11 / 20
第11話 ぽろりとこぼれた本音
しおりを挟む片付けが終わると、店は深呼吸を始める。コップの水気は布で拭われ、カウンターは木目の線を一本ずつ見せ、床は今日の足音を薄く記録したまま眠りたがっている。窓の外、港に吹く風は甘く潮っぽく、まるで砂糖を溶かした海が少しだけ蒸発して店の中に入り込んでくるみたいだ。
「締め、完了。売上は丸、氷の在庫△、猫は労災級の働き」
エマが指で空中に丸を書き、あくびをかみ殺す。バルドは蛇口に「今日もありがとう」と囁いて手袋を外し、水滴の一粒まで片付けの列に参加させる。二人は裏口からそっと帰る支度をして、こちらを振り返った。
「先に戻る。路地、今日は風強い、気をつけて」 「店長、夜食用に“雨待ちレモン”置いとく。すっぱい気持ちを叱ってくれるから」 「ありがとう。二人ともおつかれさま」
外の鈴が一度だけ小さく鳴り、扉が落ち着いた重さで閉まる。残ったのは、私と、窓辺に背を預けるレオン。マントの裾は乾ききらない潮の匂い、鎧の金属は夜の灯りをそっと飲んで、彼の輪郭をやわらかくしていた。
「鍵、まだ閉めないの?」
レオンが言う。私は合図の代わりに鍵束を指でからん、と鳴らして、カウンターの上に置く。閉められるけど、閉めない。風が好きなだけ出入りできるように、少しだけ開いた扉。夜の温度は、安全と不安の中間でちょうどいい。
「もう少し、湯気の余韻を吸いたいの。今日の猫は働き者だったから」
「猫、給金は魚?」
「砂糖」
「それは強い」
ふたりでへらっと笑う。笑ったあとにやってくる静けさは、昼のそれと違って、少しだけ事情を知っている。港の音が薄くなり、遠くで波がひとつ崩れて、また立ち上がる。カップを伏せる音が、最後の労働として控えめに鳴った。私はカウンターの内側、いつもの場所に立ち、視線が自然に重なる距離へと自分を移動させた。
「リリア」
彼は、名前を呼んだ。今日は“店長”じゃない。夜の発音で、私の素の名前が空気をわずかに震わせる。私は胸の奥で小さくうなずいて、でも口では冗談のスタンバイをする。夜は、本音がこぼれやすい。こぼれた先に床があるか確かめてからでないと、切ない音がするから。
「君の『いらっしゃいませ』に救われる人がいる。……俺も」
ぽろり、と落ちた。声は少し掠れていて、砂糖を舐めた後の喉みたいに甘いのに乾いている。私は反射的に笑い、肩をすくめて、いつもの逃げ方を選ぶ。
「それは営業スマイル。プロ仕様」
「営業でも、俺には効く」
短い言葉なのに、重さはある。私は冗談の靴を片方だけ脱いで、片方は履いたままにしておく。全裸の本音は寒い。けれど、毛布の端は掛けてあげられる。
「今日、太鼓、よかったよ。休符のところ、空気の穴が開いた。おかげで列がほどけた」
「店長の指示が良かった。……俺、叩きながら、君の『いらっしゃいませ』思い出してた」
「太鼓で?」
「うん。あの声、最初の一杯みたいに、胸の内側で湯気を立てる。戦場だと、先陣の掛け声が人を動かすだろ。ここは逆だ。人を落ち着かせる掛け声が、俺を座らせる」
さっきまで祭りで喧しかった港が、急に個室みたいになる。言葉は簡単で、比喩は少なくて、それなのに、芯に触れる。私は笑って逃げたくなる衝動を、指でカウンターの縁を撫でて誤魔化す。木は正直で、撫でれば撫でただけ落ち着く。
「……ねえ、レオン」
「うん」
「“勇者”って、どこまで名札みたいに着けてなきゃいけないの?」
彼は瞬きをゆっくり一回した。昔の彼なら、すぐに正解を言おうとしたはず。今日は、言葉を探す間、沈黙を私に見せた。
「名札って、便利だ。初対面でも役割がわかる。でも、寝るとき外す。外せない名札は、首を締める」
「うん」
「俺は、首を締めてた。自分で。君が『いらっしゃいませ』って言うと、名札が少し緩む」
胸のどこかが、一瞬だけ痛む。痛むのは、彼のせいじゃない。私の中に残っている“あの頃”の筋肉痛。誰かの役に立つために、笑い方を一種類だけにしていた筋肉の記憶。そこに、今の私が新しい動かし方を教えている。その境目に、ちくっと、痛みが出る。
「痛そうな顔した」
「たぶん、昔の筋肉がびっくりしてる」
「それ、どうしたらいい?」
「何もしない。私の仕事だから」
小さく笑い合う。鍵はテーブルの上。その先、扉は開いたまま。私は息を吸って、吐いて、言葉の温度を少し下げる。夜は熱すぎると、翌朝が気まずい。
「ねえ、レオン。あなた、なんで毎日来るの?」
「……練習」
「何の?」
「“戻らない”で、“ここに居る”練習」
予想外の答えに、喉の奥が軽く跳ねた。彼は続ける。
「俺は、戻るのが得意なんだ。城に、役割に、誰かの期待に。そこは居心地が“安定”してる。でも、君が店を開くのを見て思った。安定じゃなくて、呼吸の合う居場所に、毎日通う練習をしたい。通うって、帰るより難しい」
「……うん、わかる」
帰るは、ルートが一本で、景色が記憶に従う。通うは、毎回、調整がいる。天気、機嫌、空腹、潮風。店のドアの角度でさえ違う。人はそういう“些細な違い”に毎回向き合うとき、やっと自分の歩幅を知る。彼がそれを言葉にしたことが、少し嬉しかった。
「それに、君の『いらっしゃいませ』は、本当は俺じゃなくて、俺の後ろの誰かに言ってるんだろ」
「後ろ?」
「うん。今日の俺の後ろには、濡れたマントの子どもがいて、明日の俺の後ろには、疲れて座りたい老人がいる。君の声が、俺を通り抜けて、その人たちに届く。その感じが……いい」
わたし、笑った。営業でも、なんでも、今はただ笑う。彼の言葉は、私の声の伸び方をちゃんと見ていた。カウンターから出る声は、目の前の一人に向けているけど、同時に、その人の後ろの誰かにも届くように設計してある。店とは、そういうスピーカーだ。
「じゃあ、私も言っていい?」
「何でも」
「あなたの“ごちそうさま”は、いつも少し遅い。味が落ち着くの待ってるから。お皿に残る『ありがとう』の跡が、綺麗」
レオンの耳が赤くなる。鎧の光が彼の頬を照らし、彼は視線を落として笑う。私は逃げ道のついた優しい会話を選ぶ。お互いに、今はそれでいい。
「……でも、勘違いしないでね」
「はい」
「『いらっしゃいませ』は、あなた一人のものじゃない。ここに来た“その他”全部のもの。私は、私の仕事をする。あなたは、あなたのお金でそれを買いに来る。私の笑顔は、商品。だけど、値段は付けない」
「値札、なし」
「うん。心で払うやつ。たまに、レモンで割引」
「酸っぱくて、助かる」
言い切ると、胸の痛みが少し引いた。輪郭がはっきりする。距離のメモリに、指をそっと添え直す。夜は境界線をぼかす天才だけど、ぼかす前に線を引いておけば、朝に後悔しない。
「明日、雨、降るかな」
レオンがぽつんと言う。話題を光の方へ移す手つきが、少し上手くなっている。
「風の匂いは、晴れ寄り。だけど、私は天気予報より焙煎のほうが得意」
「じゃあ、外したら、ここで笑う」
「うん。“外しに来る”常連、歓迎」
窓の外で、夜が緩む。港の灯りが一本消え、次に別の一本が眠る準備をする。店の中では、木が小さく鳴って、カップの影が伸びて、湯気の記憶だけが高い棚に残る。
「帰るよ」
レオンが立ち上がる。椅子を元の位置に戻し、マントの裾を整え、ドアに向かう。扉の前で、彼は一度だけ振り返った。
「——“また来ます”。練習、明日も」
「“また”の発音、良くなった」
「先生がいい」
「授業料、猫一匹」
「払う」
笑いながら、彼は出ていく。——カラン。鈴の音は、昼よりもまろやかで、夜に似合う。扉は開いたままで、鍵はまだテーブルの上。私はしばらくそのままにして、風をもうひと口、飲む。潮と砂糖。今日の言葉。今日の沈黙。ぜんぶ、喉の奥にすっと通る。
鍵を持ち上げる。金属の冷たさが指に移り、最後のスイッチのように私の中の店員をそっと眠らせる。回す前に、木の扉に額をひとつ、軽く当てる。おやすみ。おやすみ、《ホーリー》。今日も、いい仕事をした。
鍵は、まだ閉めない。ほんの少しだけ、風の通り道を残しておく。エマの言ったとおり、酸っぱい気持ちが来たら、夜食のレモンが叱ってくれる。バルドの儀式で洗われたシンクは星を抱き、看板は月に片目をつぶる。
片付け後、港に吹く風は甘く潮っぽい。私はその風の中で、胸の痛みの所在をもう一度確かめる。痛みは、過去と今の継ぎ目にある。継ぎ目があるということは、つながったということだ。——それなら、少しの痛みは、悪くない。
「いらっしゃいませ」
誰もいない店に、小さく言ってみる。夜が静かに微笑んだ気がして、私は初めて、鍵を回した。鈴が短く鳴り、明日へとつづく音が、喉の奥で優しくほどけていった。
3
あなたにおすすめの小説
聖女やめます……タダ働きは嫌!友達作ります!冒険者なります!お金稼ぎます!ちゃっかり世界も救います!
さくしゃ
ファンタジー
職業「聖女」としてお勤めに忙殺されるクミ
祈りに始まり、一日中治療、時にはドラゴン討伐……しかし、全てタダ働き!
も……もう嫌だぁ!
半狂乱の最強聖女は冒険者となり、軟禁生活では味わえなかった生活を知りはっちゃける!
時には、不労所得、冒険者業、アルバイトで稼ぐ!
大金持ちにもなっていき、世界も救いまーす。
色んなキャラ出しまくりぃ!
カクヨムでも掲載チュッ
⚠︎この物語は全てフィクションです。
⚠︎現実では絶対にマネはしないでください!
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
召喚失敗!?いや、私聖女みたいなんですけど・・・まぁいっか。
SaToo
ファンタジー
聖女を召喚しておいてお前は聖女じゃないって、それはなくない?
その魔道具、私の力量りきれてないよ?まぁ聖女じゃないっていうならそれでもいいけど。
ってなんで地下牢に閉じ込められてるんだろ…。
せっかく異世界に来たんだから、世界中を旅したいよ。
こんなところさっさと抜け出して、旅に出ますか。
宮廷から追放された聖女の回復魔法は最強でした。後から戻って来いと言われても今更遅いです
ダイナイ
ファンタジー
「お前が聖女だな、お前はいらないからクビだ」
宮廷に派遣されていた聖女メアリーは、お金の無駄だお前の代わりはいくらでもいるから、と宮廷を追放されてしまった。
聖国から王国に派遣されていた聖女は、この先どうしようか迷ってしまう。とりあえず、冒険者が集まる都市に行って仕事をしようと考えた。
しかし聖女は自分の回復魔法が異常であることを知らなかった。
冒険者都市に行った聖女は、自分の回復魔法が周囲に知られて大変なことになってしまう。
タダ働きなので待遇改善を求めて抗議したら、精霊達から『破壊神』と怖れられています。
渡里あずま
ファンタジー
出来損ないの聖女・アガタ。
しかし、精霊の加護を持つ新たな聖女が現れて、王子から婚約破棄された時――彼女は、前世(現代)の記憶を取り戻した。
「それなら、今までの報酬を払って貰えますか?」
※※※
虐げられていた子が、モフモフしながらやりたいことを探す旅に出る話です。
※重複投稿作品※
表紙の使用画像は、AdobeStockのものです。
聖女じゃない私の奇跡
あんど もあ
ファンタジー
田舎の農家に生まれた平民のクレアは、少しだけ聖魔法が使える。あくまでもほんの少し。
だが、その魔法で蝗害を防いだ事から「聖女ではないか」と王都から調査が来ることに。
「私は聖女じゃありません!」と言っても聞いてもらえず…。
「魔道具の燃料でしかない」と言われた聖女が追い出されたので、結界は消えます
七辻ゆゆ
ファンタジー
聖女ミュゼの仕事は魔道具に力を注ぐだけだ。そうして国を覆う大結界が発動している。
「ルーチェは魔道具に力を注げる上、癒やしの力まで持っている、まさに聖女だ。燃料でしかない平民のおまえとは比べようもない」
そう言われて、ミュゼは城を追い出された。
しかし城から出たことのなかったミュゼが外の世界に恐怖した結果、自力で結界を張れるようになっていた。
そしてミュゼが力を注がなくなった大結界は力を失い……
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる