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第2話:味方のいない家
しおりを挟む馬車がエルヴェイン邸の門をくぐった瞬間、アリアはようやく「帰ってきた」と思った。
石畳に車輪が当たる音は慣れ親しんだはずなのに、今日はやけに固く響く。
屋敷の窓には明かりが灯っている。いつもならそれだけで胸がほどけるのに、今夜は明かりが、遠い。
あの光の向こうに、ちゃんと“私の居場所”があるのか――確かめるのが怖かった。
扉が開く。
冷たい夜風が頬を撫で、香水とシャンパンの残り香を連れ去っていく。
玄関ホールには使用人たちが並び、静かに頭を下げた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
執事のロドルフの声は、いつもより少し硬い。
優しいのに、慎重だ。
まるで今のアリアに触れたら、何かが壊れると思っているみたいに。
「ただいま」
返事は、やっぱり正解の温度で出てしまった。
声が柔らかすぎて、自分で嫌になる。
奥の扉が開き、父が現れた。
伯爵エルヴェイン。背筋はまっすぐで、髪はきっちり撫でつけられている。
表情は、無表情というより――“無難”。
「アリア。……戻ったか」
言葉の端に、疲れがある。
でもそれは「娘を心配した疲れ」ではなく、「家の舵取りを間違えるなという疲れ」だった。
アリアは一歩近づいて、ほんの一瞬だけ期待してしまう。
この距離なら、抱きしめてくれるかもしれない。
「よく帰った」って、言ってくれるかもしれない。
父は、動かなかった。
肩も、腕も、動かない。
ただ、視線だけでアリアを測って、次に廊下の奥を確認する。――誰が聞いているか、誰が見ているか。
「……ご苦労だった。部屋で休みなさい」
その一言で、期待が音を立てて崩れた。
ガラスが床に落ちて割れるみたいに、胸の奥が痛んだのに、顔は平然としてしまう。
ああ、そうだ。私は“耐える”のが得意なんだ。
「はい」
それしか言えない。
言えないというより、他の言葉が存在しないみたいに、口が勝手にそれを選ぶ。
母が駆け寄ってきた。
ローズの香りが近づく。抱きしめられる――そう思った瞬間、母の手はアリアの肩に触れて、そこで止まる。
「アリア……」
母の声は震えている。瞳は濡れている。
でも抱きしめない。
抱きしめる代わりに、母はアリアの髪を整えるように撫で、ドレスの襟元を直す。
その仕草は、慰めというより“体裁”の確認だった。
「……つらかったでしょう。でもね、ここで崩れたら、もっとつらくなるの」
アリアは理解する。
母は母なりに守ろうとしている。
でもその守り方は、いつも同じだ。
――耐えなさい。
――笑いなさい。
――恥をかいてはいけない。
母は泣いているのに、言葉は冷静だ。
泣きながら理性で殴ってくるみたいで、胸がうずく。
「……母上。私は……」
言いかけた。
“つらい”と言いかけた。
でも父の視線が、斜め上から落ちてくるのを感じた。
その視線は、言ってしまうな、と告げている。
ここは家だが、家もまた社会の一部だ。
この屋敷にも耳がある。壁にも扉にも、噂は染み込む。
娘の弱さは、家の弱さになる。
アリアは唇を結んだ。
「……部屋で休みます」
母は、泣きながら微笑む。
「ええ。ゆっくりお休みなさい。明日から……明日から考えましょうね」
明日から。
その言葉が、妙に怖い。
明日から、また“何か”を求められる。
明日から、また“何か”を演じなければならない。
階段を上がる背中に、使用人たちの視線が刺さる。
刺さるのに、あったかい。
あったかいのに、距離がある。
彼らは心配している。だが同時に、どこかで怯えている。
――婚約破棄された令嬢。
――王家に捨てられた娘。
――不幸の匂いがする存在。
不幸は、感染するみたいに扱われる。
寝室の扉が閉まった瞬間、アリアは背中を扉に預けた。
息を吐く。吐けた。
でも、吐けただけで、楽にならない。
部屋はいつも通りだった。
薄いベージュの壁、白いレースのカーテン、机の上の花瓶。
変わっていないのに、まるで他人の部屋みたいだ。
ここは私の部屋のはずなのに、私の匂いがしない。
鏡台の前に座る。
髪をほどく。ピンが外れる音が、今日は妙に大きい。
――パチ。
夜会で響いた拍手みたいに。
心臓が一瞬、縮む。
ドレスを脱ぎ、寝間着に着替える。
侍女のリネットが手伝おうとしたが、アリアは首を振った。
「今日は、一人でいい」
「……はい。では、何かございましたらすぐに」
リネットは名残惜しそうに扉を閉める。
閉め方が丁寧すぎて、逆に切ない。
彼女もまた、どこまで踏み込んでいいのか分からないのだ。
アリアはベッドに腰を下ろした。
柔らかいマットレスが沈む。
沈むのに、心は沈まない。
心は、宙に浮いたまま、どこにも着地しない。
翌朝。
朝食の席は静かすぎた。
銀食器が触れる音、紅茶が注がれる音、パンが割れる音。
それらが、会話の代わりに並ぶ。
父は新聞を読みながら、アリアを見ない。
「王家から正式な書状が届くはずだ」
唐突に、父が言った。
“心配”ではなく、“事務”の声だ。
「……はい」
アリアはうなずく。
噛んでいたパンが、喉を通らない。
噛めば噛むほど、口の中が乾く。
母が無理に話題を作る。
「今日は、お庭の薔薇が綺麗よ。少し散歩したらどう?」
「……そうします」
母の笑顔が痛い。
痛いのに、怒れない。
母は必死だ。家を守るために。アリアを守るために。
守り方が、いつも“息ができない守り”なだけで。
朝食が終わる頃、執事が入ってきた。
「伯爵様。今朝ほど、王城より使いの者が――」
父が手を上げて遮る。
「応接室へ通せ。……アリア、お前は部屋に戻りなさい」
アリアは固まった。
「私も……」
「戻りなさい」
父の声が、今度ははっきりと硬い。
反論の余地を消す硬さ。
アリアはそれ以上言えず、席を立つ。
廊下を歩きながら、壁の向こうの声が聞こえる。
聞こえるように、話されている気もした。
「婚約破棄の件は王家の決定であり、貴家に落ち度はございません」
落ち度はない。
それが、救いのようで、罰みたいだ。
「ただし、今後アリア嬢の社交活動は慎むように」
慎む。
つまり、出てくるな。
空気になれ。
目障りになるな。
父の声が低くなる。
「……承知いたしました」
承知。
その二文字で、アリアの世界は狭くなった。
その日から、招待状が止まった。
花束も止まった。
「お茶会のお誘い」も、ぱたりと途絶えた。
アリアの机に積まれていた手紙は、返事を出しても返ってこない。
返ってきても、丁寧すぎる断りの文ばかり。
“あなたとは関わりたくありません”を、上品な言葉で包んだだけの紙。
そして噂は、走る。
「聖女に負けたんですって」
「平凡だったのよ、きっと」
「王太子殿下に飽きられたのでは?」
街で、サロンで、教会の前で。
言葉は羽のように軽く飛び、飛んだ先で人の心を切り裂く。
屋敷の中にも噂は染み込む。
使用人たちは、口では「お嬢様」と呼ぶ。
でも目が、ほんの少しだけ、慎重になる。
彼らは優しい。だからこそ、距離を取る。
優しさの距離は、冷たい。
その夜、アリアは庭を歩いた。
薔薇の香りが甘くて、甘すぎて、吐き気がする。
月は丸く、白く、空に浮かんでいる。
月だけは、何も変わっていない顔でそこにいる。
それが腹立たしいほど美しい。
アリアは自分の胸に手を当てる。
熱い。
胸の奥が、じわじわと熱を持っている。
まるで小さな火種が、息を吸うたびに大きくなるみたいに。
――まただ。
彼女には秘密があった。
誰にも言っていない。家族にも。
感情が強く揺れると、胸の奥で何かが“沸く”。
怒りや悲しみが、熱になって溜まり、溜まり、溜まり続ける。
幼い頃、一度だけやらかしたことがある。
泣きながら庭で転んだとき、薔薇の花が一斉に咲いた。
季節外れの薔薇が、爆発みたいに。
両親は奇跡だと喜び、使用人たちは神の恵みだと囁いた。
アリアは、怖くて笑えなかった。
自分の泣き声が世界を動かしたことが、怖かった。
それ以来、泣かないようにした。
怒らないようにした。
悲しまないようにした。
感情を押し殺せば、何も起きない。
何も起きないなら、私は“普通”でいられる。
普通でいれば、誰にも使われない。
誰にも期待されない。
誰にも、――壊されない。
でも今は、押し殺しても追いつかない。
感情が溢れる前に、熱が滲み出してくる。
息を吸う。
胸の奥が、じくりと熱くなる。
吐く。
皮膚の内側から、薄い光みたいなものが滲む気がする。
アリアは自分の手を見た。
指先が、微かに震えている。
寒いわけじゃない。
熱いのに、震えている。
「……何をしてるの、私」
声に出すと、夜の空気が冷たく反響する。
自分の声が、知らない人みたいだ。
部屋に戻り、扉を閉め、カーテンを引く。
でも、月の光が少しだけ隙間から差し込んでくる。
その細い光が、まるで見張りの視線みたいで、落ち着かない。
ベッドに座り、膝を抱えた。
頭の中に、王太子の声が蘇る。
「君は平凡だ」
平凡。
平凡なら、こんなに痛くないはずだ。
平凡なら、こんなに苦しくないはずだ。
平凡なら、こんなに――熱くならないはずだ。
アリアは喉の奥に、声にならない声が溜まっていくのを感じた。
叫びたいのに、叫べない。
泣きたいのに、泣けない。
誰かに縋りたいのに、縋れる相手がいない。
家に帰れば守られると思っていた。
でも家は、守ってくれない。
守れないのか、守らないのか、もう分からない。
分からないから余計に苦しい。
父は家を守る。
母は体裁を守る。
使用人は距離を守る。
そして私は――私自身を守れない。
アリアはカーテンの隙間から月を見上げた。
白い月が、何も知らない顔で浮かんでいる。
その月に向かって、声にならない声が、喉を裂いた。
(私は、何のために生きてきたの)
答えはない。
返事もない。
ただ、胸の奥の熱だけが、じわじわと増していく。
まるで、世界のどこかが――
彼女の絶望を、待っているみたいに。
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