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第7話「癒しの教室」
しおりを挟む王都の市場から二本入った路地、石畳のくぼみに陽が小さく溜まる昼下がり。
借りたばかりの小部屋は、壁が薄くて、笑い声と風鈴の音が混じって聞こえる。机は古いが、木目がやさしい。椅子は十脚。窓は大きくて、雲の影が床をゆっくり渡っていく。
「ようこそ、“癒しの教室”へ」
リセル=フィーネが、黒板代わりの板に白い粉で丸を描いた。
丸は灯の形。中心は空白。そこに座るのが、今日の目的。
「魔法は使いません。祈りも儀式もしない。——やるのは、三つ。“言葉”“触れ方”“呼吸”」
集まったのは、孤児院の子どもたちが六人、傷病兵が三人、そして市場の女店主がひとり。年齢も背丈もばらばらだ。緊張と好奇心の匂いが混じり合う。
「まず、“言葉”。ここでは『痛い』『怖い』『悔しい』を禁止しません。むしろ歓迎。言葉は灯りの芯。口に出して初めて、火がつく」
小さな手が恐る恐る挙がる。
孤児院の少年、アシュが眉を寄せた。
「『痛い』って言ったら、怒られない?」
「ここでは、絶対に怒らない」
「絶対?」
「うん。だって、痛いは事実でしょう。事実は叱らなくていい」
アシュはほっとして、背もたれにもたれた。
次に、リセルは自分の両手を見せる。指先の線はまっすぐで、爪は短い。
「“触れ方”。相手の肩甲骨の内側に、薄い布を置くみたいに。押さない。持ち上げない。『ここにいるよ』って伝える体重だけ」
傷病兵のひとりが問う。「力は要らないのか」
「要らない。あなたの肩に乗ってる『鎧の感触』を思い出して。重さはあるけど、押し潰さないでしょう? それくらい」
男は指で空気を撫で、頷く。長年の癖が、その答えをすぐに理解した。
「最後、“呼吸”。三で吸って、六で吐く。吐く方を長く。落ち込みは息を短くするから、わざと長くする。では、やってみよう」
窓から入る風と、部屋の中の息が重なった。
吸って、吐く。指で椅子の角をつまむ子も、膝を抱えたままの少年も、目を閉じる女店主も、みんな、同じテンポに少しずつ近づいていく。
「——よし、ペアになろう」
リセルは椅子を動かし、向かい合う形に並べ替える。
孤児の少女ミレが、兵士の男ハロルドと向き合った。ハロルドの片脚は義足だが、目は穏やかだ。
「ミレ、ハロルドさんの背中に手を置いて。置くだけ」
「こう?」
「うん。ハロルドさんは呼吸をミレの手に合わせて。ミレは『ここにいるよ』って心の中で言う」
ミレの指先が、わずかに震える。
ハロルドは目を閉じ、息を整える。
十数える間に、彼の肩がふっと落ちた。ミレが驚いて目を丸くする。
「手が、温かい」
「うまいよ、ミレ。——次は交代」
ミレは照れくさく笑い、手のひらを見つめた。
“仲介者”が増えるほど、部屋の空気がやわらかくなる。灯が四つ、五つ、と増えて、温度が均されていくのがわかる。リセルの内側の負荷が、薄く解ける。誰かだけが灯りじゃない。みんなが少しずつ灯りになる。
教室の後ろで、レオン=クレイドが板にチョークで線を引いた。
線は波。一息ぶんの波形だ。
「“声の出し方”の話も少し。……怒鳴らないで遠くに届かせるには、背中のここ——肋骨の下を軽く広げて、声をそこから出す。喉だけで押すと、すぐ枯れる」
彼は実演するように短く「はい」と言ってみせる。
部屋の隅々まで届くのに、耳に刺さらない声。
孤児たちが真似をする。「はい」「はい!」ひとりは照れて笑い、ひとりはやたらと張り上げて周囲に肘鉄を食らわせる。笑いが生まれたとき、空気がまたひと段、軽くなる。
「うまい。——じゃあ、“痛い”を言ってみようか。誰からでも」
沈黙が波打ち、やがて、ハロルドが口を開いた。
「夜、左肩が重くなる。戦の夜の気配がする。匂いも戻る。……うなされる」
「ありがとう。今の言葉に、『いていいよ』を足してみよう」
「重い、いていい。匂い、いていい。……うなされる、いていい」
ハロルドの声が、途中で少し揺れた。
ミレの手が、彼の背中で小さく動き、また落ち着いた。
「次、誰か」
市場の女店主が手を上げる。「私、客に怒鳴られた日の夜、胸が速くなる。売り場の光がまぶしくて、息が上がる」
「ありがとう。——それ、誰かとやってみる?」
「やってみる」
女店主は兵士の別の男の手を取り、自分の胸の上に軽く置かせる。彼は戸惑い、しかし指先で押さずに、ただ“そこにいる”重さを保った。
女店主の呼吸が、ゆっくり変わる。まぶしさが、やわらぐ。部屋の窓の光の方が、いまは心地いい。
レオンが黒板に、“安定波”の線を描き足す。
メルダから借りた記録紙を思い出しながら、簡単な図を板に写す。
波は深く、しかし穏やかに。そこに近づく術は複数ある。
リセルはそれを「道」と呼ぶ。道は一本じゃない。
「いい感じ。——休憩しよう。水、飲んで」
紙コップを回しながら、リセルはレオンに視線を送った。
彼は静かに頷き、空いた椅子に腰を下ろす。背筋は伸び、肩の古傷は今日もそこにある。
「レオンも、話す?」
「俺も受講生か」
「うん」
子どもたちが面白そうに身を乗り出す。
レオンは窓の外に一度だけ目をやり、言葉を選ぶように息を整えた。
「戦が終わった夜がある。雪が降ってた。夜営の火が、みんなの顔を橙色にしてた。——その夜、隣にいた同僚が、目を開けたまま眠って、朝起きなかった」
空気が、ごくわずかに冷える。
彼は手を握らず、膝の上に置く。
「その後、何日も、火が怖かった。火を見ると、あの夜の色が戻る。肩の古傷が、内側から痛んだ」
リセルは椅子を引き寄せ、彼の背中——肩甲骨の内側に、掌を置いた。押さない。置くだけ。
「ここにいるよ」
レオンは目を閉じ、短く笑う。「言わせるんだな、俺にも」
「うん」
「……怖かった。火が。起きた朝が。みんなが起きるはずの朝が」
教室の全員が、静かに呼吸を合わせた。
ミレがレオンの反対側に回り、小さな掌をそっと背に置く。
ハロルドが“はい”の声でテンポを刻む。
女店主が浅い息の数えで合いの手を入れる。
灯が、輪になる。
リセルはレオンの背の下で、彼の呼吸が少しずつ深さを取り戻すのを感じた。古傷の辺りの筋肉が、熱を帯びて緩む。
部屋中の息が、彼を真ん中に置いて“いていいよ”と頷いているのがわかる。
「……少し、楽だ」
レオンが目を開け、かすかに笑った。
その笑みは薄いが、嘘がない。
リセルの胸の奥で、小さな鈴が鳴る。——彼の悪夢は、今夜、少しだけ遠のくだろう。そういう時の音が、確かにした。
「みんな、ありがとう」
レオンが頭を下げると、孤児たちは誇らしげに胸を張った。
誰かを楽にできたという経験は、子どもを早く大人にする。でも、急がせない。リセルは笑って拍手をした。
「最後に、“ひとりでできる手順”を配るね」
黒板の丸の横に、簡単な順序を書き出す。
一、言葉を許す(『痛い』『怖い』『悔しい』を言っていい)
二、触れ方(肩甲骨の内側に薄い布)
三、呼吸(三で吸って、六で吐く)
四、名前(指に名前をつける。勇気・指し示す・中心・約束・秘密)
五、“いまここ”を一つ(見えるもの、聞こえるもの、匂いを一つずつ)
「これを、家で、人と、そして自分にやってみて。——うまくいかない日があっても、失敗じゃない。灯が見えない日も、灯はある」
配った紙を、子どもたちが宝物みたいに折りたたむ。
傷病兵たちは懐にしまい、女店主は店の柱に貼ると言った。
「先生」
アシュが手を挙げる。
先生、と呼ばれて、リセルは少しだけ照れた。
「なに」
「ここ、また来ていい?」
「もちろん」
「何回?」
「何回でも」
アシュの顔がぱっと明るくなる。
その光で、窓の外の雲が薄くなった気がした。
片付けはみんなでやった。椅子を戻し、窓を拭き、床を掃く。
部屋の温度は下がらず、灯の余韻がそこに残っている。
“仲介者”が増えたせいだ。リセルひとりが灯りではない。
彼女の内側の負荷は、確かに軽くなっている——はずだった。
「リセル」
レオンの声で振り向く。
視界の隅で、白がにじんだ。
額の裏側から、鈍い金槌で静かに叩かれるような痛みが、遅れてやってきた。
「あ——」
言葉が間に合わない。
頭の芯がきゅっと縮む。視界が近づいたり遠ざかったり、呼吸を整えるはずの数が指から滑る。
「座れ」
レオンが素早く椅子を引き、リセルの肩を支える。
冷たい水が手の中に押し込まれる。彼女は意地でひと口含み、喉に落とした。
「大丈夫」
強がりではない。——大丈夫“にする”。
けれど痛みは、言葉の速度では引いてくれない。
「メルダを呼ぶ」
レオンが扉へ向かう。その瞬間、ちょうど通りかかった白衣がひらりと影を落とした。メルダだ。
彼女は一瞥で場を把握し、足音を速めた。
「脈、貸して」
冷えた指が手首に触れ、計る。
視線はぶれない。声は静か。部屋の灯を揺らさないための高さ。
「——使い過ぎ。今日はここまで。以後、二日は“遠見のみ”。接触は禁」
「でも——」
「禁。あなたが倒れたら、今日ここに灯ったものが消える」
メルダの言葉は鋭くないのに、退路がない。
リセルは目を閉じ、呼吸を三つ整える。頭痛は波で、少し引いて、また寄せる。
「わかった」
「よろしい。水を飲んで、甘いものを少し。——クレイド、護送」
「了解」
子どもたちが心配そうに覗き込む。ミレが勇気を振り絞って、リセルの背にそっと手を置いた。布一枚の重さで。
「ここにいるよ」
リセルは笑った。
痛みはまだ居る。けれど、居場所は用意できる。
窓の外で雲が切れ、薄い光が床を撫でた。
灯は、まだ消えていない。
ただ——灯の守り方を、もっと賢く選ばなければならない。
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追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
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