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第20話 紅玉の代行
しおりを挟む数年は、火の跡に生える草の背丈で測ることができる。
あの日の灰は土に混ざり、土は畑に戻り、畑の端に市場が立ち、市場の上に旗が揺れ、旗の下に人の声が重なる。
かつて王都と呼ばれた空白に、今は“紅玉の都(みやこ)”がひらいている。白でも黒でもない、赤の薄い層――朝焼け色の土壁と、灰を練って焼いた煉瓦が積み重なり、屋根の稜線に等間隔の灯り皿が並ぶ。夜は星の数だけ灯が生まれ、日中は合図旗が風に言葉を渡す。
祈りの鐘は鳴らない。代わりに、笛と板木と、笑い声が鳴る。
風は、以前よりうまく街路を抜ける。火のためではない。台所と炉のためだ。
門前の掲示板には、毎朝、三枚の紙が貼られる。
一枚目は『労の印』の割り当て。井戸・壁・道・台所・学び。
二枚目は『報せ』――昨日の失敗と成功。釘百八十、喧嘩二、解決二、泣いた子七、笑った子二十。
三枚目は『学びの灯』の課題。字と数、そして火の扱い。
紙の端には必ず小さな赤い印が押してある。丸い石粉の跡。――印は飾りではない。習慣だ。習慣は、国の背骨になる。
都の中央、かつて礼拝堂が崩れた場所に、今は広場がある。
広場の真ん中には水盤。あの壊れた噴水の欠片に、灰と赤土を混ぜて新しく拵え直した。水盤は天(そら)を映し、昼は雲を、夜は灯をひっくり返す鏡だ。鏡の縁に腰をかけるのは、昔と変わらない。違うのは――そこに座る人間の顔の筋肉が、“舞台の角度”ではなく“生活の角度”で動くこと。
朝靄を切って、彼女が歩く。
ルビー・カルネリアン。
胸の紅玉は日々の拍を刻む機械のように安定し、瞳にはもう怒りの煤が残っていない。火は彼女の中で“灯り”に落ち着き、灯りは彼女の歩幅を一定に保つ。
市場の女たちが声を掛ける。「おはよう、ルビー」「印は足りてるよ」
彼女は頷き、扇の骨で紙を押さえながら子どもたちに目を落とす。「宿題、見せて」「“誇り”の字、角が立ち過ぎ。刃じゃない、鞘よ」
子どもが口を尖らせる。「刃も大事だもん」
「持ってるでしょう?」
「うん」
「じゃあ今日は鞘」
彼女が一日の段取りを配り終えるころ、北壁の影から黒い外套が現れる。
オブシディアン。
傷は何本か増えたが、歩幅は以前より柔らかい。腰の剣は刃も鞘もよく磨かれ、刃は滅多に抜かれない。彼の仕事は、今や“退屈の番人”だ。退屈が街を守る。
彼は水盤の縁に腰を下ろすルビーの横に立ち、空を一度見上げ、言葉を少し遅れて落とす。「風は南。旗は二本で足りる」
「ありがとう。子どもたち、今日は台所と合図の見習い」
「合図旗の柱、一本新しくした。拍が合わないときのために、太鼓も置いた」
「拍は、大きい声より確か」
紅玉の都にいる“主要な人間たち”――その後(のち)を、順に書き留めておく。
――サファイア。
青はもう、象徴ではない。彼女の名は、灯りの係、あるいは“夜の教師”。
彼女は毎夜、広場の灯をひとつずつ点しながら子守歌を集め、古い賛歌を“数え歌”に移し替えた。祈りの代わりに文(ふみ)を読む。涙の代わりに湯を沸かす。
かつての“泣きの部屋”の空の箱は、彼女自身の手で書物箱に変わった。中には、子どもたちの作文、道路の図面、火傷の記録、そして新しい“火の手引き”。
彼女は自分の過去を選んで言葉にし、謝罪の代わりに手を動かす。ときどき、昔の響きで「赦して」を言いそうになるけれど、そのたびに手の中の灯を見て言い直す。「ありがとう」「間に合った」「次は私がやるね」
――ヘマタイト。
灰色の鼠たちの頭(かしら)は、今や“書記(しょき)長”だ。
彼は壁の裏から表へ出て、紙と数字と噂を管理する。嘘と真実の混ざった帳簿が彼の得意料理だ。
毎夜の『報せ』は彼の声で始まる。「井戸三、壁一、道二。印の偽造は今日もゼロ。嘘を売った行商は鍋を三つ洗った。泣いた子九。笑った子二十六。――明日は南門の掃除、匂いに気を付けろ」
笑いと野次が混ざり、彼の帽子の庇がわずかに揺れる。彼は相変わらず、目だけは滅多に笑わない。けれど、街はその目を信頼する。
――ロードライト。
赤い瞳の少年は、背丈が伸び、足がさらに速くなった。
彼の仕事は“合図と順番”。笛と旗と紙を抱え、朝から晩まで走り回る。喧嘩の芽を“順番”で摘み、列の背骨を作り、黒旗の合図を上げる前に二度白旗を振って“間に合う”を演出する。
夜は『学びの灯』で子どもたちに数と笛を教える。「押すな。順番。――合図はやさしさだ」
彼の口癖は、街の口癖になった。
――王太子アメジスト。
彼は最初の冬、北の村で見つかった。倒れた木の陰で、肩書きを失った青年として。
紅玉の都は彼を裁かなかった。“労の印”の列に並ばせ、壁の泥を練らせ、子どもたちに読み方を教えさせた。
ある日、彼は広場の灯の前で言った。「私に残るのは、二つです。謝罪と労(ろう)。順番は後ろでいい」
それが最初で最後の演説だった。
彼はいま、炉の番をする。火の段取りを覚え、銅の匂いを覚え、歌の鍵ではなく、風の鍵を憶えた。
ヘマタイトは彼を監視しない。監視の代わりに“報せ”に数字を置く。「アメジスト、釘五十。今日も多い」
――民(たみ)。
祈りを手放した手は、箒と鍋と鍬を持ち、文字を掴み、旗を振り、笑いを学び直した。
「奇跡より間に合う」と誰かが言う。
「赦しより順番」と誰かが続ける。
「贈り物より労の印」と誰かが笑う。
街は神を嫌いはしない。ただ、神の居場所を天の遠いところに戻し、地上には台所と合図旗と報せを置いた。
――黒曜の森。
森は相変わらず暗く、外縁は刃の背のように固い。だが、“禁じられた場所”ではない。季節ごとに道を切り、木を倒しすぎず、火を怖がりすぎず、“黙る火”で祝う。
森の中の古い広間に、今は小さな碑が立っている。『黙れ/燃えろ/還れ/選べ』――四つの言葉が、苔と風に舐められ、通り過ぎる旅人の胸に落ちる。
それは祈りではない。手順だ。だから、誰でも持ち帰っていい。
――そして、ルビー。
彼女は毎朝、水盤の前で最初の“おはよう”を言う。
昼は炉へ行き、火の調子を見て、子どもの宿題に赤い石粉で印を付ける。
夕方は『報せ』の数の偏りを読み、夜になれば『学びの灯』の輪の中で手の汚れた大人たちに字を教える。
怒りを燃料にしていない。
怒りはあの日、役目を終えた。
今の彼女を燃やしているのは、手順と、隣の体温と、街の拍。
彼女の瞳は澄んでいる。澄んだ目は、よく笑い、よく見逃す。見逃すべきものを、きちんと見逃す。
都を一望する丘に、新しい塔がある。鐘楼ではない。合図の塔。
ある晩、二人はそこに立った。
風は涼しく、星は近く、火は遠く、街は静かに呼吸している。
ルビーは西の地平に視線を送る。荒廃した大地はまだ多い。灰はまだ眠っている。眠っている灰の上に、人の足跡を増やすのがこれからの仕事だ。
彼女はゆっくりと目を閉じ、言葉を選ぶ。
「私は、紅玉の代行。壊された宝石は、輝きを増すの」
“代行(アクト)”――誰かの代わりに“行う”もの。
祖母の書、失われた魔女たち、燃えて消えた名もない怒り。
それらの代わりに、彼女が立っている。
火を“灯り”に訳し、呪いを“手順”に変え、復讐を“磨き”へ渡す。
彼女は代行であり、同時に当事者だ。
彼女の胸の紅玉は、“私”と“私たち”のあいだで拍を刻む。
隣で、オブシディアンが呟く。
「お前は、復讐じゃなく――希望を残したんだな」
彼の声は、夜の底に沈む前に、彼女の耳の内側で止まる。
ルビーは笑って、掌を差し出す。
彼はためらわず握る。
黒曜の輪と紅玉の鼓動が、短く同じ拍で鳴る。
遠くで合図旗が一度だけ白を振り、風が塔の縁を撫でる。
空へ、薄い紅い光が昇っていく。
火柱ではない。祈りでもない。
炉の口から漏れる台所の焔、灯り皿の芯、子どもの手のひらの温度、鍋の底の湯気、磨かれた刃の縁――それらが合わさって、街全体がひそやかに赤くなる。
あの夜の黒炎とは違う、生活の赤。
紅い光は空に昇り、星と混じって、また地上に薄く降りてくる。
ルビーは塔の床に指で四つの言葉をなぞる。
《黙れ》《燃えろ》《還れ》《選べ》
それはもう彼女の骨に刻まれている。街の習慣にも、刻まれつつある。
彼女は頷き、オブシディアンと並んで降りていく。
階段は長いが、拍は安定している。足元の影は浅く、夜は、人と灯の匂いでやわらかい。
広場に戻れば、明日の『報せ』がまた始まるのだろう。
失敗も、成功も、今日は今日で書き残す。
子どもは字を覚え、老人は火の持ち方を覚え、若者は旗の風を読む。
それら全部が“磨き”だ。
国を、宝石のように磨く。
派手に光らせるのではなく、深く温めるために。
物語は、ここで静かに幕を下ろす。
けれど、その幕は厚手の布ではない。
風が通り、灯が透ける、薄い赤の幕だ。
幕の向こうで、誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが「おはよう」と言う。
それで十分だ。
紅玉の代行は、今日も拍を刻む。
明日も、刻む。
そして、いつか誰かが、この拍を自分の胸で引き継ぐだろう。
その未来のために、今夜の灯をひとつ、静かに点しておく。
紅い光が空に昇り、街に降り、骨に沈み――
私たちの物語は、静かに終わる。
次の“おはよう”のために。
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