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第1話 追放と旅立ち
しおりを挟む断罪の大広間は、音を吸う石でできている。高い天井、吊り下がる鉄の燭台、油の匂い。床に敷かれた赤い絨毯は、誰かの期待と失望を何百回も踏まれて、色がすこしだけ褪せていた。
正面には王と重臣。左右にはパーティーメンバーの席。――私の席だけが、背凭れの布が新しい。昨日、侍女が貼り替えたのを見た。新しいのに、座る相手は古くなったらしい。
「聖女リリア。君はもう用済みだ」
中央に立つ勇者レオンが、わざわざ響かせるように言った。磨き上げた黄金の胸甲が、火の光を跳ね返してまぶしい。彼の声はいつだって人を集める。戦場でも市場でも、今日みたいな見世物でも。
私は片眉をあげる。自分でも驚くほど、喉は乾いていない。掌にほんのり残っていた神聖術の温度が、さっと冷えるだけ。
「じゃ、必要経費の清算お願いしますね。救急薬草代、宿泊代、あと、あなたが現場に持っていってすぐ無くした地図二枚」
どっ、と笑いがさざめいて、すぐに石壁に吸い取られていく。レオンが顔を歪め、隣の宮廷神官が咳払いして私を睨んだ。
「ふざけるな、リリア。これまでの非礼を詫びて撤回しなさい。聖女の力が落ちたのは事実だ」
「検証の話、ちゃんとしません? あなたたちが“落ちた気がする”って言い出したの、二週間前の夜営明けで、レオンが寝不足のとき。その前日、私、普通に重傷者三名を治してますけど」
「……言い訳はいい」
レオンが剣の柄に手を置き、声だけで切りつけてくる。私は彼の右手を見た。癖で、人差し指に力が入っている。焦っているときのサイン。昔はそれに気づくたび、そっと彼の手を握って力を抜かせた。今は、しない。
「裏切りの嫌疑もかかっている。魔族との通話をしたという証言が――」
「はいはい。夜中に馬屋で、魔族の青年と話してた、って噂でしょ。あれは患者。魔族も怪我はするの。あの子は“敵兵”で、でも“人”だったから、私は治した。それが裏切りっていうなら、そっちのルールの方が壊れてる」
ざわめきが増し、隅で旗持ちの少年が目を丸くした。王の皺だらけの手が、肘掛けを叩いて静けさを呼ぶ。王は老いた海のように深く、感情を見せない。
「真偽はともかく、勇者と聖女の信頼関係は破綻しておる。婚約の破棄と、パーティーからの除名を認める」
はいはい、王様の総括。私は肩で息をしてみる。軽い。からっぽでもない。怖くもない。驚くほど、今の私は私の体重だけだ。
「了解しました。じゃ、退職&婚約破棄の書類、まとめておきますね。離職票は明日までに欲しいです。あと、私の私物は倉庫の上段、白い箱三つ。他人の荷物が混ざらないようにお願いします。貯蔵庫の角砂糖、五袋は私が個人購入したやつね、返却よろしく」
「おまえ……!」
レオンの顔が赤くなる。怒り、羞恥、焦り、その全部で。
「ねえレオン。大広間で言うことじゃないけどさ、あなたが私を“用済み”って言ったの、多分自分に言ってるよ。最近、あなた、自分の剣を誰のために振るってるか、よく迷ってる顔してた」
彼の口が開き、閉じた。喉仏が上下して、言葉が迷子になる。私はかつて、その迷子を探しに行ってあげた。今は、行かない。
「以上。お時間を取らせました。退室しまーす」
ぺこりと軽く礼をして、くるっと踵を返す。絨毯がふかりと沈み、扉までの距離が短くなる。重い扉を押すとき、手のひらにひやっとした金具の冷たさがまとわりついた。嫌な記憶じゃない。温度の記憶だ。
城門を出た。風は塩気を含んでいる。遠くで海が、巨大な動物が寝返りを打つみたいに呻いている。胸の奥で、錆びた鎖が外れる音がした――金属同士が擦れて、最後に、からん、と気の抜けた響きが落ちる。変な音。好きだ。
荷物は布袋ひとつ。中身は替えの服、薬草、針と糸、メモ帳、羽根ペン。実用主義。宝石はない。代わりに、自由がある。自由は軽い。軽いけど、存在感はある。肩のあたりがすこし浮く。
夜行馬車の発着所に向かう。石畳が湿っていて、靴底に冷たさがじわじわ上がってくる。街灯の火はオレンジで、人の顔を少し優しく見せる色。荷馬車の御者台には、熊みたいな男が座っていて、パイプをくゆらせていた。
「夜行、港町行き、一本」
「二銀。席は硬いぞ」
「心は柔らかいので大丈夫」
男が鼻で笑って、硬貨を受け取る。私は車輪の振動が小さい真ん中近くの席を確保した。こういうのは経験。背もたれは古く、座面は板。硬い硬い言い訳のような椅子。
御者が「出るぞ」と叫び、馬車はぎくりと動き出す。城壁の影が車窓を横切り、街の灯りが遠ざかる。しばらくして、暗闇が濃くなって、灯りは星になった。
干し肉の匂い。向かいの席の兵士が噛んでいる。皮袋の酒の匂い。隣のおばさんの編み物の糸の擦れる音。車輪が石を拾うたび、床下で小さな火花みたいに音が跳ねる。遠ざかる王都は、背中のどこかをむずむずさせるけれど、もう、くすぐる手は届かない。
私はメモ帳を取り出す。ページの端に折り目がついていて、そこから開くと、昔の私の文字が出てきた。
――勇者のために最善を尽くすこと。 ――聖女として恥じないこと。 ――自分の欲は後回しにすること。
小さく笑って、線を引く。三つとも、今は違う。今の私は――
――朝起きて、好きな匂いの湯気を吸うこと。 ――疲れている人の肩を少しだけ軽くすること。 ――おいしいって言葉を、毎日、聞くこと。
書き換えた行が、夜の中でぴかっと光った気がした。気のせいでもいい。こういう錯覚は、優しい。
馬車が橋を渡る。川の音が途切れ途切れに聞こえる。御者台から小声が飛ぶ。「前に盗賊」――身体が自然に緊張する。私は指先に神聖術の癖を思い出すように、息を吸って、吐く。光らせない。ここで光ったら目立つ。小さな護りだけ、膝の上に置く。
道の脇に、影。三人。馬車は速度を落とさない。御者がわざとらしく咳払いし、パイプの火を指先で弾いた。ちいさな火の玉が夜に流れ、影が引っ込む。彼はたぶん、この道の地図と夜の癖を全部知っている。頼もしい背中に、こっそり“ありがとう”と言う。
隣の席のおばさんが話しかけてくる。「お嬢さん、王都から? 顔が真っ白だよ」
「はい。今日、いろいろ終わりました」
「終わったら、始まるからね。女の人の始まりは、だいたい夜」
「じゃあ、私、すごく始まってます」
二人でふふっと笑う。おばさんは編み物に戻り、私はメモ帳に戻る。
ページの端に、小さな店の絵を描く。扉、窓、看板。看板には何て書こう。カフェ。……カフェって、どう書く? カ・フェ。ひらがなでも可愛い。丸くて美味しそう。看板の下に、観葉植物。背の高いのと、背の低いの。角に大きな瓶。角砂糖を山にして入れよう。角砂糖の山。想像しただけで甘い音がする。砂糖が湯に溶けるときの、見えない花火。
レオンの顔が、ふいに浮かぶ。彼はいつだってまっすぐで、まっすぐが正しい世界で育った。まっすぐは強い。けれど、曲がっているものを折ってしまう力もある。私は曲がっている。多分、それで、生き延びてきた。曲がっていると、衝撃をやり過ごせる。しなる。折れない。――だから、私はここにいる。
「君はもう用済みだ」
あの言葉、面白いよね、と心の中で呟く。人って怖いとき、相手を物みたいに言う。用、済む、って。私は物じゃない。用もない。私は、私のやりたいことをやる。やりたいことは、たとえば――
湯気。香り。カップの口触り。朝の冷たい指先を温めるマグ。昼下がりの居眠り前の甘い一杯。夕暮れ、窓際の席で読む本のページに落ちる影。誰かのためでもあるけど、まず、自分のために、そういうものを作りたい。
星が外でパチパチ瞬いた。音が聞こえた気がしたのは、きっと疲れているから。いい疲れ。馬車の揺れは子守唄で、背骨の緊張が少しずつ床に落ちていく。私は布袋を抱えて、こくり、こくりと舟をこいだ。
夢を見た。古い台所。小さい私。母の背中。湯気。あの頃、母はいつも「いい匂いは生きる気力だから」と言っていた。私は頷いて、湯気を嗅いでいた。あの匂いを、もう一度、今度は自分の手で作る。
目が覚めたとき、夜明けだった。空はまだ青黒いのに、東の端っこだけに桃色が差している。馬の吐息が白くて、世界の輪郭がくっきりする。港町の手前で馬車が止まり、御者が振り向いた。
「終点だ。港町グレイス。魚と塩と朝日の町だ。気に入る」
「そんなコピー、どこで覚えたの」
「俺が今つくった」
「才能ある」
私は笑いながら、銀貨一枚をチップに重ねた。御者はちょっと目を見開き、笑わない口で「気をつけろよ」と言った。ありがとう。あなたもね。
足を地面につける。石畳は夜露で濡れていて、靴底がきゅっと鳴る。潮の匂い。パンを焼く匂い。魚の朝市のざわめき。カモメの鳴き声が高くて、眠気を頭から追い出す。遠くの屋根が並んでいて、瓦が光っている。人々の声は低く、笑いは短く、活気は分厚い。生きてる朝だ。
私は背筋を伸ばした。ここで、何かが始まる。まだ、何もない。空っぽの紙。空っぽは怖いけど、書ける。書けば、埋まる。私の好きで埋める。
メモ帳の最初の白いページに、私はゆっくりと書いた。
「次の冒険は、私の好きで埋める」
書き終えると、朝日が紙の上を撫でていった。光は、インクを乾かす魔法みたいに、さっと温度を残した。私は顔をあげて、まだ開いていない未来の扉に向かって歩き出した。靴音が三回鳴るたび、胸の奥で、さっき外れた鎖の余韻が小さく転がる。
――いってきます。
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