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第18話 雨の裁き、台本の外
しおりを挟む広場は石の匂いがしていた。
夜の火はもう残っていないのに、灰の粒は人々の髪に薄く降り、肩に残り、まつ毛に絡まっている。暫定評議会は、壇ではなく長机を四つつなげた低い「線」を置き、その向こうに椅子を三脚だけ。中央に被告、左右に記録と見張り。飾りはない。布もない。音響もない。かわりに、紙がある。紙の重さで儀式を押し下げる。
群衆は石を求めていた。
手の中で石は正義に、悪趣味に、救いの代用品に、それぞれ変わる。
聖職者たちは免罪符を求めていた。
銀の鎖、蝋の匂い、手の内の古い言葉。免れる文句を、今夜用に書き換えたくてうずうずしている。
私は表に出ないと決めたはずだった。けれど、今夜だけは「線」の側に立つ。
紅の商人の仮面はない。灰色の外套。扇子は細い骨。指先に血と灰の薄い筋。
ダミアンが群衆の端で目を細め、ヌールは桶を叩き、アルマンは机の角を整え、パスカールは数珠ではなく名簿を繰る。ギヨームは見張りの位置を一歩ずつずらし、石の弧を短くする。「投げる」より「落とす」に変わる距離。落ちるものは、勢いが減る。
椅子に座る女は、白を失った白だった。
聖女——リリアーヌ。
扇は持たない。指は組んで、爪の根に炎の夜の煤が残っている。視線はまだ人の前に立つ角度を覚えているが、乗るべき舞台がないから、宙に梁を探すようにさ迷う。
「開廷する」
声はヌール。杖で地面を一度叩く。音は小さいが、広場の喉に届く。
アルマンが読み上げる前口上。「王政崩壊後の暫定評議会による公的審問。聖務に携わった一個人について、事実の列挙と処分の決定を行う。——見世物ではない」
最後の一文に、群衆の前列がわずかにたじろいだ。見世物にしない、とは、見せないという意味ではない。見せ方を選ぶ、という意味だ。
私は席につかず、立ったまま紙の束を持った。
罪状の「台本」。
ここに書いたのは、怒りのための台詞でも、赦しのためのレトリックでもない。事実の骨。数字の骨。印の骨。骨が骨であるように読む。
「罪状。第一、寄付金の横流し。『孤児院修繕費』名目の袋が、王城裏門を経由し、巡行費に転用された件。証拠、会計書類、印章二重押し、尻尾の長さの誤差。第二、奇跡の演出。花の倉庫からの搬出、控室での仕立て、巡行時の“咲花”。第三、禁忌の薬剤と溶剤の使用。祈祷室での『調整』の調合記録。第四、王太子への依存的指導——いわゆる『台本』の提供。第五、賭場への返還相殺に関する認識の隠蔽」
私は淡々と読み上げる。観客席のない舞台だ。手を拡げず、声を飾らず。
人々の手の中で石が重くなる。重い石は、投げづらい。
聖職者の列の中で、ひとりが前に出た。鎖の先を指でひねりながら、穏やかな声で言う。
「罪は個にある。悔い改めの祈りをもって、赦しを請う機会を——免罪符は、こういう時にこそ」
「免罪は取り扱っていない」
ヌールが即座に切る。
彼は食うことと免れること、両方の行列を整理してきた人間だ。
私は紙をめくり、続ける。
「関係者。財務官ラ・ヴェルヌ。側近ラザール。衣装係、花屋、印章師、新聞社下働き、教会裏門の鍵持ち。——すべて、名前がある」
ざわめき。
「名前」に群衆が弱いことを、私はもう知っている。
名が呼ばれたとき、人は自分の指に付いた灰を見る。投げようとした石の面に、指紋がうっすら映る。
リリアーヌが初めて口を開いた。声はもう、台本のピッチではない。
「わたし、ひとりの罪にしてくれたら——楽だった」
素直だ。
素直さは、立派な舞台装置にもなる。
私は扇子を開き、骨で空気をひと撫でする。
「だから、そうしない」
視線が私に集まり、また分散する。
風が少し変わり、灰が目に入って咳をする者が出た。咳は怒りの舌を鈍らせる。良い。
私は罪状の紙束を最後の一枚まで読み、そこで扇子を畳んだ。
一拍置いて、付け加える。
「——そして、ここに一行を記す。『彼女ひとりで可能な犯罪ではない』」
広場が微かに、頭を上げる音を立てた。
群衆の視線が、椅子の女から、後ろの列へ、さらに左右の隙間へ、と移る。
怒りが、個人崇拝から構造へ矯正される瞬間。
個人崇拝は甘い。構造は苦い。
今夜は、苦いほうを飲む。
「連座を問う。——ただし、『連座』は石ではない」
ダミアンが腕を組み、低く言う。「石は要らない」
ギヨームが見張りに合図し、石の弧をさらに短くする。
群衆の後方で、古着屋の婆が桶の水を持ち上げ、濡れ手拭いを放る。「手を冷やしな! 熱い手は、間違う!」
私は処断の紙へ移る。そこに刃はない。あるのは線。薄く冷たい雨のように、均等に降る線。
アルマンが声を重ねる。読みが二重になるのは、儀式ではない。確認だ。
「処断。第一、資産の差し押さえと再配分。『祝福』『慈善』『予備費』の名で積み上げた財——倉庫の米、押収。印章師は再教育ののち公印から外す。衣装係は赦免、花屋は罰金、新聞社は校正責任者の更迭。……第二、聖職者列の免罪符制度、廃止。かわりに『公的悔過台帳』を設置。罪は数え、労で返す。第三、側近ラザール——終身の公職追放、並びに調剤器具の没収。第四、財務官ラ・ヴェルヌ——三年の簿記労働。賃金は供出証に付与、市場回復後にのみ受領可。第五、王太子レオナール——実務課程継続、署名の公開、報告の定期閲覧。第六、聖女リリアーヌ——聖務資格剥奪。『奇跡』の名の下に用いた会計を、被害額分、医療と衛生の現場で返す。期日は三年。扇は許可しない。髪を結え。指を汚せ」
リリアーヌが私を見る。
「石じゃないのね」
「石は、正義の手触りが良すぎる」
「あなたは、冷たい」
「雨みたいに」
私は淡々と返す。「冷たい雨は、均等に降る。貴族にも、信徒にも、商人にも。女にも男にも。……あなたにも」
群衆の前列で、石を握っていた若者が、手を開いた。掌に汗が溜まり、灰で黒い半月ができている。
彼は石を足元に置き、空を見上げた。「……降ってきたな」
空は曇天。まだ降ってはいない。けれど、彼の言葉に合わせて、風が冷え、どこかの屋根から水滴が落ちた。
誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが肩をすくめる。
怒りは、散るときに、軽くなる。
聖職者の列で、さきほどの男が再び前に出た。「免罪符が無いなら、人はどうやって——」
パスカールが遮る。「段取りで赦す。朝に水、昼にパン、夜に布団。罪は台帳へ。祈りは、勝手にどうぞ」
私は記録係へ目配せし、筆を止めさせる。「最後に」
視線が戻る。
私は紙ではなく、人の目を見た。
「聖女リリアーヌ」
名前を呼ぶ。
「あなたがここに座っている理由は、罪だけじゃない。『象徴』だったから。象徴は、誤用されると毒になる。毒は、薄く、長く、広く効く。——今から、解毒をしてもらう」
彼女は笑わない。うなずくでもない。唇を押し、喉を動かし、目を落とす。昔、舞台の袖で彼女が台本を口の中で転がして覚えていた時の仕草に似ている。
彼女はやっと言う。「わたし、舞台の上でしか、生き方を習ってこなかった」
「教える」
私は扇子の骨で空気をひとかき。「段取りで生きる方法。あなたを憎んでいる人間たちの行列に並ぶ方法。——先頭じゃなく、最後尾に」
彼女の目に、ほんの少し、力が戻った。痛みに似た力。
「わかった」
ヌールが杖を叩く。「決定。処断は即時執行、参照台帳は広場で公開。名だけではなく、行いの欄を用意。……歌うな、群衆。今日は歌じゃない。歩け」
ギヨームが合図する。見張りが列を作り、リリアーヌは立ち上がる。
その瞬間、小雨が落ちた。
薄く、冷たい、均等な雨。
誰のためにも強くなく、誰にだけ優しくもなく、ただ広場を一様に濡らす。
石は濡れて滑り、手は冷えて力を失う。免罪の言葉は紙で滲み、代わりに台帳のインクは滲まず残る。ジルが配合を工夫した、灰の上でも読めるインクだ。
リリアーヌの髪に雨が落ち、彼女は髪を結い直した。扇のない指で。
私はその所作を見て、ようやく小さく息を吐く。
——人間の所作だ。
群衆のなかに、レオナールの姿があった。
鉛筆で真っ黒になった指、配給所の印に滲んだ汗、濡れた外套。彼は石を持っていない。代わりに帳尻の数字を指で数え、雨のなかで頷く。彼の沈黙は、遅すぎる学習の音だ。静かで、長く、続く。
ダミアンが横に来て、低く囁く。「石、飛ばなかったな」
「雨が勝った」
「雨、ね」
「怒りを薄めるには、水。均等に降らせるには、段取り」
「君の段取りは詩を食べる」
「詩は、あとで」
ヌールが苦笑して肩をすくめる。「石の代わりに紙を投げた夜は、長生きするよ」
アルマンが台帳を掲げ、「ここに書け。見たこと、やったこと、やらなかったこと。名前を添えて。——名を持つのが責任だ」と声を張る。
パスカールは濡れた髭を撫で、「神は雨にいる」と小声で言って、すぐ「冗談だ」と付け加えた。冗談にしては、良い顔をしている。
リリアーヌが歩き出す。
最後尾へ。
彼女の背を追って、一人、また一人が連なる。
「連座」という言葉が、石ではなく列に変わる。
列は遅い。遅いものは、壊れにくい。
私は扇子を閉じ、骨を胸の内側へ押し当てた。冷たい。冷たさは、今夜の正しさだ。
雨脚がすこし強くなる。
けれど、嵐にはならない。
ざぁ、ではなく、しとしと。
冷えて、薄く、均等に。
怒りは洗われ、眼差しは移り、処断は人から人へ、役割へ、仕組みへ、薄く広がる。
誰も英雄にならず、誰も生贄にならない夜。
その退屈さを、私は誇りに思う。
復讐の物語を生で終わらせないために、私はこの退屈を設計した。
扇子を持つ手に、雨粒が一つ落ちる。
それを払わず、骨に吸わせる。
骨は、覚える。
雨の音、石の重み、紙のにじみ、目を逸らさなかった人たちの短い息。
明日の図面に必要な音だけが、静かに残った。
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