追放されたヒロインですが、今はカフェ店長してます〜元婚約者が毎日通ってくるのやめてください〜

タマ マコト

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第14話 バルドの正体、偏見を解く

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 その噂は、潮の匂いに混ざって来た。誰が最初に言い出したのかは、いつだってわからない。けれど、言葉は形を変えながら広がる——「魔族が働いてる店?」という、短く、強い音の並びで。

 朝の一杯が昼の二杯になり、昼の二杯が午後の一息になっていく日。窓のガラスを撫でる風は柔らかく、ミルの唸りも機嫌がいい。エマは焼き台で「とろける信頼」の二番を焼き、私は「午後四時の窓辺」豆を少し深めに挽く。バルドは、いつものように蛇口に挨拶をして、水の声を店の呼吸に合わせた。

 ——カラン。

 鈴。常連の老人が入ってきた。背は曲がっているけれど、足取りは海の古い道を覚えている。手の甲には斑点、瞳は澄んで硬い。あの港の朝市で魚を見極める眼。私たちは彼の「うまい」「よくない」の一言を信じてメニューを微調整してきた。

「いらっしゃいませ。いつもの“ただの丸”でよろしいですか」

「ああ……いや、今日は……」

 老人の言葉が途切れ、視線が流しの方へ吸い寄せられる。そこにバルド。黒曜石の瞳、少し尖った耳。静かな所作。老人の目が、固くなる。手が、椅子の背に触れたところで止まる。席を立ちかけるように、半歩後ろへ。潮が引くみたいに、店の空気がわずかに冷えた。

 噂は、ここに来たのだ。私の胸の奥で古い鎖が、ほんの少しだけ鳴った。私は前に出る。カウンターから一歩はみ出して、老人と私の間の“もや”に、はっきりとした言葉を置く。

「この皿の輝き、誰が出してるか知ってます?」

 老人の視線が私を経由して、流しへ戻る。バルドは、一度だけ静かに会釈した。そのまま布巾を置き、温めておいたカップを両手で持って、カウンターの上にそっと置く。白磁が、ほとんど鏡。縁に残った水滴は一粒もない。底の小さなロゴが逆さに清く映る。

「水は、偏見の埃を嫌う」

 バルドの声は低く短い。老人の眉がぴくりと動き、手が椅子の背から離れた。私はすかさず、抽出に入る。湯が粉に触れる音——土に最初の雨が落ちる音。香りは丸く、背後に小さな影。影があると、味は立つ。

「“ただの丸”、上がります」

 私は絵を描かない。表面を平らにして、湯気を正直に立たせる。カップを老人の前に置く。彼は指先で縁を撫で、鼻先を近づけ、息を浅く吸い、そして——

「……うまい」

 短く、いつもの言い方。けれど、声の底に砂利の音が混じった。迷った跡の音。私は頷く。そこで、扉がもう一度鳴った。

 ——カラン。

 レオン。今日は鎧なし、布の上着。港の色に馴染んでいる、けれど“通る声”の持ち主は隠せない。「ただの丸」と「その他の午後」を手際よく注文し、老人の隣の席に腰を落ち着ける。空気の温度を見て、彼は一つ、話を置いた。

「そのカップを磨いた彼は、俺の命の恩人だ」

 老人の目が、ゆっくりレオンへ向く。レオンは“勇者”の角度で口を開かない。常連の角度で、低い声で語る。

「北の森で、撤退の最中。夜、泥と雨で音が消える。俺は足を取られて深いぬかるみに落ちた。重い鎧、背中の荷、呼吸が“泥”になって、声は口の中で溺れた」

 手をぎゅっと握って、離す。彼の話は飾りがない。だから、届く。

「そのとき、墓守の青年がいた。水の流れ方を知っている手が、俺の横顔に触れ、泥の出口を作ってくれた。水は敵でも味方でもない、ただ流れだ。彼はそう言った。俺の胸がもう一度、空気を思い出した。……それが、彼。バルドだ」

 バルドは会釈もしない。ただ、蛇口のハンドルを親指で一度撫でる。「水の流れは、声の流れと同じ」と、口に出さずに言うように。

 老人はカップに視線を戻す。表面の湯気が、細く立ち上がり、天井の梁でやわらかく崩れる。彼はもう一口飲み、舌の上で「丸」を転がした。そして、ぽつり——

「うちの婆さんが死んだ夜、墓に行った。雨だった。灯りが消えそうで、俺の手も震えた。だが、墓の水は澄んでいた。誰かが夜通し掬っては流し、掬っては流していた。翌朝、石が輝いていた。——同じ手か」

 バルドは、ようやく小さく頷いた。「似た手」とだけ言う。老人の肩の力が、すとんと落ちる。椅子が体の重みを正しく受け止め、木が低く嬉しそうに鳴いた。

「“魔族が働いてる店?”って噂、来ました」

 私はあえて言葉を置く。逃げないで、見える場所に。

「うちは“誰でも働ける店”です。怒鳴らない、傷つけない、皿を丁寧に扱える人は、だいたい採用。……それから、湯気を好きな人も」

 エマが焼き台から顔を出し、粉だらけの手でピースを作る。「あと、砂糖を“話し合い”で増やせる人」と追加。老人が鼻で笑い、「話し合いなら、うちの婆さんの方が強かった」と返す。笑いが、湯気の上でほどける。

「“魔族は怖い”って言うのは、正直わかる。見た目が違う、暮らしが違う、言葉の節が違う。怖い。——でも、“怖いからやめる”は、美味しさを減らす」

 私はカウンターの端を指で叩いた。「美味しさ、減らすの、店としては損失です」と、半分冗談に逃がす。老人の唇が薄く持ち上がる。

「……味で殴るのか」

「味で撫でるの。うちは“撫で殴り”」

「物騒だな」

「砂糖は武器」

「合法」

 エマが合いの手を入れ、バルドが水差しを置く。カップの縁が光る。老人はその光を、一拍、見た。そして、静かに言った。

「“魔族が働いてる店?”——“皿が光ってる店”に修正」

 その言い方の上手さに、私は肩の力が抜けた。言葉は、上書きできる。上書きした人の数だけ、噂の重心は動く。港のルールが、少し嬉しく胸に落ちる。

 昼の波が来る。客が入れ替わり、噂も入れ替わる。若い母親は赤ん坊の指を湯気に近づけて「熱いよ」と教え、旅人は壁のポスターを見て「港祭り、昨日は楽しかった」と言う。窓の外で子どもが跳ね、猫が伸びをし、海は黙る。

 噂を持ってきた中年の男が、一人。扉の前でためらい、入ってきて、流しを見て、眉を寄せ、カウンターで足を止める。私は先に笑う。営業スマイル、でも今はそれでいい。

「いらっしゃいませ。“ただの丸”おすすめです。今日の丸は、少しだけ影を連れてます」

「影?」

「味に、深みって言うやつ」

 彼は渋い顔のまま座った。バルドが背中から見えない速度でカップを温め、カウンターに置く。エマが小皿に“雨待ちレモン”を一滴だけ落とし、横に添える。私は抽出をしながら、言葉を足す。

「噂は、うちでも聞こえました。——だから、先に美味しくしときました」

「先に?」

「先に」

 男は笑い損ねて、口元を歪めた。カップを両手で持ち、一口。鼻の奥が、ほんの少し開く表情。彼は黙って二口目を飲み、匙でレモンをひとなぞり、最後に小さく頷いた。

「……美味けりゃ、勝ちだな」

 そこに、エマの声が重なる。

「美味けりゃ勝ちだよ」

 彼女の言葉は甘いけれど、軽くない。焼き上がったチョコの密度の重さを持っている。店内の空気が、その言葉に同意して、静かにうなずいた。

 午後三時。窓辺の光が角度を変え、カウンターの木目に細い影が増える。老人は「皿、きれい」と短く礼を言って立ち上がり、バルドは深く会釈をした。レオンは「今日の休符は要る?」と太鼓のことを冗談めかし、エマは「要るのは角砂糖」と返した。笑いが、店を撫でる。

 私は黒板の端に、小さく書く。〈今日の標語:皿が光ってる店〉。チョークの粉が指に付く。指先をこすり合わせると、白が消えて、木の色に混ざる。混ざったものは、もう元には戻らない。——それでいい。

 夕方の手前。港の匂いが濃くなる。今日の丸と三角を帳面に置く。

——噂、入店、一次対応:丸(言葉の位置と湯気)。
——老人の席、離脱しかけ→着席、完飲:二重丸(皿の光)。
——レオンの“恩人”話、投下タイミング:丸(過剰にしない)。
——バルド、所作の公開:丸(声は少、手は多)。
——エマの締め、“美味けりゃ勝ち”:太字で丸。
——課題:入口に小さな札〈誰でもどうぞ。ただし怒鳴り厳禁〉設置、△→明日。

「店長」

「はい」

「噂、もう一回、来る?」

「来る。噂は何度も来る。だから、うちは何度も淹れる」

「何度も焼く」

「何度も洗う」

 バルドが水を落とす。音は、やわらかい。私は看板の端を指で撫で、扉の取っ手に「ようこそ」と小さく言う。扉は返事をしない。代わりに、湯気が薄く頷いた。

 夜の前。窓に群青が貼りつき、カップの縁が星を一つ抱く準備を始める。私は最後の“ただの丸”を淹れ、カウンターに置く。湯気がまっすぐ立ち上がり、梁でふわりと崩れる。偏見は固い。けれど、穴は開く。穴が開けば、湯気が通る。湯気が通れば、匂いが届く。匂いが届けば、舌が動く。舌が動けば、言葉が変わる。

 ——美味けりゃ勝ちだよ。

 エマの一言は、今日の締めの印。私はそれを胸の真ん中に据え、鍵に手を伸ばした。扉は、まだ少しだけ開けておく。噂がまた来ても、湯気の通り道が塞がらないように。皿が光り続けるように。誰でもどうぞ、と言えるように。
 港の夜風が、粉砂糖みたいに店を撫でていった。
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