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第16話「父からの手紙と、『ルシア』として会いたいという願い」
しおりを挟むその紋章を、見間違えることなんてあり得なかった。
森の入口近く。
獣人たちの見張り台の下で、一本の旗が風にはためいている。
青地に、月と剣を組み合わせた紋。
アルセイド大公家の家紋。
胸の奥で、何かがぎゅっと縮んだ。
「……本当に、来たんだ」
自分の声が、妙に遠く聞こえた。
「お前の家か」
隣で、カリオンが低く呟く。
彼の黄金色の瞳が、旗を一瞥して細められた。
耳の角度は警戒気味だけど、尾は敢えて大きくは揺らしていない。
“威嚇はしないけど、油断もしない”、いつもの戦闘前モード。
「人間の使者だってさ」
見張り台から降りてきたハルクが、肩をすくめる。
「軍隊じゃねえ。護衛を数人連れた文官って感じだ。
森の入り口で、“アルセイド大公家よりの使者である”って、やたら丁寧に頭下げてた」
“よりの”って何よ、と言いかけて飲み込んだ。
喉がカラカラに乾いていく。
(父様……)
王都からの噂は、いくつか耳に入っていた。
大公家が揺らいでいること。
父が激怒していること。
王宮と、ギリギリの綱渡りみたいな関係になっていること。
でも、「森に使者を送る」という選択を、父が本当に下すとは思っていなかった。
「ルシア」
カリオンが、私の手首にそっと触れる。
「顔が真っ青だ」
「……青い紋章を見たからでしょ」
「冗談言えるならまだ大丈夫だな」
軽く鼻を鳴らされる。
笑えないのに、口だけが勝手に動くのは、たぶん怖さの裏返しだ。
「とりあえず話を聞きに行くぞ」
「行くの?」
「お前宛だろ?」
当たり前だと言わんばかり。
「会わない、受け取らないって決めるにしても、まずは“何を持ってきたか”は確かめるべきだ。
獣人の里にとっても、“人間の使者が何をしに来たのか”は大事だからな」
「……そうだね」
脚に力を入れる。
逃げ出したい気持ちを、爪先で踏みつけるみたいに押し潰して。
私は一歩、また一歩と、森の入口に向かって歩きだした。
*
森の中に、妙に場違いな服装をした男が立っていた。
深い灰色のローブ。
控えめな刺繍。
髪は白く混じり始めていて、背筋は少し曲がりかけているけれど、その瞳はまだ鋭い。
見覚えのある顔だった。
「……オルウェン先生?」
思わず口からこぼれる。
男は、驚いたように目を見開き、それからふっと目尻を下げた。
「ルシア様」
懐かしい呼び方。
アルセイド家で私に読み書きや歴史、政治を教えてくれていた初老の学者——オルウェンだ。
父ほどではないにせよ、屋敷の中で“私の仮面の外の顔”を、少しだけ知っている大人。
「……生きて、いらっしゃった」
震えるように言って、深く頭を下げてきた。
「まずは、それだけで十分です」
胸の奥が、じわっと熱くなる。
「先生が、どうしてここに?」
「アルセイド大公家の使者として参りました」
オルウェンは姿勢を正すと、胸に抱えていた封筒を取り出した。
厚手の上質な紙。
封蝋に押されているのは、月と剣の紋章。
「大公閣下からの書状です。
“これを、娘に渡してほしい”と」
手が、微かに震えた。
(父様から——手紙)
私の知る父は、“言葉”で全てを片付ける人だった。
書状を自ら認めることもあるけれど、それはほとんどが政治的な文面だ。
“父としての手紙”なんて、もらったことがない。
「……読んでも?」
「もちろん」
オルウェンが一歩下がる。
カリオンが、私のすぐ後ろにぴたりと立った。
背中に、黒豹の気配がある。
それだけで、少し息がしやすくなる。
私は、封蝋に指をかけた。
月と剣の印が、ぱきりと割れる。
それだけで、ひとつの時代が終わる音みたいに聞こえた。
中から、几帳面な筆跡が並ぶ手紙が現れた。
最初の一行目で、もう視界が滲む。
——『ルシアへ』
“アルセイドの令嬢へ”でも、“我が娘へ”でもなく。
ただ、“ルシアへ”。
(ずるい)
胸のどこかが、きゅっと痛んだ。
私は、震える目で文字を追っていく。
『お前が無事だと知って、私は初めて“父として泣いた”』
その一文で、息が止まりそうになった。
父が泣く姿なんて、見たことがない。
叱る時も、褒める時も、全てが“アルセイド大公”としての顔だった。
“父として泣いた”——
その言葉が、紙の上で滲んでいく。
『お前が失踪したと知らされた夜、私は大公として怒り、王宮を責め立てた。
だが、お前が“獣人の森で生きている”と知った夜、私は大公としてではなく、ただの父として膝をついた』
『お前がどんな顔で、その森で暮らしているのか。
どんな声で笑い、どんな声で泣くのか。
それを想像して、私は初めて、“お前のことをほとんど知らないのだ”と気づいた』
視界がぼやけて、文字が滲んでいく。
涙を拭っても拭っても、追いつかない。
「……ルシア」
カリオンの声が、背中越しに落ちてくる。
「読めてるか」
「読めてる……けど、読めない……」
「どっちだ」
「両方……」
ぼろぼろ泣きながら読むの、こんなに難しいんだ。
私は鼻をすすりながら、続きを追った。
『私は今さら、“戻ってこい”と言う資格があるのか分からない』
『大公家のために。
王家との関係のために。
お前を“駒”として見たことが、一度もないと言い切ることはできない』
『だが、それでも私は、お前の父でありたい』
『アルセイドの大公としてではなく、“お前をこの世に送り出した男”として、
一度だけでいい、話をさせてほしい』
『お前が森で、どんな日々を生きてきたのか。
どんな仲間を持ち、どんな飯を食べているのか。
それを、この耳で聞きたい』
『お前が選んだ場所を、完全に理解することはできないかもしれない。
それでも、“お前が選んだ”という事実だけは、きちんと受け取りたい』
最後の行の前で、筆跡がほんの少しだけ歪んでいる。
そこに、父の呼吸の乱れが見えた気がした。
『アルセイド大公として命じるのではない。
父として願う。
——どうか、一度だけ会ってくれないか』
署名は、“アルセイド公”でも、“アルセイド大公”でもなかった。
ただ、ひとつの名前。
『ギルベルト・アルセイドより』
「……ずるい」
声に出た。
指先が、震えた紙をぎゅっと握りしめる。
「本気の手紙じゃん……こんなの……」
もっと、形式的な文章だと思っていた。
“大公としてこうあるべき”とか、“家の名誉のために”とか、“戻らないならこうなる”とか。
でもそこにあったのは、ただの一人の父親の言葉だった。
オルウェンが、静かに口を開く。
「閣下は、この手紙を三度書き直されました」
「書き直し?」
「最初は、“命じる”文面でした。
“家のために戻ってこい”と。
次は、“責める”文面でした。
“なぜ家を捨てたのだ”と」
その両方を、自分で破り捨てたのだろう。
「三度目で、ようやくこの形になりました。
“父としてしか書けない”と言って」
喉の奥がきゅっと締め付けられる。
(父様が、そんなふうに——)
今までずっと、“大公”としての顔しか見てこなかった。
いや、見ようとしてこなかったのかもしれない。
“父として”の顔は、自分がやたら期待してしまいそうで怖かったから。
「ルシア」
カリオンが、肩を軽く叩いた。
「……会いたくないなら、断ればいい」
彼は、いつもと同じ調子で言う。
「手紙を返すことだってできる。
“森で生きると決めたから、もう父とは会わない”って選択肢も、お前にはある」
「うん」
「それを選んでも、俺は文句は言わない。
人間の家族ってやつは、俺にはよく分からん」
その正直さに、少し笑ってしまう。
「だろうね」
「ただ——」
カリオンは、言葉を区切る。
「会うべきかどうかの答えは、俺には出せない」
その一言が、妙に胸に残った。
「“会ってやれ”って軽く言うほど、人間の親子ってやつは単純じゃないんだろ。
でも、“会うな”って言うほど、お前とそいつの縁が薄いわけでもない」
「……そうだね」
私は手紙を胸に抱えながら、ゆっくりと息を吐いた。
あの世界が、全部嫌だったわけじゃない。
大広間の空気は冷たかったし、夜会のざわめきは今思い出しても息苦しい。
でも、そこには確かに“温度”もあった。
「父様や、屋敷の一部の人たちには、本当に優しくしてもらったの」
ぽつりとこぼれる。
「オルウェン先生もそう。
忙しい中で、私の質問に付き合ってくれたし。
厨房のマリアは、こっそり甘いお菓子をくれた。
庭師のおじいちゃんは、花の名前を全部教えてくれた」
小さな断片が、次々と蘇る。
「父様だって……」
喉が詰まる。
「厳しかったけど、誕生日には必ず時間を作ってくれた。
“お前はアルセイドの誇りだ”って……ちゃんと言ってくれてた」
それが“家のため”であったとしても。
そこに少しでも“父としての感情”が混ざっていたなら。
今さら、それを見てしまったら。
胸の奥の何かが、また揺れる。
「全部嫌いだったなら、きっと楽だったんだろうね」
宮廷も、家も、父も。
全部憎しみに塗りつぶしてしまえば、“森を選ぶ”ことに迷いはなかった。
「でも、そうじゃないから……困ってる」
嫌いだった部分もある。
苦しかった部分もある。
でも、それだけじゃない。
「……一度だけ」
自分の声が、少しずつ固まっていく。
「一度だけ話すのは、きっと、私のためでもあるんだと思う」
父のため、ではなく。
家のため、でもなく。
“ルシア”として、自分の心に区切りをつけるため。
「でも——」
オルウェンの方を見た。
その瞳には、ただ静かな期待と、不安と、祈りが混ざっている。
「条件があります」
「条件、ですか」
「“決めるのは、私”」
はっきりと言う。
「父様が何を言っても。
どれだけ泣いても。
どれだけ怒っても。
“戻る”“戻らない”を決めるのは、私」
手紙を両手でぎゅっと握りしめる。
「アルセイド大公家のためでも、王宮のためでもなく、
“ルシアがどこで生きたいか”を、私が自分で決める」
オルウェンは、少し目を瞬かせ、それから深く頭を下げた。
「その条件を、閣下は受け入れるでしょう」
「……本当?」
「はい。
あの方は、もう“命じる立場”ではなく、“願う立場”としてこの使者を出されたのですから」
その言葉に、胸の奥の緊張が、少しだけ解けた。
「じゃあ——」
私は、カリオンの方を振り向いた。
「会う」
短く宣言する。
「一度だけ。
“大公家の令嬢”じゃなくて、“ルシア”として」
森の中の空気が、少し違って感じる。
カリオンは、しばらく黙って私を見ていた。
黄金色の瞳の奥で、何かが静かに揺れている。
「……分かった」
やがて、ぽつりと言った。
「会えばいい」
「いいの?」
「お前が決めたんだろ。
俺が反対する理由はない」
そう言って、わざとらしくそっぽを向く。
「ただし」
「ただし?」
「俺も一緒に行く」
即答だった。
「え」
「勘違いするなよ」
耳が少し赤い。
「お前を渡さないためじゃない」
「うん?」
「……お前が何を選んでも、支えるためだ」
その一言が、胸の真ん中に落ちた。
じわり、と広がる温かさ。
涙腺が、また忙しくなりそうだ。
「お前が“戻る”って言っても、“残る”って言っても、
“間に橋を架ける”とかいう面倒なことを言い出しても」
「言いそう」
「否定はしねえよ」
カリオンは、肩をすくめる。
「その代わり、その全部を飯で支えてやる。
泣いたらスープ。
怒ったら肉。
悩んだらシチューだ」
「食べ物の種類で私の感情を整理しないでよ」
「整理しやすいだろ」
ふん、と鼻を鳴らす。
「とにかく、お前が“父と会う”って選んだ以上、
その場に俺がいない理由がない」
「……怖い?」
「人間の父親なんざ、魔物より面倒そうだ」
「それは否定できない」
思わず吹き出すと、カリオンも少しだけ笑った。
笑いながら、気づく。
(ああ、私)
この人と一緒に笑っているこの時間が、
本当に、心の底から好きなんだ。
「ありがとう」
自然と、言葉が出た。
「カリオンが一緒に来てくれるなら、怖さ半分くらいになる」
「半分かよ」
「……三分の一くらい?」
「最初からそう言え」
ぶつぶつ言いながらも、耳の位置がちょっとだけ上がっている。
黒豹は、本当に分かりやすい。
「じゃあ、オルウェン先生」
私は手紙を胸に抱え直した。
「父様に伝えてください」
「はい」
「——“ルシアとして、一度だけ会いに行く”って」
森の中の、土と草と煙の匂い。
その中に、少しだけインクと紙の匂いが混じる。
古い世界と、新しい世界の境目に、
また一つ、橋が架けられようとしていた。
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