追放されたヒロインですが、今はカフェ店長してます〜元婚約者が毎日通ってくるのやめてください〜

タマ マコト

文字の大きさ
8 / 20

第8話 仕入れと朝市、港のルール

しおりを挟む


 夜明け前の港は、息をひそめた巨大な台所みたいだ。氷の匂い、海藻の青臭さ、遠くでパンが鳴らす小さな鐘。空はまだ黒に近い群青で、水平線のところだけ薄桃色が差している。私は肩に布袋、片手にメモ帳。スニーカーみたいに軽い靴で石畳をひとつずつ踏むたび、潮が肺に入れ替わる。

 朝市のアーチをくぐると、世界が音で目覚めた。トロ箱が滑る音、包丁の背で骨を叩く音、ロープが鳴る音、カモメが「早くしろ」と急かす声。どれもが塩をひとつまみ溶かしていて、私はお腹の奥を軽くつままれる。

「お、店長さん。来たな」

 豆の業者——《ハマダ商会》の浜田さんが、手を振った。髭は潮で白く、目は煮詰めたコーヒー色。港に似合わない麻のエプロンをしているのに、妙に板についている。

「おはようございます。今日のラインナップ、見せてください」 「沖で風が強くてな。乾き過ぎず、湿り過ぎずの“ちょうどいい奴”を連れてきた」

 麻袋がトントン、と台の上に落ちる。私は指を袋の口に入れ、豆をひとつつまんで鼻先へ。香りの層を嗅ぎ分ける——最初は枯草、次に柑橘のワックス、その下に淡いカカオ。もうひとつ、別の袋は、黒糖と胡桃の匂いをまとっている。

「これ、雨上がりの畑みたい。こっちは午後四時の窓辺」 「詩人か」 「店主です。豆の擬人化は朝の準備運動」

 親指と人差し指に軽く力を入れて、豆の固さを確かめる。歯に当てて“コツン”。音がいい。指の腹に戻した豆が、皮膚の上で軽く跳ねる。私は頷き、価格の話にスライドする。

「で、いくら」 「初回よりちょい上。風の分」

「風はうちの看板にも当たるんで、相殺で」 「はは。値切り方が港町仕様になってきたな」

 浜田さんが笑い、指で数字を書く。私はメモ帳の端に別の数字を書いて見せる。視線が交差し、カモメが割り込むように鳴き、隣の店で氷がざくっと鳴った。

「強いな、君」

「朝は強くいくのが港のルールって、昨日教わりました」 「誰に」 「窓辺の光と、蛇口の水」

「詩人か」 「店主です(二回目)」

 笑い合いながら、着地の数字に寄せる。常連価格。手の平に馴染む金額。握手のかわりに、私は豆を一握り紙袋に入れてもらい、淹れてみる約束をする。

「クレームは早めに。褒め言葉はもっと早めにくれ」 「了解。雨の日クッキーを賄いで渡します」 「賄賂は甘いほど嬉しい」

 豆のほかに、私はミルク屋で低温殺菌の瓶を三本、砂糖屋台でザラメと粉糖を、人参の束を一本(スープの構想が急に降りてきたから)買う。値段交渉は短く、会釈は深く。港のルール——“値段は切っても縁は切るな”。この町の人は、顔を覚える速度で信用を育てる。私は目と耳と鼻で名前を覚える。香りつきの人名帳が、胸の奥に増えていく。

 魚市場の角では、リナさんが仕込みの合間に顔を出した。「お、勝負顔」と笑い、「パン耳、持ってく?」と紙袋を渡してくれる。私は受け取り、「午後に猫を二匹伸ばします」と答える。言葉が塩風に混ざって、明るく遠くへ飛んでいく。

 帰り道、石畳の端で影が伸びた。カラン、ではなく——「おはよう」の声。

「おはよう、店長」 「……早起き勇者。ここ、ベッドじゃないよ」 「寝てない。走ってきた」 「脳内にファンファーレ鳴ってない? 朝は静か目に」

「了解」

 レオンは息を整え、私の持つ荷物に視線を落とす。瓶、麻袋、金属音のしない道具。丁寧に持たないと、朝が割れる。

「持つ。役に立ちたい」

「うちは徒歩バイト、募集してないの」

 冷たくも柔らかく言う。言葉の角をヤスリで撫でてから渡す。その一瞬の“丁寧”で、関係の輪郭は崩れずに済む。レオンの肩が、ほんの少し落ちる。彼の影まで、半歩分しゅん、と縮む。

「……そうか」

「でも、“客として一緒に歩く”は募集してる」

 私は瓶の位置を持ち直し、歩幅を少しだけ広げる。レオンは一拍遅れて隣に並ぶ。肩は触れない距離。港の朝は、他人の距離を尊重する。魚を運ぶ腕の幅、網を引く足の間隔、船と船の間に流れる水路。全部が、ぶつからないように設計されている。

「市場って、面白いな」

「うん。ねぎり合戦は演劇。でも主役は物。人は語り手」

「店長は、強い」 「朝はね。昼は砂糖、夜は湯気。時間帯で武器が変わる」

「俺は、剣しか」 「それ、持ち替え可能。今は、手ぶらの勇者でいて」

 彼は口をつぐんで、潮風を胸いっぱい吸った。歩きながら、私のメモ帳を覗きこむ。

「“港のルール”?」 「自分用の備忘録。今日拾ったやつ」

「教えて?」 「いいけど、授業料は“静かな歩調”」 「了解」

 私は指で一行ずつなぞる。

「一、挨拶は短く、目は長く。二、朝の値切りは笑いで始めて笑いで終える。三、氷の前では大声禁止(溶けるから)。四、魚は褒めると新鮮になる(気持ちの話)。五、常連は“顔見知り”から“手の癖見知り”へ」

「手の癖?」 「豆をすくう、氷を割る、針金を曲げる——動きの癖。そこに“信用の軸”がある」

「……店長、俺より戦術的」

「これは家事戦術。新しい領域」

 角を曲がると、港が一段、明るい。太陽がやっと表札を撫でて、窓が金色の欠片を机に落とす時間。私は瓶を胸に抱え直し、店の前に立った。

「ただいま、《ホーリー》」

 看板が風で一度揺れ、鈴が中から小さく鳴った。鍵を回す。その音が、今日の冒険のファンファーレ。エマが髪をまとめながら出てきて、レオンを見るなり指でバツ印。

「勇者くん、ボランティアの顔してる。禁止」 「おはよう。禁止、了解」 「いい返事。じゃ、客の顔に戻って、そこ座る」

 エマの指示はいつでも音楽のテンポがいい。バルドは蛇口に「朝」と挨拶し、こっそり私の手から瓶を受け取る。彼の手の中でガラスが安心する。音が柔らかい。

「豆、どれから?」 「“午後四時の窓辺”で始める。朝の潮に負けない厚みを少しだけ」

「りょ」

 エマはミルをセットし、私は湯を温め、バルドはカップを温める。動きが三拍子で重なる。レオンは客席で“その他の午後セット”の黒板を見て、ふっと笑った。学習、継続中。

「そうだ、港のルール、もう一個」 「まだあるの?」 「六、帰り道には片手を空ける。挨拶とハプニングにすぐ対応するため」

「それ、今言う?」 「うん。ほら」

 通りの角から、ミナがランドセルを揺らして走ってくる。片手に貝殻、片手に昨日のカップの持ち手だけを握って(珍しい持ち帰り方)。私は自然に片手を空にして、扉を押さえる。レオンも片手を空にし、ランドセルの紐が肩からずり落ちかけたのを受け止める。

「セーフ」 「セーフ」

 ミナは息を切らしながら笑い、「きょうもねこ」と言った。私は親指を立て、レオンは椅子で待機の姿勢をとる。空いた片手で、世界は救える——少なくとも、小さなハプニングは。

 抽出が始まる。湯が粉の山に触れる音——土に雨が降る音。香りが胸に落ちる。豆の“午後四時”が、午前の店に小さな影を作ってくれる。影は居心地を良くする。居心地の良さは、今日の仕込みの一番大事な材料だ。

「店長」 「はい」 「さっきの“徒歩バイト募集してない”、刺さった」 「ごめん。塩強めだった?」 「いや、効いた。塩って、必要だな」

「必要。甘さが綺麗に見えるから」

 私はカップに注ぎながら、彼の目の奥——“線”を探す。踏みそうになって、やめる。やめ方が上手くなった。私も学習、継続中。

「役に立ちたい、の代わりに、“買って支える”って手もあるよ」 「つまり、通う」 「つまり、常連」 「……常連、になる」

「よろしい」

 ミルクの表面に、私は今日は“猫”でも“ハート”でもない、小さな波を描いた。港の朝に寄せる薄い白。意味は、静かな呼吸。レオンに渡し、ミナに猫を渡す。エマが焼き台に火を入れ、バルドが皿を並べる。

 朝市で拾った“港のルール”は、店の中でも生きる。目は長く、声は短く。値切りは笑いで、氷の前では静かに。動きの癖を信じ、片手は空けておく。私はカウンターの端にメモを貼り、指で軽く叩いた。

「今日も、やれる」 「やれる」 「やれる」

 三人と、一人の厄介で善良な常連と、小さな常連が声を重ねた。港の光が窓辺で跳ね、湯気がその光をつかまえてゆらした。外でカモメが「早くしろ」と鳴き、私は笑って「今いく」と返す。塩とコーヒーの香りが混ざって、胸の奥の錆びた輪っかがまたひとつ、静かに外れた。朝は、始まりの匂いで満ちている。今日はそれを、ちゃんと嗅ぎ分けられる。そう思えるくらい、私は強く、やわらかい。港のルールと同じくらい、私のルールが身にしみてきた朝だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

聖女やめます……タダ働きは嫌!友達作ります!冒険者なります!お金稼ぎます!ちゃっかり世界も救います!

さくしゃ
ファンタジー
職業「聖女」としてお勤めに忙殺されるクミ 祈りに始まり、一日中治療、時にはドラゴン討伐……しかし、全てタダ働き! も……もう嫌だぁ! 半狂乱の最強聖女は冒険者となり、軟禁生活では味わえなかった生活を知りはっちゃける! 時には、不労所得、冒険者業、アルバイトで稼ぐ! 大金持ちにもなっていき、世界も救いまーす。 色んなキャラ出しまくりぃ! カクヨムでも掲載チュッ ⚠︎この物語は全てフィクションです。 ⚠︎現実では絶対にマネはしないでください!

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

召喚失敗!?いや、私聖女みたいなんですけど・・・まぁいっか。

SaToo
ファンタジー
聖女を召喚しておいてお前は聖女じゃないって、それはなくない? その魔道具、私の力量りきれてないよ?まぁ聖女じゃないっていうならそれでもいいけど。 ってなんで地下牢に閉じ込められてるんだろ…。 せっかく異世界に来たんだから、世界中を旅したいよ。 こんなところさっさと抜け出して、旅に出ますか。

宮廷から追放された聖女の回復魔法は最強でした。後から戻って来いと言われても今更遅いです

ダイナイ
ファンタジー
「お前が聖女だな、お前はいらないからクビだ」 宮廷に派遣されていた聖女メアリーは、お金の無駄だお前の代わりはいくらでもいるから、と宮廷を追放されてしまった。 聖国から王国に派遣されていた聖女は、この先どうしようか迷ってしまう。とりあえず、冒険者が集まる都市に行って仕事をしようと考えた。 しかし聖女は自分の回復魔法が異常であることを知らなかった。 冒険者都市に行った聖女は、自分の回復魔法が周囲に知られて大変なことになってしまう。

タダ働きなので待遇改善を求めて抗議したら、精霊達から『破壊神』と怖れられています。

渡里あずま
ファンタジー
出来損ないの聖女・アガタ。 しかし、精霊の加護を持つ新たな聖女が現れて、王子から婚約破棄された時――彼女は、前世(現代)の記憶を取り戻した。 「それなら、今までの報酬を払って貰えますか?」 ※※※ 虐げられていた子が、モフモフしながらやりたいことを探す旅に出る話です。 ※重複投稿作品※ 表紙の使用画像は、AdobeStockのものです。

聖女じゃない私の奇跡

あんど もあ
ファンタジー
田舎の農家に生まれた平民のクレアは、少しだけ聖魔法が使える。あくまでもほんの少し。 だが、その魔法で蝗害を防いだ事から「聖女ではないか」と王都から調査が来ることに。 「私は聖女じゃありません!」と言っても聞いてもらえず…。

聖女追放 ~私が去ったあとは病で国は大変なことになっているでしょう~

白横町ねる
ファンタジー
聖女エリスは民の幸福を日々祈っていたが、ある日突然、王子から解任を告げられる。 王子の説得もままならないまま、国を追い出されてしまうエリス。 彼女は亡命のため、鞄一つで遠い隣国へ向かうのだった……。 #表紙絵は、もふ様に描いていただきました。 #エブリスタにて連載しました。

「魔道具の燃料でしかない」と言われた聖女が追い出されたので、結界は消えます

七辻ゆゆ
ファンタジー
聖女ミュゼの仕事は魔道具に力を注ぐだけだ。そうして国を覆う大結界が発動している。 「ルーチェは魔道具に力を注げる上、癒やしの力まで持っている、まさに聖女だ。燃料でしかない平民のおまえとは比べようもない」 そう言われて、ミュゼは城を追い出された。 しかし城から出たことのなかったミュゼが外の世界に恐怖した結果、自力で結界を張れるようになっていた。 そしてミュゼが力を注がなくなった大結界は力を失い……

処理中です...