を起こして、薪を集めて、スープを作って生きていたことは。
私が“飾りじゃない私”になりたいって思ったことは。
それは、考えたこと、ありますか?」
森の匂いが、胸の中まで満ちてくる。
焚き火の煙と、湿った土の匂い。
デュルクの背後にある、王都の空気のイメージとは、あまりにも違う。
彼は、短く息を呑んだ。
「……君は、変わったな」
「変わったのかもしれません」
自分で言って、少し笑ってしまう。
「前の私なら、今の私のことを怖がってたと思います。
“そんなこと言ったら、全部壊れてしまう”って」
「実際、その可能性はある」
デュルクの声は、わずかに強くなった。
「ルシア。
君がここにいることが知られれば、“獣の森に落ちた大公家令嬢”という話になる。
アルセイドの名に傷がつくだけじゃない。
獣人とこの世界の存在が明るみに出れば、王都は――」
「“危険だから戻れ”って言うんですか?」
静かに遮る。
「“体裁のために、元いた場所に戻るべきだ”って?」
「体裁だけじゃない。安全のためでもある」
すぐに返ってきた答え。
それは、彼にとっての“正しさ”なのだろう。
「ここがどれだけ危険か分かっていないだろう?
君のその服。手の傷。
そんなもの、アルセイドの館にはなかったはずだ」
「なかったですね」
私は自分の手を見下ろした。
火傷の薄い跡。
包丁で少し切った線。
枝を折ったときにできた小さな豆。
どれもこれも、私がここで“生きてきた証”だ。
「でも、その代わりに、ここには――」
言いかけたところで、横から別の声が割り込んできた。
「まあ」
優雅なため息と一緒に。
「森で野宿なんて、よく耐えられましたわね、ルシア様」
エリセだった。
いつの間にか立ち上がり、私とデュルクの少し後ろまで来ていた。
薄い桃色のドレスは、外套に覆われているとはいえ、森の中では明らかに浮いている。
けれど、その仕草はどこまでも宮廷的だった。
「アルセイドの館の、あのふかふかのベッドから、こんな石と土だらけの場所へ。
想像しただけで、私なら一晩で音を上げてしまいそうですわ」
上品な皮肉。
笑顔は崩さないまま、言葉の棘だけがきちんと刺さってくる。
「エリセ」
デュルクが制するように名前を呼んだが、彼女は軽く首を振った。
「いいえ、別に悪意はありませんの。
ただ……驚いているだけ」
琥珀色の瞳が、じっと私を見つめる。
「ルシア様って、王宮では“完璧な大公家令嬢”として有名でしたから。
少しでも泥が跳ねたら顔をしかめて、冷たいお茶が出されたら一口も飲まない、そんなイメージでしたのに」
「……そんなイメージだったんですか」
苦笑が漏れる。
確かに、昔の私は、そうだったかもしれない。
泥を避け、冷たいお茶に顔をしかめ、すべて“正しさ”で測ろうとしていた。
「だから、森の中で生き延びていると聞いて、本当に驚いたんですのよ。
“あのルシア様が? 森で? 野宿? まさか”って」
エリセは楽しそうに肩をすくめた。
「でも……今のあなたを見て、少し納得しましたわ」
「納得?」
「ええ。
――“飾りじゃない顔”をするようになったのね」
その言葉に、微かに息を呑んだ。
宮廷での私は、間違いなく“飾り”だった。
エリセも、きっとそれをよく知っている。
「火傷の跡も。
その服も。
ここに立っている目も。
どれも、“大公家の令嬢”には似合わないけれど……」
エリセは、ふっと微笑んだ。
「人間としては、とても似合っていると思いますわ」
褒めているのか、皮肉っているのか、判断に困る言葉。
でも、そのどちらも含んでいる気がした。
(……宮廷の空気)
ふと、自分の中で何かが静かに整理されていく。
デュルクの言葉。
エリセの皮肉。
騎士たちの視線。
王家の旗。
どれもこれも、“昔憧れていた世界”の断片だ。
きらびやかで、整っていて、隙がなくて。
でも、その実態は――薄くて、冷たい。
飾りのために飾りを重ねて、その裏側にある人の感情は、都合よく切り捨てられていく。
ここにいるときと、カリオンと焚き火を囲んでいるときの胸の温度の違いが、あまりにもはっきりしている。
あの大広間で吸い込んでいた空気は、こんなにも冷たかったんだ。
やっと、理解した。
「ルシア」
デュルクが、再び私の名を呼んだ。
「とにかく……今は、ここから離れよう。
森の中は危険だ。君一人を連れて戻るだけなら、すぐにでも――」
「一人、じゃありません」
言葉が自然に出た。
デュルクが一瞬きょとんとする。
エリセも、少しだけ眉を上げた。
その背後で、木々の影に溶け込む黒い影。
黄金色の瞳が、静かにこちらを見ている。
黒い耳と尾。
私の“新しい世界”で最初に手を差し伸べてくれた存在。
胸の中で、何かがカチリと音を立てて噛み合った気がした。
(もう、“あのテラスの私”じゃない)
古い世界の影と、新しい世界の匂い。
その境目に立ちながら、私は静かに息を吸う。
この再会は、たしかに悪夢みたいだ。
でも――悪夢を見ているだけじゃ、目は覚めない。
薄っぺらくて冷たい宮廷の空気と、
土と煙と獣の匂いのする森の空気。
どちらを吸って生きていくのか。
その選択の時間が、少しずつ近づいてきているのを、はっきり感じていた。
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