恋も地位も失った令嬢ですが、転移した森で出会った獣人に胃袋を掴まれました

タマ マコト

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第17話「大公との再会と、娘としての本音」

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 森と人間の境界は、いつもより静かだった。

 数日前まで王家の軍旗がはためいていた丘のそば。
 今はそこに、簡素だけれど質のいい布で作られたテントがひとつ、ぽつんと建っている。

 白と深い紺色の布。
 杭の打ち方、継ぎ目の縫い方。
 どれを取っても「王都の職人の手だ」と分かる丁寧さ。

 テントの入口には、アルセイド家の紋章が小さく掲げられていた。

(……帰ってきたわけじゃない。境界線まで、会いに来ただけ)

 そう、何度も自分に言い聞かせる。

 喉の奥が、乾いた砂みたいにひりついていた。
 膝は笑いそうになっているのに、前に進むしかない。

「震えてるぞ」

 低い声が、肩の後ろから落ちてきた。

「震えてない」

「尻尾があったら、間違いなく巻き込んでる」

「人間に尻尾は生えないの」

「知ってる」

 カリオンはいつもの調子で言いながら、私の横にぴたりとついた。

 黒い耳は警戒気味に立ち、尾は低い位置でゆらりと揺れている。
 外から見たら、完全に“護衛”だ。

「……ここからは、俺は中には入らない」

 テントの前で足を止めたとき、カリオンが呟く。

「え」

「人間の空気は、鼻につく」

「はい、正直~」

「それに、これはお前と親父の話だ」

 黄金色の瞳が、真っ直ぐこちらを見た。

「俺はすぐ外にいる。
 声を上げるか、嫌な匂いがしたら、遠慮なく飛び込む」

「嫌な匂いって」

「お前が“責任”“義務”“体裁”とか言い始めたら全部」

「それ、私からも嫌な匂いするやつだよね」

「気づいてるならいい」

 カリオンの口元が、ほんの少しだけ緩む。

「行け、ルシア」

 心臓がどくんと跳ねた。

 テントの布が、風に揺れる。
 その向こうに、“家”の匂いが微かに漂ってきた気がした。

 紙とインクと、磨かれた革と、香の煙。

 王都の匂い。
 アルセイド家の匂い。

 私は、震える手で布をめくった。

 *

 テントの中は、外より少しひんやりしていた。

 床には毛織の敷物が敷かれ、簡素な机と椅子が二つ向かい合って置かれている。
 机の上には水と、陶器のカップが二つ。

 その奥に、ひとりの男が座っていた。

 見慣れたはずの背中。
 広い肩。
 銀に近い灰色の髪。

 ――ギルベルト・アルセイド。

 私の父。
 アルセイド大公家の当主。

「ルシア……」

 その背中が、ゆっくりとこちらを向いた。

 最初に目についたのは、目元の皺だった。

 以前より、増えている。
 口元のほうれい線も深くなっていて、“疲れ”が顔じゅうに刻まれていた。

 でも、目だけは。

 私を見つめるその瞳だけは、“大公”じゃなくて、“父親”のものだった。

 鋭くて、厳しくて。
 けれど、今はただただ、情けなくて、必死で。

「……父様」

 声が、震えた。

 父は、椅子から立ち上がった。
 机を迂回して、こちらに歩いてくる。

 その一歩一歩が、やけにゆっくりに感じられた。

 あと数歩で、手が届く。

 そこで、父はぴたりと立ち止まった。

 すぐ目の前。
 手を伸ばせば触れられる距離。

「……ルシア」

 名を呼ぶ声が、かすれていた。

「生きていたんだな」

 たった一言で、胸の奥がぐしゃっと潰れた。

 涙が、勝手にこぼれそうになる。
 必死で唇をかみしめた。

「はい」

 なんとか絞り出した声。

「生きています。
 森で、ちゃんと、食べて、寝て、起きてます」

 「ちゃんと」って、自分で言いながら変な言葉だと思った。

 でも、父の喉が、ごくりと上下するのが見えた。

 強く、目を閉じる。

 そして——ゆっくりと、息を吐いた。

「そうか……」

 その声が、あまりにも弱々しくて、逆に怖くなった。

 いつもは、明瞭で、力強くて。
 命令にも叱責にも、迷いがない人だったのに。

「……座るか」

「はい」

 父は、自分が座っていた椅子ではなく、反対側の椅子を引いた。

 向かい合う形じゃない。
 横並びに、少し斜めに。

 そんな位置取りに、微かな戸惑いと優しさが混ざっている気がした。

 私は椅子に腰を下ろした。
 布越しに感じる木の硬さが、やけにリアルだ。

 父も、隣に腰を下ろした。

 間に机はない。
 あるのは、不器用な距離だけ。

 しばらく、言葉が出なかった。

 テントの外からは、風で布が擦れる音と、遠くの鳥の声。
 その隙間に、二人の呼吸だけが落ちていく。

「……手紙は、読んだか」

 父が先に口を開いた。

「はい」

 喉がきゅっとなる。

「すみません、インク、ところどころ滲ませました」

「構わん」

 父は、小さく笑った。

「もともと、きれいにまとめられた言葉ではなかった」

 少しの沈黙。

 そして、私は覚悟を決めた。

「父様」

「なんだ」

「今日は、“大公家の令嬢”じゃなくて、“ルシア”として話します」

 声が震える。
 それでも、はっきりと言った。

「……そうしてほしい」

 父は、まっすぐ前を見たまま答えた。

「私も、“大公”ではなく、“ギルベルト”として話す」

 ギルベルト。
 父の名前を、心の中で一度なぞる。

(父様の中でも、何かが変わったんだ)

 そう思えたから、私は自分の胸の奥を、ゆっくりと開いていった。

「私はずっと——」

 ゆっくりと、言葉を探しながら話す。

「“大公家の令嬢”として褒められてきました」

 礼儀作法。
 舞踏会での振る舞い。
 外国の言葉の発音。
 笑うタイミング。
 完璧な姿勢。

「“さすがアルセイドの娘だ”“大公家にふさわしい令嬢だ”って。
 そう言われるのは、嫌いじゃありませんでした」

「そうか」

「でも——」

 胸の中で、何かがチクリとする。

「父様が、“ルシア”として褒めてくれた記憶は……あんまりありません」

 父の肩が、びくりと震えた。

「“大公家の誇りだ”って言葉も、嬉しかった。
 でも、あれは“アルセイドの娘として”私を見てくれている言葉でした」

 あの言葉を、どれだけの夜、心の中で反芻してきただろう。

 誇り。
 家の名。
 責任。

 それは全部、“令嬢”としての私だ。

「私が初めて、台所でこっそりお菓子を焼いて焦がしたときも。
 庭で泥だらけになって転んで怒られたときも。
 “ルシア”として笑ってくれた記憶は、あまりありません」

 父の横顔が、少しずつ強張っていく。

「だから——」

 喉が熱い。

「私も、父様に嫌われないように、ずっと“都合のいい娘”でいようとしていました」

 これは、ずっと胸の奥にしまっていた言葉だ。

「“アルセイドのためになる娘”であれば、父様に嫌われない。
 “王宮で恥をかかない娘”であれば、父様に認めてもらえる。
 そう信じて……自分の感情は、ずっと後回しでした」

 寂しい時も。
 怖い時も。
 悲しい時も。

 飲み込んで、“正しい顔”をすることを優先してきた。

「私が、“感情が重い”って誰かに言われたときも」

 その“誰か”の名前を出すつもりはない。
 もう、あの夜の相手に、ここで価値を与えたくないから。

「“そんな感情を持つ私の方が悪いんだ”って、自分を責めました。
 “父様なら、そんな私をきっと叱る”って思って」

「ルシア」

 父の声が、低く響いた。

 振り向くと、彼は手の甲をぎゅっと握りしめている。

「……すまない」

 その一言は、重かった。

「私は、家の長として、アルセイドの大公としての役目に縛られすぎていた。
 “家”のことばかり見て、“娘”を一人の人間として見る時間を……失っていた」

「父様は、悪く——」

「悪い」

 食い気味に遮られる。

「悪い。
 大公としては正しかったかもしれん。
 だが、“父”としては、明らかに間違っていた」

 ギルベルト・アルセイドという男が、自分の非をこんなにあっさり認める姿を、私は初めて見た。

「お前がいなくなって、私は初めて気づいた」

 声が震えている。

「アルセイド大公家がどうなるかよりも、王宮との関係がどう揺らぐかよりも……」

 一度、言葉が途切れた。

 喉の奥で、何かを必死で押し殺しているような音がする。

「私にとって、大公家よりも、お前が大事だったのだと」

 その言葉は、私の胸の真ん中にまっすぐ突き刺さった。

 張り詰めていた何かが、ぷつんと切れる。

「……ずるい」

 声がぐしゃぐしゃになった。

「何で、今言うの」

「今しか言えなかった」

 父も顔を歪める。

「お前が“家の令嬢”じゃなく、“森で生きるルシア”として目の前に立ってくれた今しか……
 私は、“父”になっていいと言えなかった」

 涙が、止まらなくなった。

 ぼろぼろと、勝手にこぼれていく。

「遅い……」

 子どもみたいな言葉が口から出る。

「もっと早く言ってよ……
 小さい頃からいっぱい、言ってくれても……よかったのに……」

「そうだな」

 父は、ひどく優しい声で返した。

「もっと早く言うべきだった。
 “アルセイドの誇りだ”ではなく、“ルシアが誇りだ”と」

 その言葉は、反則だ。

 どうしようもなく、ずるくて、温かくて。

「私は——」

 息を吸う。
 鼻が詰まっていて、うまく呼吸ができない。

「父様のこと、嫌いだった時もあります」

 正直に言った。

 父の肩が、ぴくりと揺れる。

「私を“家のための駒”としてしか見てないって、何度も思った。
 夜会で疲れて帰ってきても、“よくやった”って言葉より先に、“次の予定”の話をされた時は、正直……泣きたかった」

「……そうか」

「でも」

 涙を拭いながらも、口元を引き結ぶ。

「父様が、私にしてくれたことが全部嫌いだったわけじゃない」

 誕生日に一日だけ予定を空けて、庭で一緒に昼食を取ったこと。
 初めてドレスを着た夜に、「似合っている」とひと言だけ言ってくれたこと。
 夜遅くまで勉強していると、何も言わずに温かいミルクを机の上に置いてくれたこと。

「そういうの、ちゃんと覚えてます。
 ちゃんと、嬉しかったです」

 それが“父として”なのか、“大公として”なのか、ずっと分からなかった。

 でも今なら、少しくらい信じてもいい気がした。

「だから——」

 震える息を吐く。

「私も、父様に嫌われないように、いい娘でいようとしてました。
 “都合のいい娘”でいれば、父様の邪魔をしないで済むって。
 “感情を押し殺していれば、家のためになる”って」

 それが、いつの間にか自分を苦しめていた。

 でも、責めたいわけじゃない。

「ごめんなさい」

 ぽろっと、謝罪がこぼれた。

「勝手に森に落ちて、勝手にいなくなって。
 大公家にも、父様にも、迷惑ばかりかけて。
 それなのに、まだこうして“自分の気持ちを聞いてほしい”なんて言って」

 父は、静かに首を振った。

「謝るのは、私の方だ」

「父様……」

「お前はやっと、“都合のいい娘”をやめてくれた」

 そう言って、かすかに笑う。

「それを喜ぶ資格ぐらいは、父として私にもあるだろう?」

 視界が滲んで、よく見えない。

 だけど、父の手が、そっと私の肩に触れたのが分かった。

 ぎこちない動き。
 手のひらは大きくて、節くれ立っていて、温かい。

 次の瞬間、その手が私をぐいと引き寄せた。

 思わず、父の胸に、顔がぶつかる。

 固い鎧の胸板じゃない。
 布越しに感じる、体温。

「……ルシア」

 耳元で、低い声が落ちた。

「大きくなったな」

「今さら……」

 しゃくりあげながら、突っ込む余裕が少しだけあった。

「その台詞、十年前でも言えましたよ……」

「十年前は、まだ余裕がなかった」

 父の腕が、ぎこちなくも強く、私を抱きしめる。

「今でも、余裕はない。
 王宮も大公家も、揺れている。
 お前の選択で、状況はさらに複雑になった」

「ごめんなさい……」

「謝るな」

 頭に、重い手が乗せられた。

「だが——」

 父の声が、少しだけ震える。

「揺れているのは、悪いことばかりではないのかもしれん」

 ゆっくりと、言葉を選ぶ気配。

「私は、“大公家のために娘を使う”生き方が当たり前だと思っていた。
 だが、お前が森に行って、戻らないと決めたことで……
 私は初めて、“娘のために大公家を揺らしてもいいのかもしれない”と思った」

 そんな覚悟を、父が口にする日が来るなんて、想像もしていなかった。

「戻ってきてほしくないと言えば嘘になる」

 抱きしめたまま、父は続けた。

「私の本音を言えば、アルセイドの館に、もう一度お前の足音が響いてほしい。
 お前が夜会の準備をしている姿を遠目に眺めていたい。
 庭で本を読むお前を、窓から見る日々を取り戻したい」

 その願いは、あまりにも人間臭くて、苦しかった。

「だが——」

 一拍置く。

「それでも、お前がここで生きることを選ぶなら、その選択を尊重したい」

 抱きしめていた腕の力が、少しだけ緩む。

 私の顔を覗き込むように、父が身を引いた。

「ルシア」

 目の奥に、複雑な色が宿っている。

「家のためではなく、自分のために選べ」

 大公としてではなく。
 父としての命令でもなく。

 それは、ただの“願い”だった。

 胸の奥で、何かが静かにほどけていく。

「……ずるいな」

 涙でぐしゃぐしゃの顔で笑ってしまう。

「そんなこと言われたら、簡単に“こっちに残る”って言えなくなるじゃないですか」

「簡単に決めるなという意味だ」

 父も、少しだけ笑った。

 テントの入口から、一瞬だけ風が吹き込む。

 その隙間から、黒い影がちらりと見えた。

 外で腕を組んで立っているカリオンが、こちらに視線を向けている。
 表情は読みにくいけれど、その耳の角度は、どこか落ち着いて見えた。

(人間にも、こういう親がいるんだな)

 そんな声が、風に混ざって聞こえてきそうだ。

 私は、父の手をそっと握った。

「父様」

「なんだ」

「今すぐ答えは出せません」

 はっきりと言う。

「森に残るのか。
 王都に戻るのか。
 それとも、どこか間に橋を架けるのか」

「橋、か」

 父の口元がわずかに緩む。

「お前らしいな」

「だから、少しだけ時間が欲しいです」

 喉の奥が、まだ熱い。

「森で、もう少し生きてみて。
 自分の“仮面の外の顔”に慣れてみて。
 それから改めて、自分がどこにいたいのか考えたい」

 父は、しばらく黙って私を見つめていた。

 その沈黙は、昔みたいに怖くなかった。

 やがて、小さく頷く。

「分かった」

 それだけ。

 でも、それで十分だった。

「ただ、その“時間”がどれほど長くても、私は待つ」

 父は立ち上がった。

 アルセイド大公としての姿勢に、ほんの少しだけ戻る。

「大公家の門は、お前が“ルシアとして”帰りたいと思ったとき、いつでも開いている」

 その言葉が、どれほどの覚悟を含んでいるのか。
 王宮との関係、貴族たちの目、噂、批判。

 全部を飲み込んだ上で、それを言っている。

 私は、椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

 ルシアとして。
 娘として。
 そして、ほんの少しだけ、大公家の令嬢として。

 テントを出ると、森の匂いが一気に押し寄せてきた。

 土と草と、焚き火の匂い。
 落ち着く匂い。

「……どうだった」

 カリオンが腕を組んだまま、こちらを見る。

 私は、目元を袖でぐしぐし拭いながら答えた。

「ずるかった」

「知ってる」

「でも、ちゃんと“父”だった」

「そうか」

 カリオンの耳が、少しだけ上向きになる。

「父様、戻ってきてほしいって言ったよ」

「だろうな」

「でも、それでも私がここで生きるって選ぶなら、“尊重したい”って」

「人間にしちゃ、やるな」

「上から目線やめて?」

 思わず笑うと、カリオンも鼻を鳴らした。

「時間が欲しいって言った」

「どれくらいだ」

「分かんない」

「じゃあ、とりあえず今日の分の飯からだな」

「結局そこ」

「当たり前だろ」

 カリオンは、いつもの調子で言った。

「お前が何を選ぶにしても、腹が減ってたらまともに考えられない」

「……それは否定できない」

 森の風が、頬を撫でる。

 王都と森の境界線の上で、
 一人の父と、一人の娘の関係が、ゆっくりと形を変え始めていた。
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