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第17話 「君を守る理由」
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王の間に、昼の残り火みたいな光が漂っていた。
裁きがひと段落し、文官たちが巻物を抱えて散っていく。石床には紙屑ひとつ落ちていないのに、空気にはまだ言葉の粉が舞っている気がした。
玉座の脇。
私は革袋を胸に押し当てたまま、ゆっくり息を吐く。喉の奥が熱い。さっきまで人前で強がった声の余韻が、筋肉に残っている。
――終わった。
そう思った途端、背中からふわりと温度が重なった。
「よく頑張った」
低い声。耳のすぐ近く。
振り向くより早く、固くて優しい腕に包まれた。甲冑じゃない、体温のある人の腕。
カイルが私を抱きしめていた。
石の間で抱擁なんて、似合わない。似合わないはずなのに、その瞬間だけ、王宮の荘厳さが柔らかい布に変わる。
肩に額を預けると、彼の心臓の音が、きれいに一定で、でも少し早い。きっと私と同じ。
「カイル……」
「聞いて。はっきり言う」
彼は一拍置き、私の背に回した手にわずかに力を込めた。
「王であるより、人でありたい。君と生きたい」
言葉が、胸の真ん中にそのまま落ちた。
痛いくらい、真っ直ぐ。
息がとまり、次の瞬間、視界が溶ける。
泣かないつもりだったのに、涙は勝手に自分の出口を見つけて、頬を温かく濡らした。
「ずるい……そう言われたら、泣くしかないじゃない」
「泣いていい。今日は、何度泣いてもいい」
肘の内側に顔を埋めると、石の匂いと、火の匂いと、彼の匂いが混ざった。
世界は大きいのに、今はこの半径だけで足りる。そう思ってしまうほど、彼の抱擁は落ち着かせる力を持っていた。
――けれど。
「殿下、御身をお慎みください」
空気の端が硬くなる。
目を上げると、長衣の重なりがこちらを取り囲んでいた。重臣たち、王家の教育係、派閥の代表、礼儀を守るための目。
遠巻きに、でも明確に、私たちの距離を測る視線。
「“殿下”じゃない」
カイルが淡々と訂正する。抱擁は解かない。
「今ここにいるのは、女王でも王子でもなく、“人”だ」
「――それでもです」
一歩、前へ出たのは礼式監。年季の入った皺と、紙よりも硬い物言い。
「ここは王の間。王族の抱擁は“儀礼”であり、個人の感情ではありません。市井の女を抱く場ではない」
「市井の女」
乾いた言葉が胸の内で音を立てた。
私は一歩、カイルの腕の内側から抜けて、まっすぐに礼式監を見た。
「訂正します。私は“市井の女”であり、“レオンハルトの娘”であり、“証を運んだ者”です。いま目の前にいるこの人は、“王になるべきかどうかを自分で選ぶ人”です。どれも間違いじゃない」
ざわめき。
誰かが小さく舌打ちをし、誰かが咳をして、誰かが目を伏せた。
カイルは一歩私の隣に立ち、手を取った。公衆の前で。
言葉より雄弁に、彼の指が「離さない」を繰り返す。
「王家は“血統”に依る」
別の貴族が低く言う。
「感傷に左右されてはならぬ。殿下が“人でありたい”と言うのは尊い。しかし王国は“人の願い”では運営できない」
「王国は“人”でできている」
カイルは即座に返す。
「だから“人の願い”を徹底して無視する仕組みに、もう戻らない。俺はそう決めた」
「ならば、まずは“正しい婚姻”を」
第三の声。派閥の長。
「第二王子には、諸侯の娘との政略婚がふさわしい。レオンハルト家は断罪の傷が深い。前例に従えば、復権には年数が必要です」
喉が刺すように痛んだ。
紙の上では正しい、何十年も使われてきた文言。
正しいけれど、今は古い。
「前例は、舌の都合でいつでも引き延ばされる」
私は一歩踏み出す。
「昨夜まで“王の病”で扉を閉ざしていたのは、誰の舌? 今日、昼に“民の前で”開けたのは、誰の意志? ――前例は、いつだって“誰かの恐れ”の言い訳です。恐れを守るために、私はここに来たんじゃない」
礼式監が唇を固く結ぶ。
言い負かしたいわけじゃない。
でも、引けない。
胸の鍵が、また音を立てて歯を合わせる。
「カイル」
私は彼の手を握り直した。
「私が“君と生きたい”と言って、あなたが“王でなくてもいい”と言ったら、その先にある現実を、二人でやる。反対する人がいるのはわかってる。けど――」
「だから、“理由”をきちんと示す」
彼は頷き、王へ向き直る。
玉座の王は黙っていた。目だけが、こちらの言葉の形を追う。
「陛下。俺が“王でなくていい”と言うのは、責任を捨てたいからじゃない。王冠が“目的”になった瞬間、人は“手段としての人間”を見る。俺はそれをやめたい。……君を守る理由が、王冠のために変形してしまうのが嫌なんだ」
“君を守る理由”。
その言い方に、胸の奥が一段深く熱くなる。
守るって、名目にしやすい。
けど、彼の声には名目の匂いがない。
「俺が君を守る理由は、政治じゃない。罪滅ぼしでもない。正義でもない。――君が笑うと、俺の火が消えにくくなるからだ。君が泣くと、俺は世界に腹が立つ。君が生きる場所を広げると、俺も世界を好きになれる。だから守る。俺のために」
涙は、また勝手に溢れた。
恥ずかしい。でも、止まらない。
「そんな、まっ直ぐに言うなんて……ずるいよ」
「実用的だろう」
「もう、それやめて」
「やめない」
ほんの数秒のやりとり。けれど、石壁の冷たさが少しずつ遠のいていく。
重臣たちの陣から、別の声が飛ぶ。
「王家の私情が許されるなら、秩序は崩壊する。恋愛の自由は市井でどうぞ。王宮では“国”が先だ」
エリオットが柱の影から顔を出し、あきれ気味に肩をすくめる。
「“国が先”は便利な言葉だ。責任の矢印をどこにでも向けられる」
礼式監が鋭く睨む。
「密偵ごときが、礼をわきまえろ」
「礼はわきまえる。だが、視界は絞らない」
エリオットは眼差しで私に合図を送る。“やれるかい?”
私はうなずいた。“やる”。
「提案があります」
私は一歩前へ出て、王に向き直る。
「政治として反対する人の気持ちもわかります。だから、いきなり“婚姻だ”とは言いません。――“期間限定の公的約束”をください。王家の監査と市井の監視のもとで、私とカイルが“同じ屋根の下で同じ火を守る”期間を。**一年。**六ヶ月でもいい。その間、私たちは王宮の帳と市井の声、両方の橋渡しをします。成果が出なければ、私は引く。復権も、名も、全部置く」
ざわめきが大きくなった。
反対の声、賛成の息、興味の笑い。
王は手を上げて、それを静める。
「具体は」
「王都の出立記録の公開を、定例化します。行幸の割を、事前に“読みやすい言葉”に直して掲示する。王宮への意見窓口を、祈祷堂と市場に常設する。……読み書きの場を広げたい。子どもだけじゃなく、大人にも。字を読めなければ、舌に騙されるから」
礼式監の眉がぴくりと動く。“礼儀”の外の案を、頭の中で“整える”作業をしている顔。
私は続けた。
「そのために、私は“先生”を続けたい。王宮の中で。王宮の外で。肩書きは何でもいい。“王妃予備”でも、“改革の旗”でも。呼び名はどうでもいい。やることはひとつ、“読む人を増やす”。」
カイルが、私の指をきゅっと握った。
「俺は、君の安全を担保する。王宮と市井、両方に誓約書を出す。護衛は私の責任で選び、エリオットの監視を受ける。――“王冠のための女”じゃなく、“火を分ける人”として、ここに認めてほしい」
短い沈黙。
石が、呼吸を忘れている。
王がゆっくり目を閉じ、開いた。
「一年」
その一語が、場の温度を変えた。
「一年、汝らの“理由”を見せよ。王宮の監査をつける。市井の場は守る。成果は“数字”と“声”で報告させる」
「ありがとうございます」
頭を下げたそのとき、礼式監が静かに言葉を重ねた。
「条件がある。――“抱擁は、王の間では一度まで”。二度目は“儀礼として”だ」
間を置いて、場に笑いが生まれる。固い笑い。けれど、敵意じゃない。
私は頬を拭いて、笑い返した。
「努力します」
エリオットが親指を立て、柱の影に消えた。
老婆の杖の音が空耳のように二度、胸の内で鳴る。“襟、立てて”。
私は背筋を伸ばし、深呼吸をした。
――それでも、反対は消えない。
扉の外に出た瞬間、冷たい視線が刺さる。
“市井上がり”。
“情に流される女”。
“王家の足枷”。
言葉は、いつも裏口から忍び込む。
でも、今日は逃げない。
回廊に差し込む光の中で、カイルが小さく笑った。
「ねぇ、“一度まで”って、今もう使った?」
「さっきのは“裁きの余韻”だからノーカウント」
「理屈が強い」
「実用的だからね」
「やられた」
ふたりで笑う。
笑い声が大きくなる前に、背後から足音。
若い将校が敬礼し、紙束を差し出した。
「殿――カイル様。ミリア殿。王都の掲示の反応。“読み上げ隊”が各所で自発的に動いています。魚市場、粉屋街、洗濯場。……“次も貼れ”と」
「うん。貼る」
私は紙束を受け取り、指で角を揃える。
「明日から“読み上げ隊”のやり方を整える。ルールを作って、誰でも参加できるように。大きな声が出ない人でも、役割が見つかるように」
「必要な物資は俺が」
カイルが言い、将校は敬礼して去る。
回廊の先、庭の緑が光る。風が葉の裏を少しだけ返して、影が形を変える。
「……ねぇ、カイル」
「なに」
「さっきの、“君を守る理由”。もう一回、聞きたい」
「今日、三回目だぞ」
「回数で効力が落ちるなら、朝と夜で取り替える」
「じゃあ、夜の分を今」
彼は歩を止め、私の額へそっと唇を触れさせた。
王宮の回廊。昼の光。一年の約束の、最初の一日。
「君が笑うと、俺の火が消えにくくなる。だから守る。俺のために。――そして、君のために」
涙は、もう落ちない。
代わりに、深い呼吸が胸の底まで届いた。
「私も言うね。私があなたを選ぶ理由は、政治でも恩義でもない。あなたが、“王でなくてもいい”と笑ったあと、“王でなくてはならない夜に剣を持つ”と言える人だから。私の火は、そういう言葉で強くなる」
「了解。じゃあ、二人で火の管理人だ」
「うん。薪は、軽いのを先に」
「先生」
「生徒」
笑い合って、私は前を向いた。
一年。
短い。けれど、十分に長い。
“君を守る理由”を、毎日、具体で積み上げるには。
王宮の階段を降りる。
外の石段には、朝の続きが待っていた。読み上げの声、走る靴音、蜂蜜パンの甘い蒸気。
振り返らない。けれど、背中に玉座の視線を感じる。
“見ている”。
“試している”。
“託している”。
私は革袋の鍵を指で確かめて、襟を立てた。
君を守る理由。
私が生きる理由。
王が民の前で持つ舌。
全部、今日も前を向いている。
「行こう、カイル」
「ああ」
私たちは歩き出した。
王である前に人であること。
人であるから王を選べること。
その両方を、一年かけて証明するために。
裁きがひと段落し、文官たちが巻物を抱えて散っていく。石床には紙屑ひとつ落ちていないのに、空気にはまだ言葉の粉が舞っている気がした。
玉座の脇。
私は革袋を胸に押し当てたまま、ゆっくり息を吐く。喉の奥が熱い。さっきまで人前で強がった声の余韻が、筋肉に残っている。
――終わった。
そう思った途端、背中からふわりと温度が重なった。
「よく頑張った」
低い声。耳のすぐ近く。
振り向くより早く、固くて優しい腕に包まれた。甲冑じゃない、体温のある人の腕。
カイルが私を抱きしめていた。
石の間で抱擁なんて、似合わない。似合わないはずなのに、その瞬間だけ、王宮の荘厳さが柔らかい布に変わる。
肩に額を預けると、彼の心臓の音が、きれいに一定で、でも少し早い。きっと私と同じ。
「カイル……」
「聞いて。はっきり言う」
彼は一拍置き、私の背に回した手にわずかに力を込めた。
「王であるより、人でありたい。君と生きたい」
言葉が、胸の真ん中にそのまま落ちた。
痛いくらい、真っ直ぐ。
息がとまり、次の瞬間、視界が溶ける。
泣かないつもりだったのに、涙は勝手に自分の出口を見つけて、頬を温かく濡らした。
「ずるい……そう言われたら、泣くしかないじゃない」
「泣いていい。今日は、何度泣いてもいい」
肘の内側に顔を埋めると、石の匂いと、火の匂いと、彼の匂いが混ざった。
世界は大きいのに、今はこの半径だけで足りる。そう思ってしまうほど、彼の抱擁は落ち着かせる力を持っていた。
――けれど。
「殿下、御身をお慎みください」
空気の端が硬くなる。
目を上げると、長衣の重なりがこちらを取り囲んでいた。重臣たち、王家の教育係、派閥の代表、礼儀を守るための目。
遠巻きに、でも明確に、私たちの距離を測る視線。
「“殿下”じゃない」
カイルが淡々と訂正する。抱擁は解かない。
「今ここにいるのは、女王でも王子でもなく、“人”だ」
「――それでもです」
一歩、前へ出たのは礼式監。年季の入った皺と、紙よりも硬い物言い。
「ここは王の間。王族の抱擁は“儀礼”であり、個人の感情ではありません。市井の女を抱く場ではない」
「市井の女」
乾いた言葉が胸の内で音を立てた。
私は一歩、カイルの腕の内側から抜けて、まっすぐに礼式監を見た。
「訂正します。私は“市井の女”であり、“レオンハルトの娘”であり、“証を運んだ者”です。いま目の前にいるこの人は、“王になるべきかどうかを自分で選ぶ人”です。どれも間違いじゃない」
ざわめき。
誰かが小さく舌打ちをし、誰かが咳をして、誰かが目を伏せた。
カイルは一歩私の隣に立ち、手を取った。公衆の前で。
言葉より雄弁に、彼の指が「離さない」を繰り返す。
「王家は“血統”に依る」
別の貴族が低く言う。
「感傷に左右されてはならぬ。殿下が“人でありたい”と言うのは尊い。しかし王国は“人の願い”では運営できない」
「王国は“人”でできている」
カイルは即座に返す。
「だから“人の願い”を徹底して無視する仕組みに、もう戻らない。俺はそう決めた」
「ならば、まずは“正しい婚姻”を」
第三の声。派閥の長。
「第二王子には、諸侯の娘との政略婚がふさわしい。レオンハルト家は断罪の傷が深い。前例に従えば、復権には年数が必要です」
喉が刺すように痛んだ。
紙の上では正しい、何十年も使われてきた文言。
正しいけれど、今は古い。
「前例は、舌の都合でいつでも引き延ばされる」
私は一歩踏み出す。
「昨夜まで“王の病”で扉を閉ざしていたのは、誰の舌? 今日、昼に“民の前で”開けたのは、誰の意志? ――前例は、いつだって“誰かの恐れ”の言い訳です。恐れを守るために、私はここに来たんじゃない」
礼式監が唇を固く結ぶ。
言い負かしたいわけじゃない。
でも、引けない。
胸の鍵が、また音を立てて歯を合わせる。
「カイル」
私は彼の手を握り直した。
「私が“君と生きたい”と言って、あなたが“王でなくてもいい”と言ったら、その先にある現実を、二人でやる。反対する人がいるのはわかってる。けど――」
「だから、“理由”をきちんと示す」
彼は頷き、王へ向き直る。
玉座の王は黙っていた。目だけが、こちらの言葉の形を追う。
「陛下。俺が“王でなくていい”と言うのは、責任を捨てたいからじゃない。王冠が“目的”になった瞬間、人は“手段としての人間”を見る。俺はそれをやめたい。……君を守る理由が、王冠のために変形してしまうのが嫌なんだ」
“君を守る理由”。
その言い方に、胸の奥が一段深く熱くなる。
守るって、名目にしやすい。
けど、彼の声には名目の匂いがない。
「俺が君を守る理由は、政治じゃない。罪滅ぼしでもない。正義でもない。――君が笑うと、俺の火が消えにくくなるからだ。君が泣くと、俺は世界に腹が立つ。君が生きる場所を広げると、俺も世界を好きになれる。だから守る。俺のために」
涙は、また勝手に溢れた。
恥ずかしい。でも、止まらない。
「そんな、まっ直ぐに言うなんて……ずるいよ」
「実用的だろう」
「もう、それやめて」
「やめない」
ほんの数秒のやりとり。けれど、石壁の冷たさが少しずつ遠のいていく。
重臣たちの陣から、別の声が飛ぶ。
「王家の私情が許されるなら、秩序は崩壊する。恋愛の自由は市井でどうぞ。王宮では“国”が先だ」
エリオットが柱の影から顔を出し、あきれ気味に肩をすくめる。
「“国が先”は便利な言葉だ。責任の矢印をどこにでも向けられる」
礼式監が鋭く睨む。
「密偵ごときが、礼をわきまえろ」
「礼はわきまえる。だが、視界は絞らない」
エリオットは眼差しで私に合図を送る。“やれるかい?”
私はうなずいた。“やる”。
「提案があります」
私は一歩前へ出て、王に向き直る。
「政治として反対する人の気持ちもわかります。だから、いきなり“婚姻だ”とは言いません。――“期間限定の公的約束”をください。王家の監査と市井の監視のもとで、私とカイルが“同じ屋根の下で同じ火を守る”期間を。**一年。**六ヶ月でもいい。その間、私たちは王宮の帳と市井の声、両方の橋渡しをします。成果が出なければ、私は引く。復権も、名も、全部置く」
ざわめきが大きくなった。
反対の声、賛成の息、興味の笑い。
王は手を上げて、それを静める。
「具体は」
「王都の出立記録の公開を、定例化します。行幸の割を、事前に“読みやすい言葉”に直して掲示する。王宮への意見窓口を、祈祷堂と市場に常設する。……読み書きの場を広げたい。子どもだけじゃなく、大人にも。字を読めなければ、舌に騙されるから」
礼式監の眉がぴくりと動く。“礼儀”の外の案を、頭の中で“整える”作業をしている顔。
私は続けた。
「そのために、私は“先生”を続けたい。王宮の中で。王宮の外で。肩書きは何でもいい。“王妃予備”でも、“改革の旗”でも。呼び名はどうでもいい。やることはひとつ、“読む人を増やす”。」
カイルが、私の指をきゅっと握った。
「俺は、君の安全を担保する。王宮と市井、両方に誓約書を出す。護衛は私の責任で選び、エリオットの監視を受ける。――“王冠のための女”じゃなく、“火を分ける人”として、ここに認めてほしい」
短い沈黙。
石が、呼吸を忘れている。
王がゆっくり目を閉じ、開いた。
「一年」
その一語が、場の温度を変えた。
「一年、汝らの“理由”を見せよ。王宮の監査をつける。市井の場は守る。成果は“数字”と“声”で報告させる」
「ありがとうございます」
頭を下げたそのとき、礼式監が静かに言葉を重ねた。
「条件がある。――“抱擁は、王の間では一度まで”。二度目は“儀礼として”だ」
間を置いて、場に笑いが生まれる。固い笑い。けれど、敵意じゃない。
私は頬を拭いて、笑い返した。
「努力します」
エリオットが親指を立て、柱の影に消えた。
老婆の杖の音が空耳のように二度、胸の内で鳴る。“襟、立てて”。
私は背筋を伸ばし、深呼吸をした。
――それでも、反対は消えない。
扉の外に出た瞬間、冷たい視線が刺さる。
“市井上がり”。
“情に流される女”。
“王家の足枷”。
言葉は、いつも裏口から忍び込む。
でも、今日は逃げない。
回廊に差し込む光の中で、カイルが小さく笑った。
「ねぇ、“一度まで”って、今もう使った?」
「さっきのは“裁きの余韻”だからノーカウント」
「理屈が強い」
「実用的だからね」
「やられた」
ふたりで笑う。
笑い声が大きくなる前に、背後から足音。
若い将校が敬礼し、紙束を差し出した。
「殿――カイル様。ミリア殿。王都の掲示の反応。“読み上げ隊”が各所で自発的に動いています。魚市場、粉屋街、洗濯場。……“次も貼れ”と」
「うん。貼る」
私は紙束を受け取り、指で角を揃える。
「明日から“読み上げ隊”のやり方を整える。ルールを作って、誰でも参加できるように。大きな声が出ない人でも、役割が見つかるように」
「必要な物資は俺が」
カイルが言い、将校は敬礼して去る。
回廊の先、庭の緑が光る。風が葉の裏を少しだけ返して、影が形を変える。
「……ねぇ、カイル」
「なに」
「さっきの、“君を守る理由”。もう一回、聞きたい」
「今日、三回目だぞ」
「回数で効力が落ちるなら、朝と夜で取り替える」
「じゃあ、夜の分を今」
彼は歩を止め、私の額へそっと唇を触れさせた。
王宮の回廊。昼の光。一年の約束の、最初の一日。
「君が笑うと、俺の火が消えにくくなる。だから守る。俺のために。――そして、君のために」
涙は、もう落ちない。
代わりに、深い呼吸が胸の底まで届いた。
「私も言うね。私があなたを選ぶ理由は、政治でも恩義でもない。あなたが、“王でなくてもいい”と笑ったあと、“王でなくてはならない夜に剣を持つ”と言える人だから。私の火は、そういう言葉で強くなる」
「了解。じゃあ、二人で火の管理人だ」
「うん。薪は、軽いのを先に」
「先生」
「生徒」
笑い合って、私は前を向いた。
一年。
短い。けれど、十分に長い。
“君を守る理由”を、毎日、具体で積み上げるには。
王宮の階段を降りる。
外の石段には、朝の続きが待っていた。読み上げの声、走る靴音、蜂蜜パンの甘い蒸気。
振り返らない。けれど、背中に玉座の視線を感じる。
“見ている”。
“試している”。
“託している”。
私は革袋の鍵を指で確かめて、襟を立てた。
君を守る理由。
私が生きる理由。
王が民の前で持つ舌。
全部、今日も前を向いている。
「行こう、カイル」
「ああ」
私たちは歩き出した。
王である前に人であること。
人であるから王を選べること。
その両方を、一年かけて証明するために。
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王国随一の名門ハーランド公爵家の令嬢エリシアは、第一王子の婚約者でありながら、王宮の陰謀により突然追放される。濡れ衣を着せられ、全てを奪われた彼女は極寒の辺境国家ノルディアへと流される。しかしエリシアには秘密があった――前世の記憶と現代日本の経営知識を持つ転生者だったのだ。荒廃した辺境で、彼女は持ち前の戦略眼と人心掌握術で奇跡の復興を成し遂げる。やがて彼女の手腕は王国全土を震撼させ、自らを追放した者たちに復讐の刃を向ける。だが辺境王ルシアンとの運命的な出会いが、彼女の心に新たな感情を芽生えさせていく。これは、理不尽に奪われた女性が、知略と情熱で世界を変える物語――。
婚約者を姉に奪われ、婚約破棄されたエリーゼは、王子殿下に国外追放されて捨てられた先は、なんと魔獣がいる森。そこから大逆転するしかない?怒りの
山田 バルス
ファンタジー
王宮の広間は、冷え切った空気に満ちていた。
玉座の前にひとり、少女が|跪い《ひざまず》ていた。
エリーゼ=アルセリア。
目の前に立つのは、王国第一王子、シャルル=レインハルト。
「─エリーゼ=アルセリア。貴様との婚約は、ここに破棄する」
「……なぜ、ですか……?」
声が震える。
彼女の問いに、王子は冷然と答えた。
「貴様が、カリーナ嬢をいじめたからだ」
「そ、そんな……! 私が、姉様を、いじめた……?」
「カリーナ嬢からすべて聞いている。お前は陰湿な手段で彼女を苦しめ、王家の威信をも|貶めた《おとし》さらに、王家に対する謀反を企てているとか」
広間にざわめきが広がる。
──すべて、仕組まれていたのだ。
「私は、姉様にも王家にも……そんなこと……していません……!」
必死に訴えるエリーゼの声は、虚しく広間に消えた。
「黙れ!」
シャルルの一喝が、広間に響き渡る。
「貴様のような下劣な女を、王家に迎え入れるわけにはいかぬ」
広間は、再び深い静寂に沈んだ。
「よって、貴様との婚約は破棄。さらに──」
王子は、無慈悲に言葉を重ねた。
「国外追放を命じる」
その宣告に、エリーゼの膝が崩れた。
「そ、そんな……!」
桃色の髪が広間に広がる。
必死にすがろうとするも、誰も助けようとはしなかった。
「王の不在時に|謀反《むほん》を企てる不届き者など不要。王国のためにもな」
シャルルの隣で、カリーナがくすりと笑った。
まるで、エリーゼの絶望を甘美な蜜のように味わうかのように。
なぜ。
なぜ、こんなことに──。
エリーゼは、震える指で自らの胸を掴む。
彼女はただ、幼い頃から姉に憧れ、姉に尽くし、姉を支えようとしていただけだったのに。
それが裏切りで返され、今、すべてを失おうとしている。
兵士たちが進み出る。
無骨な手で、エリーゼの両手を後ろ手に縛り上げた。
「離して、ください……っ」
必死に抵抗するも、力は弱い。。
誰も助けない。エリーゼは、見た。
カリーナが、微笑みながらシャルルに腕を絡め、勝者の顔でこちらを見下ろしているのを。
──すべては、最初から、こうなるよう仕組まれていたのだ。
重い扉が開かれる。
貴族令嬢、転生十秒で家出します。目指せ、おひとり様スローライフ
凜
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第18回ファンタジー小説大賞にて奨励賞を頂きました。ありがとうございます!
貴族令嬢に転生したリルは、前世の記憶に混乱しつつも今世で恵まれていない環境なことに気が付き、突発で家出してしまう。
前世の社畜生活で疲れていたため、山奥で魔法の才能を生かしスローライフを目指すことにした。しかししょっぱなから魔物に襲われ、元王宮魔法士と出会ったり、はては皇子までやってきてと、なんだかスローライフとは違う毎日で……?
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