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第16話「王都の冬、静かな部屋」
しおりを挟む王都の門は、冬の光を細く返していた。
雪は路面で砂糖みたいに砕け、車輪が通るたび甘くも苦くもない音を立てる。塔の上の黒旗は、白い月を抱いたまま。——ただ、噂だけが風より速かった。
「“神の御手”が弱ったらしい」
「病だって。共鳴の使い過ぎ?」
「本物は一人じゃなかった。……いや、代わりが出たって聞いた」
通りの角、パン屋の窓、宮廷の廊下の隅。囁きはどこにも溜まっていた。私は耳を塞がない。塞いでも、風は隙間を見つけて入ってくるから。聞いたまま、胸の穴の上に薄い布を敷く。——恐れはいる、迷いはない。そうやって歩幅を整える。
神殿の回廊は、いままでより静かだ。白い石は声を吸い、蝋の涙は規則正しく、過不足なく落ちる。その静けさの真ん中で、イグナートが短く言った。
「儀礼の場からは、しばらく遠ざかれ」
彼の眼差しは石の色で、私の熱の跡を測っている。
受け取った意味は二つ。——保護。排除。どちらも等しく、秩序の言い方。
「わかった」
「代替の者を前に出す。“偽聖女”という言い方はしない。——“象徴の補助”だ」
象徴、という皿に載せられた誰か。彼女は細く白く、作り物めいた整いで視線を受け止める訓練をされていた。祈りは正しい角度で膝を折る所作へ置き換えられ、人を“落ち着かせる言葉”は選び抜かれた台本へ調律される。
私の胸の穴が、ひやりと鳴った。けれど空洞は崩れない。——空洞は、風の通り道。倒れる理由ではない。
メルダが横から割って入る。「沈黙週間。決定」
「沈黙?」
「一週間、声を“使わない”。遠見は最小限。読み書きは可。人と会うのは三十分枠、日に一つだけ。——体内の“揺れ”を海底に沈める。言葉は波になるから」
「了解」
私が即答すると、イグナートは片眉をわずかに上げ、それ以上なにも言わなかった。彼は誰よりも秩序に忠実で、忠実さは時に私を救い、時に私を締め付ける。今日は、救う側の角度だった。
静かな部屋が与えられた。神殿の北側、塔の影が午後ずっと伸びる小さな一室。窓は高く、床は木、机は古い。硬い寝台と、空の棚。余白の多い、沈黙に向いた部屋だ。
「ここが今日からの“港”。荒天は出ない」
メルダは白衣の袖を折り、ルールを淡々と読み上げる。
「朝、体温と脈。午前、散歩二十分まで。昼、蜂蜜湯。午後、記録帳。夕、静かな音楽か読書。——声は、基本、出さない。必要な会話は紙で」
「従います」
「善い患者」
彼女が去ると、ドアが柔らかい音で閉まった。
部屋に冬の向こう側が広がる。静けさの裏側で、王都はざわめきの形を取り続けているのだろう。私は椅子を引き、机に手帳を開いた。紙は見慣れて、インクの匂いは落ち着く。
〈きょうの心の温度:王都の噂は風速五。胸の穴は冷えたが、布で覆う。パン屋の窓に湯気。自分の声を置く。沈黙、はじまる〉
筆圧が少し弱い。指先の縁はまだ薄い。
けれど、書ける。書けている。
ため息を一つ、紙の上ではなく、窓の方角へ放つと、扉が二回控えめにノックされた。
「入るぞ。文字で話す」
レオン。
彼はいつもより大きい紙袋を抱えていた。香草の束、紙包みのパン、磨いたリンゴ。手早く棚に置き、椅子を引く。
机の上に、もう一つの小さなノートを置いた。表紙に拙い字で“朝日誌”。
「メルダのルールに、俺のを足した。——“毎朝、俺が小さな出来事を書く。昼、君が返事を書く”。交換日誌だ」
胸の穴の上の布が、ふわりと温まる。
私は首を縦に振り、ペンを握って短く書いた。
〈ありがとう。読む〉
レオンは微かに照れて笑い、朝日誌の一ページ目を開く。
“今朝、塔の階段で猫が滑った。自尊心に傷を負った顔。見ていないふりをした”
“パン屋で、焼きたてを二つ買う。片方は俺、片方は君。——俺のほうが小さくなった気がするのはなぜだ”
“広場で子どもが詩を叫んでいた。『雪は砂糖、氷は飴』——真剣で笑った”
私は肩が緩むのを感じながら、返事を書く。
〈猫へ:尊厳は布で覆うとよい。パンへ:公平とは目分量。詩へ:砂糖は溶ける、飴は舐める〉
「いい返しだ」
彼は笑って頷き、椅子の背に外套をかける。
沈黙週間。声を出さない会話は、紙の上で水のように流れた。
レオンは紙に「今日は護衛の申請書が三枚減った」「偽聖女は緊張で膝が笑っていた。誰かが支えるべきだ」と書き、私は「膝は笑っていい。笑わない膝は転ぶ」と返した。
言葉は声の形から離れると、傷つける刃になりにくい。紙は冷たくて、優しい。書いて、渡して、待つ。待つ時間が、私の中の騒音を減らす。
昼前、メルダが体温計を持って現れ、私とレオンを見比べて「良い顔」と短く言った。
午後は、静かな音を流す。弦の低音。暖炉のない部屋に、炎の擬似音が灯る。窓の外には雪。机の下には、誰かが置いていった小さな鈴。
夕方、廊下の先がざわつく。
“偽聖女”が回廊を歩く音。鋲の多い靴。拍手。敬礼。
レオンは窓枠に寄り、「物語は、簡単には死なない」と紙に書いた。
〈物語は死なない。だから、育てる〉
私がそう返すと、彼は目尻を少しだけ緩めた。
翌朝。
沈黙週間の二日目。レオンの朝日誌は、さらに短くなり、さらに細かくなった。
“薄い霜。手すりが冷たい。握るな、触れるだけ”
“厨房で塩を落とす音。怒鳴らない料理長。偉い”
“兵舎で笑い声。昨夜、悪夢が減った、と誰か。ありがとう、と書いてあり、誰宛かわからないまま貼られていた”
私は返す。
〈触覚の助言、いい。塩の音、好き。『ありがとう』の宛名は“輪”。貼っておく〉
交換日誌は朝の儀式になり、体温のように日々を測った。
私は喪失と並んで座る技術を、小さく増やしていった。
怒りの輪郭は薄いままだが、全くないわけじゃない。紙に書くと、墨が輪郭を引いてくれる。
“怒り(小)——他者の演目としての私に対し
て”。
“安堵(中)——今日もパンはうまい”。
“喜び(小)——猫、尊厳を取り戻す”。
“恐れ(中)——旗の風向き”。
“迷い(なし)”。
イグナートは私を儀礼から遠ざけつつ、日々の報告は怠らせなかった。
彼は敵でも味方でもなく、いつも秤だった。
——その秤の後ろに立つ影が、日増しに濃くなる。貴族派の裾。金糸の糸口。
私は目を逸らさない。目を逸らすと、影は勝手に巨大化するから。
三日目の夕、メルダが椅子を逆向きにして座り、「沈黙、よくやってる」と紙に書いた。次に、こちらへ紙を滑らせる。
〈提案:交換日誌を続ける。君とレオンで“二人の温度計”にする。——喪失と共に生きるには、他者の体温を借りること。図ること。〉
私は“はい”を書いた。
レオンは“借り合う”と書いて、線を引いた。
四日目の朝。
塔の影が部屋の半分を塗る頃、控えめなノック。
侍従服の青年が一歩入って、扉を背に立った。目はまっすぐ、声は紙で。
「——殿下より」
封蝋の付いた封筒。王家の紋。
彼は机の上にそっと置き、音を立てずに下がった。
レオンが目で“開けていい”と合図する。
私は封を切る。蝋の割れる冷たい音。
中から薄い紙が三枚。地図。通りの名前。家屋の印。
手書きの短い文が添えられていた。
〈内密に。診療所に適した物件候補。
①屋根裏の菓子店の向かい(旧玩具店)
②鍛冶通りのはずれ(換気良)
③神殿北壁沿いの小家(静)
“人の声がよく響く場所”を選ぶとよい。——アウル〉
紙の上の文字は、思ったよりやわらかかった。
内密に。
私はレオンを見る。
彼は息をひとつ長く吐き、笑いをこらえた顔で紙に書く。
「王子、やるじゃないか」
胸の穴の上の布が、ふわりと持ち上がる。
沈黙週間の四日目。
静かな部屋の机の上に、未来が三つ、地図で置かれていた。
私はペンを取り、いつもの記録帳の隣に、王子の紙を並べた。
雪はやまない。
けれど、道は——引ける。
窓辺の光は、午後になると青を帯びていた。
雪が降り止む気配はないのに、街の音は少しずつ戻ってきていた。馬車の蹄、鐘の音、誰かが笑う声。
人の暮らしは、噂よりもずっとしぶとい。
レオンは私の隣で、王子アウルからの地図を指先でなぞっていた。
「……三つ、全部、君の足で見に行くべきだ」と紙に書いて渡す。
私は頷き、ペンで答えた。
〈見に行く。歩けるくらいには、もう戻ってる〉
彼は軽く眉を上げ、机の端に肘をついた。
その動きが、少しだけ懐かしかった。あの森の夜、初めて焚き火を囲んだときと同じ癖。
〈でも、無理はするな〉と彼は続けて書く。〈王都は、風の中に刃を隠す〉
私はその文字を見て、短く笑った。
——たぶん、その刃を知っているのは、彼の方だ。
でも、私も今は少しだけ、刃の重さを感じ取れる。恐れはある。でも、迷いはない。
「見に行くのは、明日」
喉を使わない代わりに、私は口の動きだけで言葉を形にした。声は出さない。レオンには通じた。
彼は一度頷き、目を細めた。
沈黙週間の五日目。
メルダの許可が下りた。散歩は三十分以内、同行者一名。
厚い外套を着て、私は王都の石畳に立った。空気は針のように冷たく、肺の奥まで刺さる。けれど、痛みではなく“生きている証拠”のように思えた。
レオンが無言で、最初の候補地へ導く。
旧玩具店——屋根裏の菓子屋の向かい。
扉の前には、雪を掃くための箒が立てかけられ、木の看板にはかすかに「夢工房」と読める文字。
窓からのぞくと、埃っぽい木箱の間に、陽が一筋差し込んでいた。
〈ここ、声が響く〉
私は紙にそう書いた。
レオンは頷き、足音を響かせるように一歩進んでみせた。音が柔らかく返る。
「……悪くない」彼の口が動く。
二つ目の候補は、鍛冶通りの外れ。金属の匂いと熱気。
私は少し眉をしかめ、首を横に振る。火のそばに“心癒”は向かない。火は“戦う”の側のものだ。
三つ目——神殿北壁沿いの小家。
苔むした壁、狭い庭。冬の風が枝を揺らし、音がしない。静かすぎる。
けれど、奥の窓辺に古い椅子が一脚置かれていた。
人の手が作ったもの。座るためだけの形。
私はその椅子を見て、なぜか涙が出そうになった。
ここなら、“誰かを抱える”ことができる。
——“救う”ではなく、“抱える”。
レオンは私の顔を見て、小さく笑う。
「決まり、だな」
彼の声はほとんど息だった。私は口の形だけで返す——「うん」。
◇
その夜。
沈黙週間の最後の晩。
部屋の中に、薄いランプの灯。
レオンはいつものように朝日誌を広げ、今日の記録を紙に落としていた。
“君は笑った。
声はなかったけれど、雪の上で笑った。
神でもなく、癒し手でもなく、ただの君だった。
——それがいちばん、俺には嬉しかった。”
私は、返事をどう書けばいいか、少し迷った。
迷いのないときに迷うのは、悪くない。
ペン先が、紙をかすめる。
〈ありがとう。
私は、“神じゃない”ままで、ここにいる。
それを君が見てくれていることが、
いまの私を支えている。〉
レオンはその文字を読み、黙って頷いた。
静かな時間が、波のように二人の間を満たしていく。
外では雪が降り、遠くの塔の鐘がひとつ鳴った。
——沈黙の七日間が、終わろうとしていた。
メルダが言ったとおり、私は“波”ではなく“底”にいる。
底は暗くない。水の中で音が丸くなり、痛みが溶けていく。
人の声も、心の影も、ゆっくりとひとつに混ざって、やがて灯になる。
机の上の王子アウルの地図に、指を伸ばした。
そこに描かれた小家を、指で囲む。
レオンが隣で、その動きを見ていた。
「名前をつけるか」
彼が言った。声は小さいけれど、はっきりと届く。
私は考え、少しだけ笑って答えた。
「“風の診療所”——どう?」
レオンの瞳に、焚き火の色が浮かぶ。
「いい。風は通す。でも、凍らせない」
彼の言葉が、部屋の空気を温めた。
静かな部屋に、雪の音が混ざり、冬が一層深くなっていった。
そして私は、もう一度、記録帳を開いた。
〈きょうの心の温度:
風の中、灯を見た。
喪失は消えないけれど、
風が通る。
だから、生きていける。〉
ペンを置いたとき、夜がひとつ、静かに明けた。
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