婚約破棄から始まる、異世界スローライフと年下魔王の本気恋

タマ マコト

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第1話:拍手の中の処刑

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 王都最大の夜会――それは「祝福」の形をした、巨大な檻だ。

 天井から吊られた水晶灯が、甘い光を何百枚もの刃みたいに散らしていた。光は肌を撫でるふりをして、誰が汗をかいているか、誰が笑えていないか、ぜんぶ暴いていく。
 香水は花束の皮をかぶった毒みたいに濃くて、シャンパンの泡は喉に触れた瞬間だけ優しい。すぐに消えるくせに。

 アリア・エルヴェインは、王太子の隣に立っていた。

 立ち位置は、完璧だった。半歩下がって、視線はまっすぐ。口角は上げすぎない。笑みは淡く、でも消さない。
 ――貴族令嬢の正解。
 その正解を、彼女は指先まで覚え込ませてきた。

「アリア、緊張しているかい?」

 王太子レオンハルトが、優しげに囁く。外向きの声は蜜みたいに滑らかで、誰が聞いても“良い婚約者”にしか見えない。

「いいえ。殿下のお側ですもの。安心しております」

 声の温度も正解。息の長さも正解。
 アリアは自分の返答を、心の外側で整えて差し出す。
 そのたびに、胸の奥に溜まっていく何かだけは、整えられないのに。

 目の前の客たちは、宝石を纏い、扇をひらひらさせ、笑顔を組み立てている。
 彼らの笑いはきれいに磨かれている。磨かれすぎて、もう何も映さない。
 それでも、視線だけは鋭い。獲物を測る目だ。

「あの方が聖女様なのね」

「まあ……噂よりずっと……」

「殿下の隣に立つべきは、どちらかしら」

 扇の陰で交わされる声が、針みたいに飛んでくる。刺さる。抜けない。

 視線の先。
 白いドレスを纏った少女がいた。淡い金髪が光を吸って、まるで自分が光源みたいに見える。
 聖女――フィオナ。
 彼女が笑うたび、場の空気が少しだけ明るくなる。明るくなったぶん、影は濃くなる。

 アリアは笑っていた。
 笑いながら、指先がほんの少し冷えていくのを感じていた。

 ――大丈夫。
 ――私は、正しく立つ。
 ――正しく笑う。
 ――正しく祝福する。

 そうすれば、何も壊れない。
 壊れてはいけない。壊れたら、誰かが困る。家が困る。父が困る。母が――。

「皆さま、本日はお集まりいただき感謝する」

 王太子の声が、場を支配した。
 音楽が止まり、人々が息を止める。
 静寂が降りてくる。ふわりとしたレースではなく、重い鉄の蓋みたいに。

 レオンハルトは、一歩前へ出た。
 アリアは、隣で同じように半歩動く。
 その動きすら練習した。何度も。何度も。何度も。

「私はここに、王家として……そして一人の男として、重要な決断を宣言する」

 宣言。
 その言葉に、アリアの心の奥がかすかに鳴った。
 嫌な予感は、いつだって先に汗をかかせる。

 王太子の視線が、フィオナへ移る。
 フィオナは頬を染めて、視線を落とし、それからゆっくり上げた。
 あまりにも綺麗な動きだった。
 “物語”の中の人みたいに。

「聖女フィオナ。君の祈りは、この国に奇跡をもたらした」

 場がざわめく。
 ざわめきは興奮の色を帯びて、甘い熱になる。
 人々は奇跡が好きだ。奇跡は、自分の退屈を救ってくれるから。

「そして――」

 王太子は、そこで一瞬だけ間を置いた。
 その間が、恐ろしく長く感じた。
 アリアの背筋に、冷たいものが一本、すべり落ちる。

「アリア・エルヴェイン」

 名前を呼ばれた。
 心臓が一拍、遅れて鳴る。
 アリアは微笑みを保ったまま、視線だけを王太子へ向けた。

「はい、殿下」

 正解の声。
 でも、喉の奥が少し痛い。
 空気が乾いた刃になっている。

 王太子は、優しく微笑んだ。
 その微笑みが、昨日までと同じ形をしていることが、逆に怖かった。

「君との婚約を――ここに、破棄する」

 言葉は、軽かった。
 シャンパンの泡より軽い。
 なのに、床が抜けた。

 世界が一瞬、白くなる。
 水晶灯の光が、耳鳴りみたいに鳴り響く。
 香水の匂いが、急に吐き気を連れてくる。

 ざわめきが、爆ぜた。

「まあ……!」

「ついに……!」

「やっぱり……!」

 誰かが息を呑み、誰かが笑い、誰かが扇を落とす音がした。
 落ちた扇の音が、妙に大きい。
 大きすぎて、アリアの鼓膜が痛い。

 アリアは、立っていた。
 立っていられた。
 身体は勝手に“令嬢”を続けている。
 心だけが、取り残されている。

「理由は……殿下。お聞かせいただけますか」

 口が動く。
 自分で言ったのに、自分の声が遠い。
 丁寧な敬語が、まるで他人のものみたいだ。

 王太子は、ため息の形をした優しさを作った。

「君を責めたいわけじゃない。君は良い女性だ。努力も知っている。だが……」

 だが。
 その一言で、切り替わる。
 人は「だが」で人を殺せる。

「君は、平凡だ」

 平凡。
 その単語が、アリアの胸に落ちる。
 落ちて、沈む。沈んで、底で爆ぜる。

 平凡。
 努力して整えた身だしなみも。礼儀も。言葉も。
 全部、“平凡”でまとめられる。

 フィオナが小さく「殿下……」と呟く。
 その声は震えていて、健気で、可憐で――完璧だった。

「アリア、君は王妃として必要な“華”が足りない。国は今、変革を求めている。聖女の存在はその象徴だ。彼女と共に歩むことが、この国の希望になる」

 希望。
 希望という言葉が、刃の反対側を見せる。
 希望を掲げれば、切り捨ては正義になる。

 アリアの視界の端で、父がいるのが見えた。
 伯爵エルヴェインは、背筋を伸ばし、表情を崩さない。
 ――父らしい。
 母は唇を噛んで、泣きそうなのを堪えている。
 彼らは、ここで動けない。動いたら家が終わる。
 終わるのは、アリアだけでいい。
 そういう空気が、ここにある。

 アリアは、笑っていた。
 笑みが凍って、頬が痛い。
 でも、笑みを消したら――もっと酷いことになる。
 “惨め”という烙印が押される。
 押されて、その印は消えない。

「……承知いたしました」

 舌が、うまく動かない。
 それでも言えた。正しい言葉を。

「今まで賜りましたご厚情に、心より感謝申し上げます。殿下の御前にて、無礼のなきよう退きます」

 アリアは頭を下げる。
 完璧な角度で。
 完璧なタイミングで。
 完璧な礼儀として。

 頭を下げたまま、彼女は気づく。
 ――拍手が始まっている。

 パチ、パチ、パチ。
 最初は控えめだった音が、波みたいに広がっていく。
 祝福の拍手のはずなのに、音が冷たい。
 冷たいのに、やけに熱い。
 熱い針で背中を刺されているみたいに。

 拍手は、処刑台の合図だ。
 終わった、と。
 切り落とされた、と。
 もう、見世物は次へ行け、と。

 アリアは顔を上げた。
 視線が、刺さる。刺さる。刺さる。
 笑顔の仮面の裏から、好奇心の牙が覗いている。
 同情という名の舌が、傷口を舐めにくる。

「……強いのね、アリア様」

 誰かの囁き。
 強い?
 違う。動けないだけだ。
 強さに見えるのは、壊れないふりが上手いだけ。

 フィオナが、そっと手を伸ばしかけた。
 その手の動きが、舞台の演出みたいに美しい。
 そして彼女は、手を引っ込める。
 引っ込めることで、より“優しい人”になる。
 優しさの演出は、痛い。

 王太子は、最後まで優しい顔で言った。

「アリア、君の未来に祝福を」

 祝福。
 そんなものはいらない。
 けれど、いらないと言う権利もない。

「ありがとうございます、殿下」

 正解の返答。
 その瞬間、胸の奥で何かが、ぎゅう、と音を立てて縮んだ。

 アリアは、舞踏会の中央から退く。
 裾を踏まれないように。
 歩幅は一定に。
 背筋は真っ直ぐに。
 涙は、絶対に落とさない。

 落としたら終わる。
 終わったのに、さらに終わる。

 人波を抜け、廊下へ出る。
 扉が閉まった瞬間、音楽が遠くで再開した。
 まるで何もなかったみたいに。
 世界は平気で次の曲へ行く。

 胸が苦しい。
 でも、息を荒くできない。
 ここにも誰かがいる。侍女がいる。護衛がいる。
 “見られている”という鎖が、呼吸を細くする。

「……お嬢様」

 侍女のリネットが、顔を青くして駆け寄ってくる。
 泣きそうな目をしているのに、泣けない顔をしている。
 アリアと同じだ。

「大丈夫よ」

 大丈夫じゃない。
 でも、“大丈夫”と言えることが、今の唯一の役割。

「馬車をご用意しております。すぐに……」

「ええ」

 廊下の鏡に、アリアの姿が映る。
 完璧なドレス。完璧な髪。完璧な笑み――今は消しているはずなのに、口元の形が笑いの癖のまま固まっている。
 それが、怖い。

 馬車に乗る。
 扉が閉まる。
 外の喧噪が布で包まれたみたいに遠くなる。

 暗い車内で、アリアはようやく息を吐いた。
 吐いた瞬間、胃がひっくり返りそうになる。
 香水の残り香とシャンパンの甘さが、喉にこびりついている。

 窓ガラスに、自分の顔が映った。

 ――人形。

 頬は白く、瞳は乾いていて、唇は綺麗に色づいている。
 笑っていないのに、笑っているみたいな形。
 それが、作り物みたいで、気持ち悪い。

 吐き気が、込み上げる。
 でも吐けない。
 吐いたら、崩れる。
 崩れたら、戻れない。

 馬車は走る。石畳の振動が、体の奥まで響く。
 ――トン、トン、トン。
 まるで心臓の代わりに、床が脈打っているみたいに。

 アリアは膝の上で指を組む。
 指先が冷たい。爪がほんの少し白い。
 こんなに冷たいのに、胸の奥だけ熱い。
 熱が、ぐつぐつと煮えている。
 泣けない涙が、別の形で煮詰まっている。

「……平凡、か」

 声に出したら、少しだけ現実になった。
 現実になったぶん、痛みが鋭くなる。

 平凡。
 それは、努力の否定。
 存在の否定。
 あなたは、ただそこにいるだけでいい――そう言われたことのない人間に、突き刺さる言葉。

 アリアは背もたれに頭を預けた。
 目を閉じても、拍手が聞こえる。
 パチ、パチ、パチ。
 祝福の形をした、処刑。

 涙は出ない。
 泣くことすら許されない夜だと、身体が知っている。

 だから彼女は、ただ笑っていた。
 誰も見ていない車内でさえ、笑う癖が、顔から消えない。

 ――私は、壊れてはいけない。

 そう思うほど、胸の奥の熱は増していく。
 まるで、壊れる準備をするみたいに。

 馬車の窓の外で、王都の灯が流れていく。
 宝石みたいな光が遠ざかるほど、アリアの世界は静かに暗くなる。
 暗くなっていくのに、胸の奥だけが、赤く、赤く、燃えていた。
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