1 / 20
第1話:拍手の中の処刑
しおりを挟む王都最大の夜会――それは「祝福」の形をした、巨大な檻だ。
天井から吊られた水晶灯が、甘い光を何百枚もの刃みたいに散らしていた。光は肌を撫でるふりをして、誰が汗をかいているか、誰が笑えていないか、ぜんぶ暴いていく。
香水は花束の皮をかぶった毒みたいに濃くて、シャンパンの泡は喉に触れた瞬間だけ優しい。すぐに消えるくせに。
アリア・エルヴェインは、王太子の隣に立っていた。
立ち位置は、完璧だった。半歩下がって、視線はまっすぐ。口角は上げすぎない。笑みは淡く、でも消さない。
――貴族令嬢の正解。
その正解を、彼女は指先まで覚え込ませてきた。
「アリア、緊張しているかい?」
王太子レオンハルトが、優しげに囁く。外向きの声は蜜みたいに滑らかで、誰が聞いても“良い婚約者”にしか見えない。
「いいえ。殿下のお側ですもの。安心しております」
声の温度も正解。息の長さも正解。
アリアは自分の返答を、心の外側で整えて差し出す。
そのたびに、胸の奥に溜まっていく何かだけは、整えられないのに。
目の前の客たちは、宝石を纏い、扇をひらひらさせ、笑顔を組み立てている。
彼らの笑いはきれいに磨かれている。磨かれすぎて、もう何も映さない。
それでも、視線だけは鋭い。獲物を測る目だ。
「あの方が聖女様なのね」
「まあ……噂よりずっと……」
「殿下の隣に立つべきは、どちらかしら」
扇の陰で交わされる声が、針みたいに飛んでくる。刺さる。抜けない。
視線の先。
白いドレスを纏った少女がいた。淡い金髪が光を吸って、まるで自分が光源みたいに見える。
聖女――フィオナ。
彼女が笑うたび、場の空気が少しだけ明るくなる。明るくなったぶん、影は濃くなる。
アリアは笑っていた。
笑いながら、指先がほんの少し冷えていくのを感じていた。
――大丈夫。
――私は、正しく立つ。
――正しく笑う。
――正しく祝福する。
そうすれば、何も壊れない。
壊れてはいけない。壊れたら、誰かが困る。家が困る。父が困る。母が――。
「皆さま、本日はお集まりいただき感謝する」
王太子の声が、場を支配した。
音楽が止まり、人々が息を止める。
静寂が降りてくる。ふわりとしたレースではなく、重い鉄の蓋みたいに。
レオンハルトは、一歩前へ出た。
アリアは、隣で同じように半歩動く。
その動きすら練習した。何度も。何度も。何度も。
「私はここに、王家として……そして一人の男として、重要な決断を宣言する」
宣言。
その言葉に、アリアの心の奥がかすかに鳴った。
嫌な予感は、いつだって先に汗をかかせる。
王太子の視線が、フィオナへ移る。
フィオナは頬を染めて、視線を落とし、それからゆっくり上げた。
あまりにも綺麗な動きだった。
“物語”の中の人みたいに。
「聖女フィオナ。君の祈りは、この国に奇跡をもたらした」
場がざわめく。
ざわめきは興奮の色を帯びて、甘い熱になる。
人々は奇跡が好きだ。奇跡は、自分の退屈を救ってくれるから。
「そして――」
王太子は、そこで一瞬だけ間を置いた。
その間が、恐ろしく長く感じた。
アリアの背筋に、冷たいものが一本、すべり落ちる。
「アリア・エルヴェイン」
名前を呼ばれた。
心臓が一拍、遅れて鳴る。
アリアは微笑みを保ったまま、視線だけを王太子へ向けた。
「はい、殿下」
正解の声。
でも、喉の奥が少し痛い。
空気が乾いた刃になっている。
王太子は、優しく微笑んだ。
その微笑みが、昨日までと同じ形をしていることが、逆に怖かった。
「君との婚約を――ここに、破棄する」
言葉は、軽かった。
シャンパンの泡より軽い。
なのに、床が抜けた。
世界が一瞬、白くなる。
水晶灯の光が、耳鳴りみたいに鳴り響く。
香水の匂いが、急に吐き気を連れてくる。
ざわめきが、爆ぜた。
「まあ……!」
「ついに……!」
「やっぱり……!」
誰かが息を呑み、誰かが笑い、誰かが扇を落とす音がした。
落ちた扇の音が、妙に大きい。
大きすぎて、アリアの鼓膜が痛い。
アリアは、立っていた。
立っていられた。
身体は勝手に“令嬢”を続けている。
心だけが、取り残されている。
「理由は……殿下。お聞かせいただけますか」
口が動く。
自分で言ったのに、自分の声が遠い。
丁寧な敬語が、まるで他人のものみたいだ。
王太子は、ため息の形をした優しさを作った。
「君を責めたいわけじゃない。君は良い女性だ。努力も知っている。だが……」
だが。
その一言で、切り替わる。
人は「だが」で人を殺せる。
「君は、平凡だ」
平凡。
その単語が、アリアの胸に落ちる。
落ちて、沈む。沈んで、底で爆ぜる。
平凡。
努力して整えた身だしなみも。礼儀も。言葉も。
全部、“平凡”でまとめられる。
フィオナが小さく「殿下……」と呟く。
その声は震えていて、健気で、可憐で――完璧だった。
「アリア、君は王妃として必要な“華”が足りない。国は今、変革を求めている。聖女の存在はその象徴だ。彼女と共に歩むことが、この国の希望になる」
希望。
希望という言葉が、刃の反対側を見せる。
希望を掲げれば、切り捨ては正義になる。
アリアの視界の端で、父がいるのが見えた。
伯爵エルヴェインは、背筋を伸ばし、表情を崩さない。
――父らしい。
母は唇を噛んで、泣きそうなのを堪えている。
彼らは、ここで動けない。動いたら家が終わる。
終わるのは、アリアだけでいい。
そういう空気が、ここにある。
アリアは、笑っていた。
笑みが凍って、頬が痛い。
でも、笑みを消したら――もっと酷いことになる。
“惨め”という烙印が押される。
押されて、その印は消えない。
「……承知いたしました」
舌が、うまく動かない。
それでも言えた。正しい言葉を。
「今まで賜りましたご厚情に、心より感謝申し上げます。殿下の御前にて、無礼のなきよう退きます」
アリアは頭を下げる。
完璧な角度で。
完璧なタイミングで。
完璧な礼儀として。
頭を下げたまま、彼女は気づく。
――拍手が始まっている。
パチ、パチ、パチ。
最初は控えめだった音が、波みたいに広がっていく。
祝福の拍手のはずなのに、音が冷たい。
冷たいのに、やけに熱い。
熱い針で背中を刺されているみたいに。
拍手は、処刑台の合図だ。
終わった、と。
切り落とされた、と。
もう、見世物は次へ行け、と。
アリアは顔を上げた。
視線が、刺さる。刺さる。刺さる。
笑顔の仮面の裏から、好奇心の牙が覗いている。
同情という名の舌が、傷口を舐めにくる。
「……強いのね、アリア様」
誰かの囁き。
強い?
違う。動けないだけだ。
強さに見えるのは、壊れないふりが上手いだけ。
フィオナが、そっと手を伸ばしかけた。
その手の動きが、舞台の演出みたいに美しい。
そして彼女は、手を引っ込める。
引っ込めることで、より“優しい人”になる。
優しさの演出は、痛い。
王太子は、最後まで優しい顔で言った。
「アリア、君の未来に祝福を」
祝福。
そんなものはいらない。
けれど、いらないと言う権利もない。
「ありがとうございます、殿下」
正解の返答。
その瞬間、胸の奥で何かが、ぎゅう、と音を立てて縮んだ。
アリアは、舞踏会の中央から退く。
裾を踏まれないように。
歩幅は一定に。
背筋は真っ直ぐに。
涙は、絶対に落とさない。
落としたら終わる。
終わったのに、さらに終わる。
人波を抜け、廊下へ出る。
扉が閉まった瞬間、音楽が遠くで再開した。
まるで何もなかったみたいに。
世界は平気で次の曲へ行く。
胸が苦しい。
でも、息を荒くできない。
ここにも誰かがいる。侍女がいる。護衛がいる。
“見られている”という鎖が、呼吸を細くする。
「……お嬢様」
侍女のリネットが、顔を青くして駆け寄ってくる。
泣きそうな目をしているのに、泣けない顔をしている。
アリアと同じだ。
「大丈夫よ」
大丈夫じゃない。
でも、“大丈夫”と言えることが、今の唯一の役割。
「馬車をご用意しております。すぐに……」
「ええ」
廊下の鏡に、アリアの姿が映る。
完璧なドレス。完璧な髪。完璧な笑み――今は消しているはずなのに、口元の形が笑いの癖のまま固まっている。
それが、怖い。
馬車に乗る。
扉が閉まる。
外の喧噪が布で包まれたみたいに遠くなる。
暗い車内で、アリアはようやく息を吐いた。
吐いた瞬間、胃がひっくり返りそうになる。
香水の残り香とシャンパンの甘さが、喉にこびりついている。
窓ガラスに、自分の顔が映った。
――人形。
頬は白く、瞳は乾いていて、唇は綺麗に色づいている。
笑っていないのに、笑っているみたいな形。
それが、作り物みたいで、気持ち悪い。
吐き気が、込み上げる。
でも吐けない。
吐いたら、崩れる。
崩れたら、戻れない。
馬車は走る。石畳の振動が、体の奥まで響く。
――トン、トン、トン。
まるで心臓の代わりに、床が脈打っているみたいに。
アリアは膝の上で指を組む。
指先が冷たい。爪がほんの少し白い。
こんなに冷たいのに、胸の奥だけ熱い。
熱が、ぐつぐつと煮えている。
泣けない涙が、別の形で煮詰まっている。
「……平凡、か」
声に出したら、少しだけ現実になった。
現実になったぶん、痛みが鋭くなる。
平凡。
それは、努力の否定。
存在の否定。
あなたは、ただそこにいるだけでいい――そう言われたことのない人間に、突き刺さる言葉。
アリアは背もたれに頭を預けた。
目を閉じても、拍手が聞こえる。
パチ、パチ、パチ。
祝福の形をした、処刑。
涙は出ない。
泣くことすら許されない夜だと、身体が知っている。
だから彼女は、ただ笑っていた。
誰も見ていない車内でさえ、笑う癖が、顔から消えない。
――私は、壊れてはいけない。
そう思うほど、胸の奥の熱は増していく。
まるで、壊れる準備をするみたいに。
馬車の窓の外で、王都の灯が流れていく。
宝石みたいな光が遠ざかるほど、アリアの世界は静かに暗くなる。
暗くなっていくのに、胸の奥だけが、赤く、赤く、燃えていた。
21
あなたにおすすめの小説
君といるのは疲れると言われたので、婚約者を追いかけるのはやめてみました
水谷繭
恋愛
メイベル・ホワイトは目立たない平凡な少女で、美人な姉といつも比べられてきた。
求婚者の殺到する姉とは反対に、全く縁談のなかったメイベル。
そんなある日、ブラッドという美少年が婚約を持ちかけてくる。姉より自分を選んでくれたブラッドに感謝したメイベルは、彼のために何でもしようとひたすら努力する。
しかしそんな態度を重いと告げられ、君といると疲れると言われてしまう。
ショックを受けたメイベルは、ブラッドばかりの生活を改め、好きだった魔法に打ち込むために魔術院に入ることを決意するが……
◆なろうにも掲載しています
【完結】私が誰だか、分かってますか?
美麗
恋愛
アスターテ皇国
時の皇太子は、皇太子妃とその侍女を妾妃とし他の妃を娶ることはなかった
出産時の出血により一時病床にあったもののゆっくり回復した。
皇太子は皇帝となり、皇太子妃は皇后となった。
そして、皇后との間に産まれた男児を皇太子とした。
以降の子は妾妃との娘のみであった。
表向きは皇帝と皇后の仲は睦まじく、皇后は妾妃を受け入れていた。
ただ、皇帝と皇后より、皇后と妾妃の仲はより睦まじくあったとの話もあるようだ。
残念ながら、この妾妃は産まれも育ちも定かではなかった。
また、後ろ盾も何もないために何故皇后の侍女となったかも不明であった。
そして、この妾妃の娘マリアーナははたしてどのような娘なのか…
17話完結予定です。
完結まで書き終わっております。
よろしくお願いいたします。
彼女の離縁とその波紋
豆狸
恋愛
夫にとって魅力的なのは、今も昔も恋人のあの女性なのでしょう。こうして私が悩んでいる間もふたりは楽しく笑い合っているのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。
※子どもに関するセンシティブな内容があります。
婚約破棄されたので、前世の知識で無双しますね?
ほーみ
恋愛
「……よって、君との婚約は破棄させてもらう!」
華やかな舞踏会の最中、婚約者である王太子アルベルト様が高らかに宣言した。
目の前には、涙ぐみながら私を見つめる金髪碧眼の美しい令嬢。確か侯爵家の三女、リリア・フォン・クラウゼルだったかしら。
──あら、デジャヴ?
「……なるほど」
神託の聖女様~偽義妹を置き去りにすることにしました
青の雀
恋愛
半年前に両親を亡くした公爵令嬢のバレンシアは、相続権を王位から認められ、晴れて公爵位を叙勲されることになった。
それから半年後、突如現れた義妹と称する女に王太子殿下との婚約まで奪われることになったため、怒りに任せて家出をするはずが、公爵家の使用人もろとも家を出ることに……。
婚約破棄された私ですが、領地も結婚も大成功でした
鍛高譚
恋愛
婚約破棄――
それは、貴族令嬢ヴェルナの人生を大きく変える出来事だった。
理不尽な理由で婚約を破棄され、社交界からも距離を置かれた彼女は、
失意の中で「自分にできること」を見つめ直す。
――守るべきは、名誉ではなく、人々の暮らし。
領地に戻ったヴェルナは、教育・医療・雇用といった
“生きるために本当に必要なもの”に向き合い、
誠実に、地道に改革を進めていく。
やがてその努力は住民たちの信頼を集め、
彼女は「模範的な領主」として名を知られる存在へと成confirm。
そんな彼女の隣に立ったのは、
権力や野心ではなく、同じ未来を見据える誠実な領主・エリオットだった。
過去に囚われる者は没落し、
前を向いた者だけが未来を掴む――。
婚約破棄から始まる逆転の物語は、
やがて“幸せな結婚”と“領地の繁栄”という、
誰もが望む結末へと辿り着く。
これは、捨てられた令嬢が
自らの手で人生と未来を取り戻す物語。
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
知らぬはヒロインだけ
ネコフク
恋愛
「クエス様好きです!」婚約者が隣にいるのに告白する令嬢に唖然とするシスティアとクエスフィール。
告白してきた令嬢アリサは見目の良い高位貴族の子息ばかり粉をかけて回っていると有名な人物だった。
しかも「イベント」「システム」など訳が分からない事を言っているらしい。
そう、アリサは転生者。ここが乙女ゲームの世界で自分はヒロインだと思っている。
しかし彼女は知らない。他にも転生者がいることを。
※不定期連載です。毎日投稿する時もあれば日が開く事もあります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる