悪役令嬢?ええ、喜んで地獄の底から幸せを掴みますけど何か?

タマ マコト

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第17話 遅すぎる学習、正しい課題

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 暫定評議会の一角、旧税関の地下は、湿った紙の匂いがした。
 かつて帳簿が積まれ、偽りの数字が眠っていた部屋は、いま石壁の露を吸っている。灯りは少なめ、油は節約の対象だ。通路の先に鉄格子。中には小さな机と簡素な寝台、そして椅子が二脚。面会室。扉の向こうに見張りが二人、合図の鈴を掌に包んで立つ。

 私は扇子を一度開き、閉じ、膝の上に置いた。灰がまだ骨ばった指の隙間に残っている。落ちない色は、雑さではなく、責任の跡だと自分に言い聞かせる。息を二つ深く。十で景色。母の教えは、地下でも効く。

 扉が軋み、少年みたいな目が入ってきた。
 王太子だった人——レオナール。
 頬は削げ、仮面の跡は消え、目だけが逆に大きくなっている。痩せると目は歳を戻す。彼は鎖を引きずらず、自分の歩幅で椅子へ来た。良い兆候だ。人は“連れて来られた”歩幅だと学べない。自分で歩いたときだけ、頭に入る。

「……ありがとう」彼は座らず立ったまま言った。「時間を、くれて」

「時間はあなたのものじゃないわ」私は扇子の骨を指で弾く。「街のもの。借りたと思って」

 彼は小さく頷き、ようやく椅子に腰を下ろす。背中が板に触れた音が、地下に薄く広がった。沈黙が一枚、二人の間に落ちる。

「なぜ、ここまで?」
 彼は問いながら、視線を落とした。答えを怖れる目ではなく、答えの重さを量る目。以前にはなかった癖だ。

 私は扇子を開き、閉じ、一拍置く。
 古い舞台の癖が、いまは刃の鞘になっている。
 「私の誇りを、あなたは面白半分で踏んだ。——だから、これは教育よ」

 彼の喉が動く。言葉は出ない。沈黙が奥歯に引っかかったみたいに、痛そうだ。遅すぎる学習は、常に痛む。痛みは授業料。遅れた分だけ高い。

「教育……」
 ようやく絞り出した音は、少年の頃の読み間違いのように頼りない。

「ええ。あなたはずっと、“必要だから”で動いてきた。必要だから奇跡を用意し、必要だから借り入れ、必要だから台本を読む。必要は言い訳にも祈りにもなるって教えたでしょう。だから、いま本当に必要な学びを課す」

 彼は視線を上げ、私を見る。以前は、人の目を見る前に誰かの顔色を見た。いまは、速くなった。遅い人間が速くなると、世界はまともになる。

「どう、学べばいい」

「手で。足で。舌で。紙で。——順番を守ること」

「順番」

「最初に数える。倉庫の袋、配った皿、死者の名。数えるのは祈りより先。次に運ぶ。水、薪、文書。王族の肩ではなく、自分の背で。次に読む。会計書類、供出証、配給札。読むのは言い訳より先。最後に書く。謝罪ではなく、報告。具体と数字で。感想文は要らない」

 彼は頷きかけ、頷ききれず、唇を噛んだ。
 「……謝罪は、要らないのか」

「謝罪は、ほとんどの場合、話者の救いでしかない。救済は今、配給列に回すの」
 私は低く続ける。「あなたが言葉で救われる前に、あなたの手で誰かが温くなりなさい」

 沈黙。
 地下の湿気が、少しだけ軽くなる。意地の湿気は減ると空気が変わる。彼の肩の力がわずかに抜けた。

「僕は、王に向いていなかった」
 彼は自分で言った。誰の口移しでもなく。
 「でも、逃げたかったのは、責任のほうだった。それを——君が代わりに拾ってくれている」

「代わりじゃないわ」私は首を振る。「私が拾っているのは、私が奪った分の責任。王政を崩したの。なら、混乱の線引きは、私の仕事。あなたの責任は別にある」

「牢の中で持てる責任が、あるのか」

「ある。学ぶ責任。学んだ証を出す責任。——そして、署名する責任」

 私は懐から紙束を取り出す。灰の指が端を汚す。《実務課程:第一週》。アルマンが作り、私が削り、ギヨームが現場の安全項目を追記し、ヌールが子守歌の旋律番号を鋳込み、パスカールが祈りを外して段取りにした紙だ。

「第一課題。配給所の重量検査に従事。袋を吊るす、針を読む、記録する。字が崩れてもいい。数字は崩すな。第二課題。救護線の水桶運搬。三十往復。途中で文書を一通、落とさず運ぶ。第三課題。死者登録簿の記入補助。名前の綴りを勝手に直さない。読み上げの声は低く、短く。——これを七日」

「七日で、何が」

「次の七日が来る」

 彼は少し笑った。ひどく幼い笑いだった。自分の無力を笑える人間は、まだ育つ。

 私は別の紙を重ねる。《署名:王室資産仮凍結、予備費明細開示、債権債務照合》。
 「これに署名して。王家の財は、あなた個人のものではないと、あなたの手で認める。過去の帳簿は開示。賭場への借用証は照合。罪を軽くするためではなく、街の腹を軽くするために」

 彼は一瞬だけ躊躇し、次に頷いた。「ペンを。——いや、鉛筆を。ミスをするかもしれない」

「学ぶ人の言葉になったわね」
 私は鉛筆を手渡す。灰が黒に重なって、芯の色が増す。彼は手を震わせ、だが止めず、署名した。
 レオナール。
 子どもの頃の書き癖が、苗字の端に残っている。王族の書体を教えられる前の、自由な圧。遅すぎる学習は、古い自由を掘り当てることがある。

「教育、か」彼は署名を見つめたまま言う。「僕は、君を——いや、セリーヌを、教育する立場だと思っていた。いつから、逆になった」

「最初から」
 私は即答する。「あなたが私の誇りを“面白半分”で踏んだ日から。断罪のあの夜。あなたは台本を手にしていた。私は、自分の足で舞台を降りた。そこからこれは、ずっと教育」

「僕の、何を教える授業だ」

「“なぜ選ぶかを語る力”。あなたが選び続けるための筋肉。王であるかどうかは関係ない。生きるとき、選ぶ。選ぶとき、語る。語れない選択は、暴力に似る」

 彼は目を閉じ、ゆっくり開いた。「君は、許さないのだね」

「許す、は私の言葉じゃない。私は仕留めるか、運ぶか。今回は運ぶ側を選んだの」
 扇子の骨が指先でひっそり鳴る。「『教育』って言ったでしょ。教育の反対は、見捨てること。私は美学としてそれをしない」

 沈黙が、今度は柔らかい布みたいに落ちる。地下の冷気が少しだけ薄らぎ、遠くで誰かが小さく咳をした。壁の露がランプの光を鈍く返す。

「君は、笑ったか」
 突然、彼が尋ねた。
 「昨夜……宮殿が崩れる音と、断罪の鐘が重なったとき」

 私は目を逸らさない。「笑った。涙の代わりに。——それは、私が悪役だからじゃない。終幕の設計が、美しく決まったから。設計者は、響きに責任を持つ」

 彼はうなずき、口角をほんの少しだけ上げた。「なら、僕は聞く。響きを。君が作る、次の静けさの響きを」

「聞くだけじゃだめ。担いで」
 私は椅子を引いた。足の音が、石に正しく響く。「明朝、北の広場。あなたの課題は五時開始。遅刻は、列を崩す」

「わかった」

「それから」
 私は扇子を開き、閉じ、彼の瞳の高さに扇面を持っていく。
 「私の名前は、セラ。セリーヌは私の骨。骨は骨のまま、ここにいる。でも今、街で動く筋肉はセラ。あなたが呼ぶとき、間違えないで」

 彼は姿勢を正した。「セラ」
 その呼び名に、三年分の遠回りが少しだけ解ける。
 「ありがとう……と言っていいのかは分からない。でも、言わせて。ありがとう」

「言葉はあなたの救い。私は街の救いを優先する。——だから、ありがとうは、ついでに置いていきなさい」

 扉の向こうの鈴が小さく鳴り、見張りが合図を返す。面会の刻限。私は立ち上がる。椅子が押し戻される音がぴたりと止み、地下の空気は元の厚さに戻った。
 去り際、彼が呼ぶ。

「セラ」

「なに」

「僕は、もう一度、誰かの誇りを踏むかもしれない。人間だから」

「踏むでしょうね」
 私は振り返らずに答える。「そのときは、今度は自分で気づきなさい。気づいたら、止まりなさい。止まれたら、戻しなさい。戻せなかったら、支払いなさい。支払いは、紙でも、汗でも、時間でもいい」

「——学ぶ」

「遅すぎる学習は、たいてい間に合う。街は急ぐけど、生は意外と待ってくれる」

 私は扉に手をかけ、金具の冷たさで指先の震えを整えた。
 扇子を畳み、胸の内に差し入れる。
 鍵の音。鈴の音。
 すべてが、次の課題の始まりに似た響きで鳴った。

 階段を上がると、冬の昼光が薄く差し、紙の匂いが新しくなっていた。机の上には配給札の束、供出証の控え、救護線の地図。隅に置かれた水の桶に、灰が一つまみ落としてある。手を浸すと、ひび割れの間に温度が染みた。

 ダミアンが通路の角に立っていた。肩の包帯は新しく、目は眠っていない。「どうだった」

「遅すぎる学習。——始まったところ」

「間に合うか」

「あなたが線を守れば。ギヨームが合図を間違えなければ。ヌールが歌を忘れなければ。アルマンが桁を落とさなければ。パスカールが神に浮気しなければ」

「条件が多い」

「生きるとは、条件の束を抱えること」

 彼は口の端をわずかに上げる。「君の授業、受けたい生徒がもう一人いる」

「だれ」

「僕」

「あなたは単位が足りないわ」
 私は灰の手を水から上げ、指先の所作を整えた。血と灰の線は、まだ落ちない。落とさなくていい。落ちない線が、私の罰であり、徽章であり、授業の板書だから。

「さあ、先生」ダミアンが冗談めかして礼をした。「次の課題を」

「東の倉庫、鍵が固い。開けて。——一斉に」

 彼は頷き、踵を返す。
 私は机に戻り、紙の角を折った。《実務課程:第二週》の余白に、鉛筆で一行書き足す。

 ——教育は、復讐の最終形。
 ——復讐は、教育の最初の動機。

 文字は薄く、しかし読める。灰の中で、朝の中で。
 私は扇子を開き、空気をひと撫でした。
 面会の部屋に残した沈黙が、いつか、正しい音に変わることを知っている。
 そのとき、少年の目は、やっと大人の視界を持つ。
 それが私の“教育”の合格点だ。
 鐘が鳴る前に、私は笑わず、机に向かった。
 紙の上で、次の課題が待っていた。
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