「地味で役立たず」と言われたので村を出たら、隣国で神扱いされました ──ヒトとして愛を掴みます──

タマ マコト

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第6話「神の御手、名指される」

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 翌朝の王都は、鐘の音より早く噂が走った。
 “月が、片目を開けた”“十年の眠りが揺れた”“泣いたらしい”——通りという通りに小さな焚き火のような話が灯り、パン屋の窯口まで温度が上がる。

「ほんとかい? 王子様が涙を?」

「神殿が口を噤んでるってことは、だいたいホントだ」

「じゃあさ、アレだろ、“神の御手”が戻ってきたってやつ」

「誰の?」

「知らん。けど、そういうのはだいたい“女”だ」

 市井の声は軽く、賭け札のようにひらひらしている。
 一方、宮廷の空気は重く、紙の匂いが濃くなった。使い走りの足音、書記の擦れる羽根、貴族の控えめな咳払い。秩序は動揺を嫌う。動揺は力の座り心地を悪くするからだ。

 神殿の白い回廊の真ん中に、イグナートは立っていた。
 彼の背後には、いつもより黒い影が長い。影は彼のものでもあり、彼を覗き込む“いくつかの家”の気配でもあった。

「宣言する」

 短く、石に刻むように言う。

「この神殿は、昨夜の出来事を“奇跡”と認める。殿下の覚醒は不安定であり、治療は継続される。——また、当該現象に寄与した者を“神の御手”として保護する」

 廊下の空気が一段冷える。
 神官たちは一斉に頭を垂れ、書記は宣言を書き留める。
 レオンは背筋を正し、表情を動かさない。メルダは眼鏡の内側で目を細め、ひとつだけ頷いた。

 その中心で、リセル=フィーネは一歩前へ出た。
 彼女の声は、静かだった。

「私は、神ではありません」

 言い切り。
 空気の皺が音を立てる。イグナートの片眉がわずかに上がり、黒衣の裾が風もないのに揺れた。

「言葉の綾だ」

「綾でも、ひっかかる場所があります。——私は象徴になれません。人としてここにいます」

「保護の対象になることを拒むのか」

「保護は受けます。拘束は受けません。崇拝は、要りません」

 石と布の間で、綱が一瞬鳴った。
 イグナートは唇の端をわずかに歪める。笑いではない。この女は境界線を自分で引く、という確認の笑みだ。

「よかろう。——保護は“規律”と同義だ。規律には従え」

「従います。規律が“人を護るための線”である限り」

 レオンの灰色の瞳が、ほんの一瞬だけ温度を上げる。
 貴族派の使者が奥の廊を過ぎ、イグナートに視線だけで合図を送っていく。影の長さが少し伸びる。

 宣言のあとは、測定だった。
 メルダは小さな部屋に器具を並べた。脳波を拾う簡易の輪、脈と呼吸の同調を測る器、温度計、砂時計。彼女の手つきは水面の上で糸を解くみたいに滑らかで、無駄がない。

「条件を決める。接触なしの“遠見”、接触ありの“掌接触”、短時間と長時間、静寂下と環境音下。被験者は神殿勤務の兵と神官、十名。全員、同意の署名を」

「実験……みたいだ」

 長椅子に座る若い兵が不安そうに笑う。メルダは穏やかに頷いた。

「実験だよ。だが、儀式ではない。成功しなくていい。事実を集める」

「はい」

 リセルは輪を頭にかけられながら、メルダに視線を向ける。

「私の方にも条件をください。限界を越えないための」

「時間の上限、十五分。連続は三回まで。間に水分と休息を挟む。——顔色の確認は私が担当する。違和感があったら、あなた自身が止めること。止める権利は“あなた”にある」

「ありがとう」

 計測は、淡々と進んだ。
 遠見での語りかけ。脳波の波は小さく整い、被験者の呼吸がゆるやかに深まる。掌接触。被験者の脈がわずかに揺らぎ、やがて安定へ落ちる。短時間でも変化は生じ、長時間では変化が深まるが、戻りも必要だと示された。

「見える?」

 メルダは記録紙をリセルとレオンに見せる。
 波形が幾筋も重なり、ある一点で似た“凪”を作っていた。

「“安定波”」

 メルダが名を与える。
 数名の被験者で共通する、脳波と脈の相関。言い換えれば、“落ち着く”ときの身体の言語が、ほぼ同じ譜面で奏でられていること。

「あなたの声と間、触れ方で——被験者はこの状態に入る。誰かの泣き声が遠くなるみたいに、内側の騒音が下がる」

「魔法、じゃない」

 レオンが呟く。
 メルダは首を横に振った。

「現象だ。再現可能で、条件がある。だから学べる」

 紙の上の線は、奇跡というより地図に見えた。
 どこを通れば“静けさ”に着けるか。その道筋は人によって少しずつ違うけれど、分岐点の記号は似ている。

「この地図を、私は広場に持って行きたい」

 リセルがぽつりと言う。メルダは目の奥で笑った。

「いいね。——ただし、その前に昼食」

「実験のご褒美?」

「科学は糖を要求する」

 レオンが咳払いをした。「護衛も腹は減る」

「なら、屋台で」

 三人で石段を降りる。白い回廊から出ると、王都の光と匂いが身体に戻ってきた。昼の市場は、足音と笑い声が重なりあって音楽みたいだ。串焼きの煙、スープの湯気、焼きたてのパンの香りが喉奥をくすぐる。

「ここ」

 レオンが指さしたのは、ごく質素な屋台。大鍋のスープ、固いパン、焼いたチーズ、刻んだ香草。店主の老婆は手早く椀を並べ、笑い皺を深くした。

「三つ。薄めで」

「薄め? 騎士様、金がないのかい」

「……昼から冗談が厳しい」

「冗談しか言わないのが商売よ」

 椀が三つ、木の台にコトンと置かれる。
 湯気が顔を撫でる。リセルは両手で椀を包み込み、胸の前で小さく息を吐いた。香草の青さと骨の甘みが混じって、体の芯に染みていく。

「いただきます」

 一口。舌の上で、塩気と旨みが釣り合い、喉を通る時に温度が背骨の側を流れる。身体が思い出す。“食べること”が“生きること”の一部である感覚。

「うまい」

 レオンが短く言う。
 メルダはパンを割り、スープに浸す。

「パンは武器だって言ってたね」

「休戦協定にもなる」

「では、王宮にも配るべきだ」

「貴族派が“民の味”で仲直りするなら、世界は少し楽になる」

 軽口が湯気でやわらかくなる。
 リセルは笑い、ふと、屋台の向こう側に目をやった。
 黒衣の男たちが二、三。距離を取ってこちらを見る。視線が針のように細い。イグナートの背後に伸びる影を思い出す。

「見られてる」

「見られるのは仕事のうち」

 レオンは椀を飲み干し、店主に追加のパンを頼む。

「でも、私は“見せ物”にならない」

「うん」

 短い肯定。レオンの声は、椅子を引くときの音みたいに優しい。
 メルダが手帳に何かを書き付け、パンでインクの染みを誤魔化した。

「“見せ物”にしないための方法は、ある。——仕組みにすることだ」

「仕組み?」

「再現可能な“やり方”として共有し、複数の人間が担う。君しかできないと人は思えば、神話を求める。できる人が増えれば、神話は“技術”になる」

「教室、ひらけるかな」

「ひらける。私が講義の骨組みをつくる。君は声と手を貸す。クレイドは騒ぎを外に押し出す」

「了解した」

 レオンが淡々と頷き、椀を台に戻す。
 店主が顔を出し、目を細めた。

「嬢ちゃん、手がきれいだね」

「そう?」

「きれいってのは、白いってことじゃないのさ。使い方が綺麗。——人の手を傷つけない手の使い方をしてる」

「ありがとう」

「ついでに言うと、疲れてる手だ」

 老婆の目は鋭い。リセルは苦笑いを浮かべる。

「少し、ね」

「少しのうちに休みなさい。少しはすぐ“たくさん”になる。女は特に、少しを隠すのが上手い」

「……はい」

 屋台を離れる時、風が一段冷たくなった。
 塔の上の旗はまだ眠っている。黒地の白い月。
 レオンは周囲を見張りながら歩調を落とし、リセルの横に並んだ。

「怖い顔が増えた」

「怖い顔?」

「君を旗にしたい顔だ。旗は風に翻る運命しか持てない」

「私は、旗じゃない」

「だから護る。旗じゃない君を護る」

 それは誓いというより、確認だった。
 言葉が軽いのは、重さを知っているから。重さを振り回さないために、軽く言う。

 神殿に戻ると、イグナートが誰かと話していた。
 裾の長い衣、金糸の刺繍。貴族派のひとり、ブルーア家の使者だろう。男は仮面のような笑顔で、イグナートに紙束を差し出す。視線の端に、リセルを刺す。刺してから、礼をする。礼はするが、刃は抜かない。

「御手殿」

 丁寧すぎる呼び名。
 リセルは足を止め、視線だけで返す。

「御手殿のご活躍、王都の誉れ。——本日、晩にささやかな集いがございます。上等な観衆に、上等の奇跡を」

「奇跡は見世物ではありません」

 イグナートが先に遮った。珍しい。
 使者は目を細める。笑顔から歯の温度が消える。

「神殿長、硬い。民草が求めるのは物語ですぞ。物語は統治の要だ」

「物語は勝手に育つ。——畑の外で勝手に収穫するな」

 使者は肩を竦め、礼をして去っていく。影は壁を撫で、白い回廊に余韻を残した。

「……増えたな」

 レオンがぽつりと言う。

「何が?」

「君を“道具”にしたい手が」

 リセルは返事をしなかった。
 返事の代わりに、深く呼吸をして、胸の内で灯を確かめる。
 ——私は、神じゃない。人として、ここにいる。

 その午後も、計測は続いた。
 メルダの指示に従い、条件を変え、数を取り、紙に刻む。
 リセルは集中すると、世界の輪郭が“静けさの形”を取り始めるのを感じる。声の抑揚、言葉の間、指先の置く位置——全てが“安定波”へ向かう道を選ぶ。

 十人目の被験者が「眠れた」と笑って椅子から立ったとき、砂時計の砂は最後の一粒になっていた。メルダは器具を丁寧に外し、記録を綴じる。

「終わり。——今日は充分」

「ありがとう」

 リセルは微笑み、指先で汗を拭った。
 その瞬間、右手の親指と人差し指の間で、針の先みたいな痺れがちり、と走った。

 小さな波。
 大したことはない、と体が判断しようとする。だが、その判断の前に、少し遅れて倦怠が肩から降りてきた。薄い布団を一枚、背にかけられたみたいな重さ。

「……」

 レオンの視線がすぐに飛ぶ。「どうした」

「なんでも、ない。少し、疲れただけ」

 言葉に嘘はない。だが、言わなかったものがある。
 親指と人差し指の間の痺れは、まだ消えない。
 メルダが瞬きを一度だけ増やし、そっと近づく。

「今の、どのくらい?」

「豆粒くらい」

「持続?」

「十数えるくらい」

 メルダは頷き、手帳に短く記した。
 イグナートが遠くからそれを見て、目を細める。彼の背後の影が、また一段暗くなる。

「今日は終わり」

 メルダが結論を下す。
 リセルは抵抗しない。抵抗しないことを選べるのは、強さだ。

「水を」

 レオンが水差しを取る。
 リセルは片手で杯を受け、唇を湿らせた。冷たさが舌に触れ、体の内側へ落ちていく。

 右手の痺れは、豆粒から米粒に小さくなって、まだ、残っている。
 彼女は手を握り、開く。
 親指は勇気。人差し指は指し示すひと。——勇気と、指し示すひと。二人は、そこで静かに座り直した。
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