恋も地位も失った令嬢ですが、転移した森で出会った獣人に胃袋を掴まれました

タマ マコト

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第19話「森の宿と、ふたりで作る未来のメニュー」

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 森と人間の会談が一段落して、空気がほんの少しだけ落ち着いた頃。

 私の頭の中には、ずっと離れない光景があった。

 ――境界の丘。
 森からも王都からも、同じくらい距離がある場所。
 木々の合間を抜ける風が気持ちよくて、焚き火を焚いても煙がこもらない、ちょうどいい地形。

 あそこに、屋根がひとつあったら。
 小さな宿と、食堂と、焚き火と、湯気。

 人間も獣人も、両方が腰を下ろせる場所。

 そんな妄想が、日に日に輪郭を持ちはじめていた。

「……ねえ、カリオン」

 ある昼下がり。
 洞窟の外で薪を割っている背中に、私は声を投げた。

「もしさ、森の境界のあの丘に、小さな家を建てたら、どう思う?」

「家?」

 ざく、と薪を割る音が止まる。

「お前、もう家あるだろ」

「あなたん家ね、それは」

「そうだ」

 当たり前みたいに言わないでほしい。
 ほっぺが勝手に熱くなる。

「えっと……そうじゃなくて。
 黒豹の巣とは別に、“みんなの家”みたいな場所」

「巣って言うな」

「……ごめん」

「で、“みんなの家”ってなんだ」

「宿みたいな場所」

 言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。

「境界の丘に、小さな宿兼食堂を作るの。
 森から来た獣人も、王都から来た人間も、両方が休める“中立地”みたいな」

「中立地」

 カリオンが眉をひそめる。
 でも、その声は即座に否定する感じではなかった。

「それは……また面倒なことを思いついたな」

「自覚はある」

 くすっと笑う。

「でも、政治的な交渉の場って、どうしても空気が重くなるじゃない?
 そこで、一息つける場所が必要だと思うの」

 焚き火の匂いと、温かいスープ。
 硬い椅子じゃなくて、ちょっと軋むけど落ち着くベンチ。
 言葉の駆け引きじゃなくて、今日のご飯の話ができる場所。

「“胃袋外交”の拠点ってことか」

「……そう言われると、ちょっとカッコいいかも」

「お前が嬉しそうだから、多分合ってる」

 カリオンは、割った薪を束ねながら、ちらりとこちらを見た。

「どんな宿にする」

 否定じゃない。
 “もしやるなら”の話に、自然と乗ってくれたのが嬉しかった。

 私は、弾かれたみたいに言葉を継ぐ。

「まず、一階は食堂にしたい」

「上は?」

「上は小さな部屋をいくつか。
 獣人用に毛布を多めに敷いた部屋と、人間用にベッドのある部屋を分けて……」

「寝相が悪い獣人が人間を踏まないようにか」

「そういうこと」

 想像するとちょっと笑えるけど、冗談じゃなく大事な区別だ。

「食堂には、大きなテーブルを一つ置く。
 ひとりずつ区切られた席じゃなくて、“知らない人同士がたまたま隣り合ってしまう”ような長いテーブル」

「喧嘩の元にならないか」

「喧嘩になりそうなときは、スープを出す」

「……万能の解決策みたいに言うな」

「でも、温かいもの飲んでるときって、そんなに大声出しにくくない?」

「……まあ、確かに」

 カリオンが、少しだけ口元を緩める。

「で、料理は?」

 ――来た。

 私の中で一番わくわくしているパートだ。

「季節ごとに変えたい」

 目の前がぱっと明るくなる感覚。

「春は、森の若葉と香草を使ったスープ。
 山菜と人参をたっぷり入れて、少し酸味のある乳を加えて、冬の疲れを抜くような味にしたい」

「山菜は、あの丘の北側にいいのが生える。
 香草は、狐どもの畑から少し分けてもらえる」

「夏は、軽めの煮込みと、焼いた肉と、冷やした豆のサラダ」

「冷やした豆?」

「人間の世界で、夏に人気なの。
 塩と香草で味をつけて……あ、獣人からすると物足りないかも」

「肉汁を少し絡めれば、獣人も食える」

 カリオンの声が、自然と具体的になっていく。

「秋は、きのこと根菜のシチューをたっぷり」

「森の奥に、いい香りのきのこが生える場所がある。
 毒見は俺がやる」

「毒見って……そこは慎重にね?」

「冬は?」

 来た。
 私の中で、一番楽しみにしている季節。

「冬にはね、温かい煮込みを出したい」

 胸の奥が、じんわりと熱くなる。

「寒い中、凍えそうになってたどり着いた人が、“生きててよかった”って思えるような……
 そういう、重たくて、熱くて、香りが良くて、胃の底から解けるような煮込み」

 私の頭の中には、あの夜のシチューが浮かんでいた。
 カリオンがぼろぼろで帰ってきて、震える手で鍋をかき混ぜながら作った、あのシチュー。

「あのときみたいな」

 ぽつりと呟く。

「“生きて帰ってきてくれてよかった”って、心から思える味」

 カリオンは、しばらく黙っていた。

 薪をまとめる手を止め、空を見上げる。

「……それなら、骨付きの肉を長く煮るといい」

「骨付き?」

「ああ。
 骨から出る旨味が、煮込み全体を支える。
 根菜と豆を入れて、少しだけ酸味のある果実を足せば、体の芯から温まる」

「そんな果実、森にあるの?」

「森の奥にな。
 甘すぎず、酸っぱすぎないやつが」

 彼の横顔が、焚き火のすすで少し黒くなっている。
 その姿が、とても愛おしく見えた。

「……ねえ、なんでそんなに具体的に出てくるの」

「いつも飯のことを考えてるからだ」

「そういう意味じゃなくて!」

 でも、その答えが妙にカリオンらしくて笑ってしまう。

 宿の設計の話は、そのあとも続いた。

 入口は二つ作るか、一つにして中で区切るか。
 椅子は足付きのものか、獣人が座りやすい低い台にするか。
 厨房は、カリオンサイズでも動きやすい天井の高さにすること。
 煙突は二本あった方がいい。
 冬に凍らないような水場の確保。

 話せば話すほど、“ただの夢”だったものが、少しずつ現実の形を持ちはじめる。

「――市場にも行かなきゃね」

 数日後、私は紙に書きなぐったメモを見ながら言った。

「市場?」

「人間の世界と森の間で、食材のやり取りをする場所が必要になるから。
 塩とか、豆とか、保存のきくチーズとか。
 逆に、森からは香草や干し肉を出していく」

 王都の市場に足を踏み入れるのは怖い。
 でも、全部を森だけでまかなうのはもっと危うい。

「だから、“境界市場”みたいな小さな取引の場を作っていく必要があると思う」

「お前、どんどん忙しくなるな」

「胃袋外交官、ですから」

 肩をすくめると、カリオンが鼻を鳴らした。

「市場に行くなら、俺も行く」

「え」

「獣人の目がないと、森の物の価値、分からんだろ」

 それは、間違いない。

 人間が森の物を見て、“安く買い叩こうとする”未来が、簡単に想像できてしまう。

「それに、お前ひとりで王都に近づけるか」

 黄金色の瞳が、じっとこちらを見た。

「途中で気が変わって、城門くぐるんじゃねえだろうな」

「……それは、ない」

 即答してから、少しだけ視線が泳いだ。

「多分」

「“多分”がついたな」

 カリオンは、大きくため息をついた。

「だから俺が行く」

「護衛として?」

「監視として」

「言い方!」

 そんなやり取りを繰り返しながら、私たちは少しずつ、“仕事のパートナー”として動くようになっていった。

 一緒に市場に出て、王都側の商人と値段交渉をする。
 森に戻ってきて、買ってきた食材で新しいメニューを試作する。
 失敗作を、結局二人で笑いながら食べる。

 昼は“仕事の相棒”。
 夜は“同じ焚き火を囲む相棒”。

 そういう関係が、自然に出来上がっていく。

 でも――

(これって、どこまで行っても“仕事”なんだろうか)

 皿を洗いながら、ふとそんな考えが頭をよぎる。

 彼にとって、私は何なのか。

 “落ちてきた人間の女”。
 “飯を作る相棒”。
 “宿の共同経営者”。

 それ以上の何かになれているのかどうか、怖くて聞けない。

(私の方は、もうとっくに“仕事以上”だって分かってるのに)

 焚き火越しの横顔を見るたびに心臓が跳ねるし、
 名前を呼ばれるたびに息が詰まるし、
 不器用な優しさを向けられるたびに、情けないくらい泣きそうになる。

 これで自分の気持ちに気づかないほど鈍くはない。

 ――好きだ。

 それも、“胃袋を掴まれた相手”としてじゃなくて。
 ちゃんと、ひとりの人間として、カリオンという黒豹の男の全部が好きだ。

 問題は、彼がどう思っているか。

(“俺の女”とか、平気な顔して言ったりするくせに)

 思い出しただけで、耳が熱くなる。

 でも、その後に気まずそうに話題を変えたりするから、
 本気なのか照れ隠しなのか、よく分からない。

(怖いな)

 このまま宿が形になっていくうちに、
 彼にとっての私は、“仕事上必要な人間”になってしまうかもしれない。

 そうなったら、告げる勇気なんて、ますますなくなる。

 一方で――

 カリオンもまた、別の怖さを抱えていた。

 森で狩りをしているとき。
 木々の間を跳び移りながら、彼はふいに空を見上げることがある。

(いつか、こいつは完全に“人間の世界に戻る”って言うかもしれねえ)

 父と向き合い、王宮とも話し合いをし、
 森と王都の橋渡し役として、少しずつ立場を築き始めているルシア。

 彼女が本気を出せば、
 森と人間の間に“正式な外交官の座”が用意される日も来るかもしれない。

 そうしたら――
 森の黒豹なんて、“危険な影”として遠ざけられてもおかしくない。

(“胃袋外交官”なんてふざけた肩書きで笑ってるうちはいいが)

 本当に彼女が、人間の世界で必要とされはじめたとき。
 そのとき、彼女はどこにいたいと願うのか。

 彼はそれを考えるのが、正直、怖かった。

(俺には、“戻るな”って言う資格はない)

 一度、それを選ばなかった。
 “戻るな”と言えば、彼女はその言葉に縛られる。
 それが嫌で、敢えて言わないことを選んだ。

 ならば今も同じだ。

 たとえ宿を一緒に作っていても。
 たとえ同じ鍋をつついていても。

 彼女の行き先を決める権利は、自分にはない。

(勝手に決めて、勝手にいなくなるのを、待つしかねえのか)

 そう思うとき、胸の奥にひどく重い石が乗る。

 だからこそ、彼もまた、言葉にするのが怖かった。

 “残れ”も“行くな”も。
 “好きだ”も、“そばにいてくれ”も。

 全部、重すぎる鎖になりそうで。

 ***

 そんな、言葉にならない感情を溜め込んだまま、時間は過ぎていく。

 ある夜。
 私たちは、境界の丘の少し手前に立っていた。

 森と王都を繋ぐ細い道が、月明かりに照らされている。

 足元には、細長い板。
 その上に、まだ文字のない木の看板。

「……ここか」

 カリオンが腕を組んで、丘の斜面を見下ろす。

「風通しはいい。
 水場は、少し下に行けば湧き水がある。
 獣の通り道とも被ってない」

「王都から来る人が、ぎりぎり“頑張れば歩いて来れる距離”だね」

「そうだな。
 馬で来て、ここで一泊してから森に入るやつも出てくるだろう」

 まだ何も建っていない。
 土と草と石だけの斜面。

 でも、私の頭の中にはもう、はっきりとした絵があった。

「ここに、小さな宿を建てる」

 ぽつりと呟く。

「入口の横に、この看板を立てる。
 “森の宿”って」

「そのまんまだな」

「分かりやすさ、大事だから」

 看板には、まだ何も彫られていない。

 その板を膝に乗せて、私は小さなナイフを手に取った。

「何を彫るんだ」

「文字と……あと、なんか印みたいなの」

「印?」

「たとえば、鍋の形とか。
 “ここは飯が食える場所です”って、一目で分かるように」

「鍋か」

 カリオンが、ふっと鼻で笑った。

「お前らしい」

「でしょ?」

 板に、ゆっくりと文字を刻んでいく。

 『森の宿』
 その下に、小さな鍋の絵。

 ぎこちない線だけれど、見ているだけで胸が温かくなる。

「……ねえ、カリオン」

 彫る手を止めて、ふと彼を見上げた。

「なんだ」

「ここがさ」

 月明かりに照らされた斜面と、まだ見ぬ宿の姿を想像しながら。

「ここが、私の“帰る場所”になってもいい?」

 ナイフの刃先が、少しだけぶれた。

 静かな夜。
 虫の声と、遠くの梟の鳴き声。

 その隙間に、私の言葉が落ちていく。

 カリオンは、一瞬だけ固まった。

 黄金色の瞳が、月明かりを反射する。

「“家”って言われると、まだちょっと重たいから」

 それでも、続ける。

「王都にも、大公家にも、“帰れる場所”は一応ある。
 でも、そこは多分、“仮面を被って立つ場所”で」

 胸の中心を、そっと押さえる。

「ここは、“仮面の外の顔”で帰ってきていい場所にしたい」

 薪を抱えたまま、ふらっと戻ってきて。
 「おかえり」と言う代わりに、「腹減った」と文句を言い合えるような。
 そういう、どうしようもなくくだらなくて、あったかい場所。

「……ダメ?」

 自分で聞いて、自分で怖くなる。

 “いい”と言ってほしい。
 でも、“いい”と言わせることが、彼を縛ることにならないかも怖い。

 言葉の網に、自分も相手も絡めたくなくて。
 でも、何も言わなければ、この気持ちは宙ぶらりんのままだ。

 胸の奥が、ぎゅうっと縮まった。

 カリオンは、しばらく黙っていた。

 森の夜の匂いが、風に乗って流れていく。

 彼は、視線を遠くに向けたまま、ゆっくりと息を吐いた。

「……勝手に帰ってこい」

 ぽつりと、落とした。

「え」

 予想していた言葉と、少しだけ違った。

「ここを“お前の帰る場所”にしていいかどうかなんて、俺に聞くな」

 カリオンは、月を見たまま続ける。

「帰りたいと思ったときに帰ってくりゃいい。
 怒ってても、泣いてても、笑ってても。
 腹減ってても、減ってなくても」

「減ってなくても?」

「嘘つけ。いつも減ってるくせに」

「ひどくない!?」

 思わず抗議すると、彼は少しだけ口の端を上げた。

「……とにかく」

 言葉を探すように、くぐもった声で続ける。

「“帰ってきていいか”なんて聞かれると、“帰るな”って言えなくなる」

 心臓が、ドクンと跳ねた。

「“帰ってくるな”って言った方が、お前は自由なんだろうが。
 俺には、その台詞を言う根性がない」

 耳の先が、ほんの少し赤い。

「だから、勝手に帰ってこい」

 そっぽを向いた横顔が、やけに眩しく見えた。

 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。

 苦しいのに、痛いのに、
 どうしようもなく嬉しくて、笑いそうになる。

「……うん」

 ナイフを握る手に、力を込める。

「勝手に帰ってくる」

 笑いながら、涙が出そうだった。

「迷っても、寄り道しても。
 それでも、最終的にはここに戻ってくる。
 そういう場所にしたい」

「だったら、迷って戻ってこられるくらい、目立つ看板にしろ」

「任せて」

 私は、板の上にもう一本線を足した。

 鍋から立ち上る、湯気の線。

 ゆらゆらと揺れるその線が、
 私にとっての“道しるべ”になるような気がした。

「……カリオン」

「なんだ」

「いつもありがとう」

 月明かりの下で、そっと呟く。

「宿の話も、料理の相談も、
 “勝手に帰ってこい”って言ってくれたのも」

「礼を言うな」

 彼は、少しだけ顔を背けた。

「礼を言われたら、“ここにいろ”って言いそうになる」

 その不器用な言葉に、
 胸がきゅうっと締め付けられる。

(ずるいな、この黒豹)

 でも、そんなずるさも全部ひっくるめて、
 私は彼が好きなんだと思う。

 まだ言葉にはしない。

 でも、看板には刻んだ。

 『森の宿』
 ――“ただいま”を言える場所。
 “おかえり”を待たなくても、勝手に帰ってこれる場所。

 鍋から立ち上る湯気の印が、
 その全てを、静かに物語っていた。
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