平民に転落した元令嬢、拾ってくれた騎士がまさかの王族でした

タマ マコト

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第17話 「君を守る理由」

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 王の間に、昼の残り火みたいな光が漂っていた。
 裁きがひと段落し、文官たちが巻物を抱えて散っていく。石床には紙屑ひとつ落ちていないのに、空気にはまだ言葉の粉が舞っている気がした。

 玉座の脇。
私は革袋を胸に押し当てたまま、ゆっくり息を吐く。喉の奥が熱い。さっきまで人前で強がった声の余韻が、筋肉に残っている。
 ――終わった。
 そう思った途端、背中からふわりと温度が重なった。

「よく頑張った」

 低い声。耳のすぐ近く。
 振り向くより早く、固くて優しい腕に包まれた。甲冑じゃない、体温のある人の腕。
 カイルが私を抱きしめていた。

 石の間で抱擁なんて、似合わない。似合わないはずなのに、その瞬間だけ、王宮の荘厳さが柔らかい布に変わる。
 肩に額を預けると、彼の心臓の音が、きれいに一定で、でも少し早い。きっと私と同じ。

「カイル……」

「聞いて。はっきり言う」
 彼は一拍置き、私の背に回した手にわずかに力を込めた。
「王であるより、人でありたい。君と生きたい」

 言葉が、胸の真ん中にそのまま落ちた。
 痛いくらい、真っ直ぐ。
 息がとまり、次の瞬間、視界が溶ける。
 泣かないつもりだったのに、涙は勝手に自分の出口を見つけて、頬を温かく濡らした。

「ずるい……そう言われたら、泣くしかないじゃない」

「泣いていい。今日は、何度泣いてもいい」

 肘の内側に顔を埋めると、石の匂いと、火の匂いと、彼の匂いが混ざった。
 世界は大きいのに、今はこの半径だけで足りる。そう思ってしまうほど、彼の抱擁は落ち着かせる力を持っていた。

 ――けれど。

「殿下、御身をお慎みください」

 空気の端が硬くなる。
 目を上げると、長衣の重なりがこちらを取り囲んでいた。重臣たち、王家の教育係、派閥の代表、礼儀を守るための目。
 遠巻きに、でも明確に、私たちの距離を測る視線。

「“殿下”じゃない」
 カイルが淡々と訂正する。抱擁は解かない。
「今ここにいるのは、女王でも王子でもなく、“人”だ」

「――それでもです」
 一歩、前へ出たのは礼式監。年季の入った皺と、紙よりも硬い物言い。
「ここは王の間。王族の抱擁は“儀礼”であり、個人の感情ではありません。市井の女を抱く場ではない」

「市井の女」
 乾いた言葉が胸の内で音を立てた。
 私は一歩、カイルの腕の内側から抜けて、まっすぐに礼式監を見た。
「訂正します。私は“市井の女”であり、“レオンハルトの娘”であり、“証を運んだ者”です。いま目の前にいるこの人は、“王になるべきかどうかを自分で選ぶ人”です。どれも間違いじゃない」

 ざわめき。
 誰かが小さく舌打ちをし、誰かが咳をして、誰かが目を伏せた。
 カイルは一歩私の隣に立ち、手を取った。公衆の前で。
 言葉より雄弁に、彼の指が「離さない」を繰り返す。

「王家は“血統”に依る」
 別の貴族が低く言う。
「感傷に左右されてはならぬ。殿下が“人でありたい”と言うのは尊い。しかし王国は“人の願い”では運営できない」

「王国は“人”でできている」
 カイルは即座に返す。
「だから“人の願い”を徹底して無視する仕組みに、もう戻らない。俺はそう決めた」

「ならば、まずは“正しい婚姻”を」
 第三の声。派閥の長。
「第二王子には、諸侯の娘との政略婚がふさわしい。レオンハルト家は断罪の傷が深い。前例に従えば、復権には年数が必要です」

 喉が刺すように痛んだ。
 紙の上では正しい、何十年も使われてきた文言。
 正しいけれど、今は古い。

「前例は、舌の都合でいつでも引き延ばされる」
 私は一歩踏み出す。
「昨夜まで“王の病”で扉を閉ざしていたのは、誰の舌? 今日、昼に“民の前で”開けたのは、誰の意志? ――前例は、いつだって“誰かの恐れ”の言い訳です。恐れを守るために、私はここに来たんじゃない」

 礼式監が唇を固く結ぶ。
 言い負かしたいわけじゃない。
 でも、引けない。
 胸の鍵が、また音を立てて歯を合わせる。

「カイル」
 私は彼の手を握り直した。
「私が“君と生きたい”と言って、あなたが“王でなくてもいい”と言ったら、その先にある現実を、二人でやる。反対する人がいるのはわかってる。けど――」

「だから、“理由”をきちんと示す」
 彼は頷き、王へ向き直る。
 玉座の王は黙っていた。目だけが、こちらの言葉の形を追う。

「陛下。俺が“王でなくていい”と言うのは、責任を捨てたいからじゃない。王冠が“目的”になった瞬間、人は“手段としての人間”を見る。俺はそれをやめたい。……君を守る理由が、王冠のために変形してしまうのが嫌なんだ」

 “君を守る理由”。
 その言い方に、胸の奥が一段深く熱くなる。
 守るって、名目にしやすい。
 けど、彼の声には名目の匂いがない。

「俺が君を守る理由は、政治じゃない。罪滅ぼしでもない。正義でもない。――君が笑うと、俺の火が消えにくくなるからだ。君が泣くと、俺は世界に腹が立つ。君が生きる場所を広げると、俺も世界を好きになれる。だから守る。俺のために」

 涙は、また勝手に溢れた。
 恥ずかしい。でも、止まらない。
「そんな、まっ直ぐに言うなんて……ずるいよ」
「実用的だろう」
「もう、それやめて」
「やめない」
 ほんの数秒のやりとり。けれど、石壁の冷たさが少しずつ遠のいていく。

 重臣たちの陣から、別の声が飛ぶ。
「王家の私情が許されるなら、秩序は崩壊する。恋愛の自由は市井でどうぞ。王宮では“国”が先だ」

 エリオットが柱の影から顔を出し、あきれ気味に肩をすくめる。
「“国が先”は便利な言葉だ。責任の矢印をどこにでも向けられる」
 礼式監が鋭く睨む。
「密偵ごときが、礼をわきまえろ」
「礼はわきまえる。だが、視界は絞らない」
 エリオットは眼差しで私に合図を送る。“やれるかい?”
 私はうなずいた。“やる”。

「提案があります」

 私は一歩前へ出て、王に向き直る。
「政治として反対する人の気持ちもわかります。だから、いきなり“婚姻だ”とは言いません。――“期間限定の公的約束”をください。王家の監査と市井の監視のもとで、私とカイルが“同じ屋根の下で同じ火を守る”期間を。**一年。**六ヶ月でもいい。その間、私たちは王宮の帳と市井の声、両方の橋渡しをします。成果が出なければ、私は引く。復権も、名も、全部置く」

 ざわめきが大きくなった。
 反対の声、賛成の息、興味の笑い。
 王は手を上げて、それを静める。

「具体は」
「王都の出立記録の公開を、定例化します。行幸の割を、事前に“読みやすい言葉”に直して掲示する。王宮への意見窓口を、祈祷堂と市場に常設する。……読み書きの場を広げたい。子どもだけじゃなく、大人にも。字を読めなければ、舌に騙されるから」

 礼式監の眉がぴくりと動く。“礼儀”の外の案を、頭の中で“整える”作業をしている顔。
 私は続けた。
「そのために、私は“先生”を続けたい。王宮の中で。王宮の外で。肩書きは何でもいい。“王妃予備”でも、“改革の旗”でも。呼び名はどうでもいい。やることはひとつ、“読む人を増やす”。」

 カイルが、私の指をきゅっと握った。
「俺は、君の安全を担保する。王宮と市井、両方に誓約書を出す。護衛は私の責任で選び、エリオットの監視を受ける。――“王冠のための女”じゃなく、“火を分ける人”として、ここに認めてほしい」

 短い沈黙。
 石が、呼吸を忘れている。
 王がゆっくり目を閉じ、開いた。

「一年」
 その一語が、場の温度を変えた。
「一年、汝らの“理由”を見せよ。王宮の監査をつける。市井の場は守る。成果は“数字”と“声”で報告させる」

「ありがとうございます」

 頭を下げたそのとき、礼式監が静かに言葉を重ねた。
「条件がある。――“抱擁は、王の間では一度まで”。二度目は“儀礼として”だ」
 間を置いて、場に笑いが生まれる。固い笑い。けれど、敵意じゃない。
 私は頬を拭いて、笑い返した。
「努力します」

 エリオットが親指を立て、柱の影に消えた。
 老婆の杖の音が空耳のように二度、胸の内で鳴る。“襟、立てて”。
 私は背筋を伸ばし、深呼吸をした。

 ――それでも、反対は消えない。
 扉の外に出た瞬間、冷たい視線が刺さる。
 “市井上がり”。
 “情に流される女”。
 “王家の足枷”。
 言葉は、いつも裏口から忍び込む。
 でも、今日は逃げない。

 回廊に差し込む光の中で、カイルが小さく笑った。
「ねぇ、“一度まで”って、今もう使った?」
「さっきのは“裁きの余韻”だからノーカウント」
「理屈が強い」
「実用的だからね」
「やられた」

 ふたりで笑う。
 笑い声が大きくなる前に、背後から足音。
 若い将校が敬礼し、紙束を差し出した。
「殿――カイル様。ミリア殿。王都の掲示の反応。“読み上げ隊”が各所で自発的に動いています。魚市場、粉屋街、洗濯場。……“次も貼れ”と」
「うん。貼る」
 私は紙束を受け取り、指で角を揃える。
「明日から“読み上げ隊”のやり方を整える。ルールを作って、誰でも参加できるように。大きな声が出ない人でも、役割が見つかるように」

「必要な物資は俺が」
 カイルが言い、将校は敬礼して去る。
 回廊の先、庭の緑が光る。風が葉の裏を少しだけ返して、影が形を変える。

「……ねぇ、カイル」

「なに」

「さっきの、“君を守る理由”。もう一回、聞きたい」
「今日、三回目だぞ」
「回数で効力が落ちるなら、朝と夜で取り替える」
「じゃあ、夜の分を今」

 彼は歩を止め、私の額へそっと唇を触れさせた。
 王宮の回廊。昼の光。一年の約束の、最初の一日。
「君が笑うと、俺の火が消えにくくなる。だから守る。俺のために。――そして、君のために」

 涙は、もう落ちない。
代わりに、深い呼吸が胸の底まで届いた。
「私も言うね。私があなたを選ぶ理由は、政治でも恩義でもない。あなたが、“王でなくてもいい”と笑ったあと、“王でなくてはならない夜に剣を持つ”と言える人だから。私の火は、そういう言葉で強くなる」

「了解。じゃあ、二人で火の管理人だ」

「うん。薪は、軽いのを先に」

「先生」
「生徒」

 笑い合って、私は前を向いた。
 一年。
 短い。けれど、十分に長い。
 “君を守る理由”を、毎日、具体で積み上げるには。

 王宮の階段を降りる。
 外の石段には、朝の続きが待っていた。読み上げの声、走る靴音、蜂蜜パンの甘い蒸気。
 振り返らない。けれど、背中に玉座の視線を感じる。
 “見ている”。
 “試している”。
 “託している”。

 私は革袋の鍵を指で確かめて、襟を立てた。
 君を守る理由。
 私が生きる理由。
 王が民の前で持つ舌。
 全部、今日も前を向いている。

「行こう、カイル」

「ああ」

 私たちは歩き出した。
 王である前に人であること。
 人であるから王を選べること。
 その両方を、一年かけて証明するために。

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