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第20話「心も未来も、胃袋から掴まれる」
しおりを挟むその日は、朝から空の機嫌が怪しかった。
いつもの森の空は、葉の隙間から差し込む光で、まだらな模様を地面に落とす。
でもその日は、光よりも“重さ”の方が勝っていた。
雲は低く、色は鉄みたいに鈍い。
風はやけに生温くて、肌にまとわりつく。
「……嫌な空だな」
境界の丘で材木を運んでいたカリオンが、耳を伏せながら空を睨んだ。
黒い耳が、じりじりと落ち着きなく動く。
「嵐、来そう?」
「風の匂いが変だ。
森の奥から湿った空気が上がってきてる」
「食材、地下に移しておいた方がいいかな」
「今からやる」
カリオンの声が、いつもより半音低い。
「お前は宿の中の荷物をまとめろ。
棚の上のものは全部降ろせ。
窓の隙間も確認しろ」
「了解」
境界の丘に建ち始めた“森の宿”は、まだ完成にはほど遠いけれど、形にはなりつつあった。
木の骨組みと、半分まで張られた壁。
屋根は一応乗っているけれど、まだところどころ隙間がある。
窓枠だけはきちんと嵌めてあるが、ガラスは一部だけ。
なにより痛いのは――食材置き場が仮のままだということだ。
冬に備えて仕込んでいた干し肉や、乾かし中の香草。
塩漬けにした肉の樽。
人間側から仕入れた豆や粉袋。
全部、“仮の倉庫”として使っている半地下の小屋に詰め込んである。
(あそこ、屋根弱いんだよね……)
嫌な予感しかしない。
「リュナたちにも声かけとく」
ハルクが耳をぱたぱた揺らしながら丘を駆け下りていく。
「里から手伝い出すから、お前らだけで抱え込むなよ!」
「分かってる!」
返事をしながら、私は宿の中に飛び込んだ。
窓枠の隙間をチェックし、棚の上に置いていた器や道具を、床に近い場所へ移す。
完成している厨房の一角には、薪と小さな調理道具が詰め込まれている。
「これ、水入ったら一気に錆びそう……」
鍋の位置を変えながら、ため息が漏れる。
その時だった。
――ごろ、ごろ、ごろ。
低い音が、遠くの空を這った。
体が、びくっと反応する。
次の瞬間、空気がきゅっと冷えた気がした。
遅れて、風の向きが変わる。
さっきまで生温かった風が、一気に“運動会の雨の前の匂い”になった。
「やば」
私が駆け出したとほぼ同時に、外でカリオンが叫んだ。
「ルシア! 倉庫だ!」
私は、スカートの端を掴んで走った。
丘の斜面を駆け降りると、仮の倉庫が見える。
岩をくり抜いた半地下の小屋。
入口だけ木で補強して、簡易の屋根を乗せてある。
その屋根の上に、最初の雨粒が落ちた。
ぽつ。
ぽつ、ぽつ。
ぱら、ぱら。
「あ、待って待って待って」
空に向かって意味のない言葉が漏れる。
次の瞬間、世界が一段暗くなった。
ぶわ、と風が吹き抜ける。
木々が一斉にざわめき、葉が裏返る。
そして――
ざああああああああっ!
一気に来た。
見事な、嵐の本気モード。
雨というより、もはや“水の壁”。
「くそ……早え!」
カリオンが倉庫の屋根に飛び乗り、ロープを確認する。
雨で滑る木の板を、爪で引っかけて固定しようとする。
でも、その時。
――めきっ。
嫌な音がした。
風が、倉庫の上を通り抜ける。
屋根の板が、一瞬ふわりと浮いた。
「ちょ、待っ……!」
私が叫ぶのと、板が吹き飛ぶのはほぼ同時だった。
ばぎん、と派手な音。
屋根の一部が、風に持ち上げられて回転し、そのまま斜面の下へ飛んでいく。
倉庫の中が、あっという間にビショビショ確定コース。
「ルシア、下がれ!」
カリオンが屋根から飛び降り、私の前に着地する。
吹き込んでくる雨と風が、二人を一気に濡らした。
倉庫の中からは、嫌な音が聞こえてくる。
木の樽がずれる音。
袋が倒れる音。
何かが崩れ落ちる音。
「……終わった」
思わずその場に座り込みそうになった。
冬用の干し肉。
香草。
粉袋。
塩漬け。
全部、あの中だ。
「まだ終わってねえ」
カリオンが、ぐっと私の腕を掴んで立たせる。
「今から動けば、助かるものもある」
「でも、この雨……」
「俺とお前で足りなきゃ、増やせばいいだろ」
その声とほぼ同時に、丘の上から叫び声がした。
「ルシアーー! カリオーーン!」
ハルクだ。
彼の背中には、既に何人か獣人たちの姿が見える。
狼族、狐族、うさぎ族。
それぞれが布や縄を抱えて駆けてくる。
「お前ら、何してる! さっさと中のもの出せ!」
「こっちで屋根押さえるから!」
リュナが、ずぶ濡れになりながらロープを掴む。
「ルシア、あんたは中身! 食材はあんたの担当でしょ!」
「……うん!」
胸の中で、何かがもう一度火を灯した。
私は、嵐の中、倉庫の中へ飛び込んだ。
中は、ほとんど夜みたいに暗い。
でも、嗅ぎ慣れた匂いがある。
肉の匂い。
香草の匂い。
粉の匂い。
それが、湿った土と雨に混ざって、悲鳴みたいな香りになっている。
「やだ……!」
泣いてる場合じゃない。
とりあえず、水がまともにかぶっている場所から、食材を避難させる。
袋を抱えて、入口付近に移動させる。
樽を二人がかりで転がす。
木箱を積み直す。
カリオンが中に入り、重い樽を一気に持ち上げる。
私がその間に、濡れた袋とまだ無事な袋を分けていく。
「ルシア、こっちは?」
「香草は濡れても、すぐ干し直せばまだいける。
粉袋は、水吸ったのはアウト。
中身全部変な団子になる」
「団子?」
「後で説明する!」
嵐の音と、みんなの声が入り乱れる。
「こっちの樽、蓋が浮いてる!」
「塩水ごとこぼれる前に締め直せ!」
「干し肉、半分はやられたな……」
「半分残ったなら十分!」
必死に動き回っていると、時間の感覚が消える。
何度も滑りそうになりながら、転びかけながら、どうにか食材を守る。
気づけば、腕も脚も、服も髪も、全部べちゃべちゃだった。
どれくらい経った頃だろう。
雨の音が、少しずつ弱くなっていく。
ざあああ……から、ざあ……へ。
やがて、しとしとに。
風も、さっきほど暴れなくなっていた。
「……ふーっ……!」
私は、倉庫の入口に座り込んだ。
背中が壁にずるずるもたれかかる。
息が、胸の奥でひゅうひゅう言っている。
「終わった、の?」
外を見上げると、ハルクとリュナが屋根の上でロープを結び直しているのが見えた。
「とりあえず、これ以上ひどくはならなさそうね」
リュナが額の汗と雨を拭いながら降りてくる。
「干し肉は半分アウト。
粉袋は三分の一ダメ。
でも、残りは生きてるわ」
「やっぱり……」
覚悟はしていたけど、数字にされると胸がズキッと痛む。
「それでもこれだけ守れたなら上等だ」
カリオンが、濡れた髪を振り払った。
「お前ひとりだったら、全部やられてた」
「それは……はい、否定できないです」
情けなく笑うと、リュナが私の頭をぽん、と叩いた。
「泣くなら、あとで泣きなさい。
今は、風邪ひかないうちに体温めるのが先よ」
「そうだぞ。お前の鼻水は料理に混ざる」
「それ、言い方!」
でも、確かに体が冷え切っている。
指先はかじかんで、感覚が薄い。
服は肌に貼り付いて、じっとりと冷たい。
「宿の厨房、もう火入れられるよな」
ハルクが丘の上を指差す。
「とりあえず今夜は、皆で温かいもの食って寝ようぜ」
「……そうね」
私はゆっくり立ち上がった。
「じゃあ、厨房行かなきゃ」
「行ってこい、“胃袋外交官”」
リュナがからかうように笑う。
「こういうときにこそ、あんたの本領発揮よ」
胸の奥に、ちょっとだけ火が灯る。
(そうだ)
嵐でボロボロになった一日を、少しでも“今日も生き延びたね”って笑える日で終わらせるために。
「カリオン」
「なんだ」
「一番傷んでる食材、教えて」
「干し肉の端と、香草の一部と、粉の湿りかけ。
今使えばギリギリなんとかなるやつだ」
「全部、今日のメニューにする」
そう宣言したら、カリオンの耳が少しだけ動いた。
「了解」
短い返事。
その声に背中を押されるように、私は丘を登っていった。
*
夜。
嵐はほとんど通り過ぎて、残ったのは、しとしととした小雨だけだった。
森の宿の中には、柔らかい光が揺れている。
未完成の壁からは冷たい空気が入ってくるけれど、
焚き火と薪ストーブの火が、どうにかそれを押し返していた。
食堂兼広間では、獣人たちが輪になって座り、皿を手にしている。
「これ、干し肉?」
「半分やられた干し肉を、細かく刻んで、豆と一緒に煮込みました」
私が説明すると、ハルクが鼻をひくひくさせた。
「悪くない匂いだな。
湿ってた分、旨味がスープに出てる感じだ」
「香草は?」
「乾きかけのやつを炒ってから砕いて、上に振りました。
湿り気をごまかすには、火を通すのが一番だから」
リュナがスプーンを口に運び、目を細める。
「うん。
正直、“最高の状態の干し肉”には敵わないけど……
“嵐のあと”としては、これ以上ないご馳走ね」
その夜、森の宿は、まだ屋根も壁も不完全なのに、
不思議と“家の匂い”に満ちていた。
嵐で疲れた体に、温かいスープが染み込んでいく。
笑い声が、壁に跳ね返って、まだ何も飾られていない天井に届く。
私は、広間の隅でそれを見ながら、こっそり胸を撫で下ろした。
(よかった……)
全部無駄になったわけじゃない。
嵐にさらわれたものもあるけれど、
こうして“今日の一杯”になったものもある。
「お前も食え」
いつの間にか隣に来ていたカリオンが、皿を差し出してきた。
「動きっぱなしだったろ」
「まだ片付け――」
「俺がやる」
きっぱりと言われる。
「厨房の片付けは後でもいい。
料理人が飯を食わない店は、すぐ潰れる」
「それ、どこの世界の教訓?」
「俺の世界」
妙に説得力があるから困る。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
椅子に腰を下ろし、皿を受け取る。
湯気が、鼻先をくすぐる。
豆と干し肉と香草。
いつもより少し塩気が強くて、でも、それが今日の疲れにはちょうどよかった。
「――うん」
ひと口食べただけで、目を閉じそうになる。
「おいしい……」
豪華でも、完璧でもない。
でも、今日一日の“必死”が全部溶け込んだ味。
私が目を細めるのを見て、カリオンがほんの少しだけ口元を緩めた。
「お前の味だ」
「私の?」
「ああ。
“今日ここまで頑張ったやつが、明日も頑張れるようにする味”」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「それ、すごく嬉しいんだけど」
「たまには素直に褒めてやる」
「いつも褒めて」
「図に乗る」
「ひど」
そんなやり取りをしているうちに、
広間の獣人たちは、次々に皿を空にしていった。
「ごちそうさま!」
「生き返った!」
「明日、屋根の修理手伝うからなー!」
ひとり、またひとりと、外に出て行く。
しとしと雨の中、それぞれの家や見張り台に戻っていく。
やがて広間には、
私とカリオンだけが残った。
焚き火の音が、小さくぱちぱちと鳴っている。
「……片付け、しよっか」
「後でいい」
カリオンが、立ち上がろうとした私の肩を軽く押さえた。
「今日は、もう十分働いた」
「でも、鍋にこびりつく前に――」
「いいから座れ」
その声が、普段より少し低くて、
逆らえなかった。
私は、素直に椅子に沈み込んだ。
カリオンは厨房に行き、何かをがさがさといじる音を立てる。
扉一枚隔てた向こうから、金属の擦れる音と、布の擦れる音。
それから――
かすかな匂い。
さっきのスープとは違う。
もう少しだけ優しい、しっとりとした香り。
「おい」
カリオンが、扉の向こうから声をかけてきた。
「こっち来い」
「え、なに」
「いいから」
半分寝かけていた体を起こして、私は厨房に入った。
そこには、小さな明かりと、
湯気を立てる鍋と、皿が二つ並んでいた。
「……何これ」
「残り物」
カリオンは、乱雑に見えて正確な手つきで、食材を皿に盛りつけていく。
「干し肉の端。
煮込みに使った豆の余り。
湿りかけてた粉で焼いた、小さな平たいパン。
香草を刻んで、上に少しだけ」
質素な一皿。
でも、それは今日という一日を集約したみたいな料理だった。
嵐で傷んでしまったもの。
守り切れたもの。
どうにか救い上げたもの。
その全部が、そこに乗っている。
「豪華じゃない」
正直に言った。
「豪華にしたら、胃がびっくりする」
カリオンが淡々と返す。
「今日は、“明日も動けるようにする飯”だけで十分だ」
「……うん」
私たちは、向かい合って椅子に座った。
厨房の中央。
まだ新しい木の匂いと、火の匂い。
二人だけの、小さな食卓。
スプーンを手に取り、そっとひと口。
豆の柔らかい甘さと、干し肉のしょっぱさ。
粉の素朴な香り。
そこに香草のほんのりした苦味。
身体の芯が、じわじわと溶けていく。
「……ああ」
思わず、ため息が漏れた。
「何だその声は」
「いや……なんか、全部思い出した」
「全部?」
「森に落ちてきた夜のスープとか。
火の起こし方を何度も失敗した日の焦げスープとか。
きのこを入れすぎて変になったシチューとか。
あなたが傷だらけで帰ってきた夜のシチューとか」
ひとつひとつの皿が、全部、記憶の引き出しに繋がっている。
「今日のこの一皿には、それらが全部ちょっとずつ詰まってる気がするの」
「詰まりすぎじゃねえか」
「いいの。
そういうのが、おいしい」
皿を両手で包み込むみたいに抱えながら、私はふっと笑った。
ふと、言葉が、すとんと落ちてきた。
「ねえ、カリオン」
「なんだ」
「私、多分もう、あなたの料理無しでは生きていけないの」
スプーンを置いて、彼の目を見た。
カリオンが、一瞬だけ固まる。
「……それは」
眉がぴくりと動く。
「依存というやつだな」
冗談めかした声。
だけど、その次の瞬間。
彼の言葉が、喉で止まった。
私の顔を見たからだ。
笑ってはいるけど、
自分でも分かるくらい、真剣な目をしている。
「料理だけじゃないわ」
私は、ゆっくりと言葉を続けた。
「ここで生きることも。
獣人たちと笑うことも。
あなたと一緒に未来の話をすることも」
境界の丘の宿。
季節ごとのメニュー。
市場に出る計画。
森と人間の橋渡しの話。
その全部。
「……全部、手放したくない」
言葉にした瞬間、自分の心の形が、自分ではっきり見えた気がした。
嵐で壊れた屋根なんて、どうでもいいくらいに。
冬用の干し肉が半分ダメになったことよりも、ずっと大きくて重いもの。
カリオンは、黙って私を見ていた。
黄金色の瞳の奥で、いくつもの感情が渦巻いている。
「森に落ちてきてから、いっぱい失った」
自分でも驚くくらい素直に、言葉が出てくる。
「大公家の令嬢としての立場も、王宮での立ち位置も、
あの世界での“当たり前の未来”も」
でも、と続ける。
「代わりに、いっぱいもらった」
火の起こし方。
森の歩き方。
獣人たちの笑い声。
自分で作った料理を“うまい”と言ってもらえる喜び。
そして、黒豹の背中。
「その中でも……あなたの料理は、私の全部の真ん中にあるの」
胃袋から心臓に、直接繋がってるみたいに。
「だから、多分もう、あなたの料理無しでは生きていけない」
それは、半分冗談で。
半分、本気で。
そして、全部、“私の告白”だった。
沈黙が落ちる。
焚き火の音がやけに大きく聞こえる。
カリオンの尾が、椅子の下でゆっくり揺れた。
彼は、息をひとつ吐いてから、ゆっくり口を開いた。
「……料理だけじゃないと言ったな」
「うん」
「ここで生きることも。
獣人と笑うことも。
未来の話をすることも、全部手放したくないと」
「うん」
喉の奥がカラカラに乾いている。
「それなら」
カリオンは、目を逸らさずに言った。
「俺も、ひとつだけはっきり言える」
心臓が、ドクン、と鳴る。
「俺も、お前のいない食卓なんて、味がしないと思う」
不器用で、短くて。
でも、あまりにも真っ直ぐな言葉。
胸の奥が、一気にいっぱいになった。
「……それ、ずるい」
笑いながら、涙がこぼれた。
「私が長々と喋ったのに、最後に一番強いの持ってくるのずるい」
「お前が長いだけだ」
「ひど」
「ひどくねえ」
カリオンは、少しだけ視線を泳がせたあと、続けた。
「正直言うと」
彼の声が、少し震える。
「怖かった」
「え?」
「いつかお前が、“人間の世界に完全に戻る”って言うんじゃねえかって」
ああ、と胸の奥で何かがほどける。
「森と王都の橋渡し役になって。
王宮から正式に呼ばれて。
大公家の令嬢として、“戻ってこい”と言われたら、
お前はそれを選ぶかもしれないと思ってた」
「……そうかもね」
否定しない。
「だから、“戻るな”って言えなかった。
言ったら、お前の行き先を縛ることになる」
彼は拳を握った。
「でも」
視線が、真っ直ぐ私に向けられる。
「お前が今、“ここで生きることも、俺と未来の話をすることも全部手放したくない”って言ったなら」
喉の奥で何かが弾けたような音がした。
「その全部に、俺もいていいかって言いたくなる」
言葉の選び方が、本当に不器用だ。
でも、そのぶん嘘がない。
「……いてほしい」
即答だった。
「未来の話をするとき、絶対隣にいてほしい」
「料理の話をするときもか」
「そこは絶対」
「“絶対”が多い女だな」
「今くらい、いいでしょ」
涙と一緒に笑いがこぼれる。
カリオンは、深く息を吐いた。
「じゃあ」
少しだけ照れ臭そうに、でも逃げずに言った。
「これから先、“森の宿”で誰かが飯を食うとき、
その隣には、俺とお前が一緒にいる」
それは、ただの宣言じゃない。
“未来の約束”だった。
「仕事の相棒としてでもなく。
胃袋外交官とその助手としてでもなく」
黄金色の瞳が、わずかに細くなる。
「俺の女として」
耳まで真っ赤になった。
「……今それ言う?」
「今しか言えない」
カリオンの口元が、ほんの少しだけ笑った。
「お前は?」
問いかけられる。
「お前にとって、俺は何だ?」
選び方を、間違えたくなかった。
「黒豹の獣人で。
森で私を助けてくれた人で。
火の起こし方を教えてくれた先生で。
胃袋を掴んできた犯人で」
「犯人て」
「……そして」
スプーンを握る手が、少し震える。
「私の、好きな人」
言った瞬間、世界が一瞬静かになった。
嵐の音も、雨の匂いも、全部遠くに行った気がした。
カリオンは、何も言わなかった。
ただ、椅子から立ち上がり、ぐるりとテーブルを回って、
私の隣に座った。
距離が一気に縮まる。
黒い耳と、尾と、体温。
彼の手が、そっと私の頬に触れた。
指先が、涙の跡をなぞる。
「……泣きすぎだ」
「知らない」
「知れ」
「やだ」
「ガキか」
「……うるさい」
言い合いながら、笑いながら、また涙がこぼれる。
カリオンは、小さく息を吐いた。
「とりあえず」
彼は、私の額に自分の額をこつんと当てた。
人間の世界では、キスの代わりみたいな、
獣人の“近い約束”。
「もう逃げんなよ」
「どっちが?」
「両方だ」
それが、“恋人になった”瞬間だった。
言葉で契約書を書いたわけでも、
誰かに宣言したわけでもない。
でも、黒豹の額の重みと、
私の涙と笑いが、何よりの証拠だった。
外では、森の夜風が、優しく宿の壁を撫でている。
まだ壁には隙間があるし、
屋根も完全じゃない。
でも、この小さな厨房には、
確かに“未来の匂い”が満ちていた。
恋も、地位も、全部失ったと思っていた大公家の令嬢は、
異世界の森で、黒豹の獣人に――
心も、未来も。
そして何より、“胃袋”からがっちり掴まれて。
新しい日々へと、笑いながら踏み出していくのだった。
50
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【完結】契約結婚は円満に終了しました ~勘違い令嬢はお花屋さんを始めたい~
九條葉月
ファンタジー
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とある公爵との契約結婚を無事に終えたシャーロットは、夢だったお花屋さんを始めるための準備に取りかかる。
花を包むビニールがなければ似たような素材を求めてダンジョンに潜り、吸水スポンジ代わりにスライムを捕まえたり……。そうして準備を進めているのに、なぜか店の実態はお花屋さんからかけ離れていって――?
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