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第12話 王城からのスカウト状
しおりを挟む昼下がりの光は、粉糖みたいに店内に降りてくる。窓際のテーブルに四角く落ちた白が、カップの縁で丸く崩れて、木目の小さな谷に溜まる。グラインダーは午睡の子どもみたいに低く唸り、挽きたての豆の香りが“今のここ”を濃くする。穏やかな、いつもの午後——だった、はず。
カラン、と鈴。郵便屋の少年が、両手で抱えるほど大きな筒箱を押しつけてきた。「重いの、きたよ」と目を丸くしている。青いリボン。濃紺の封蝋。王家の紋。過去が、玄関から堂々と入ってきた。
「……うち、誕生日じゃないよ」
エマが瞬時に眉をひそめる。粉で白くなった指で封の縁をつつき、「悪いケーキの匂いがする」と冗談に逃げかけ、やめた。バルドは流しの前でぴたりと止まり、濡れた皿を握りしめる。皿は鳴らない。代わりに水の表面が微かに震え、光の線が二度ほど揺れた。
レオンは、わずかに遅れて気づき、息を飲む音を隠し損ねた。「……俺は何も……」視線が床に落ちる。鎧の肩が一拍、沈む。
「開けるよ」
胸の奥で古い金具が鳴る。私はリボンをほどき、封蝋を親指の腹でそっと押した。蝋がぱき、と冷たい音を立て、紙は高価な布の感触をしている。文面は、儀礼の言い回しで最初の三行を費やしたあと、本題を一行で置いた。
『聖女リリア殿、王都復帰の打診——王城医務院、もしくは勇者隊付治療官として。厚遇、保障』
喉の奥で、温度が一度下がる。紙から立ちのぼるかすかな香。王城の蝋とインクの匂い。肌が覚えている。夜更けの回廊、石の冷気、油の灯り、寝床に戻れない朝。全部、同じ匂い。
「はい、だめ」
エマが一歩、カウンターの内側に踏み込み、封筒を妖怪でも見るみたいに睨んだ。「空気、甘さが落ちる。取り締まる」
「エマ、落ち着いて。手紙は紙。噛んでも甘くならない」
「噛まない。焼く。焼けば甘い。マシュマロ理論」
バルドが皿をゆっくり置く。指先が、いつもより白い。「読め。だが、言葉に水は入れるな」彼の黒曜石の瞳が、いつもより深い。静けさの底で、警戒が光る。
私は吸う。豆の香り。ミルク。バター。今ここを守る匂いを胸いっぱい吸い込んでから、読み上げた。淡々と、装飾語を落として、骨だけを。王城医務院は人手不足。聖女の技量は国家の財。待遇は過去より上。住居、衣食、護衛、全て手配。王都復帰の打診——以上。
「……ふむ」
語尾が乾く。声がわずかに古い癖を拾いかける。私は舌の先でそれを止める。舌先に砂糖。エマがカウンターの向こうで腕を組み、片方の足で床を軽く打った。
「“国家の財”。財って言い方、好きじゃない。人は砂糖じゃない。砂糖は財だけど」
「砂糖、財……」
バルドは短く繰り返して、水の蛇口に触れる。水温を一度上げる。店内の空気がほんの少しだけ戻る。
「俺は、関与してない。本当に」
レオンの声は低く、掠れていた。彼は椅子に座らず、扉のそばで立ったまま拳を握る。鎧の音が鳴らないよう、器用に筋肉を止めている。昔、彼の動きの一つひとつが誇りを言葉の代わりにしていたのを知っている。今は、沈黙が増えた。その沈黙は、私には悪くなかった。
「知ってる。あなたの癖、嘘をつくときは人差し指に力が入る。今日は入ってない」
「そこ、見てるの、ずるい」
「プロですから」
冗談の角度で逃がし、心の温度を測り直す。メモ帳を取り、ページの端をめくる。指が勝手に動いてしまうときは、だいたい正しい。
——“返事保留”。
と、殴り書きする。文字が紙の目に小さく引っかかる感触。私はペン先を止め、深く息を吸った。肺の底まで入れる。入れた分だけ、古い空気が抜けていく。
「戻れば安泰、ってやつだね」
口に出してみる。言葉は自分の重さを持つ。エマがすぐに返す。
「安泰の反対は?」
「呼吸」
「呼吸、勝ち」
短いラリーで、私は笑ってしまう。バルドは「安泰の水は澱む」と言い、蛇口を一度だけ軽く叩いた。薄い音が、扉のほうへ飛ぶ。
「……俺は、王都の事情、少しわかる。人手は本当に足りない。魔物は減ったが、怪我は減らない。政治は人を疲れさせる」
レオンは真面目な顔に戻る。彼の真面目は鋭角から鈍角へ修正されつつあるが、鋭いときの言葉はまだ切れる。
「君が戻れば、助かる人は多い」
「そう、だね」
誤魔化さない。真ん中で受ける。私は自分の手のひらを見る。聖印の痕はもう薄いけれど、手の内側には治癒の癖が残っている。光を集める呼吸。痛みの抜け道を探す指。あれを私から完全に剥がすことはできない。剥がしたくもない。けれど——。
「でも私は、やっと好きに息ができる」
言葉が自分の胸に戻ってきて、そこに置き場所があると知る。店の空気が、わずかに動いた。カウンターの木目が光る。エマが頷き、バルドが「息は音楽」と呟く。
「返事、急かされてる?」
「一週間以内。“準備があるので”」
「準備……誰の」
「王都。あと、私の覚悟のリードタイム」
エマが顎を上げた。「一週間、あたしと勝負ね。毎日、新作で説得する。甘さで土俵を固める」
「砂糖のロビー活動」
「合法」
バルドは皿を一枚取り、布で磨いた。鏡みたいな皿に、昼下がりの光が丸く座る。「皿は“ここ”を映す。城の皿は、城しか映さない」
「詩人」
「墓守」
小さな笑いが生まれて、店はいつものテンポを取り戻す。私は封筒をもう一度見下ろし、そこに刻まれた紋章を指先でなぞった。冷たい。過去は、だいたい冷たい。冷たいから、触りたくなる。冷たいから、長くは持てない。
「店は、回す。今日も」
私は宣言のように言って、エプロンの紐をきゅっと締め直す。レオンが口を開き、「手伝う」と言いかけて、飲み込んだ。「客でいる」と言い直して着席する。進歩。彼は今日、“その他の午後セット”を指差し、「その他」と笑う。
「いらっしゃいませ」
私はいつも通りの声で言う。声は少しだけ低く、少しだけ長く、少しだけ柔らかく。豆の香りがそれを抱き上げ、湯気が運ぶ。手紙はカウンターの隅で大人しくなり、音楽の小節の間に置かれた休符みたいに、ただそこにいる。
午後の客は、雨の日ほどは多くないけれど、ゆっくり喋る人が多い。席は長く温まり、カップの外側に指の跡が残る。ミナは学校帰りに寄って、猫を注文し、「字、きれい」と封筒のカリグラフィーを褒めた。「中身、きれいじゃない」とエマが即座に返し、ミナは「ふーん」と猫の耳を一本増やした。
「店長、今日の“丸と三角”、どう置く?」
エマが焼き台の向こうから目線で訊く。私は帳面を開く。鉛筆の先が、さっきより太く見えた。
——売上、平常、丸。
——空気の安定、保った、二重丸(チームの功績)。
——心の揺れ、記録、四角(保留の枠)。
——猫、耳一本増量キャンペーン、子どもに刺さる、丸。
——王城スカウト状、冷蔵庫に入れない、常温管理、注意。
「四角、いい表現」
「未決事項は囲っとく。触るとき指を切らないために」
バルドが「囲いは大事」と頷き、皿の縁を指で一周なぞる。レオンは猫を一匹眺めてから、「俺の“保留”はどこだ」と笑い、コップの水を半分だけ残した。半分は“まだ”。半分は“もう”。店はそういう半端を愛している。
夕方。光が薄くなり、海風が少し湿る。封筒の紙が微かに反って、私は上から軽いカップで押さえた。「今日のあなたはここ」と言って置く。過去は、今日の上に置くと静かになる。棚にしまうと暴れる。私は経験で知っている。
「リリア」
レオンが急に真顔になった。声は低い。でも、さっきの掠れではない。体温のある低さ。
「君が決めることに、俺は賛成する。賛成の中身は、あとで考える」
「難しい言い方」
「うまく言えない。でも、君が“返事保留”と書いたの、俺は好きだ。王城の紙に対して、自分の紙で言い返したのが、好きだ」
胸のどこかに、また温度。今日二度目。体温プラス一。私は正面から礼を言う代わりに、軽い口調で逃がす。
「営業スマイル、効いた?」
「効く。致死量の手前」
「じゃ、薄める。砂糖で」
小さな逃げ道。彼はそれで十分だったらしい。スプーンでカップの内側を撫で、音を作る。音が、店の骨に染み込む。
夜。鈴が最後に鳴り、扉が閉まる。封筒はまだカウンターの端。私は灯りを一段階落とし、机に座ってもう一度、文面をなぞる。目で。指では触れない。触れると、冷たさが指に残るから。
——戻れば安泰。
——やっと好きに息ができる。
二つの文を、同じ行に並べてみる。並べて、私は気づく。これ、対義じゃない。比較じゃない。異なる次元の話だ。安泰は“外から与えられる均し”。呼吸は“内側から作る揺らぎ”。どちらが正しいでもない。私がどちらを選ぶかだけ。
「店は、今日も回った」
声に出す。バルドの水は流れ、エマの火は働き、レオンは客でいて、ミナは猫の耳を二本から三本にして帰った。私は笑い、ちょっと痛んで、でも呼吸は続いている。返事は保留。鍵はまだ閉めない。風が通る。豆の匂いがほどける。夜が店を撫でる。
「——“保留”。明日も」
私はメモ帳の“返事保留”に小さく丸をつけ、封筒の上に、ミントの葉を一枚のせた。香りの軽い蓋。過去は香りに弱い。香りは、今が勝つ。
カウンターを撫でて、蛇口に「おやすみ」を言い、看板の文字に指で点を打つ。今日の点。点は気持ち。明日も、点を打つ。封筒は端に、私は真ん中に。店は今日も回った。明日も回る。呼吸の音で、静かに、確かに。
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