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第15話 保健検査、まさかの難癖
しおりを挟む朝の光は、紙の端で指を切らないように気をつけてね、と言ってくる角度だった。カウンターの上にはラミネートした清掃表、消毒液のボトル、温度計三本。エマは焼き台の火を低く保ち、バルドは蛇口に「今日は“公式の目”が来る」と囁いてから、水の出を一定に調える。私はエプロンの紐を一段きつく結び直し、メモ帳の今日の見出しに大きく書く。
——保健検査:迎撃ではなく歓迎。けれどスキなし。
「店長、書類、総出場?」 「全書類、前のめりで待機中」
私は引き出しからクリアファイルを取り出す。中身は、手洗い手順の掲示写し、消毒薬の使用記録、食材の納品書、調理器具の加熱殺菌サイクル、廃棄の記録。さらに、うちの命——“導線図”。カウンターの裏に貼るには美術展の入選作みたいな出来栄えで、視線の動きと手の動きと水の流れが一本の糸で結ばれている。
「来たら、笑顔“検査仕様”で」 「営業スマイル、衛生管理つき」 「レオンは?」 「呼ばない。今日は“常連”じゃなく“観客”もいらない」
——カラン。
鈴が鳴り、風が一瞬止まる。入ってきたのは役所色の上着、真面目そうな襟、手帳を胸に抱えた男。年の頃は四十手前、髪に雨のような白が一本混ざっている。背後には若い補助員がひとり。視線は鋭いが、瞼の端に寝不足の影。
「港町衛生局の検査です」
「お待ちしておりました。店主のリリアです。こちらチェックリスト、先に共有しますね」
私はすかさずチェックリストの写しを差し出し、検査の順路を逆提案する。入り口のマット→手洗い→冷蔵庫温度→交差汚染の防止→器具洗浄→ゴミ保管→従業員衛生→導線。彼は一瞬だけ驚いた顔をし、すぐに「では、手洗いから」と公的な口調に戻る。
「バルド、手洗いデモ。段取り通り」 「了解」
蛇口が細く鳴く。温水は手の甲から指先へ。爪の根元、指間、親指の付け根、手首。石鹸は規定量。タイマー三十秒。紙タオル二枚、ゴミ箱は足で開閉。動きに無駄がなく、泡が踊らない。検査官のペン先がカチ、と紙を押さえる音。
「従業員の手袋は?」
来た。私はすでに用意していた透明袋を掲げる。中には未開封の手袋パック、型番が見えるように表にしてある。
「《医務院規格 MZ-04》。城下の医務院と同規格です。仕入れは医療供給店《リーヴ商会》、納品書はこちら。サイズはSとM、アレルギー対応のニトリル、粉なし。交換頻度は『生肉・生卵扱いの直前直後』『五十分ごとの定時』『破損時即時』で回しています。使用履歴はここ、日付と担当者名で」
若い補助員の視線が“ほう”と柔らかくなる。検査官は資料に目を落とし、ぺらりとめくる指が一瞬だけ迷った。その迷いに、嫌な気配が混ざる。
「……魔族の従業員がいる、と聞きましたが」
補助員の肩がわずかに跳ねる。エマが焼き台の火力をほんの少しだけ上げ、火の音で空気の棘を丸める。私は息を一つ浅くし、笑顔の角度を“営業+一度”に調整。
「います。バルド。こちら、医務院規格の手袋を着用しています。魔族用カスタムは不要と医務院の指導を受けています。皮膚反応の記録はこちらに。過去三カ月、問題なし」
「しかし——」
検査官の目が、わずかに意地を探す。私はその“しかし”を最後まで言わせず、紙を一枚差し出す。衛生局通達の写し。該当箇所に黄色の付箋。角には今日の日付。
「『従事者の種別によらず、皮膚バリアを担保できる衛生製品を用いること(通達第十二号)』。該当点、こちらでよろしいですか。さらに『異種族に対して必要な配慮は差別的であってはならない(指針別記第四)』。そのうえで、当店は追加で非接触体温計の導入、勤務前の嗅覚チェック表を運用しています」
補助員のペンが走り、検査官のペンが一瞬止まり、それから再開する。私はその間に、決定打を持ってくる。導線図。黒いボードに透明フィルム。矢印は水色、交差禁止は赤、加熱ラインはオレンジ。
「当店の導線です。人の流れ、水の流れ、火の流れ。ここが“清”(ブルー)、ここが“準”(イエロー)、ここが“汚”(グレー)。清と汚は物理的に交わらないように棚高さを変え、色テープで床に区分。三人の立ち位置はここ。ピーク時の交差時間は平均三秒以下。夜の片付けは逆順です」
「平均三秒?」
「ええ。こちら、昨夜のログ。バルドが水を止めてからエマが洗いに入るまで0.8秒。私がカップを置いてからバルドがすすぎに入るまで2.2秒。導線、見ていただけます?」
私は三人の“型”を短いデモンストレーションで示す。エマは焼き台から半歩、私はカウンターから半歩、バルドは流しから半歩。三人の足音が木の床に小さく三連符。検査官の視線が図から足元へ、足元から蛇口へ、蛇口からゴミ箱へと移動していく。
「……なるほど」
彼の喉が静かに鳴った。そこに、もう一つの音が重なる。向かいの屋台の、あの濃紺の天幕を連想させる声が背後の通りで揺れた。——《王都式ロイヤルブリュー》。彼らの片付け音の律儀さ。きっと誰かが“通報”したのだ。検査官の肩の硬さが、ちらりと光る。
「質問を続けます。冷蔵庫の温度、現在は?」 「上段三度、中段四度、下段二度。温度ログは十五分間隔。ドア開閉が多い時間帯に振れますが、五度を超過しません。警告音の設定を四点五度にしています」
「生菓子の賞味表示は?」 「当日中。持ち帰りは保冷剤二つ標準、三つ目は追加料金。その説明は口頭とラベル両方で」
「雨の日クッキーは?」 「湿度が敵なのでガラスドーム保管、二時間ごとに入れ替え。余剰は賄い。捨てるときは理由と個数を記録」
質問は続く。私は答え、エマは補足し、バルドは必要な器具を音もなく差し出す。検査官の手帳が厚みを増すたび、私の肩の力は静かに下へ落ちる。途中、彼の口角が一度だけ意地悪い角度を試みる。
「魔族の皮膚は温度耐性が高いと聞く。つまり、熱いものを扱う際の危険認識が人間と異なる可能性があるのでは?」
「それ、昔の私も言われました。“聖女は痛みに強いから雑に扱っても大丈夫”って」
私の声は冷たくならないよう、湯気の温度を保つ。検査官の視線が跳ねる。エマが焼き台から顔を出し、淡々と続けた。
「うちは“人間基準”。“痛いは危ない”。“熱いは危ない”。“冷たいも危ない”。“危ないは二人で止める”。合言葉」
「合言葉、ですか」
「はい。夜の最後に三人で声に出します。記録もこちらに」
合言葉の欄に三人のサイン。バルドの字は細く、エマの字は丸く、私の字は大きい。検査官はそこにペン先を置き、しばらく黙った。
沈黙は、怖くない。怖いのは、沈黙の前の準備不足だ。私は指でカウンターの端を二度叩き、息の速さを整える。窓の外でカモメが鳴き、パン屋の窯が小さく呼吸する。日常の音が私の背骨に背もたれを作る。
「……導線、完璧です」
検査官が咳払いを一つ。紙を閉じる、小さな決着の音がした。
「魔族の従業員については、規格外の指摘には当たりません。手袋は医務院と同規格、運用はむしろ模範的。——問題なし」
補助員がぱっと顔を明るくし、エマが「よし」と口の中でだけ言う。バルドは蛇口に「ありがとう」と呟いた。私は笑顔を“営業-一度”の温度に戻し、軽く会釈。
「ご確認、ありがとうございました。最後に、導線の図、データ差し上げます。港の店、皆で衛生レベルを上げたいので」
検査官は一瞬だけ迷い、それから受け取った。彼の指が図の“清”の青をなぞる。青の上で、指先が柔らかくなる。
「……ところで」
帰り際、扉に手をかけた彼が、急に役所の顔から人の顔になった。咳払いは小さく、一呼吸分のためらい。
「“雨の日クッキー”、家内が好きで。先日の土砂降りの日、こっそり二枚持ち帰って、怒られました。“三枚じゃないのか”って」
補助員が噴き出し、私もエマも笑ってしまう。バルドの口元が、珍しく一ミリだけ上がった。検査官は慌てて真面目な顔を取り戻し、咳払いをもう一度。
「職務に関係ない話でした。失礼」
「いえ。次の雨の日、ラベルに“家内さま用”って書きます」
「賄賂ですか」
「合法的な砂糖です」
「……結構」
——カラン。
扉が閉まる音に合わせて、私の胸の中のガッツポーズが弾けた。内側で小さく“よっしゃ”を言う。エマが私の肩を指でつつく。
「勝利者コメント、お願いします」 「港の皆さんの健康と笑顔のために、今後も誠心誠意、手洗いを——」 「固い!」 「いつも通りやる、で」 「正解!」
笑いに混じって、私は帳面を開く。今日の丸と三角を置く時間。
——保健検査、事前準備の勝利、二重丸。
——“魔族規格外”難癖、条文+導線で撃破、丸。
——導線図、共有の芽、丸。
——検査官、雨の日クッキー家内案件、心の距離、三センチ短縮、にやり印。
——課題:入口に〈合言葉〉を小さく掲示。見える場所に“危ないは二人で止める”。△→明日。
「バルド」
「はい」
「手袋、予備、あと三箱頼む。ラベルに“神”って書いとく」
「神?」
「うちの神、いま“チーズケーキ”だけど、衛生の神も必要」
「二柱」
「二柱」
バルドが無表情のまま、ほんのすこしだけ耳の先を赤くして頷いた。エマが焼き台から顔を出し、黒板に新しいミニコラムを書く。〈今日の学び:美味しいは衛生から〉。チョークの粉が温度計みたいに白い。
昼の波が来る。常連が入ってきて、猫が二匹、犬が一匹、鯖が一尾。私は抽出に入り、エマは「賄賂」をやめて“お礼”を焼き、バルドは蛇口の神に水を捧げる。店は回る。書類が机に戻り、導線図が壁に戻り、湯気が日常に戻る。
「ねえ、リリアさん」
エマが小声で言う。
「ロイヤルの差し金、だったのかな」
「たぶん、町の噂が混ざって、誰かの“念押し”が乗った感じ。……でも、検査官の家内がうちの客なら、もう半分うちの味方」
「砂糖、外交」
「合法」
三人で笑って、次の注文へ進む。レオンが少し遅れて来店し、状況を聞くと「俺は何も……」と笑って両手を上げる。「今日は全方位合法で勝ったから、君の出番なし」と返すと、彼は嬉しそうに“ただの丸”を頼んだ。
午後の光が傾き、窓に薄い金色が貼りつく。私は最後に導線図を指でなぞり、壁の端に小さな紙を貼った。
〈危ないは二人で止める〉
紙の角が風でこすれ、音が小さく鳴る。店の奥で、蛇口が短く返事をした。今日も湯気はまっすぐ立ち、梁のところでやわらかく崩れる。検査官の足音は、もう遠い。残っているのは、雨の日クッキーの甘い記憶と、紙の上の“問題なし”の文字。
私はカウンターの下で、もう一度、胸の中だけでガッツポーズした。音は出さない。代わりに、猫の耳を一本、ほんの少し長く描いた。勝利の余白は、可愛くしていい。港の風が入ってきて、粉砂糖みたいに店を撫でていった。
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