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第19話 宝石の夜明け
しおりを挟む夜が抜ける瞬間を、私は初めて“音”として聴いた。
遠くの屋根で麻布がほどけるささやき、井戸の滑車が軋みの前にひと呼吸置く気配、灰に混じった朝露が石に触れて小さく弾ける音。どれも微細で、けれど確かに合奏している。
灰の王国は、今朝から名前を変える。
胸の紅玉に指を置き、私は静かに息を入れ替えた。
仮宿の布がふわりと揺れて、オブシディアンが起き上がる気配がする。肩の包帯は夜の間に色を薄め、体の重さはまだ私の掌に伝わってくるけれど、目の黒さは相変わらず迷いがない。
「痛みは?」
「ご機嫌取りをすれば黙る程度だ」
「いい子にしてもらって」
「言い方」
やり取りの端に笑いが落ち、朝の冷気が小屋の隙間から入り込む。私は外套を彼の肩へかけ、扇で室内の空気を少しだけ回した。
「新しい朝だ」
「ええ」
「何から始める」
私は噴水跡の高みへ上がった。昨日まで“舞台”だった場所。今から“役所”にする場所。
周囲では、ロードライトが子ども達を連れて縄を張り、ヘマタイトが紙束を小脇に抱え、サファイアが灯り皿を片付けている。火は昨夜の緊張を忘れ、朝食の匂いへ変わり始めている。焦げた麦粥、薄い塩、湯気。
私は人々の顔を見回し、最初の言葉を選んだ。
「――おはよう」
祈りの代わりに挨拶を。
幾つかの顔が驚き、次の瞬間、返事が返ってくる。
「おはよう」「……おはよう」「おはようございます」
声はばらばらだが、ばらばらなのが良い。ひとつの音に揃えるのは、舞台の都合だ。これから必要なのは、仕事の都合。
「今日から、この街は“紅玉の国”になる」
ざわめきが一度だけ跳ね、すぐ静かになった。
私は続ける。
「貴族も王族もいらない。努力した者が報われる国。嘘で光らせた金ではなく、磨かれた石が光る国。――“火”で焼き直し、“手”で磨く」
言葉は飾りじゃない。指示だ。
私は扇を畳み、四つの板を示す。ヘマタイトが夜のうちに拾って来た、店の看板の裏だ。煤けた裏面に、私の字で大きく四つの項目が並ぶ。
一、『労の印(しるし)』――税の代わりに一日二刻の共同労働。井戸・壁・道・台所・看守。働いた分、印を渡す。印は食と道具に交換できる。
二、『合図の制度』――祈りの鐘はやめる。代わりに合図旗を使う。赤は火、青は水、白は集合、黒は危険。合図は誰でも上げられる。
三、『順番』――配給も診療も工事も、紙に記録して順番通りに。贔屓なし。列を崩す者は一回休み。
四、『学びの灯』――夜、広場に灯りを。読み書きと数と火の扱い。子どもは優先、大人も歓迎。
沈黙の中で、風が紙を一度めくりかけ、ヘマタイトが指で押さえた。
私は人々に顔を向け、簡単に噛み砕く。
「“税”は上に吸われた。だから捨てる。“労の印”は横に回る。仕事は日毎に替える。力のない人は“灯”や“紙”や“子ども”を持つ仕事に入る。――祈りの鐘は怖い記憶を呼ぶ。だから、旗で合図。旗は誰でも振れる。“奇跡”の代わりに、“間に合う”を増やす。順番を紙に書けば、怒鳴る必要はない。学びは“火の台所”に必要。火傷を減らし、算盤で喧嘩を減らす」
最初に細い手が上がる。サファイアだ。青は煤に汚れても、眼差しは澄んでいる。
「私……灯りの係を続けていい?」
「もちろん。灯りは“国の呼吸”よ。毎夜、広場で灯を点(とも)して。賛歌は要らない。子守歌と数え歌で十分」
彼女は頷き、唇の端に“舞台じゃない笑み”が揺れた。
次に、粗末な上着の大工が手を挙げる。「道具は。釘も槌も足りねぇ」
「“労の印”で工房を回す。溶けた金具はヘマタイトの鼠が集めてくる。炉は三つ。火番は交代。炉の火は“灯り”で起こす。燃えすぎない火を、覚えてもらう」
大工は顎を引き、横の少年の頭をがしがし撫でた。「聞いただろ。燃やすな、灯せ、だ」
「はい!」
老婆が前に出る。昨日のパンの人だ。「順番の紙、読めない人はどうするい」
「“読み手”を置く。紙には色も塗る。赤い列、青い列。――それと、『学びの灯』に来て。字は刃物。持って損はない」
ざわめきに、少しずつ“やること”の温度が混ざっていく。
私は深く息を吸い、最後の宣言を置いた。
「この世界を、磨き直すわ。今度は光のために。――偽りじゃない、手の近くにある光」
掌に、別の掌が重なった。
オブシディアンだ。まだ体は重いはずなのに、立っている。「俺もやる」
「あなたは休む」
「お前の隣で休む」
「意味が分からない」
「お前が前で燃えてるとき、すぐ横で影を伸ばすのが俺の仕事だ」
まっすぐで、困る。
でも、まっすぐだから、救われる。
私は彼の手を握り返し、人々の前にその“線”を見える形で置いた。力は、縦じゃなく、横に渡す。
午前、仕事は始まった。
広場の片隅に机を置き、ヘマタイトが紙を捌く。「名を。仕事。家族の人数。得意なこと。嫌いな音」
「嫌いな音?」と若い母親。
「大事だ。嫌いな音は喧嘩を呼ぶ。台所に鍋のぶつかる音が苦手なら、台所には入れない。代わりに子どもに読み書きを教えろ」
灰色の鼠は、こういうところで優しい。
ロードライトは竹で棒を組み、合図旗の柱を立てた。布はサファイアが夜のうちに縫ったものだ。赤、青、白、黒。
「風の具合は?」と私。
「南から。午後は東」
「じゃあ、柱は二本。風下にも小さい旗。影で見ても色が分かるように、縁に印」
「了解」
少年の返事は短く、気持ちいい。
私は炉へ向かった。古い鍛冶場の跡地に、瓦礫と灰で作った即席の炉を三つ。火番は交代制。火入れは私の役割。
指先に“灯り”をひとつ。
火は、朝のパンのように静かに膨らむ。
目を凝らした大工がぽつりと言う。「……綺麗だな」
「火は綺麗。だから、怖がらないで、丁寧に怖がって」
笑いがいくつか生まれ、緊張がほどける。
昼。
配給の列は二列、赤と青。ロードライトが列に沿って笛を二度鳴らすと、列は一歩ずつ前へ進む。
「押すな。『間に合う』は用意した」
少年の声は薄いのに、列の背骨を作る。
サファイアは鍋の前で湯気に顔を濡らしながら、ひと匙ごとに目を合わせて皿を渡す。「次は、夜の灯の時間にまたね」
「聖……」と言いかけてから、彼女は微笑んで訂正する。「サファイアでいいの」
人々も訂正する。「サファイア、またな」「おう、サファイア」
名前は、階段を下りる。
午後、私は“法”の骨を置いた。
――人を殴るな。殴った者は一日“休み”。その間、配給は“半分”。殴られた者の配給は“倍”。
――盗むな。盗んだ者は“労の印”で三日分の仕事を前倒し。返せないときは、広場で“読み手”。
――嘘を売るな。粉を奇跡と呼ぶな。呼んだ者は鍋を一つ洗ってから、配給の最後尾へ。
紙に書き、読み手が読み、子どもに色で教える。
“法”は神の口から降ってこない。台所の隅で決まる。
夕方。
最初の“市場”が立つ。何もない市場だ。焦げたパンの端、溶けた金具、乾いた布、拾った釘、磨いた石。
私は一角に小さな台を置き、“研ぎ”の道具を並べた。砥(と)石、布、油少し。
「持ってきて。刃物でも、言葉でも」
冗談半分、仕事半分。
「言葉も研げるのかい」と誰かが笑う。
「研げる。余計な角を落とす。鈍くもしない」
私は包丁の背に布を当て、音を聴き、角度を変える。
砥石の上を滑る金属の音は、驚くほど清潔だ。
「次」
差し出されたのは、子どもの作文。「きょう、ぼくはならんで、まって、わけた。なみだがでなかった」
私は赤い石の粉で紙の端をそっと撫で、「“誇り”って字を覚えよう」と言った。
少しの沈黙のあと、母親が泣いた。子どもは照れて笑った。
市場は、音の温度を上げる。生の温度だ。
日が沈む。
広場の真ん中に灯が並び、人々の輪ができる。
私は灯りの前に立ち、胸の紅玉を一度だけ強く叩いた。
「――報せ」
ヘマタイトが進み出る。「井戸二つ、浄化完了。壁は北が半分。炉は釘百二十。読み手六人。喧嘩三件、解決三件。泣いた子十人、笑った子十五人」
周囲から小さな拍手。
「次」
ロードライト。「合図旗、柱三本。昼に黒が一回上がったけど、すぐ白に戻した。水は足りてる。パンは薄いけど、塩は美味い」
笑い。
「次」
サファイア。「灯りは二十四。火傷なし。子守歌は五つ覚えた。……“誰か”の賛歌は歌わないで寝られた」
静かな拍手。
私は頷き、最後に言う。
「今日を“磨く”ための報せを、毎晩ここで。良い話だけじゃなく、失敗も。失敗は砥石」
灯の下で、オブシディアンが私の隣に立つ。包帯の白は灯に溶け、影は足元へ沈む。
彼は手を伸ばし、私の手を握った。
その握りは、契約の堅さじゃない。日常の堅さだ。
「ルビー」
「なに」
「お前の“国”、思ったより地味だ」
「派手なのは、嫌い」
「知ってる。……好きだ」
胸の紅玉が、灯りの拍に合わせて小さく鳴る。
私は肩を寄せ、声を落とす。
「この世界を、磨き直すわ。今度は光のために。――人の手が届く光のために」
灯が風に揺れ、焔が背伸びをする。
輪の外から、細い音がした。サファイアの器に灯る火が、誰かの掌に移された音。
その火は、誰の祈りでもない。
誰の腹の虫でもない。
“生活”の火だ。
私はその音を骨で聴き、指で合図を一本送る。白。
“集合”。
人々が少しだけ寄り、同じ方向を見た。視線の先に、夜が薄い。
灰色の雲がほどけ、その向こうに星が滲んでくる。
星は、遠い。
けれど、遠さを諦める理由にはならない。
遠いものは遠いまま、近いものを磨けばいい。
砥石の上を滑る刃の音。
子どもが文字をなぞる音。
鍋の底で湯が笑う音。
それらが、私たちの“星”だ。
「明日の段取りを」
私は人々に向けて短くまとめる。
「朝、井戸。昼、道。夕方、台所。夜、『学びの灯』。合図旗は一日三回、白。報せは一日一回、灯の前。――“労の印”は明日から木札で。偽造はすぐ分かる。木目は嘘をつかない」
笑いが起き、緊張がほどける。
ヘマタイトが指を立てる。「犯罪者は?」
「隠れているなら、明日の朝に並びに来て。並べば、罪は“労”に変わる。並ばなければ、鼠が見つける。鼠は神より忙しい」
また笑い。
笑いは、法の潤滑油だ。
灯が一つ、二つ、消えた。
人々は散り、残り火の上で湯が低く歌う。
私はオブシディアンの包帯を指で直し、指輪の黒を唇に触れた。
夜風が頬を撫でていく。
復讐は、形を変えた。
“燃やす”から“磨く”へ。
刃はまだ持っている。
でも、鞘を覚えた。
鞘を作る手順を、街に置いていく。
「眠ろうか」
「眠る前に、もう一回だけ」
「何を」
「おはよう、って言ってみたい」
彼が笑い、私も笑う。
明かりの影で交わした“おはよう”は、今晩いちばん贅沢な合言葉だった。
そして私は知っている。
明日の“おはよう”は、今日より少し多くの手と、少し確かな壁と、少し甘い粥と、少し読みやすい紙と一緒に来る。
それを積み重ねることを、人は“国”と呼ぶのだ。
星が増える。
灰の匂いは薄くなり、土の匂いが戻り始める。
私はオブシディアンの手をもう一度握り、胸の紅玉に軽く触れた。
とくん、とくん。
拍は、安定。
この拍で、私は磨く。
“紅玉の国”を。
赤い光は、派手ではなく、深い。
深さで、人を暖める。
その暖かさのために、私は生きる。
朝は、もう始まっている。
宝石の夜明けは、火ではなく、手の中にある。
私はそれを、今日も拾い、明日へ渡す。
彼の手と、街の手と、私の手で。
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