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第5話 黒封の招待
しおりを挟む霧は川からもらった息を吐き返して、夜の路地に低く溜まっていた。石畳は湿っていて、月は欠け、看板の絵は半分眠っている。店じまいの鐘が三度、遅れて鳴り、笑い声は表通りへ流れ出て、裏通りには残響だけが残った。
露店の売上を数え終え、私は革の小袋を胸の内側に滑り込ませる。宿までは二つ角を曲がるだけ。でも“二つ角”は、物語ではよく血の匂いに変わる。だから、私は手を空にしない。ポケットの中の小瓶と、薄くてよく燃える紙と、麻の粉末。香は飾りであり、刃でもある。
曲がり角の手前で、気配がひとつ増えた。足音を消そうとする足音。消そうとするほど、耳に触る。
「——お嬢さん。夜道は危ない」
声はやわらかく、刃物は硬い。布の擦れる音の後、路地の口が塞がれ、後ろにも影が立った。二人。前の男は片目に傷。後ろの影は背が低く、腕が太い。前後の距離、四歩半。逃げるなら、壁。跳ぶなら、左の樽。けれど、私の靴の底は濡れている。滑る。最適解を数えるより早く、男のナイフが月光を拾った。
「荷物だけ置いていけ。怪我はしない」
「親切ね」
「親切だとも。叫んだら、親切じゃなくなる」
私は息をひとつ、浅く吐いた。恐怖の匂いは嗅がせない。代わりに、別の香りを用意する。ポケットの中の紙束を指先で折り、油と樹脂を沁み込ませた紙片を取り出す。爪で擦ると、火はつかないが、熱は生まれる。熱は匂いを呼ぶ。
「財布を——」
「待って。化粧直し」
男の眉が動き、次の瞬間、私は紙片を足元へ放った。油が湿り、樹脂が息を吸い、白い煙がふわりと立ち上がる。ミルラとラブダナム、そして唐辛子と胡椒仲間の粉をほんの少し。甘さと刺、祭壇と台所。目と鼻の奥を同時に掴む配合。
「——ぐっ」
前の男が目を細め、後ろの影が咳き込む。煙が路地の壁を撫で、霧と混ざって濃度が上がる。私は下がらない。前へ。胸元の小袋を守りつつ、空いた手で男の手首を払う。角度は外へ、力は下へ。フェンシングの稽古の残滓が、体の芯から立ち上がる。刃の線をずらすと、男のバランスが崩れた。私は踵で彼の足の甲を踏み、耳元に囁く。
「匂い、好き? 今夜は“告白”の香よ」
「なに、を——」
男の瞳が涙で濡れ、刃が石に当たって鈍く鳴る。後ろの影が焦って腕を伸ばす。私は樽に手をつき、身体をひねって肩でぶつかり、胴の重さを彼の腹に預けた。呼吸が抜ける音。その拍に合わせ、麻の粉末を指でなぞって彼の襟元へ。痺れではない。ただ、力が抜ける。刹那の隙で十分。
「やるじゃないか」
低い声が、煙の向こうから落ちてきた。夜の低音。黒い影が一つ、霧の腹を裂いて現れる。マントの裾が揺れ、剣帯の金具がわずかに光る。私は男の手首を捻ってナイフを拾い、影を正面に入れる。手の内の軽さで、彼の出自がわかる。軍人。いや、もっと厳密に言うなら——近衛。
「悪運が強い」
影が笑った。刹那の白い歯。私はナイフを逆手に持ち替え、肩越しに言い返す。
「運じゃない。選んだだけ」
「選ぶのが上手い女は、長生きする」
「あなたは?」
「選ぶのが悪趣味でね。だから、まだ生きてる」
前の男が鼻をすすり、突進しようとしたところを、黒い影——男——がわずかに踏み込み、膝で地面を抑え、手首をきれいに刈り取った。動きに無駄がない。見惚れるほど、静かな暴力。私は後ろの影の襟首を掴み、壁に押しつけた。彼の目は涙で赤く、言葉は詰まる。
「金は、あんまりない」
「知ってる。あなたの靴底は穴が空いてる」
「じゃ、なんで——」
「私が歩く道を覚えたかったから」
黒い男がこちらを一瞥し、口の端だけで笑う。助けるでも、出しゃばるでもない距離感。彼は前の男の手から刃を蹴り出し、路地の奥へ転がした。金属がカタカタと深い暗がりへ消える。
「さあ、撒け」
男たちは互いに支え合い、悪態を吐き、煙に咳き込みながら走り去っていく。足音が遠ざかり、夜が少しだけ元の静けさを取り戻す。香の白は薄れ、霧の灰が残る。私は深呼吸を一つして、胸の内ポケットの小袋を確かめた。無事。獲物を守った獣の安堵が、遅れて指先に来る。
「感謝は?」
「必要?」
「礼がないと、次は助けないかもしれない」
「次はない」
「そう言う女に限って、次がある」
私は肩をすくめ、彼の下がった前髪の影を見る。目は色を変える石みたいだ。光によって灰にも青にも緑にもなる。顔立ちは端正すぎず、端正に“なろうと思えばなれる”種類。つまり、隠れるのがうまい。
「名前は?」
「訊くのが早い。まずはそっちから」
「セラ」
彼は短く繰り返した。舌に乗せて重さを量るみたいに。「セラ。短い。呼びやすい。噂に残りやすい」
「噂に残るのは嫌いじゃない?」
「嫌いだ。だが噂は網にもなる」
男はマントの内側に手を入れ、黒い封筒を取り出した。光を吸う紙。封蝋はなし。代わりに、角が一度、丁寧に折られている。封ではなく、合図。彼はそれを私に向かって軽く掲げ、すぐには渡さない。
「渡す前にひとつ」
「どうぞ」
「さっきの煙、配合を言えるか」
「言えるけど、言わない」
「正解」
彼は笑い、封筒を私の掌に落とした。紙は冷たい。表には何も書かれていない。裏にも。けれど、角に刻まれた凹みには微かな図形——三角形と、短い線。見覚えはない。けれど、意味はある。地図の暗号みたいな、召喚の鍵。
「それ、読み間違えると目立つ」
「読み間違えないわ」
「ルヴァンで、黒い封筒は二種類しかない。金貸しの借金取りか、もうひとつは——」
「《ノワール》」
言葉にすると、空気の密度が少し変わった。夜が耳を寄せる感じ。男はわずかに顎を引く。
「知ってるか」
「噂は風。斜めに立っていれば、頬に当たる」
「いい比喩だ。誰の言葉だ」
「母の」
「いい母親だったんだな」
私は封筒をポケットに滑らせた。紙が肌に触れ、薄い刃みたいに存在感を持つ。
「あなたの名前は?」
「ダミアン・ヴェルナー」
やはり。近衛の隊列で聞いた名。剣と規律と皮肉でできた男。私は目を細め、彼の立ち方を見る。重心は低く、靴の爪先はわずかに外。退路を作る立ち方。逃げ腰ではなく、次の一歩に余白を残す立ち方。
「元近衛?」
「元。今は《ノワール》の外周を歩く人間」
「外周?」
「内側は息苦しい。僕は風が好きだ」
「だから私の煙も嫌いじゃなかった」
「目は痛かったけどね」
彼は目の端を指で押さえ、苦笑した。私も笑いかけて、やめる。笑いは剣。抜きどきは選ぶ。
「封筒を渡しに来たのは、偶然?」
「偶然じゃない。君が市場に露店を出した日から、話は回ってた。“香りで客の財布を開ける女がいる”。“言葉の順番が上手い”。“目が冷たい”。今夜は、噂の確認」
「確認できた?」
「十分に」
「満足?」
「不満足だ。もっと見たい」
「覗き魔?」
「採用担当、と言ってくれ」
私は路地の口から表通りを見た。人の影が流れ、音は軽い。生きるの音。死ぬ音は、もっと深くて硬い。今夜はまだ遠い。
「《ノワール》に入る条件は?」
「ひとつ。“誰のためでもない自分の理由”を持っていること」
「二つ目は?」
「裏切らないこと。裏切るなら、うまくやること」
「三つ目は?」
「逃げるときに、誰も踏まないこと」
私は笑ってしまう。「最初の条件が一番むずかしい」
「そうか?」
「大抵の人は、“誰かのため”を言いたがる。綺麗だから」
「綺麗な言葉は、灯りに集まる虫と同じだ。燃える」
「燃やすのは嫌いじゃない」
「燃やし方次第だ」
沈黙が一枚、私たちの間に降りた。風の音が通り、川が遠くで返事をする。ダミアンは路地の壁にもたれ、マントの裾を直した。煙は完全に消え、香の甘さだけが薄く残る。
「で、セラ。今夜は宿に帰る?」
「帰る。明日は朝が早い。市場は朝の客がいい顔をしている」
「朝の顔を見分けられる女は、夜の顔も見分けられる」
「褒め言葉?」
「採用判断」
彼は軽く顎で表通りを指し示した。「送ろう」
「不要。ここからは、私の足で」
「君はよくそう言う」
「癖になってる」
「悪い癖ではない」
彼は壁から離れ、私の脇をすり抜け、二歩先に出て夜を確かめる。危険の匂いは薄い。私は封筒に指を触れ、紙の角の冷たさで自分の体温を測る。平熱。恐怖の熱はない。あるのは、別の熱。計算の熱。網を編む熱。
「セラ」
振り向くと、ダミアンが短く言った。
「選べ」
「もう選んでる」
「なら、次も」
「次も」
私たちはそれぞれの方向へ歩き出す。私は宿へ、彼は霧の向こうへ。足音は重ならない。重ねない。
角を曲がる前に、彼の声が背中に落ちた。
「悪運が強い女」
「運じゃない」
「選んだだけ、か」
「そう」
彼は笑った。笑いの余韻が霧の中で薄く伸びる。私はその音を背に受け、宿の扉へ手を伸ばした。蝶番が軋み、暖かい空気が顔を撫でる。テーブルでは宿の女が帳簿を睨み、暖炉では薪が割れる。世界は私の断罪に関心がない。だから私は、私の計画に関心を持つ。
階段を上がり、部屋に入り、鍵を回す。机に灯りを置き、封筒を取り出し、角の折り目をなぞる。三角と線。開かずに読め、という合図。私は紙を裂かない。角の折りを逆に辿り、隙間をすくって中のカードを滑らせる。黒い紙に、銀のインクで短い文字。
《風下で待つ。明晩、鐘が七つ。川沿いの古橋。——N》
N。ノワール。あるいは、誰かの名。
私はカードを光にかざし、インクの盛り上がりを指で確かめる。匂いは消してある。匂いを残さないのが、彼らの礼儀。私は別の匂いで印をつける。カードの端に、ミントをほんの少し。私の合図。風が来れば、わかる。
椅子に腰を下ろし、母の書簡を一枚、机の端に置いた。
《風上にも風下にも立つな。斜めに立て》
今夜の私の立ち位置は、斜め——だったろうか。ダミアンは風の中から来て、風の中へ消えた。私の煙は、彼の目を焼いたが、彼は笑った。笑う男は、信用しない。笑い方を見極めるまでは。
でも、今はいい。網の外周から、糸が一本伸びた。封筒という形の糸。私はそれを指に巻き、強度を測る。切れやすい。だから、美しい。
灯りを落とす前に、机の上に小さな紙片を並べた。今夜の配合——ミルラ、ラブダナム、胡椒、唐辛子、ほんの針先の樟脳。次は煙の粒を細かくする。目に来すぎると、味方も泣く。味方? ——私は首を振り、言い換える。使える手。
窓を開けると、川の匂いが濃く入ってきた。私は吸い込み、吐く。息は白くならない。夜は緩んでいる。
ベッドに横たわる。瞼の裏に、刃の線と、黒い封筒の角と、彼の目の色が交互に浮かぶ。
「悪運が強い」
「運じゃない。選んだだけ」
私はそのやりとりを二度繰り返し、三度目で眠りに滑り込んだ。
明晩、鐘が七つ。古橋。風下。
選ぶ準備はできている。
運ではない。選ぶのだ。
選び続ける限り、私は生きる。
そして、私が生きる限り、誰かの物語では“悪役”であり続ける。
——構わない。
悪役は、幕を上げる役でもあるのだから。
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