「地味で役立たず」と言われたので村を出たら、隣国で神扱いされました ──ヒトとして愛を掴みます──

タマ マコト

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第13話「村の歌、ひとつの灯」

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 朝の雪は音を吸っていた。
 白い広場は、夜の呼気をまだ掌に隠している。圧搾機小屋の影が長く横たわり、木枠は黙って冬を受け止めていた。

「——広場で、歌おう」

 私は言った。村長、ミーナ、ユリウスの家の者、圧搾機小屋の働き手、子どもたち。扉は半分閉じたまま、視線だけが表へ漏れている。

「“収穫歌”。うろ覚えでいい。上手じゃなくていい。声が出ない人は、息だけでもいい。
 輪を作る。真ん中に灯を置く。輪の外に“見守り”。輪の中に“仲介者”を増やす。……それが条件」

 沈黙の布が、少しだけ薄くなる。ミーナが最初に頷いた。

「やる。私、声は小さいけど、やる」

 村長は渋い顔を崩さないが、肩が一段落ちた。「広場の雪、どかせ」

 雪は人の手で簡単に形を変える。子どもたちが箒で円を描き、女衆が灰を撒く。輪の端を石で印し、真ん中に焚き火台を据える——火は強くしない。光の芯だけでいい。
 私は輪の内と外の距離を指で測る。詰めすぎない。離れすぎない。息が届き、視線が安心して泳げる幅。

「手順、壁に貼る」

 メルダから預かった紙を板に打ちつける。彼女は昨夜遅く村に着いた。浅い眠りを一時間だけ取り、今は道具の箱の前で、白衣の袖を一折りして腕を出している。

 一、言葉を許す(『痛い』『怖い』『悔しい』は歓迎)
 二、触れ方(肩甲骨の内側に薄い布。押さない・持ち上げない)
 三、呼吸(三で吸って、六で吐く。歌の拍に合わせる)
 四、名前(指に名前をつける。勇気/指し示す/中心/約束/秘密)
 五、“いまここ”を一つ(見える・聞こえる・匂いのどれか一つ)

 レオン=クレイドは輪の外側に立った。灰色の瞳で周囲を描き、見張りの配置を軽く指で合図する。彼の肩の古傷は寒さで疼くはずなのに、今日の顔は静かだ——ただ、私の頬色を一度見て、眉が一線だけ動いた。

「顔が白い」

「大丈夫。輪が増えれば、軽くなる」

 短い返事。
 メルダが私の横に来て、声を落とす。

「“仲介者”を輪の中に増やす。君の隣を空けない。——負荷を分散する」

「わかってる」

「わかってるだけじゃ足りない。配置まで私が決める」

「どうぞ」

 彼女は頷き、村人の肩に手を置いていく。「あなたはここ」「あなたはここ」——触れ方を教え、呼吸の数えの役を割り振る。老いも若きも混ぜる。家族で固まらせず、見知らぬ手と手を隣に置く。恥ずかしさを薄め、孤立を溶かす配置。

 輪ができた。
 真ん中に、小さな灯。
 私は椅子を心の中で四脚、輪の内側に並べる。一本は自分、一本は村、一本はユリウス、一本は空席——これから座る誰かの分。

「始めるよ」

 ミーナが私の手を握り、離す。合図。
 私は最初の一音を低く置いた。冬の空気が震えるくらいの、小さな一音。

「——赤い林檎と青い空」

 誰かが続ける。「木箱は四つ、君の手は二つ」
 別の家の扉が、そっと開く。
 声が増える。重なる。外れる。笑いが混じる。拍がばらけ、また集まる。
 輪は呼吸器だ。肺の役目を、皆で分担する。

「青い空と白い雪——」

 子どもが裏声で跳ね上がり、老女が低く受ける。傷病者の家族が涙で声を潰し、それでも口だけは動かす。
 私は拍を刻む。三で吸い、六で吐く。
 肩甲骨の内側に置かれた手が、薄い布の重さを忘れないよう、時々目で確かめる。

 広場の端、寝台ごと運ばれてきた者たちがいる。灰の眠りに沈む若者、女衆、そして——ユリウス。
 彼の寝台は輪の内でも外でもなく、斜めの辺縁に置いた。近すぎると風が強い。遠すぎると灯が届かない。境目はいつも“斜め”にある。

 歌の振動は、胸骨で、喉で、鼻腔で、骨伝導で伝わる。
 脈はわずかに肩を作り、呼吸は浅い波から深い潮へ移る。
 メルダが記録紙を膝に乗せ、短く式を走らせる。「安定波、増加……同期性、輪の内側から外へ」
 村人の背中が、ひとつ、またひとつ落ちる。
 閉ざされた扉が、さらにひとつ、またひとつ開く。

「“痛い”って、言っていいんだよ!」

 輪の外から誰かが叫んだ。彼は走って輪の縁に膝をつき、肩を震わせた男の背に手を置く。
 男は嗚咽の谷を一つ越え、声にならない声で「痛い」と言った。
 輪は狭くならない。広がりもしない。ただ、密度が均される。

 私は歌わない拍を増やした。
 輪の内を見渡し、欠けを探し、欠けに椅子を足す。呼吸が乱れるところに、数え手を増やす。触れ方の角度が強いところに、薄い布の比喩をもう一度渡す。
 ……指先の感覚が、さっきより鈍い。右の親指、人差し指、薬指——縁が遠い。音量が下がる。
 レオンの視線が刺さる。彼は輪の外から口を開かず、ただ私の拍に合わせて腹で呼吸する。遠くからでも、波は伝わる。

「“仲介者”、増員」

 メルダの指示が飛ぶ。
 彼女は輪の内を分割し、小さな円を作らせる。円の中心に“声の手本”をひとりずつ置く。ミーナがその役を引き受け、老女が頷き、傷病兵が腰を上げた。

「うた、続けよう」

 声が再び重なる。
 私は輪の中から一歩だけ退いた。真ん中に立ち続けることが“治す”ではない。輪を保たせるのが“救う”のほうの仕事だ。
 退いた瞬間、胸が少し楽になる。
 ——でも、指先の鈍さは薄くならない。

「顔、白い」

 いつの間にか、レオンが肩の後ろに立っていた。輪の外から、内と外の境目を一瞬だけ跨いでくる。
 私は笑う。「休憩、一拍だけ」

 歌は続く。拍は回る。
 ユリウスの寝台のそばに、母が座っている。彼女の指は、もう震えていない。
 私はその横にしゃがみ、ユリウスの耳もとで囁く。

「ここだよ。輪の音、聞こえる? 君の村の声。君の名前が混じってる」

 彼の胸の上下が、わずかに深くなる。
 まぶたが震え、口元がひとつ、呼吸に合わせて緩む。
 歌の中から、遠い記憶の粒が浮かび上がる匂い——秋の土、甘い樽の内側、子どもたちの笑い。

「『赤い林檎と青い空、木箱は四つ、君の手は二つ』」

 私は拍を取らず、囁きだけを置く。
 輪の圧が呼吸器になって、彼の胸に押し引きのリズムを貸す。
 母が覚悟の小さな息を吐き、「痛い」「怖い」「……でも、ここにいる」と言葉を重ねる。

 メルダが私の肩に手を置いた。
 白衣の袖口から、体温が伝わる。「君は今、輪の外でいい。——監督の席で」

「うん」

 私は一歩下がる。視界が広くなり、輪の全体が見える。
 扉がまた一枚、音もなく開く。
 圧搾機小屋の前の雪に、足跡が新しく刻まれる。
 男がひとり、躊躇いがちに輪へ近づく。あの夜、声が大きかった顔。瞳の底に、凍りついた“恥ずかしさ”。
 ミーナが視線で招き、隣を空ける。男はそこに座り、たどたどしく拍に合わせる。輪は拒まない。咎めない。椅子は足りている。

「よし」

 レオンの声が背中に落ちた。「輪、持った」

「持ったね」

 私の足裏が地面に重く触れ、体重が均される。
 指先は……まだ鈍い。
 それでも今は、立てる。

 歌の輪は、季節の歯車みたいに回る。
 声の合間に、短い告白が落ちる。「痛い」「怖い」「悔しい」「嬉しい」。それぞれが椅子になり、灯の周りで席順が入れ替わる。
 メルダが記録紙を畳み、「これは——再現できる」と独り言のように言う。療法の名にすぐに飛びつかないのが、彼女の良さだ。

 太陽が雲の向こうで位置を変え、影の角度が緩む。
 歌が一巡し、二巡し、三巡目に入る時——私はユリウスの胸の上に、目には見えない何かの“濃さ”を感じた。
 黒。
 音のない、濃度。
 煤みたいに軽く見えるのに、手を伸ばせば指に重く絡みつきそうな影。

 ——見間違い?
 瞬きをすると、黒は胸骨の内側に沿ってゆっくり形を変え、肋の隙間へ出入りする。呼気のたびに揺れ、吸気のたびに深く潜る。

「……レオン」

 呼ぶつもりはなかったのに、声が出た。
 彼がただちに傍へ寄る。私は頷きだけで視線の先を示す。
 レオンには見えないはずだ。彼は私の目の奥の緊張を読み、顎でメルダを呼ぶ。メルダが駆け寄り、聴診器を当て、数をとり、眉を寄せる。

「脈、乱れなし。呼吸、改善傾向。……何を見ている」

「黒い影。胸のここ。——“在る”という感じだけ」

 メルダは目を細めた。科学者の目が、未知の形を測る距離を保つ。「記す。君は無理に触れない。輪を保つ。——それは“鍵”か“錠”のどちらかだ」

 私は頷く。
 影は消えない。けれど、影は輪の光で輪郭を得た。
 名付ける前に、まず“在る”と認める。
 歌は続き、広場の灯は揺れず、村の扉はもういくつか、開いていた。

 指先の感覚は、遠い。
 輪は回る。
 ユリウスの胸の影は、呼吸とともに、黙ってこちらを見ていた。



 歌が終わったあと、広場には、しばらくのあいだ「余白の音」だけが残っていた。

 それは焚き火の小さな破裂音、子どものすすり泣き、そして人々が呼吸を取り戻すための“沈黙”だった。

 沈黙は、良い音だ。
 心が呼吸を数える時間になる。

 私は深く息を吸い、雪を混じえた空気を肺の奥まで落とす。
 ひどく冷たいはずなのに、胸の中が、どこかあたたかい。

 村人たちは少しずつ立ち上がり、互いに顔を見合わせていた。
 「痛い」と言った人が「ありがとう」と口にし、
 「怖い」と言った人が「おかえり」と笑う。

 広場の灯が、たしかに“ひとつの呼吸”になっている。

 それでも——
 私の右手は、まだ自分のものじゃないみたいだった。

 指先から肘のあたりまで、薄い膜が張っているような鈍さ。
 輪の拍に合わせて感じるべき微細な空気の揺れが、
 少し遅れて伝わる。

 「リセル?」

 レオンが近づく。
 広場の焚き火の灯りが彼の横顔の輪郭を切り取っていた。
 彼は無言で私の手を取る。

 「冷たい」

 「……平気。いつもこう、歌のあとだけ」

 「嘘」

 私は笑って、答えなかった。
 笑うことで、嘘が“言葉の外”へ逃げていくような気がした。

 そのとき、輪の向こうで子どもの声が上がった。

 「見て、見て! お兄ちゃんが、手、動いた!」

 ユリウスの寝台のそばに集まっていた人たちがどよめく。
 母の声が、すすり泣きと混ざって震えた。

 私は駆け寄る。
 ユリウスの指先が、微かに動いていた。
 ほんの少し——まるで、雪を握るような動き。

 呼吸が、さっきより深い。
 胸の上下の波が、確かに大きくなっている。

 「ユリウス」

 私は名を呼ぶ。
 唇が反応した。声にはならなかったけれど、
 確かに、彼の喉がわずかに動いた。

 母が嗚咽の合間に言う。

 「見えた……本当に、動いたの……!」

 私は頷き、手を伸ばす。
 けれど、次の瞬間、視界の端であの“黒い影”がまた揺れた。

 ——ユリウスの胸のあたり。

 昼間に見た、あの煤のような黒。
 呼吸のたびに、微かに膨らみ、
 また胸の奥へ沈んでいく。

 私の耳に、風の音が混ざった。
 まるで、遠い鈴の音みたいな——高くて、冷たい音。

 “来るな”
 “触るな”

 そんな言葉が、誰かの声の形で流れてきた気がした。

 私は立ち止まり、息を整える。
 心の中の椅子を四脚、もう一度並べる。
 ひとつは自分、ひとつはユリウス、ひとつはこの村、
 そして——黒い影のための椅子。

 「あなたも、座っていい」

 声は小さく、私にしか聞こえない。

 影が、ふっと薄れた。
 胸の中の波がゆるむ。

 ユリウスの唇が、かすかに笑ったように見えた。

 その瞬間、右手の指先に、熱が戻った。
 感覚が、ほんの少しずつ、私の皮膚の中へ帰ってくる。

 息を吐く。
 冷たい夜気が喉を通り、肺に触れて溶けていく。

 「……終わったのか?」

 レオンの声。
 私は小さく首を振る。

 「まだ。これは“始まり”。村が呼吸を取り戻しただけ」

 彼は黙って頷き、
 私の手から鈴を受け取って、軽く鳴らした。

 ——リン。

 短く、やさしい音が夜に溶けた。

 村の広場に残った火の芯が、音に呼応して小さく跳ねる。
 それは合図みたいだった。
 あの夜、私が追放されたときに聞いた鈴の音とは違う。
 これは“帰還”の鈴だ。

 私はその音を胸の奥で拾い、
 小さく呟いた。

 「——ありがとう」

 レオンが問う。
 「誰に?」

 「全部に」

 答えながら、自分でもわかった。
 あの“黒い影”もまた、
 この村の痛みの形だったのだ。
 誰かの罪でも、恨みでもなく、
 “長い間、言えなかった痛み”が、姿を持っただけ。

 そして今、それは名を与えられ、椅子に座った。

 灯は、確かにひとつになった。

 ——けれど。

 その光の中で、
 私の心の奥に、別の影がほんの少しだけ揺れた。

 「“輪の光”で照らせなかった場所が、まだある」
 直感だった。

 王都。
 あの“心癒の聖光”を見た神殿の影の奥で、
 誰かがこの村と同じ眠り方をしている。

 私はノートを取り出し、
 火の明るさの下で記す。

〈きょうの心の温度:
 歌の輪の中に、灯があった。
 痛みは消えず、座った。
 影は名を得た。
 右手が帰ってきた。
 でも——まだ、遠くに、呼ばれている。〉

 書き終えたとき、風が広場を渡った。
 雪が、音もなく灯に舞い落ちる。

 私は目を閉じ、
 その白い息の向こうに、確かに“次”を感じた。

 ――まだ終わっていない。
 この光は、きっとどこかへ導いている。

 そしてそれが、
 “この物語の第二の始まり”になることを、
 私はもう知っていた。
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