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第15話「代償」
しおりを挟む雪の音が消えた朝、村の空気は、やっと肺に入ってきた。
“灰の眠り”は引いていた。輪の歌が一晩かけて押し戻し、家々の戸口に灯が戻った。
ユリウスの胸に見えた黒い影はほぐれ、煤の匂いだけを残して消えた。
「……ありがとう」
彼は目を開け、喉の奥で小さく言った。
母は泣きながら笑い、ミーナは顔をくしゃくしゃにして頷いた。
メルダは脈を取り、安定波の紙に指を滑らせ、「収束」と静かに書き込んだ。
私は、そこまで見届けてから、床の木目が海になる音を聞いた。
体が、落ちる。
糸が外れた人形みたいに。
声は出ない。指先は遠い。喉の温度がするすると下がり、世界が額の裏で白く滲む。
「リセル!」
レオンの腕が間に合い、私の頭は木の角を避けて、彼の手のひらに着地した。
額に触れる体温が、遠い。熱いのに遠い。
メルダの白衣が視界に入り、「高熱」と短く判定が落ちる。冷たい布。水。匙。
私はうなずいたつもりだけど、体は動かなかった。
◇
寝台。
雪の夜の名残が壁の木目に凍っている。
熱は斧で割った薪みたいに脈打ち、額を内側から押し広げた。
記録帳が胸の上に置かれている。起き上がれない代わりに、指先で表紙を撫でた。紙の角が、蜂蜜の染みで少し柔らかい。
〈きょうの心の温度:恐れはある、迷いはない〉
昨日の夜、丘道で書いた行。
インクがにじんで、文字が波の下に沈みかけている。
自分の言葉が、熱で溶ける。おかしくて、少しだけ、悔しかった。
「君は神じゃない」
レオンの声が、何度も落ちてくる。
掌が、私の手を包む。
その掌は、押さない。置くだけ。
“ここにいる”の重さで、私を机から落ちない紙みたいに留めてくれた。
「聞こえるか。——君は神じゃない。
だから、寝ていていい。熱を出していい。欠けていていい。起きなくても、ここにいる」
私は、目を閉じたまま笑う。笑えているといい。
胸の内の椅子が、四脚とも倒れないように、ひとつずつ指で支える。
親指は勇気。人差し指は指し示すひと。中指は中心。薬指は約束。小指は秘密。
——秘密:怖い。
——約束:戻る。
戸口の向こうで、村の歌が細く続いている。
ミーナの声は泣き笑いの色で震え、子どもたちの合いの手がときどき早すぎる。
祈りと歌が、壁を透かして寝台の上に降りてくる。
それを、吸う。吐く。吸う。——三で吸い、六で吐く。
「水、少し」
メルダの匙が唇に触れ、喉へ落ちる。
彼女は脈を測り、呼吸の拍を数え、短くまとめる。
「共鳴過多。——全身に炎症反応。睡眠を優先。触れるのは禁止。遠見のみ」
「遠見、任せて」
レオンの声は低く、頼りになる。
彼は読めない本を読むみたいに、私の呼吸を数える。黙って、数える。
眠りと覚めのあいだで、私は何度も落ち、何度も浮かんだ。
夢の底で、誰かが私の記録帳をめくっている。ページが風鈴みたいに鳴る。
“恐れはある、迷いはない”——あの行だけが、何度も現れて、滲んで、また現れた。
◇
夜は長かった。
歌は弱火のスープみたいに途切れず続き、祈りは水位を一定に保った。
ミーナは眠らない。目の下に青い影を作り、私の額に濡れ布を乗せては替え、火を弱火にしては強め、手を握っては離した。
「起きなくていい。……でも、戻ってきて」
彼女の声は子どもの頃と変わらない高さで、でも中身は大人になっていた。
私は返事ができない。代わりに、指で布団の端をつまむ。
“ここにいる”を、布切れの重さで伝える。
何度目かの深夜、ドアが小さく開き、ユリウスが枕元まで来た。
まだ細い体。けれど、目は起きている。
彼は長く頭を下げ、声を絞った。
「ありがとう。——怖かったって、言えた」
言えたね。
私は心の中で返事をして、声を作ろうとして、やめる。
今は、受け取るだけの時間。
ユリウスは私の手の上に自分の手を重ね、押さず、置いた。
薄い布。布の重さ。
彼は続ける。
「贖わないでくれて、ありがとう。……約束、守る。ここにいる」
足音は静かに去り、歌がまた戻ってくる。
村の肺は、まだ大きく動いている。
私の肺も、遅れて真似をする。
熱は、天蓋の布みたいに重い。
けれど、布の向こうに朝の灰色が見え始めた。
◇
鳥の声。
雪の匂いに、焦がした砂糖の甘さが混じる。ミーナが台所で温かいものを用意しているのだろう。
目を開ける。
世界は相変わらずだった。木目、壁の割れ、窓の白。
レオンが椅子に座って、半分眠った顔でこちらを見ていた。
彼は私の目の焦点が合ったのを確認し、安堵を一つ吐き出した。
「おはよう」
「……おはよう」
声は出た。掠れているけれど、出た。
自分のものなのに、自分の外から借りたみたいな声だった。
「熱は下がった。三分の二くらい」
メルダが額に触れ、私の名を呼ぶ。「戻ったね」
「戻った。……ありがとう」
「礼は要らない。——後で、記録を」
「うん」
私は上半身を少しだけ起こし、胸の上の記録帳を開いた。
ペン先が紙に触れる。
そこで、初めて気づく。
胸の中の何かの“輪郭”が、薄い。
嬉しい、がいる。悲しい、もいる。
でも「怒り」が、遠い。
輪郭線が白い霧に浸ったみたいに曖昧で、形がすぐに崩れる。
掴もうとすると、指から砂のようにこぼれる。
私は、正直に書いた。
〈きょうの心の温度:朝。雪。鳥。戻る。
嬉しい、いる。安堵、いる。悔しい、少し。
——怒り、薄い。輪郭が遠い。
でも、恐れはまだ、ここにいる。迷いは、ない〉
書きながら、胸の奥に小さな穴が開いたことを受け入れた。
穴は“欠損”じゃない。風が通る場所。
そこを冷やさないように、言葉で布をかける。
レオンが覗き込み、「いい文字だ」と笑った。
ミーナがスープを持って入り、泣き笑いで、「戻ってきた」と呟く。
私は頷き、匙を口へ運んだ。味はちゃんとあった。
驚いた。——味に驚けることに、驚いた。
「休む。今日と明日」
メルダの指示は容赦がない。「遠見のみ。接触は禁止」
「はい」
珍しく素直に従うと、彼女は満足げに頷いた。「いい患者」
「褒められた」
「褒めてる」
笑いが部屋の空気をやわらかくする。
窓の外で、子どもが雪を蹴る音。犬が吠えて、誰かが謝る。
生活が戻る音。
私は布団に頬を沈め、眼を閉じた。
眠りは深くない。深くないのに、温かい。
——その時、鈴の音が、硬くなる。
扉が開き、冷たい風と共に、短い影が滑り込んだ。
神殿の紋の小旗。泥に汚れた裾。息を切らした若い神官。
「急報!」
部屋の空気が一拍縮む。
レオンが立ち、メルダが紙を閉じ、ミーナが匙を置く。
神官は息を整えず、そのまま言葉を吐いた。
「——王都で異変。
神殿長イグナートより、即刻帰還を、との命!」
雪の光が、刃に変わった。
私の胸の穴に、風がひゅう、と通る。
恐れはいる。迷いは、ない。
私は布団から身を起こし、記録帳を閉じた。
「行く」
掠れた声で、でもはっきりと言った。
レオンが頷き、剣帯を締め直す。
メルダは白衣の袖を折り、薬箱を閉める。
ミーナが泣きそうな顔で笑い、「戻ってくるんだよ」と言う。
「約束」
私は右手を上げ、指を一本ずつ折る。
勇気。指し示す。中心。約束。秘密。
秘密は、胸の穴の上に置く薄い布。
風は吹いている。
灯は、消さない。
王都が、私たちを呼んでいた。
出立の支度は、驚くほど静かに進んだ。
外の雪は細く降り、村全体がその音を吸っている。
焚き火の煙が屋根の間をゆらゆらと漂い、まるで誰かの夢が形を残して空へ溶けていくようだった。
私は厚手の外套を羽織り、指先に布を巻いた。
感覚は、まだ少し鈍い。けれど、それも今は“在る”ことの証拠。
メルダが薬草の袋を差し出しながら、短く言う。
「無理はするな。……しても、私が治すけど」
彼女の声はいつも通り冷静なのに、その眼差しだけがやわらかかった。
私は笑って受け取る。
「医者にそう言われたら、もう逆らえないね」
「君は昔から逆らってばかりだ」
「それは“信じてる”の裏返し」
言い返すと、メルダは一瞬だけ目を伏せて笑い、荷馬車の方へ向かった。
レオンは鎧の留め金を確かめ、馬具の音を鳴らした。
その金属音は、村の静寂にひとつの“終わり”を告げる合図だった。
「……王都、怖い?」
ミーナが尋ねた。
その手は、まだ私の腕を掴んだまま。
彼女の瞳の奥には、あの夜の炎と雪、そして歌の余韻が全部、同じ色で沈んでいた。
「うん、怖いよ」
「でも、行くんだね」
「行く。——“恐れはある、迷いはない”」
私が言うと、ミーナの手が少し強くなる。
その力が、愛情だと分かるのに、どこか遠く感じる。
指の間を風が通るみたいに、体の内側の温度が微妙に空いていた。
それでも、私はその空白を受け入れる。
「あなたが残してくれた“歌”は、もうここにある」
ミーナが言った。
「だから大丈夫。村はもう、誰かひとりの祈りで動かない」
「うん。——それで、いい」
私は頷き、彼女を抱きしめた。
抱きしめる感触が、ほんの少し薄い。
皮膚の奥の線が曖昧になっていて、それでも確かに、彼女の涙の熱だけは伝わった。
「戻ったら、また歌おう」
「また“赤い林檎”の歌?」
「今度は、新しい歌。次の季節の歌」
「……約束だよ」
ミーナは笑いながら、私の掌に小さな紙片を押し込んだ。
開くと、彼女の字でこう書かれていた。
〈あなたが帰る灯は、ここにある〉
胸の奥の穴に、それをそっと置く。
穴はまだ冷たい。けれど、少しだけ温度を思い出した。
レオンが手綱を引き、馬が雪を蹴る。
その音が、まるで時を再び動かす合図のように響いた。
メルダが先に馬車へ乗り込み、私はその後ろに続く。
村の人々が道の両脇に並び、手を合わせて見送る。
ユリウスもそこにいた。
彼は雪の上に立ち、まっすぐに私を見つめて言った。
「——俺は、もう怖くない。
あなたが教えてくれた“灯”を、村に残す」
その言葉を聞いて、私は小さく頷いた。
「ありがとう」と言おうとして、声が喉の奥で震える。
代わりに、唇の形で伝えた。
馬車が動く。
村の屋根が遠ざかる。
雪はやわらかく降り続き、やがて足跡を隠していく。
白の向こうに、王都の影が見える気がした。
高い塔、鐘の音、あの神殿の冷たい石床。
イグナート——彼の命が届く場所。
“異変”とは何か、まだ分からない。
けれど、あの人の声の中に、いつか感じた“恐れ”の匂いが混じっている気がした。
「——リセル」
レオンが隣で低く呼ぶ。
その声は風より温かく、雪より静かだった。
「何?」
「もしまた君が、自分の中の何かを削るようなことがあったら……
今度は俺が、それを埋める。約束だ」
私は彼を見た。
雪の反射光の中で、彼の灰色の瞳は銀に近く、真剣で、どこか痛そうだった。
「……埋める、じゃなくて、“一緒に座る”だよ」
「え?」
「穴は埋めなくていい。風が通る場所だから。
そこに座って、風の音を一緒に聞けばいい」
レオンは笑った。
その笑いは、ほんの少しだけ苦くて、でも優しかった。
「そうか。じゃあ、俺は隣の椅子に座る」
「うん、それで充分」
馬車の中、私は記録帳を膝に置き、ペンを握った。
まだ指先の感覚は鈍いけれど、線は引ける。
新しいページに、今日の温度を記す。
〈きょうの心の温度:
恐れ、いる。
迷い、ない。
空白、ある。
でも、隣に座るひとがいる。〉
その瞬間、外の雪が止んだ。
雲の切れ間から、朝の光が差し込む。
光は冷たいのに、心の奥の穴の上に、確かに“灯”が宿った。
——そして、
王都の鐘が遠くで鳴った。
まるで次の章を告げるように。
「さあ、行こう」
私は記録帳を閉じ、レオンに向かって笑った。
「帰る場所は、ひとつ増えたから」
馬車は雪を蹴り、白い風の中を進んだ。
その背後で、村の子どもたちの歌がまだ響いていた。
“赤い林檎と青い空、木箱は四つ、君の手は二つ——”
声は遠ざかり、世界は再び動き出す。
旅の先で、何が待っていようとも。
恐れはある。
迷いは、ない。
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