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第3話 スイーツ職人、拾いました
しおりを挟む午前の光が斜めに落ちて、看板の文字を撫でていく。昨日、夜更けまで描いて乾かした下地は、まだ指の腹にひんやりして、木目がやさしく起伏していた。私は布をきゅっと絞って、「CAFÉ」の縁を磨く。布が木に擦れて鳴る音は、子守歌のテンポに似ている。角を丸く、空気を柔らかく。看板は店の顔だから、ここをちょっとだけ可愛くする。
「ねえ、それ、顔磨いてる?」
背中から声。振り返ると、路地の光と影の境界に、背の低い女の子が立っていた。髪は栗色で、肩の辺りでばさっと切られている。目は琥珀。口元は悪戯っぽく上がって、笑う準備ができている顔。両手が忙しい——右手は細長い革のロールを抱え、左手は布包みを大事そうに支えている。
「顔、です。うちの子、初舞台前なんで」
「なるほど。じゃ、うちの口説き文句も初舞台」
女の子はずいっと近寄り、革のロールを机の上でぱっと広げた。金属が朝日にぎらり。ピック、テンションレンチ、針金、こじ開け用の薄いプレート。錠前破りの工具たちが、まるで宝石みたいに整列していた。
「……物騒なパレード」
「前半はね。後半は平和だよ」
左手の布包みが開く。甘い香りが空気の温度を変えた。バター、焦がし砂糖、アーモンド。四角い金色が並ぶ。フィナンシェ。焼き色が完璧。角が立っているのに、表面はほんのり艶を持っていて、上から光を飲み込む。
「ね。前半と後半の所持品、噛み合ってないよ?」
「過去は過去。今は砂糖の虜。……食べる?」
差し出されたフィナンシェをひとつ。親指と人差し指でつまんだ瞬間、薄い膜みたいな外側が微かに割れて、香りがふわっと膨らんだ。歯を入れると、外はサク、内はしっとり。熱はもう引いてるはずなのに、舌の上であったかくて、バターのコートが喉の奥に滑り込む。アーモンドの粉がほどけて、香りが花火みたいに口内で破裂する。
「……ずるい」
「勝ち申した」
「採用」
「面接、秒で終わった!」
「うち、直感採用制なんで」
笑い合う。笑いの隙間で、私の心の方が先に「この子、必要」と頷いていた。理由は言葉にする前に舌が知ってる。甘い説得力。砂糖は人の警戒心を溶かす。これは化学で、魔法でもある。
「名前、教えて」
「エマ。カタカナで書くと格好いいけど、ひらがなの方が似合うって言われる」
「エマ。私はリリア。ここで、カフェをやる。湯気と砂糖と、ちょっとだけ塩」
「塩? 海のやつ?」
「うん。この町の味が、甘さを綺麗にするから」
「相性良さそう。じゃ、改めて——働かせて。薪でも皿でも何でも洗う。できれば焼きたい。焼かせてほしい」
エマの背筋がぴんと伸びた。踵から頭のてっぺんまで「決めた」が通ってる。私は一歩近づいて、彼女の両手を覗く。指は細く、節は強い。爪は短い。刃物と火に慣れている手だ。あと、鍵も開ける手。器用さは武器だ。使い道が変われば、罪が技になる。
「履歴書は?」
「口頭でいくね。孤児院出、手癖わるし。拾われた盗賊団で鍵開け覚える。胃袋は甘党。仕事終わりに買う安いドーナツが生き甲斐。だけど、師匠が捕まった夜に気づいた。『鍵を開けるより、オーブンを開けてたい』って。逃げて、港へ。道具屋で皿洗いしながら、夜にひとりで焼いた。で、これ」
彼女はフィナンシェの箱を指でとん、と叩いた。音が小気味よく響く。自分の過去を軽く叩く音。重くはないけど、消してはいない。
「給金は?」
「出来高と、固定の組み合わせ。最初は固定少なめで、売れ行きに応じて上げる。厨房の材料、私が出す。オーブンは……今はない。小さめの焼き台から」
「交渉は誠実。いいよ。あと、ここ、泊まっていい?」
「床は硬い」
「床に馴れてる」
「じゃ、掃除当番は日替わり制。甘やかさない」
「砂糖は甘やかすけど?」
「そこは甘やかす」
二人で肩をすくめて笑ってから、私は看板の磨きを再開した。エマは工具をくるりと巻き直して、布包みを大事に抱え直す。
「鍵、開けられるの、やめた方がいい?」
「やめる、より“使う場面を変える”。夜に錠前をいじめるのは終わり。朝に焼き型をいじめて」
「甘い暴力に転職。了解」
昼まで、店は二人の作業音で満ちた。窓枠にペンキを塗り、床の割れ目にパテを埋め、裏庭にミントの苗を植える。エマは動きが軽い。梯子を上っても、道具を持ち替えても、息が乱れない。盗賊の身体能力、ありがたく使わせてもらおう。
「ねえ、看板の裏に小さく刻もうよ」
「何を」
「“甘いのは正義”。店の掟」
「いい。追加で“疲労罪は減刑”。甘い刑務」
「ここ、娯楽牢屋?」
「刑期、永遠に更新」
「最高」
会話は、作業のリズムを崩さない程度に、ちょっとずつ弾む。エマの声は、砂糖菓子を噛むときの音に似ている。軽くて、破片が光る。
午後、パン屋のリナさんが覗きに来た。「新入りかい?」と私に顎をしゃくり、エマに「腹は減ってる?」と問う。エマが正直に頷くと、リナさんは粉の匂いをまとってパンを二つ差し入れてくれた。バターと塩気がちょうどいい、お昼の顔。エマはパンをもぐもぐやりながら、目を潤ませる。
「どうしたの」
「いや……“腹減ってる?”って真正面から聞かれたの、生まれてはじめてかもって」
「そう?」
「だいたい、見て見ぬふりか、先に値札見せてくるから。……この町、優しい」
「優しい。けど、目も厳しい。偽物はすぐ嫌われる」
「本物焼く。約束する」
エマの約束は、口の形だけじゃなかった。午後の残り時間、彼女はずっと焼き台の前で試作を続けた。借りものの小さな鉄板、炭の熾き、温度計はない。指先で温度を読む。小麦粉の吸う水の音を好みのタイミングで止める。生地に落とす溶かしバターの線が細くて綺麗。焼き上がりは控えめに色をつける。焦げ手前が好き。私も好き。
「これは?」
「レモンの皮をすりおろしたマドレーヌ。潮の匂いに負けない柑橘」
「これは?」
「表面にほんのちょっとだけ塩。舌に“あ、港町だ”って思わせる」
「天才?」
「虜。砂糖の」
夕方。ペンキの匂いが収まり、壁のクリーム色が部屋に馴染む。窓から入る光が柔らかい。私は店の中央に置いたテーブルに、今日の成果を並べた。フィナンシェ、マドレーヌ、ナッツのクッキー。香りだけで人が寄ってくる。寄ってくる人、今はいないけど、明日はいる。想像の客が見える。きっとこの店に似合う顔。
「名前、決めた?」
「店の?」
「うん」
「《カフェ・ホーリー》にしようかな、って。恥ずかしい?」
「すこし。でも、いい。堂々と“癒やし”を名乗るの、勇気ある。好き」
「ありがとう。じゃ、看板の下に、ちいさく……」
私は筆を持って、“HOLY”の下に小さく「healing & sweets」と加えた。エマがそれを覗き込み、「英字、可愛い」と笑う。私も笑う。笑いが、今日の仕上げのニスみたいに店の空気に薄く広がる。
夜。窓の外が群青になって、街灯がぽつぽつと灯る。ペンキは乾いた。道具を片付け、床を掃いて、水拭きして、乾かす。最後に二人でペンキの缶を閉める。その音が、今日というページの句点だ。
「ねえ、リリアさん」
「なに」
「泣きたい夜は、どうしてる?」
エマの声が、不意にやわらかくなった。作業の勢いの中で、ぽん、と落とされた小石みたいな質問。私の胸に小さな波紋が広がる。
「砂糖、増やす」
「……いい回答」
「ほんとはね、ひとくち目が一番効く。二口目からは、ただの美味しい。だから泣きたい夜は、一番おいしい“ひとくち目”のために泣き止む準備をする。湯を沸かして、お皿を温めて、スプーンを選ぶ。そうしてるうちに、泣くの忘れる」
「作業療法。甘い」
「エマは?」
「私? 鍵、開けるみたいに。目を閉じて、心の錠前を指先で探る。どの音が“開く”かわかるまで、吸って吐く。で、最後に砂糖をちょっと。……でも、今夜からは多分、もっと砂糖増やす」
「ここ、糖度高いから」
「溺れる」
「泳げるようになるよ」
二人で笑って、それから黙って、しばらく窓の外の群青を見ていた。夜の港は昼より静かで、静けさに塩の粒が混ざっている。人の声は遠くて、波の呼吸だけが近い。看板の上で風が鳴り、文字が夜目に白く浮かぶ。《CAFÉ HOLY》。新しい名前はまだ町に知られていない。知られていない名前を、風がひとつ覚えてくれた気がした。
「明日、何からする?」
「客用の椅子を増やす。メニューの試作。雨の日クッキーの配合の見直し。あと——」
「あと?」
「“いらっしゃいませ”の練習。声って、店の味だから」
「じゃ、今やる?」
「今?」
「練習は、早いほど美味しい」
エマが立ち上がり、扉の前に立って、客になりきって扉を開ける。鈴が軽く鳴る。私の胸の奥で、何かが起立して手を挙げる。私は一歩前に出て、腹の底から空気を押し上げ、笑顔の筋肉を自然な角度に置いて、言う。
「いらっしゃいませ」
その言葉が、壁に当たってやわらかく返る。今日の朝の「いらっしゃいませ」より、少しだけ温度が高い。隣でエマが指を立てた。
「合格。砂糖、もう一粒」
「砂糖のインセンティブ制度」
「すぐ太る」
「太った心は、あったかい」
「詩人」
「それ、三回目」
「三回目は称号」
称号をもらって、私はふと気づく。エマの来訪は偶然で、必然だった。看板を磨いていた手のリズムに、彼女の足音がぴったり乗った。リズムが合う人は、貴重だ。今まで私は、他人のリズムに合わせすぎて、自分のテンポを見失っていた。今は違う。私は店のテンポを刻む。そこに乗れる人と、一緒に進む。
「ようこそ、エマ」
「ただいま、リリア」
“ただいま”は、彼女の口から自然に落ちた。帰る場所の言葉。私はその音を拾って、店の梁にそっと結びつける。落ちないように。
その夜、寝袋は二つ並んだ。床は硬くて、笑いは柔らかい。眠る直前、エマが小さく呟いた。
「ねえ、リリアさん。うちの店、盗まれやすいかな」
「何を」
「心」
「それはいい。盗まれた分は、また焼けば増える」
「補充可能な心。甘いね」
「甘い」
港は静かで、潮は満ちて、明日の仕込みが夜の底で整っていく。看板は月の光を小さく返し、窓ガラスは薄い鏡になって、二人分の寝顔を曖昧に映した。世界が優しくぼやける夜。明日の朝、また湯気を立てる。砂糖を増やす。たぶん泣きたい夜も来る。でもそのたび、甘さで鍵を回して、扉を開ける。ここから、どれだけの“いらっしゃいませ”が生まれるだろう。数えきれない。数えられないものは、だいたい宝物だ。
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