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第10話 銀糸は歌を覚えている
しおりを挟むその夜の風は、刃の背みたいに冷たかった。
露店を畳み、宿へ戻る途中、私は路地の角で足を止める。鼻は何も拾わない。花も、脂も、酒も、腐敗も——“何もない”という匂いだけが、薄い膜になって漂っている。
無臭の空気ほど、わかりやすい異物はない。
角を曲がる。石畳の目地に霜が降り、看板の絵は眠たげだ。影が一つ、灯りの届かない高さで折りたたまれて、私の歩幅に合わせてくる。足音はしない。靴は新しい、か、裸足。
私は歩調を変えない。胸の内側の小袋を撫で、銀糸のハンカチを指で探る。
銀糸のハンカチは、薄い雨雲みたいに軽い。経糸に銀、緯糸に麻。銀には、上質の卵白と微量の塩、そして私だけが配合を知る“鍵”が染み込んでいる。気体になりやすい毒に触れると、わずかに色が曇る。湿りを含む毒なら、銀が冷える。熱い毒なら、銀が泡立つ。
礼法のレッスンで教わった“取り出し方で人柄が出る”の逆をやる。
私は笑って、品よくそれを取り出した。鼻先にそっと触れ、頬に当てて、吐息を濾す。
何も匂わない。
だから、危険だ。
影が膨らんで、私の進路に滑り込む。黒い外套、フード、針のような指。次の瞬間、影は指先で空気を撫でた。撫でただけ——のはずが、喉の奥に“空白の味”が広がる。味がしない味。甘くも苦くも酸っぱくも塩辛くもない。ただ“薄い”。
肺が覚えている。昔、一度だけ嗅いだことがある“無臭”。
王城の調香室、毒の実験台に乗せられた布。
訓練という名の試練。
——あのとき、銀が色を変えた。
銀糸の端が、ほんのり曇った。
「挨拶がないのね」
私は鼻と口を銀で覆い、笑ってみせる。
刺客の肩が、わずかに揺れた。感情の輪郭を消す訓練を受けた体は、驚いた時だけ、骨で反応する。
「——姫の嗅覚は鈍っていない」
音を出さない口の動き。言葉は凍った硝子の内側で崩れ、路地の石に落ちる前に消える。
セラじゃなく、姫。
古い呼び名で呼ばれた瞬間、舌の裏が鉄の味になる。
刺客は二歩、踏み込んだ。
私の喉元に、空気が撫でつけられる。毒は霧。霧に香りはない。ただ、空気の“なめらかさ”が変わる。
銀糸の縁が、白から灰へ、ほんの糸一本分だけ濃くなった。
私は反射的に膝を抜き、距離を潰す。肘で胸骨を押し、肩で顎を打ち上げ、密着してしまえば、霧は広がれない。
刺客の鳩尾で空気が潰れた。乾いた呼気。私は彼の手首をつかみ、指の根元に爪を立て、刃を落とさせる——刃はない。武器は、空気だけ。
料理ではないのに、私は条件反射で塩の位置を探していた。
無臭の毒に対する、人間の原始の対抗策。
——けれど、ここには塩はない。
「誰が、あなたをここに」
問いは、挑発ではなく、確認。刺客の沉黙は訓練の成果。
銀の縁が、さらにわずかに曇る。
長居はまずい。
私は刺客の頭を壁に軽く打ちつけ、その身体をすり抜けるように離れ、灰の霧の外へ出た。
息を吐く。銀越しに、細く。
視界の端で、影が再び動いた瞬間だ。
——口笛。
風の筋に、細く鋭い旋律が一本、通った。
無意識に体が凍る。
旋律は、昔日の庭を通ってくる。真昼の剪定、枝葉の匂い、少年の声、彼の長い足取り。
近衛隊の庭で、兄みたいな男がよく吹いていた、癖のある曲。
“えんどう豆、二つ、鞘のなか”——子どもじみた歌のくせに、吹き方はやけに技巧的で、音に影ができる。
その影が、今夜、ここに落ちている。
私は銀の縁から顔を少しだけ外し、耳を澄ます。
二度。三度。
音の出どころは、路地の出口。灯りの高さ。
刺客の肩が微かに緩む。合図の音だ。
王城の、心臓部の合図。
——懐かしいわね、ギヨーム。
名前を呼んだのは心の中だけ。外へ出せば、刃が来る。
彼は近衛隊長。私の幼い頃の“兄”。
剣の握り方、踵の落とし方、笑いの引っ込め方、全部、彼に教わった。
彼の口笛は、悪戯の合図で、撤退の号令で、勝利の返礼だった。
今夜のそれは、撤退の合図。
刺客が踵を返す。霧が揺れ、影が薄くなる。
「待って」
呼び止める声は、出さない。代わりに、銀糸の端をひらりと見せる。
刺客の視線が、灰色に曇った縁に触れた。
彼は一瞬だけ動きを止め、次の呼吸で、消えた。
音も、匂いも、残さず。
静かになった路地に、遅れて風が入り、銀糸の冷えが少し戻る。私はハンカチを畳み、内ポケットへ戻した。
指先が、震えていると気づく。恐怖ではない。
懐かしさの震え。
——城が、私を見た。
私もまた、城を見た。
宿への道を変え、川沿いの暗がりに身を入れる。
「遅い」
ダミアンが影から出てきた。目の奥で、炎が弱く瞬く。
「無臭の毒」
「嗅いだな」
「嗅いだ。銀が曇った」
「銀で防げたのか」
「防いだのは、私の呼吸。銀は、境界を教えるだけ」
彼は私のハンカチを覗き込み、笑わない笑いで低く言う。
「無臭、無味、無声。三拍子だ。出所は一つだな」
「王城の心臓部。——ギヨーム」
名を出すと、ダミアンの眉がわずかに跳ねる。
「確定か」
「口笛。彼の癖。撤退の合図」
「見られてる、というより、“触られた”な」
「触られた。兄の指で」
「情を切れるほど、強いか」
「切るのは簡単。血は伸びるから」
「……懐かしさに酔うな。快感に酔うなと言った次は、懐かしさだ」
「知ってる。だから、今から酔い止めを飲む」
私は胸の奥で、決意の形を確かめた。
駒を、一段。
盤の外へ出す。
相手が心臓で打つなら、私は動脈で返す。
「駒を上げる」
私ははっきり言った。
「仮面舞踏会の主催権。買う。——いや、奪う。王都最大の仮面会。照明、演目、食卓、花。全部、こっちで組む。聖女の“奇跡”の動線を、私たちが決める」
「金は」
「《保護》で作る。今夜の契約は足りない。だから、明朝、利息をもう半分下げる。その代わり、“噂の証明”を一つずつ受け取る。誰から、誰へ、何が動いたか。証拠は、匂いと紙」
「目立つ」
「目立たせる。目立たせることで、“無臭”を浮かせる」
「刺客を再び呼ぶ」
「来ればいい。銀糸は、歌を覚えてる」
ダミアンは視線を低く落とし、川面の黒を一度撫でるみたいに見た。
「ギヨームは、僕も知っている。剣は静かで、正確で、情は深い。君に刃を向けるのは、職務だ」
「ええ。だから、職務ごと切る」
「どうやって」
「城の“正義”に、別の“正義”を繋ぐ。検察卿。——今、彼の机には私の紙が二通入ってる。三通目を入れる。『仮面舞踏会の費用の一部が、予備費と“祝福”から出ている』という紙」
「証拠は」
「集める。今夜の倉庫、教会、控えの間。——それから、香り。紙だけでは、正義は動かない。崇高は匂いに弱い」
川の風が、銀の端をひやりと撫でた。
私はハンカチを取り出し、月にかざす。
細い曇りが、糸一本分。
境界線。
越えたら、戻らない線。
——渡る。
微笑むと、ダミアンが露に濡れた前髪を指で払った。
「笑ったな」
「笑う時だけ、刃が光る」
「今日はよく光る」
「磨かれたから」
「誰に」
「懐かしさに」
宿に戻ると、ヌールからの紙が机に置かれていた。短い筆致。
《市場の噂、王城へ逆流。無臭には色を。色は人目。——魚は光で暴け》
私は「了解」とだけ書き、蝋を落とす代わりにミントの香を紙の端に擦りつけた。
それから机いっぱいに紙を広げ、地図の糸を張り替える。
倉庫→教会→控えの間→巡行。
これに、舞踏会の円を重ねる。
照明の位置、階段の角度、花の飾りの高さ、楽隊の休憩場所、厨房の出入り口。
《告白》の薄い霧、《忘却》の甘い縁。
そして、銀糸の“境界”。
窓の外で、風がまた、あの旋律を運んだ。
“えんどう豆、二つ、鞘のなか”。
音はほんの微か。私にだけ届く程度。
私はペンを止め、目を閉じ、唇の裏で歌詞のない歌を噛み殺す。
——兄さん。
今は呼ばない。
呼べば、私が壊れる。
壊れるのは、私ではなく、彼らの側。
私は私のタイミングで壊れる。壊れてから、美しくなる。
夜明け前、私は銀糸のハンカチを枕の下に置いた。
銀は眠らない。
歌を覚え、毒を覚え、境界を教える。
王城の心臓部が動いた。
なら——私も、心臓で応じる。
心臓の拍に、糸を結び、駒を一段上げる。
盤面の光は冷たく、しかし確かで、私の笑いに似ていた。
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