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第4話 ルヴァンの風と露店の数式
しおりを挟む街道が谷を抜け、石畳の目が細かくなったあたりで、古都ルヴァンが姿を現した。灰色の城壁は苔むしていて、高い尖塔は光を吸って鈍く光る。風は乾いた紙の匂いと、湿った石の匂いを運び、どこからか鐘の音が遅れてくる。王都より小さく、けれど古い。“長く生きる”ことに慣れた街の顔。
私は御者台のピエールに礼を言い、荷を肩にかけた。
「ここからはひとりで大丈夫。あなたは戻って」
「送りますよ、宿まで」
「いらない。——ここからは、私が私の足で」
彼は少し残念そうに頷き、手綱を軽く鳴らした。「またいつか」と言いかけて、言葉を飲み込む。別れは短いほど、未来が残る。
石橋を渡り、アーチの門をくぐる。門番の視線は慣れている。追放者、旅芸人、行商、逃げた花嫁——この門は、いろいろな物語を見てきたのだろう。私の物語も、列に加わるだけ。
宿は市場の外れ、曲がった路地の奥にある。看板は剥がれ、扉の蝶番は軋む。宿主の女は腕が太く、笑い声が大きい。
「名前は?」
「セラ」
「姓は?」
「なし」
「長居かい?」
「未定」
女は私の目を一度だけ覗き込んで、受付台の上に鍵を置いた。鍵は軽い。部屋は二階の角。窓が狭く、布団は薄く、床は冷たい。けれど、窓から市場の吐息が聞こえる。商いの音は、音楽に似ている。拍があり、強弱があり、主旋律が日によって変わる。
私は外套を脱ぎ、荷を解き、持ってきた最小限の道具を並べる。乳鉢、乳棒、小瓶、紙、紐。母の香水瓶は箱に戻し、書簡束は枕元へ。机の上に、ミントとラベンダーをひとつかみ広げる。指で葉を撫でて香りの調子を確かめ、午前のうちに必要な配合を頭の中で組む。
「露店、出します」
宿主の女にそう告げると、彼女は眉を上げた。
「初日から?」
「初日が肝心」
「机は貸すけど、場所代は抜くよ。あと、市場の連中に挨拶しときな」
「わかってる」
私は簡素な木机と布を借り、市場の外縁、風の通り道の角に陣取った。日向過ぎず、日陰過ぎない。通りすぎる人の肩に布が触れない幅。足を止めたくなる余白。——布ひとつにも、方程式がある。
布を敷き、瓶を並べる順番を決める。左から、安心、清潔、快楽。ミント、ローズマリー、ラベンダー。次に、蜂蜜とリンゴ酢を緩衝にして、柑橘の皮、乾燥させた白い花。色は淡い順。高さは右肩上がり。人の視線は大抵、左から右へ、下から上へ。買ってほしいものを、最後に置く。
値札は小さく、でも明瞭に。高すぎず、安すぎず。王都ほどの虚栄は無いが、ルヴァンにも虚栄はある。古い街の人は“わかってる”自尊心をくすぐると財布が緩む。「安いから」ではなく「自分は良いものを選べるから」。だから、値札の角に小さく“調合可”と書く。選ぶ自由を売る。
最初の客は、革細工の男だった。指が厚く、爪の間に染料の色が残っている。彼は無言で瓶を手に取り、ラベルを読むふりをした。——読めない。ラベルは飾り。彼は匂いで買う。
「仕事場に置きたい。革の匂いが強くてね、客が嫌がる」
「清潔感を演出したいなら、ローズマリーとレモンを少し。強すぎると偽物っぽくなるから、針の先で。あなたの手の匂いと喧嘩しないように」
「……いくらだ」
「小瓶で六ソル。詰め替えなら四」
彼は眉をひそめ、迷うふりをし、結局、詰め替えを二本買った。去り際、革の匂いの奥に、少しだけ柔らかい香りが混ざる。店に戻れば、客の滞在時間が伸びるだろう。滞在時間は売上に比例する。彼が今夜、家でほほえむ可能性まで、私は簡単に計算してしまう。悪い癖。でも役に立つ。
二人目は、魚売りの女。手が冷たく荒れている。彼女は瓶には興味を示さない。目が、布の端の蜂蜜に吸い寄せられている。
「喉にいい?」
「いい。熱い水に溶かして、少しレモン。塩を一つまみ」
「塩?」
「声が出る」
彼女は半信半疑で小瓶を買い、去り際、私の手を掴んだ。「名前は?」
「セラ」
「セラ、明日、声が出たら、もう一本買う」
「明日じゃない。今夜。明日の朝は、魚が呼ぶ」
彼女は笑った。笑いには種類がある。皮肉、照れ、媚び、試し。今のは“賭け”。市場の人間は、賭けを好む。私は彼女の背中に、勝ちの匂いが乗るのを感じた。
三人目は、若い学徒。紙束を抱え、眠そうな目。机に頬をつけて寝落ちする種類の疲れ。
「眠りたい。深く」
「ラベンダーは常套手段。あなたにはほんの少しのバジルを混ぜるといい。思考の歯車が静かに止まる」
「バジル?」
「香りは食卓だけのものじゃない」
「いくら」
「学生割引。小瓶で三」
彼は驚き、財布を出して、迷わず払った。学生は“割引”という言葉に弱い。彼が友人に話す。明日、似た目をした客が二人、三人来る。私はその未来に軽く頷き、瓶を詰める手を速めた。
昼前には、露店の前に小さな列ができていた。気づけば、近隣の店の目がこちらへ流れてくる。警戒と好奇心。私は笑い、隣のパン屋の若旦那にミント水を差し入れる。
「焼き場、暑いでしょう?」
「……助かる」
「余ったパンの端、夕方に少し。香の吸い込み試験に使いたいの」
「試験?」
「香りはパンに移る。移る時間を知りたい」
彼はあきれたように笑い、頷いた。交換。市場は小さな交換の網でできている。網の結び目に、私は静かに指を差し入れる。
午後、風が変わった。川から湿気が上がり、冷たさが骨を叩く。客の顔色が薄くなる。私は布を一枚重ね、温かいハーブワインを小さなやかんで温めた。香りが立つ。通りすがりの人が足を止める。
「売り物?」
「試飲。合わなければ、買わなくていい」
無料は群れを呼ぶ。だが“試飲”は選ぶ権利を残す。“与えられる”より“選ばせる”ほうが、人は深く財布を開く。
「寒いねえ、嬢ちゃん」
声をかけてきたのは、顔の広い古着屋の婆。目が針のように細く、口元がよく動く。市場の噂は彼女の舌の上で熟す。
「寒いです、お婆さん」
「売れてるね」
「ぼちぼち」
「場所代、払ったかい?」
「払いました。宿にも」
「ならいい」
婆は香りを嗅ぎ、目を細めた。「これは、上等だ。あんた、どこの誰だい」
「セラ。通りすがり」
「通りすがりが、並べ方を知りすぎてる」
「並べ方だけで、腹は膨れない」
「そうだな。——噂をひとつやろう」
婆は声を落とし、川の音に紛れさせる。
「王都から追い出された誰かさんが、こっちに来てるって。偽名だが、目が冷たい女だって」
「怖い女ね」
「怖い女は、ここには多い。安心しな」
婆は去り、また別の噂を拾いに歩いていく。私は自分の目に指先で触れて、温度を確かめた。冷たい。良い。熱が表に出るべきは、香りと湯気だけ。
夕方、パン屋の若旦那が袋を持って来た。パンの端が詰まっている。私は蜂蜜とハーブの吸い込み具合を確かめ、小さなメモに時間と香りを記し、箱に入れた。実験は、明日からの価格の裏付けになる。“根拠”は高値の言い訳になる。虚栄は、理屈に弱い。
日が傾き、露店をたたむ。売上は銀貨と銅貨で小皿にひと山。今朝より重い。重さは、選択の数だ。選ばれた回数の重み。私は小皿を両手で支え、宿の階段を上る。階段は軋み、窓の外では月がまだ細い。
部屋に戻る。手を洗い、乳鉢を拭き、瓶を並べ直す。指の節が少し痛い。痛みは、正しい。使った印だ。
机の上に書簡束を置く。青い紐を解き、順番を崩さず、一枚ずつ読む。母の筆跡は、冷えた心臓に火をつける。
《人脈図は地図よ。川がどこへ流れ、橋がどこにかかり、どの道が雨で崩れるか。人は地形に従う》
《噂は風。壁は風向きで建てなさい。風上に立つのは疲れる。風下に立つのは危険。だから、斜めに立ちなさい》
《王家の財務は、数字でできた劇場。観客は数字を愛さない。だから舞台裏に貼る図面を持ちなさい》
私は紙を広げ、机の上に簡易の地図を描く。王都の宮廷——名前、役職、嗜好、家族、借金、後ろ盾。知っている限りを書き出す。次に、ルヴァン。商人ギルド、聖職者、古い家、川筋。名前は空欄が多い。空欄は怖くない。埋めればいい。
線と線が繋がり、網が見えてくる。網の結び目に、印をつける。そこに、たぶん“ダミアン・ヴェルナー”という名前が来る。昨夜、王城の柱の陰にいた男。元近衛。今は影。まだ、追わない。網の張りが弱い時に大きな魚を追えば、網ごと持っていかれる。
窓の外で、風が方向を変えた。川の匂いが強くなる。私はミントを少し潰して湯に落とし、湯気を吸い込む。頭の中の歯車が、静かに、しかし確かに回り出す。疲れが骨に沈む。眠気が目蓋を撫でる。——寝る前に、もう一枚。
《復讐は長距離走。踵で走ると足を痛める。母指球で地面を掴みなさい。呼吸は数えなさい。十で一度、景色を見る》
私は笑ってしまう。母はいつだって、比喩が上手い。復讐の走り方。踵ではなく、母指球。私は裸足の足裏で床を押し、重心を確かめる。体が、昔のフェンシングのレッスンを思い出す。踏み込み、捌き、間合い。
灯りを落とし、薄い布団に身を入れる。外からは、遅い客の足音、笑い声、犬の吠え、遠くの鐘。世界は騒いでいるのに、私の中は静かだ。
今日の売上、二三ソル。仕入れ、八ソル。残りの現金、四二ソル。宿代、三ソル。食費、二。明日の仕入れ、五。——計算は子守歌。数が子守をしてくれる。
目を閉じる前に、天井の木目に指で小さく文字を書く。
〈SERA〉。消える。
眠りの底で、私はもう一度、母の言葉を聞く。
《あなたがあなたを必要としなさい》
——必要とする。
私が、私を。
朝が来れば、市場はまた別の旋律を奏でる。私はその拍に合わせ、露店を開き、瓶を磨き、言葉を選び、人の虚栄をくすぐる。小銭は銀貨になり、銀貨は金貨に変わる。金貨は網を強くし、網は大きな魚を待てるようになる。
その大きな魚の名前は、聖女。あるいは、王太子。あるいは、王国。
どれでもいい。どれも、いずれ網の中。
私は眠りに落ちる寸前、ほんの少しだけ笑った。
香りが、私の呼吸に合わせて、部屋の空気を撫でた。
「セラ」という名は、舌の上で軽く転がり、やがて喉の奥に沈み、心臓の鼓動に同化する。
ルヴァンの夜は長い。復讐は長距離走。
そして私は、息を数えることが得意だ。
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