恋も地位も失った令嬢ですが、転移した森で出会った獣人に胃袋を掴まれました

タマ マコト

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第15話「残されたしがらみと、揺らぐ大公家」

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 王都に戻った報告は、思っていた以上に早く広がった。

 いや、正確に言うなら——
 “広がるように、誰かが上手く流した”。

 王城の白い回廊。
 噴水の水音が響く中、侍女たちの囁きが、冷たい石壁を伝っていく。

「聞いた? アルセイド大公家の令嬢様の件」

「ええ……“獣の森に、自分の意思で残った”って話」

「しかも、“人間ではない種族”と一緒に暮らすことを選んだとか」

「信じられないわ。大公家の令嬢がよ? 獣と同じ食卓につくなんて」

「“同じ寝床”かもしれないわよ」

「やだ、声が大きい!」

 くすくす笑いと一緒に、悪意のある言葉が飛び交う。

 噂は、いつだって最短距離で最悪の形に歪んでいく。

 “獣人と暮らす”は、“獣人に囚われている”に変わり、
 “自分の意思で残った”は、“情に流されて帰れなくなった”に変わり、
 最後には、“獣人の男の情婦になった”という、誰も確認していない尾ひれまで付けられた。

 それは、王宮という場所が持つ“悪癖”だ。

 誰かの人生を、暇つぶしの酒の肴にする。

 ***

 その噂の中心にいる男は、執務室で報告書を前に頭を抱えていた。

「……こう書くしかないだろう」

 デュルク・ヴァレンツは、紙に視線を落としていた。

 報告書には、事実だけを簡潔に記すよう命じられている。
 “異世界の森にてアルセイド大公家令嬢と接触。本人より、王都への帰還を拒否する意思表示あり”と。

 しかし——実際にあの場で交わされた言葉を、そのまま書けばどうなるか。

 “感情が重いと言ったのはあなたよ”
 “私の感情は私のもの。重いと思うなら最初から近づかなければよかった”
 “二度と、あなたたちの都合で動かされる場所には戻らない”

 そのまま書いたら、王城中の笑い者だ。
 いや、笑い者で済めばまだマシかもしれない。

(“大公家令嬢に公衆の面前で拒絶された無能な男”)

 そういうラベルが、あっという間に額に貼られる。

(……書けるかよ)

 心の中で吐き捨てる。

 だから、報告書の文面は、どうしてもぼやけた。

 『令嬢は、“森の生活を続ける意思”を強く主張。
 王宮および大公家の意図に反し、帰還を拒否。
 説得を試みるも、周囲の事情および安全面を考慮し、一時撤退を選択』

 できる限り、自分の失点が薄まるように言葉を整える。

 ——だが。

「ところで、デュルク殿」

 執務室の扉の外から、低い声がした。

「こちらは、例の森に同行した騎士たちの、口頭報告をまとめたものなのですが」

 文官が持ってきた別の紙束には、別々の筆跡で、こう書かれていた。

 『令嬢より、強い拒絶。
 “私は戻らない”“二度とあなたたちの都合で動かされる場所には戻らない”との発言あり』

 『側近デュルク殿は、“名と教養を使わない手はない”と発言し、
 森の獣人と口論になる一幕もあり』

 『獣人側から、“ざまぁだな、人間の男”との痛烈な嘲笑が起き——』

 そこから先は、インクがにじんでいた。
 書いた本人が笑いを堪えながら記したのか、手が震えていたのかは分からない。

 デュルクは、無言でこめかみを押さえた。

(こいつら……細かいところだけ妙に正確に書くんじゃない)

 彼の立場は、報告書を整える前から、別の証言によってじわじわと削られ始めていた。

 廊下の陰から聞こえてくる囁き。

「デュルク殿、やはり運がないな」

「大公家令嬢を失踪させた男に続いて、今度は見つけたのに連れ戻せなかった無能な側近、か」

「王家としても扱いに困るわな。切るには惜しい腕だが、その先々で火種をばらまいている」

 運、ではない。
 単純に、彼は選択を誤ってきただけだ。

 でも、それを認めるには、まだプライドが邪魔をしていた。

 ***

 王宮のさらに奥。
 重厚な扉の向こうの別世界。

 そこに、ルシアの父——アルセイド大公がいた。

 薄暗い執務室に、厚手のカーテンから差し込む光が一本だけ落ちている。
 机の上には、地図と報告書が散らばっていた。

「……獣人の、森」

 低く呟いた声には、怒りと困惑が入り混じっている。

 最初に娘が消えたと聞かされたとき、彼は激怒した。
 “第二王子の側近は何をしていた”と、王宮に詰め寄った。

 その怒りは、今も消えていない。

 だが、“異世界の森にいた”と聞かされ。
 “獣人と共に暮らすことを選んだ”と知らされた今、怒りの矛先は宙に浮いていた。

「人間ではない種族と共に暮らすことを選んだ、か」

 大公は、報告書のその一文を何度もなぞる。

 そこには、“ルシアが自ら選んだ”と明記されていた。

 呪いでも、誘拐でもなく。
 “森での暮らしを自ら望んだ”と。

「……馬鹿な娘だ」

 搾り出すような声。

 侍従が、恐る恐る口を開く。

「ですが閣下、“森に残ることが娘君の意思である”と、複数の証言が」

「分かっている!」

 机が、どん、と鳴った。

 インク壺がかすかに揺れ、中身が縁からこぼれ落ちる。

「分かっている……だからこそ、厄介なのだ」

 誘拐されていたと言ってくれた方が、まだ楽だった。
 呪いにかかっていたと言われた方が、まだ救いがあった。

 “自分の意思”で、森を選んだ。

 その事実が、彼のプライドを深く抉る。

(私の育て方が間違っていたとでも言うのか)

 大公は、拳を握りしめる。

 幼い頃から、ルシアに教えてきたこと。

 アルセイドの名の重さ。
 王家との距離の取り方。
大公家の令嬢として、どう振る舞うべきか。

 それらすべてが、“彼女を守るため”だった。
 権力に呑み込まれないように。
 見下されないように。
 “価値のある駒”として扱われるように。

(……駒、か)

 気づけば、自分でそう思っていた節がある。

 娘を、家の一部として見ていた。
 大公家の、王国の、一枚の盾として。

「閣下」

 侍従が、おそるおそる口を挟む。

「王宮の方でも、この件をどう扱うか議論が始まっております。
 “獣人”という未知の種族との接触。
 “王家の縁者が人ならざる者と共に暮らす”という事実。
 下手をすれば、異端審問の対象にもなりかねません」

「……王家は、どう言っている」

「“様子見だ”と」

 侍従の顔が、苦々しく歪んだ。

「陛下は、“無理に連れ戻せば、獣人との衝突になりかねない。今は静観すべきだ”と。
 “アルセイド大公家が、独自に娘君と話し合う機会を持つのであれば、それを妨げる理由はない”とも」

 つまり——王家は、責任を大公家に押し付けたのだ。

 大公は低く笑った。

「王家らしいな」

 自分たちの旗の下で行われた捜索が失敗したと分かると、すぐに距離を取る。
 ルシアが森を選んだことも、“彼女の意思”として片付けようとしている。

 王宮での噂も、もう耳に入っていた。

 “アルセイドの令嬢は獣人の男に心を奪われた”
 “人ではない者と共に暮らすことを選んだ、気まぐれな娘”
 “ひとつの家と王家の関係をぐらつかせた女”——

「勝手なことばかり言いおって」

 大公は、頭を抱えた。

 怒りと同じくらい——いいや、もしかしたらそれ以上に、胸の中にあったのは“困惑”だった。

(私は、一度として“ルシア自身”と話そうとしたことがあったか)

 大公として。
 アルセイドの主として。
 “家”の視点でしか、娘を見てこなかったのではないか。

 報告書の最後の行が、目に刺さる。

 『令嬢は、“ここで私自身として生きていられる”と発言』

「私自身、か」

 ぽつり、と呟く。

 その言葉は、彼自身にも突き刺さっていた。

 アルセイドの大公として生きる時間が長すぎた。
 “私自身”という一人称が、どんどん遠くなっていた。

「閣下」

 侍従が、そっと問いかける。

「いかがなさいますか。
 このまま、王宮と足並みを揃え“静観”とするか……
 あるいは——」

 大公は、長く息を吐いた。

(静観など、できるものか)

 娘が異世界の森で、獣人たちと共に暮らしている。
 “私自身として生きている”。
 その事実を、他人からの報告だけで終わらせるつもりはなかった。

「一度だけでいい」

 低く、しかしはっきりと告げる。

「一度だけでいいから、娘と話したい」

 父親としての願いだった。
 大公としての立場を少し脇に置いて、やっと絞り出せた本音。

 侍従は目を見開いた。

「閣下……」

「誤解を解きたいわけではない。
 説得したいわけでもない」

 大公は、自分に言い聞かせるように続ける。

「ただ、あの子が“なぜ森を選んだのか”を、
 “なぜ家を捨てる覚悟ができたのか”を、この耳で聞きたい」

 それが叶ったとして、その答えを自分が受け止められるかどうかはわからない。

 それでも——

「森に使者を送る。
 “アルセイド大公家の名のもとに、娘との面会を望む”と、はっきり伝えろ」

「はっ……」

 侍従が頭を下げる。

(また、森に人間を送るのか)

 大公は目を閉じた。

 あの森には、獣人たちがいる。
 娘が“私自身として生きている場所”がある。

 そこに、アルセイドの名を掲げて踏み込むことの意味。
 それを理解した上で、それでも彼は決めた。

(今度こそ——“令嬢”ではなく、“ルシア”と話したい)

 それが、彼にとっての最後のチャンスかもしれなかった。

 ***

 一方、森。

 王家の旗が見えなくなってからの数日は、妙に静かだった。

 静か——といっても、鳥は鳴くし、風は吹くし、獣人の子どもたちは相変わらず走り回っている。

 変わったのは、きっと私の方だ。

「……なんか、胸の中がスカスカする」

 焚き火の前で、私はぼそっと呟いた。

 カリオンは鍋をかき混ぜながら、ちらりとこちらを見る。

「後悔してるのか」

「まだそこまではいってないかな」

 自分でも笑ってしまう。

「でも、変な感じ。
 長い間、首にかけられてた重いネックレスを、急に外したみたいな」

「外したんじゃないのか」

「外したんだろうね」

 あの広場で、私ははっきり言った。

 “戻らない”。
 “あなたたちの都合で動かされる場所には戻らない”。

 それは、大公家にも、王宮にも、昔の自分にも背を向ける宣言だった。

「自由になった気もするの。
 でも同時に、“本当にこれでよかったのかな”って、何度も心の中で繰り返してる」

 火の温度が、いつもより少し高く感じる。

 カリオンは、鍋の中身をすくい上げ、味見をした。

「……これで本当にいいのか」

 鍋から視線を外さないまま、ぽつりと言う。

 その声には、責める色はない。
 ただ、確認しているだけ。

「怖くないのか。
 家を捨てて。
 父親を置いて。
 人間の世界を全部背中に回して」

「怖いよ」

 即答だった。

「まだ、めちゃくちゃ怖い。
 この選択が正しかったって胸を張って言えるほど、強くもない」

 目を閉じると、王都の景色が浮かぶ。

 高い塔。
 石畳。
 大広間のシャンデリア。
 父の背中。

「でも、あの世界に戻ったら——」

 はっきりとした言葉が口をついて出た。

「私はまた“大公家の令嬢”っていう仮面に押しつぶされる」

 大広間で笑うときの“正しい顔”。
 王家の前に立つときの“正しい姿勢”。
 夜会でグラスを持つときの“正しい角度”。

 それら全部が、一枚の仮面みたいだ。

「仮面をつけることが悪いって言いたいわけじゃないの。
 あの世界で生きていくには、きっと必要なものだと思う」

「だろうな」

「でも、私は——」

 喉の奥が、じわりと熱くなる。

「仮面の下の顔が、やっと少しだけ好きになってきたところなの」

 火を起こして、汗を流して。
 手を切って、泣いて。
 それでも鍋を混ぜ続けて。

 そうやってぐちゃぐちゃで不格好な顔をしている自分を、「悪くない」と思い始めていた。

「今、あの仮面をまた上から被ったら、きっと私は自分の顔を見失う。
 それが、一番怖い」

 カリオンは、静かにこちらを見た。

 黄金色の瞳に、焚き火の光が映っている。

 しばらく黙ってから——

「そうか」

 短く、そう言った。

「なら、もういい」

「いいの?」

「お前が“怖くてもこっちを選ぶ”って言うなら、それで十分だ」

 そう言って、彼は鍋を火から下ろした。

 香ばしい匂いが、洞窟の中に広がる。

「じゃあ、ここで“仮面の外の顔”に慣れるまで、飯を作ってやる」

「……へ?」

 思わず変な声が出た。

「そんな、簡単に……」

「簡単じゃねえよ」

 カリオンは、木の椀にスープを注ぎながら肩をすくめる。

「毎日、火を起こして、食材を集めて、味見して、失敗して。
 お前が“仮面の外の顔”で泣きそうになったら、飯で誤魔化してやる」

「誤魔化すって言った」

「誤魔化すんだよ。飯は、そういうもんだ」

 椀を差し出される。

 受け取った瞬間、じんわりと熱が指先から腕に伝わった。

「お前がまた“仮面”を被りたくなったら、そのときはそのときだ。
 俺が止めるかもしれないし、止めないかもしれない」

「どっちなの」

「そのとき決める」

 彼らしい答えだった。

「今は、とりあえず——飯だ」

「……うん」

 スープをひと口すすると、体の奥からじわじわと温かさが広がっていく。

 どんなに世界が揺らいでも、
 どんなに王宮で噂が飛び交っても、
 この一杯のスープは、変わらない。

 仮面の下の顔で泣きそうになる日も。
 笑える日も。
 全部まとめて、この味で受け止めてくれる。

(……大丈夫、きっと)

 自分に言い聞かせる。

 まだ怖い。
 まだ迷う。
 それでも、ここで生きていくって決めた。

 とりあえず今日も、火を絶やさない。

 ***

 その頃、王都では——

 アルセイド大公の決意が、静かに形になり始めていた。

「森への道は、前回の捜索隊の記録がございます」

 地図の上に、一本の線が引かれる。

「獣人たちの集落までは、彼らの許可がない限り踏み込むべきではありません。
 あくまで、“面会の使者”として、慎重に」

「分かっている」

 大公は、地図をじっと見つめた。

「私自身が行くわけにはいかない。
 王都を空ける理由がないからな」

 それに、彼が直接森に行けば、それは“軍事行動”と受け取られかねない。
 獣人との無用な衝突を避けるためにも、表に出るべきではない。

「だから——」

 彼は、一枚の紙を侍従に渡した。

「この者を、先頭に立てろ。
 言葉を選び、余計なことは言わない男だ」

 そこに書かれていた名を見て、侍従はわずかに目を見開いた。

「……よろしいのですか。
 かつて、ルシア様の教育係を務めていた者です。
 娘君と、最も近い距離にいた大人の一人」

「だからこそだ」

 大公の声は、低いが揺るぎなかった。

「娘の“仮面の外の顔”を、少しは知っているかもしれん」

 それは、彼自身にはない視点だ。

「伝えろ。
 “アルセイド大公は、娘と話したいと望んでいる。
 一度だけでいい。
 大公としてではなく、父として”——とな」

「かしこまりました」

 侍従が頭を下げる。

 アルセイドの名を掲げた小さな一行が、
 再び森へ向かう準備を始めた。

 そこから先に待っているのは、
 “家”と“娘”と“森”が、真正面から向き合う時間だ。

 揺らぎ始めた大公家の行く末は、
 まだ誰にも分からなかった。
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