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第5話 グランドオープンと小さな常連
しおりを挟む朝いちの港は、鈴の音で起きる。カモメの合唱、パン屋《リナの窯》の焼き上がりを知らせる小さな鐘、そして——《カフェ・ホーリー》のドアベルが、初めての音で鳴った。
「本日——開店!」
看板を表に出す私の声に、エマが厨房から「了解!」と返す。白いコック帽はまだ新品で、彼女の目だけがベテランの輝き。バルドは流しで手袋を整え、蛇口に「今日も頼む」と小声で挨拶している。うん、縁起がいい。
「ラテアート、練習通りいける?」 「猫、犬、鯖。三種の神器で迎撃」 「魚、入ってるの笑う」 「港の守護獣」
最初の客は、パンくずを唇に付けた近所の少年だった。窓にぺったり張りついて、目をまんまる。
「ねーちゃん、泡、動くってほんと?」 「動くよ。君の心がね」
「むずかしいこと言わないで!」
彼の笑い声が、朝の空気をシャボンで膨らませる。カウンターに誘導して、注文を聞く。緊張で声が一瞬だけ上ずる。深呼吸、湯気を胸いっぱい吸って、いつものリズムに戻す。
「ご注文は?」 「ホット、甘いの! 絵、猫」 「猫、任せて」
エスプレッソの濃い香りが立ち上がる。ミルクをスチームでふわりと膨らませ、カップを傾け、表面張力の薄い膜の上に白い線を置いていく。耳の奥で、泡の音が一定のテンポを刻む。手が覚えた角度。最後にひげをちょん、鼻をちょん。
「ほい、港猫」
「……動いた!!」
少年は叫び、後ろの窓の外からさらに三人、顔がにゅるっと生えてくる。子どもって、どうして窓に貼りつくのがこんなに上手いんだろう。私は笑って、カップを両手で押し出す。
「動いたのはね、君の心」 「じゃあ、もう一回動かして!」
「うち、追加料金かからない“心の連続再生”実装済みでーす」
厨房から顔を出したエマが茶化す。彼女はすでに焼き菓子のトレーを二枚、並べ終えていた。レモンのマドレーヌ、塩チョコタルト、そして——堂々たるホールの〈ベイクドチーズケーキ〉。金色の焼き目に、薄い照りの羨ましいくらいの自信。
「オーブン、今日ご機嫌。チーズ、勝手に光ってる」 「勝手に光るのは神」 「信仰はじまった」
午前は穏やかな波。パン屋帰りの客、漁から戻ったばかりの腕の太い人、通りすがりの旅人。「朝の一杯」をそれぞれ違う顔で飲んでいく。カップがテーブルに置かれるたび、木が小さく鳴く。その音が店の心拍数を教えてくれる。
「お冷や、三」 「了解」 バルドの返事は短く、手は速い。水の音が丁寧に整っている。グラスの底に光が沈む。彼の動きに合わせて、店の空気がきゅっと締まる。私がミルクを回し、エマが焼き色を見張り、バルドが流れを整える。三人のテンポがひとつの歌になっていく——そんな感覚。
昼前、最初の“事件”が起きた。窓に再び張りついた子どもたちのなかに、ちいさな女の子がいた。前髪ぱっつん、目は黒豆。手には貝殻をぎゅっと握りしめている。ドアを開けられずにもじもじしていたので、私が内側から押してあげた。
「いらっしゃいませ。勇気、えらい」 「……ねこ、ください」 「はい。ねこ、大切にお運びします」
彼女はカウンターをぎゅっと掴んで背伸び。真剣な顔。私はいつもよりゆっくり、猫の耳を描く。ひげを少し長くして、目にちょっとだけ上向きの笑いを足す。カップを渡す手に、そっと言葉を添える。
「こぼれないように、猫さんと歩くの。ゆっくり、ね」
女の子はこくんと頷き、テーブルへ二歩、三歩——ぴたり、と止まった。床の節を避けて、もう一歩。カップは揺れない。小さな背中の緊張も、揺れない。テーブルにたどり着いて、彼女はほうっと息を吐いた。
「できた」 「できた」
声が重なって、店内の空気がふわっと膨らんだ。その瞬間、外で太鼓の練習が始まる。港祭りの前哨戦。リズムが速い。うちの店の心拍数も上がる。
正午。嵐。椅子が足りない。ミルクが足りない。笑う余裕だけは切らさない。
「注文、猫二、犬一、鯖一!」 「鯖いきまーす!」 「皿回す、右から左へ。水、三段目」
猫、犬、鯖。鯖は意外と人気だ。銀色の横縞をミルクで描くと、子どもたちが「ぎょぎょ!」と笑う。魚のラテアートは“港町バフ”がかかっている。真面目な顔の商人が「……鯖で」と言ったときは、さすがに吹き出しかけた。
「午後の抽出、一段だけ浅くして」 「了解。豆、潮風で少し乾いた」 「水、温度一度上げる」 「ありがと」
手は忙しい。心は落ち着いている。視界の端で、エマのチーズケーキが切られていく。ひと切れ、またひと切れ。フォークが刺さる音がやたら幸せ。口に入った客の顔が、ちょっとだけ油断する。たぶん、家の顔になってる。いいね、その顔。
「神?」 「神」
厨房の隅で、エマと目が合うたび、親指を立て合う。バルドはバルドで、食洗い担当の箱を組み替え、導線を三度修正してくれた。三回目で、店全体の流れがすっと滑らかになった。皿が迷わない。人も迷わない。この“迷わない感じ”、気持ちいい。
午後三時、潮目。子どもが減り、大人が増える。窓際で本を読む人、友だちと小声で愚痴をこぼす人。雨雲が片方の空に滞在しはじめ、光が弱くなる。私は照明をひとつ点ける。影の角度を少しだけ変える。声のトーンも、少し落とす。
「雨の日クッキー、少し足す?」 「足そう。『湿気た心に、砂糖の傘』」 「キャッチ、天才。プライス横に書いとく」
小さな傘の絵を添えると、クッキーの皿の前で足を止める人が増えた。言葉は香りと同じで、空気に混ざる。良い言葉は、湯気に乗って相手の胸に届く。今日、私はそれを何度も見た。言葉が届いた瞬間の、相手の目の奥の温度の変化。
夕方。ラッシュが抜け、空が薄い藍色に沈む。客席に残るのは数人の常連予備軍。そして——午前に猫を運んだ小さな女の子が、また窓にぺたり。
「……また、ねこ」 「リピート、ありがとうございます」
今度は彼女の背中に小さなランドセル。色は海のような青。私は猫の目を少し眠そうにして、耳の先を尖らせる。彼女は今日も、床の節を避けて、ゆっくり運ぶ。あの慎重な歩みが、本当に好きだ。自分の小さな世界を自分の速さで進める、その勇敢さ。
「名前、聞いていい?」 「……ミナ」
「ミナ。いい名前。海の『ミ』だね」 「うん。ここ、好き」 「ありがとう。ミナの席、決めとく?」
彼女は迷ってから、窓際の二人席の角を指差した。外がよく見えるところ。うん、そこ、君の居場所。私は心の中で席札を立てる。——“小さな常連・ミナ”。特典は、猫のひげ一本増量。
夜。ドアベルが最後に鳴り、静けさが戻る。三人で長く息を吐く。カップの山は低く、床は踏みしめた痕跡で少し温かい。レジの引き出しを開けると、硬貨と紙幣が素直に並んでいる。私は帳面に数字を書き付け、丸と三角を置いていく。
「売上、目標の——ちょい下。でも、初日にしては上出来。丸。ラテアート、猫・犬・鯖の三本柱、丸。午後の抽出、少し浅かったかも、三角。雨の日クッキー、効いた、二重丸。チーズケーキ、」
「神」
「デカ字で“神”。異論、なし」
エマが照れて頬を掻く。バルドが真面目に「神、と書く時は大きく」とメモの余白に“神”を練習している。筆圧が律儀。かわいい。
「今日の反省、他には?」 「席の間隔、ベビーカーもう一台分、余裕欲しい」 「了解。明日、ベンチ少し寄せる」 「あと、ラテの温度、子ども用は気持ち低め。猫が長生き」 「猫が長生きは正義」
「洗いから一つ。フォークの数が足りない時間帯があった。予備を二束、用意」
「ナイス。明日買う。衛生チェック、手袋のストック、あと——」
「あと?」
「『いらっしゃいませ』の語尾、夕方にちょっと疲れが混ざる。私の問題」
黙った一瞬。エマが私の肩を指でつつく。「人間だから、夕方に疲れるのは人間ポイント。かわいい」
「疲れ、砂糖で補填可能」 「すぐ補填しよ」
エマがチーズケーキを切る。三人でカウンターに肘を置き、フォークをひとつずつ持つ。口に入れた瞬間、世界がほんの少し遅くなる。酸味と甘みが、舌の上で手をつないで歩く。焼きの香りが後から追いかけ、バターの余韻が静かに椅子を勧める。
「……これ、店、救う」 「もう救ってる」
私は笑いながら、視線をカップの棚に滑らせる。白、薄青、縁に金の細い線。今日、何度も手に取り、何度も戻したカップたち。彼らは今、すこしだけ誇らしげに見える。働いた顔をしてる。
レジ脇の小さな鏡に、ふと目がいく。そこに映る自分の口元の形に、私の心が一拍遅れて追いついた。
「あ」
「どうしたの?」
「私、ちゃんと笑えてるな」
言葉にして、少し驚く。笑顔は、もともと持っていたはずなのに、しばらく借り物だった。職務用、対外用、勇者の隣用。今日、やっと返却できた。代わりに受け取ったのは、湯気と砂糖の中で勝手に生まれた笑い。顔の筋肉が、“私の笑い方”を思い出してる。
エマが「証拠」と言って、指で私の頬をつん。「ほら、ここ、柔らかい。おいしい顔の筋肉」と楽しそうに言う。バルドは静かに頷いて、「店が笑っている」と付け加えた。その言葉が壁に反射して、梁に止まる。——店が笑う。いい。そうありたい。
「ミナちゃん、明日も来るかな」 「来る。猫が約束した」 「猫、明日のシフト入ってる?」 「フルタイム」
三人でどうでもいい冗談を言い合い、最後の片付けに取りかかる。シンクは今夜も鏡。床は木の匂い。窓は潮の気配。看板の文字は夜風と握手し、ゆるい「おつかれ」を交換している。
「初日、おつかれ」 「おつかれ」 「おつかれ」
声が重なる。私は帳面を閉じ、ペンを置き、店の中央でくるりと回ってから、深く礼をした。客席に、道具に、壁に、梁に、そして——自分に。
ドアの鍵を回す音が、鼓笛隊の最後の一打みたいに夜に響く。外は、パン屋のオーブンがひとつだけまだ赤く、海は金属のように静か。空の低いところで星が溶けかけている。寝袋を並べながら、エマがぽつりと呟く。
「ねえ、うちら、今日から“常連”ってものを育てるんだね」 「うん。“一回”を“また”にするのが、店の魔法」 「魔法担当だれ?」 「三人と、湯気と、砂糖」
バルドが水に「おやすみ」と挨拶し、エマがオーブンに「また明日」と囁き、私は看板に「明日も、可愛く」と撫でる。眼を閉じると、今日の笑い声がまだ耳の奥で泡立っていた。——泡の猫が動いた、って。あの子の声。心が動いた音。
いい一日だった。丸をつける。大きな丸。内側に“神”って小さく書き足して、恥ずかしくなって、でもやっぱり書いておく。明日、また開ける。猫がシフトに入ってるし、鯖も予約がある。私はふわっと笑って、眠りへ落ちる。カフェは静かに呼吸し、港町はゆっくり瞬いた。
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