追放されたヒロインですが、今はカフェ店長してます〜元婚約者が毎日通ってくるのやめてください〜

タマ マコト

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第8話 仕入れと朝市、港のルール

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 夜明け前の港は、息をひそめた巨大な台所みたいだ。氷の匂い、海藻の青臭さ、遠くでパンが鳴らす小さな鐘。空はまだ黒に近い群青で、水平線のところだけ薄桃色が差している。私は肩に布袋、片手にメモ帳。スニーカーみたいに軽い靴で石畳をひとつずつ踏むたび、潮が肺に入れ替わる。

 朝市のアーチをくぐると、世界が音で目覚めた。トロ箱が滑る音、包丁の背で骨を叩く音、ロープが鳴る音、カモメが「早くしろ」と急かす声。どれもが塩をひとつまみ溶かしていて、私はお腹の奥を軽くつままれる。

「お、店長さん。来たな」

 豆の業者——《ハマダ商会》の浜田さんが、手を振った。髭は潮で白く、目は煮詰めたコーヒー色。港に似合わない麻のエプロンをしているのに、妙に板についている。

「おはようございます。今日のラインナップ、見せてください」 「沖で風が強くてな。乾き過ぎず、湿り過ぎずの“ちょうどいい奴”を連れてきた」

 麻袋がトントン、と台の上に落ちる。私は指を袋の口に入れ、豆をひとつつまんで鼻先へ。香りの層を嗅ぎ分ける——最初は枯草、次に柑橘のワックス、その下に淡いカカオ。もうひとつ、別の袋は、黒糖と胡桃の匂いをまとっている。

「これ、雨上がりの畑みたい。こっちは午後四時の窓辺」 「詩人か」 「店主です。豆の擬人化は朝の準備運動」

 親指と人差し指に軽く力を入れて、豆の固さを確かめる。歯に当てて“コツン”。音がいい。指の腹に戻した豆が、皮膚の上で軽く跳ねる。私は頷き、価格の話にスライドする。

「で、いくら」 「初回よりちょい上。風の分」

「風はうちの看板にも当たるんで、相殺で」 「はは。値切り方が港町仕様になってきたな」

 浜田さんが笑い、指で数字を書く。私はメモ帳の端に別の数字を書いて見せる。視線が交差し、カモメが割り込むように鳴き、隣の店で氷がざくっと鳴った。

「強いな、君」

「朝は強くいくのが港のルールって、昨日教わりました」 「誰に」 「窓辺の光と、蛇口の水」

「詩人か」 「店主です(二回目)」

 笑い合いながら、着地の数字に寄せる。常連価格。手の平に馴染む金額。握手のかわりに、私は豆を一握り紙袋に入れてもらい、淹れてみる約束をする。

「クレームは早めに。褒め言葉はもっと早めにくれ」 「了解。雨の日クッキーを賄いで渡します」 「賄賂は甘いほど嬉しい」

 豆のほかに、私はミルク屋で低温殺菌の瓶を三本、砂糖屋台でザラメと粉糖を、人参の束を一本(スープの構想が急に降りてきたから)買う。値段交渉は短く、会釈は深く。港のルール——“値段は切っても縁は切るな”。この町の人は、顔を覚える速度で信用を育てる。私は目と耳と鼻で名前を覚える。香りつきの人名帳が、胸の奥に増えていく。

 魚市場の角では、リナさんが仕込みの合間に顔を出した。「お、勝負顔」と笑い、「パン耳、持ってく?」と紙袋を渡してくれる。私は受け取り、「午後に猫を二匹伸ばします」と答える。言葉が塩風に混ざって、明るく遠くへ飛んでいく。

 帰り道、石畳の端で影が伸びた。カラン、ではなく——「おはよう」の声。

「おはよう、店長」 「……早起き勇者。ここ、ベッドじゃないよ」 「寝てない。走ってきた」 「脳内にファンファーレ鳴ってない? 朝は静か目に」

「了解」

 レオンは息を整え、私の持つ荷物に視線を落とす。瓶、麻袋、金属音のしない道具。丁寧に持たないと、朝が割れる。

「持つ。役に立ちたい」

「うちは徒歩バイト、募集してないの」

 冷たくも柔らかく言う。言葉の角をヤスリで撫でてから渡す。その一瞬の“丁寧”で、関係の輪郭は崩れずに済む。レオンの肩が、ほんの少し落ちる。彼の影まで、半歩分しゅん、と縮む。

「……そうか」

「でも、“客として一緒に歩く”は募集してる」

 私は瓶の位置を持ち直し、歩幅を少しだけ広げる。レオンは一拍遅れて隣に並ぶ。肩は触れない距離。港の朝は、他人の距離を尊重する。魚を運ぶ腕の幅、網を引く足の間隔、船と船の間に流れる水路。全部が、ぶつからないように設計されている。

「市場って、面白いな」

「うん。ねぎり合戦は演劇。でも主役は物。人は語り手」

「店長は、強い」 「朝はね。昼は砂糖、夜は湯気。時間帯で武器が変わる」

「俺は、剣しか」 「それ、持ち替え可能。今は、手ぶらの勇者でいて」

 彼は口をつぐんで、潮風を胸いっぱい吸った。歩きながら、私のメモ帳を覗きこむ。

「“港のルール”?」 「自分用の備忘録。今日拾ったやつ」

「教えて?」 「いいけど、授業料は“静かな歩調”」 「了解」

 私は指で一行ずつなぞる。

「一、挨拶は短く、目は長く。二、朝の値切りは笑いで始めて笑いで終える。三、氷の前では大声禁止(溶けるから)。四、魚は褒めると新鮮になる(気持ちの話)。五、常連は“顔見知り”から“手の癖見知り”へ」

「手の癖?」 「豆をすくう、氷を割る、針金を曲げる——動きの癖。そこに“信用の軸”がある」

「……店長、俺より戦術的」

「これは家事戦術。新しい領域」

 角を曲がると、港が一段、明るい。太陽がやっと表札を撫でて、窓が金色の欠片を机に落とす時間。私は瓶を胸に抱え直し、店の前に立った。

「ただいま、《ホーリー》」

 看板が風で一度揺れ、鈴が中から小さく鳴った。鍵を回す。その音が、今日の冒険のファンファーレ。エマが髪をまとめながら出てきて、レオンを見るなり指でバツ印。

「勇者くん、ボランティアの顔してる。禁止」 「おはよう。禁止、了解」 「いい返事。じゃ、客の顔に戻って、そこ座る」

 エマの指示はいつでも音楽のテンポがいい。バルドは蛇口に「朝」と挨拶し、こっそり私の手から瓶を受け取る。彼の手の中でガラスが安心する。音が柔らかい。

「豆、どれから?」 「“午後四時の窓辺”で始める。朝の潮に負けない厚みを少しだけ」

「りょ」

 エマはミルをセットし、私は湯を温め、バルドはカップを温める。動きが三拍子で重なる。レオンは客席で“その他の午後セット”の黒板を見て、ふっと笑った。学習、継続中。

「そうだ、港のルール、もう一個」 「まだあるの?」 「六、帰り道には片手を空ける。挨拶とハプニングにすぐ対応するため」

「それ、今言う?」 「うん。ほら」

 通りの角から、ミナがランドセルを揺らして走ってくる。片手に貝殻、片手に昨日のカップの持ち手だけを握って(珍しい持ち帰り方)。私は自然に片手を空にして、扉を押さえる。レオンも片手を空にし、ランドセルの紐が肩からずり落ちかけたのを受け止める。

「セーフ」 「セーフ」

 ミナは息を切らしながら笑い、「きょうもねこ」と言った。私は親指を立て、レオンは椅子で待機の姿勢をとる。空いた片手で、世界は救える——少なくとも、小さなハプニングは。

 抽出が始まる。湯が粉の山に触れる音——土に雨が降る音。香りが胸に落ちる。豆の“午後四時”が、午前の店に小さな影を作ってくれる。影は居心地を良くする。居心地の良さは、今日の仕込みの一番大事な材料だ。

「店長」 「はい」 「さっきの“徒歩バイト募集してない”、刺さった」 「ごめん。塩強めだった?」 「いや、効いた。塩って、必要だな」

「必要。甘さが綺麗に見えるから」

 私はカップに注ぎながら、彼の目の奥——“線”を探す。踏みそうになって、やめる。やめ方が上手くなった。私も学習、継続中。

「役に立ちたい、の代わりに、“買って支える”って手もあるよ」 「つまり、通う」 「つまり、常連」 「……常連、になる」

「よろしい」

 ミルクの表面に、私は今日は“猫”でも“ハート”でもない、小さな波を描いた。港の朝に寄せる薄い白。意味は、静かな呼吸。レオンに渡し、ミナに猫を渡す。エマが焼き台に火を入れ、バルドが皿を並べる。

 朝市で拾った“港のルール”は、店の中でも生きる。目は長く、声は短く。値切りは笑いで、氷の前では静かに。動きの癖を信じ、片手は空けておく。私はカウンターの端にメモを貼り、指で軽く叩いた。

「今日も、やれる」 「やれる」 「やれる」

 三人と、一人の厄介で善良な常連と、小さな常連が声を重ねた。港の光が窓辺で跳ね、湯気がその光をつかまえてゆらした。外でカモメが「早くしろ」と鳴き、私は笑って「今いく」と返す。塩とコーヒーの香りが混ざって、胸の奥の錆びた輪っかがまたひとつ、静かに外れた。朝は、始まりの匂いで満ちている。今日はそれを、ちゃんと嗅ぎ分けられる。そう思えるくらい、私は強く、やわらかい。港のルールと同じくらい、私のルールが身にしみてきた朝だった。
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