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第18話「新しい立場──森と人間を繋ぐ、“胃袋外交官”」
しおりを挟む森の空気に、少しだけ人間の匂いが混じり始めた。
土と草と獣の匂いの中に、革と金属と香の匂い。
遠くで、馬のいななきがかすかに響く。
王宮と大公家、それから獣人たち。
三つの世界が、ようやく“話し合いの場”を持とうとしていた。
もちろん、最初から上手く行くはずなんてない。
「……あいつら、本当に話し合う気があるのか?」
里の広場で、ハルクがうんざりしたように耳を倒した。
「“我々に危害を加える意思はない”とか言いながら、しっかり武装してやがる」
「武装しなかったらしなかったで、“なめてるのか”ってキレるのが人間でしょ」
リュナが尻尾をばさばさ揺らしながらため息をつく。
「まあ、とにかく今のところ、あんたたちを“狩りに来た”って感じじゃないのは救いだけど」
獣人たちの不信感は、根っこが深い。
昔、人間が森を切り開こうとした時、
“共に暮らそう”と笑いながら、鎖と檻を用意していた貴族たちの話を、私は何度も聞いた。
それでも今こうして王宮の使者たちが、森の奥ではなく境界線近くの広場に留まっているのは——
「ルシア様が間に立つから、でしょうね」
オルウェンが穏やかに言った。
「大公家令嬢としての顔と、森に住む人としての顔、その両方を持っている方など、他におりませんから」
「…俺の名前を省くなよ」
木にもたれていたカリオンが、低く言う。
黄金色の瞳が、ちらりとオルウェンを睨んだ。
「森と人間の間に立ってるのは、こいつだけじゃねえ。
俺も、多少は噛んでる」
「もちろん存じておりますよ、黒豹殿」
オルウェンは、まったく動じない。
「あなたが“ルシア様の連れ”としてそこに立ってくださるからこそ、獣人側も完全には扉を閉ざさない。
人間側も、“彼女が獣人に囚われている”という妄想から離れられる」
“囚われてる”なんて言われたら、カリオンに失礼にもほどがある。
「囚われてるどころか、私の方が勝手に転がり込んだんですけどね……」
小さく呟くと、カリオンが鼻を鳴らした。
「そうだ。
勝手に落ちてきて、勝手に腹減らして、勝手に飯に惚れた」
「最後のは余計かな?」
「事実だろ」
図星すぎて反論しにくい。
そんなやり取りをしていると、遠くの方で王宮の使者たちが動き始めた。
森側代表と、人間側代表。
いつもの広場の焚き火を中心に、簡易のテーブルと椅子が並べられていく。
「いよいよ、だな」
ハルクが耳をぴんと立てる。
「人間と獣人が、“言葉だけ”で話す時間なんて、今までほとんどなかった。
牙を剥かずにどこまでやれるか、見ものだな」
……“言葉だけ”で。
その言葉に、小さな違和感が胸に刺さった。
(“言葉だけ”……本当に、言葉だけでいくの?)
王宮の言葉は、よくも悪くもすれ違いやすい。
綺麗で、通りがよくて、誤魔化すのにも便利。
獣人たちの言葉は、ストレートだけど、時々それが刃になる。
その両方がぶつかり合ったら、最初の一声で喧嘩になってもおかしくない。
(何か、他に……)
ふと、鼻先をくすぐる匂いがあった。
焚き火の煙。
カリオンが煮ているスープの匂い。
それに混ざる、干し肉と香草の香り。
(……あ)
胸の奥で、小さな灯りがともる。
森に来てから、何度も感じてきたこと。
泣いた夜も。
喧嘩した夕方も。
不安で眠れなかった朝も。
いつだって、最初に心をほぐしてくれたのは、“言葉”じゃなくて、“匂い”だった。
スープの湯気。
焼き肉の油。
香草のさわやかさ。
それらが、“ここにいていいんだ”って先に伝えてくれた。
「……ねえ、カリオン」
私は、鍋をかき混ぜている黒豹に歩み寄る。
「なんだ」
「会談の席に、“食事”を出すのって、変?」
「変じゃないが」
即答だった。
「食いながら話すのは、獣人も人間もやってることだろ」
「今回は、“ただの食事”じゃなくて、“場をほぐす道具”にしたいの」
「道具ね」
カリオンの耳が、少しだけ起きる。
「言ってみろ」
「私、今の自分の“武器”って何かなって、ずっと考えてたの」
礼儀作法。
宮廷のルール。
外交の笑顔。
それは、あの世界で身につけたものだ。
そして——
火の起こし方。
包丁の持ち方。
味を整える感覚。
誰かのために鍋を混ぜ続ける根気。
それは、この森で身につけたもの。
「“大公家の令嬢”としての礼儀と教養。
“森のルシア”としての料理」
その両方を持っているのは、たぶん今のところ私だけだ。
「だったら、会談の場にも“料理”を連れていきたい。
言葉だけじゃなく、“同じものを食べている時間”を作りたい」
カリオンは、しばらく黙っていた。
鍋の湯気が、ふわりと立ち上る。
「人間は、獣人の飯を警戒する」
やがて口を開いた。
「“毒が入っているかもしれない”“魔物の肉かもしれない”と疑う。
実際、俺たちの食い物は人間の胃にはきついものもある」
「だから、“人間でも食べやすい獣人料理”を考えたいの」
自分でもわくわくしているのが分かった。
「獣人がいつも食べているものに、人間の世界の食材や調理法を混ぜる。
両方の世界を知ってるからこそできる料理があると思う」
カリオンが、じっとこちらを見た。
黄金色の瞳に、焚き火の火がチリチリ映る。
「……やろう」
短くそう言って、口の端を少し上げた。
「“胃袋から始める交渉”ってやつだな」
「それ、すごく好きな響き!」
思わず笑うと、背後でリュナがくすっと笑った。
「なんかもう、ルシアって“胃袋外交官”って肩書きの方がしっくりくるわよね」
「外交官っていうほど偉くないけど……でも、それでいいかも」
“飾りの令嬢”でも、“駒”でもない。
“胃袋外交官”。
それは、ちょっとおかしくて、でも妙にしっくりくる言葉だった。
*
準備の日々は、ちょっとした戦争だった。
「そのスパイス、人間にはきつい」
「いや、これくらい入れないと肉の臭みが消えない」
「香草を足せば臭みは薄まるわ。
人間の世界では、こういうハーブを使うの」
狐族のリュナと一緒に、香草の束を選ぶ。
森でよく使われる強い香りの葉と、王都で流行っていた爽やかなハーブ。
それらを組み合わせて、肉の煮込み用のブレンドを作っていく。
「こっちの根菜は、人間も大丈夫か?」
「大丈夫。毒はないし、スープに合う」
ハルクが運んできた根菜を、私は包丁で切り分ける。
丁寧に皮をむき、形を揃える。
「形を揃えてどうする」
「見た目がきれいだと、それだけでちょっと安心するの。
人間って、視覚情報に弱いのよ」
「面倒な種族だな」
「獣人も、綺麗な毛並み見るとちょっとテンション上がるでしょ」
「それは否定できない」
そんな感じで、あちこちで小さな掛け合いが生まれる。
森に人間側から持ち込まれた食材もあった。
乾燥させた豆。
保存のきくチーズ。
塩蔵された肉。
「このチーズ、獣人でもいけるかな」
「匂いは悪くない。
焼いたらいけるか?」
「焼いて、香草と一緒に平たいパンに乗せて……」
頭の中で、いくつもの組み合わせが弾けていく。
宮廷で見た料理と、森で食べてきた料理。
その記憶を、頭の中でぐるぐる混ぜて、新しい形にしていく。
いくつも失敗した。
しょっぱ過ぎたスープ。
味がぼんやりしたシチュー。
焼きすぎて硬くなった肉。
「これはダメだな」
「これは……獣人にはいけるけど、人間にはきつい」
「これは逆に人間側は好きそうだけど、獣人からしたら物足りない」
試食のたびに、いろんな意見が飛ぶ。
でも、その全部が楽しかった。
こんなふうに、“誰かの胃袋を想像しながら作る料理”を、私は今までしたことがなかったから。
「ルシア」
ある夜、鍋を前に肩で息をしていると、カリオンが声をかけてきた。
「倒れる前に寝ろ」
「あと一品……」
「もう十分だ」
カリオンは、鍋から湯気をひとすくいして、ふうっと吹いた。
「お前の“今できる全力”は、もう鍋の中に入ってる」
その言い方が嬉しくて、少し目頭が熱くなった。
*
そして、会談当日。
森の広場は、いつもとまるで違う雰囲気に包まれていた。
獣人たちの代表——狼族の長老や、狐族のまとめ役。
人間側の代表——王宮の使者と、大公家の側近。
その両方が、一本の大きなテーブルを挟んで向かい合う。
テーブルは、森の木々を削って急ごしらえしたものだ。
でも、その上には——
「……なんだ、これは」
人間側代表が、思わず言葉を漏らした。
テーブルの上には、所狭しと料理が並んでいた。
香草を散らした肉の煮込み。
根菜と豆を使った温かいスープ。
薄く伸ばした生地にチーズと刻み野菜を乗せ、香草と一緒に焼き上げた平たいパン。
森で採れたキノコと乾燥肉を炒めた香り高い一皿。
どれも、獣人の里で普段食べられているものをベースに、人間の世界の食材や盛り付けの工夫を加えた料理だ。
「本日の会談の前に……」
私は、テーブルの端に立って一礼した。
「“森の食事”を、召し上がっていただきたいと思います」
人間側の何人かが、露骨に顔をしかめた。
「毒見は?」
その言葉に、広場の空気がぴりっと張りつめる。
獣人たちの耳が、一斉に立った。
「毒なんか入れてないわよ」
リュナが尻尾を揺らしながら冷たく笑う。
「そんな子どもじみた真似したら、“この森全体が敵だ”って言ってるのと同じでしょ。
そんな暇、ないの」
「第一、これ全部、俺たちも食う」
ハルクが腕を組んで言った。
「そんなもんに毒入れたら、誰が一番先に死ぬと思ってんだ、人間」
人間側の代表が言葉を詰まらせる。
私は、カリオンと目を合わせた。
カリオンはうなずき、最初に肉の煮込みをひと皿取った。
そして、その場で普通に食べる。
「うまい」
短く、それだけ。
獣人たちも、次々に皿を手に取って食べ始めた。
「いつものより、ちょっと香りがまろやかだな」
「この根菜のスープ、胃に優しい味だ」
「平たいパン、なんか楽しい」
わざとらしくない、自然な感想。
私は、その様子を見てから、人間側の方に向き直った。
「人間側の使者として来られた皆さまにも、安心して食べていただけるように、
味や使う香草は慎重に選びました」
礼儀作法の教本通りに、一礼。
「もし、どうしても不安であれば、ここで私が先にいただきます」
そう言って、私は人間側に近い皿から一口取り、ぱくりと口に運んだ。
温かさと旨味が、舌から喉に、すっと落ちていく。
「……おいしい」
正直な感想が漏れた。
私が咀嚼して飲み込むのを、人間側の視線がじっと見ている。
喉を通る感覚が、妙に意識される。
飲み込んでから、もう一度笑った。
「大丈夫ですよ。
毒を盛るつもりなら、もっと目立たないやり方を選びます」
「お前、そこで冗談を飛ばすか」
カリオンが小声で突っ込んできた。
人間側の代表が、困ったように眉をひそめる。
「……失礼だが、これを作ったのは誰だ」
「私と、森の皆です」
はっきり言う。
「獣人の里の料理をベースに、人間側の食材や調理法を加えました。
“どちらかの世界だけの味”ではなく、“ここだけの味”になっているはずです」
しばらくの沈黙。
それから、人間側代表の一人が、ひと皿取り上げた。
恐る恐る、スプーンで少しすくい、口に運ぶ。
その瞬間、わずかに目を見開いた。
「……悪くない」
こわばっていた顔が、ほんの少しだけ緩んだ。
もう一人が、平たいパンをちぎって食べる。
「このチーズは、我々のものか」
「はい。
森で採れた香草と合わせて焼きました」
「香りがいい。
こういう食べ方は、王都ではあまり見ないな」
皿の数が、ひとつ、またひとつと減っていく。
最初の一口を越えると、意外なほどスムーズだった。
「これは何の肉だ?」
「どうやって保存している?」
「この根菜は、あちらの世界にもある種類だ」
「ならば、いずれ食材の交換も視野に入るかもしれない」
会話のトーンが、わずかに柔らかくなっていく。
最初にあった剣呑さが、少しずつ湯気で薄まっていくような感覚。
(ああ……)
胸の奥で、小さな感動がじんわり広がる。
(食べ物って、本当に、言葉より先に相手の心に触れるんだ)
宮廷では、豪華な料理は“見せるための道具”だった。
どれだけ高級な食材を使えるか、どれだけ美しく並べられるか。
でもここでは——
“同じものを食べている”という事実が、少しだけ心の距離を近づけてくれる。
獣人も、人間も。
口を動かしている間は、余計な言葉が出てこない。
そこに生まれる、わずかな“余白”。
それが、きっと必要だった。
「ルシア」
ふと、隣から小さく呼ばれた。
振り向くと、大公——父が、こちらを見ている。
今日は“アルセイドの代表”として来ているから、顔つきは大公のものだ。
でも、瞳の奥に住んでいるのは、先日の“父”のままだった。
「少し誇らしい気持ちだ」
「え?」
「“大公家の令嬢”としてではなく、“森の娘”としての振る舞いをしているお前を見ていると、な」
父は、わざとらしくない程度に口元を緩めた。
「胃袋外交官、という肩書きも悪くない」
「誰が父様に教えたの、その言葉」
思わず笑うと、父の視線がカリオンの方へちらりと流れた。
「……黒豹か」
「……狐かもしれません」
私とカリオンと父の間に、妙な沈黙が落ちて、
隣でリュナがきれいに目を逸らした。
とにかく、今はそれでいい。
私は、自分の中に生まれた小さな誇りを、そっと撫でるように抱えた。
(私は、“飾りの令嬢”じゃない)
スプーンを運ぶ人の数だけ、胸が温かくなる。
(私が選んだ道は、間違ってなかった)
森と人間を繋ぐ橋。
まだ細くて頼りないけれど、その上にはっきりと、温かい匂いが流れていた。
*
その頃——王都の一角では、別の温度の空気が流れていた。
「……今回の交渉の代表に、デュルクは含まれていないのですか」
第二王子付き執務室。
書類の山を前に、デュルク・ヴァレンツは、目の前の文官に問いかけた。
文官は、気まずそうに視線を逸らす。
「はい。
陛下ならびに上層部のご判断で、“今回は別の者を立てるべきだ”と」
「“別の者”」
喉の奥で、その言葉が硬く転がる。
「私は、今回の森の件に、最初から関わってきたはずだが」
「そのことが、むしろ……」
文官が口ごもる。
「“これ以上、火種を増やされたくない”という空気があるのは、事実です」
“失踪した令嬢”。
“見つけたのに連れ戻せなかった男”。
その二つの影が、彼の肩に重くのしかかっている。
今回の交渉は、獣人という未知の種族との初めての本格的な折衝でもある。
王宮は、一つでも余計な不安要素を排除したい。
その“余計な不安要素”に、自分が含まれている。
「俺は……必要ない、というわけか」
乾いた笑いが漏れた。
人を“役目”と“立場”で見てきた男が、今度は自分が“役に立たない立場”に追いやられている現実。
報告書の端には、こんな一文があった。
『森と人間の橋渡し役として、アルセイド大公家令嬢ルシアが大きな役割を果たしうる』
“ルシアが”。
そこに、自分の名前はない。
(昔は、“ルシアの隣にいる自分”に価値があると思っていた)
大公家の令嬢と親しい第二王子側近。
政治的にも悪くない立場だと計算していた。
あの夜、テラスで言った言葉。
『君は優秀だし、大公家の令嬢としての価値は高い。でも……感情が重いんだ』
それを突き返すように放たれた、彼女の言葉。
『私の感情は、私のものよ。重いと思うなら、最初から近づかなければよかった』
あの瞬間、自分は彼女の心から追い出されたのだ。
今度は——
王宮という場所からも、静かに押し出されつつある。
(重い、と言った俺が)
心のどこかが、鈍く笑った。
(今度は、自分が“誰からも重く思われない存在”になっているのか)
誰も、自分にこの交渉を任せようとしない。
誰も、自分が橋渡し役になることを期待していない。
責任も、役目も、期待も。
全部が、別の誰かに向けられている。
その中心にいるのは、森にいる“元令嬢”。
「……ざまぁ、か」
自嘲気味に呟いて、天井を見上げた。
誰かがそう言ってくれた方が、まだ楽だった。
けれど、現実はもっと静かで、残酷だ。
世界は、自分がいなくても、普通に回っていく。
自分が失敗した場所で、
誰か別の人間——いや、人間と獣人の“胃袋外交官”が、ちゃんと結果を出している。
それを想像しただけで、胸がじわりと痛んだ。
でも、その痛みを“悔しさ”に変えるほどの気力は、今の彼にはまだなかった。
***
森の広場に戻る。
皿がだいぶ片付き、
空になった器を前に、人間と獣人たちが、少しだけ柔らかい声で言葉を交わしている。
もちろん、まだ信頼には程遠い。
条件交渉や利害調整は、このあと何度も続くだろう。
それでも、今日という日は——
「一歩、だな」
カリオンが、片付けながらぽつりと言った。
「一歩、だね」
私も頷く。
「まだ、全然足りないけど。
でも、“一緒に飯を食った日”っていう記憶は、きっと残る」
誰かが、“あの日のスープはうまかった”って思い出してくれたら。
その時、森と人間の関係は、少しだけマシになっているかもしれない。
「ルシア」
背中を、軽くつつかれた。
父だった。
「お前は、もう“大公家の令嬢”だけではないのだな」
「はい」
胸を張って言う。
「森と人間を繋ぐ、“胃袋外交官”です」
自分で言って少し笑った。
でも、その肩書きが、今はとても誇らしかった。
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