婚約破棄から始まる、異世界スローライフと年下魔王の本気恋

タマ マコト

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第8話:闇の庭で育つもの

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 “何もしないことも仕事”――その言葉に、アリアは救われた。

 救われたのに、三日も経つと落ち着かなくなった。

 人間界で染みついた癖は、骨にまで染みている。
 役割がないと、呼吸のリズムが乱れる。
 「何かをしなければ」
 「役に立たなければ」
 そう思わないと、自分の輪郭がぼやけて消えてしまいそうだった。

 だからアリアは、庭へ出た。

 庭に出れば、何かを“している”自分になれる。
 でもそれは、誰かのためじゃなく、自分のため。
 その違いを、彼女はまだ上手く飲み込めない。

「ね、アリア! 畑やる?」

 ミリィが、いつもの調子で言った。
 畑。
 魔王城で畑。
 字面だけで混乱する。

「畑……?」

「うん! 離れの裏、ちょっと空いてるとこあるの! そこ、菜園にしていいってヴァルグリムさんが言ってた!」

 "言ってた、たぶん"ではなく、今回は本当に言ってたらしい。
 ミリィの手には、木箱があった。中には小さな苗がいくつも並んでいる。
 葉の色は濃い紫、深緑、青みがかった黒。どれも人間界の植物より色が濃くて、目が吸い込まれそうだ。

「これ、闇属性ハーブ! 香りいいよ! 料理にも使えるし、お茶にもなるし、あと……まあ、いろいろ!」

「最後の説明が雑すぎる」

「だって難しいんだもん! セフィラがうるさくなるやつ!」

 うるさくなるセフィラ、想像できないけど、たぶん本当にうるさくなる。
 セフィラの“うるさい”は声量じゃなく、情報量で殴ってくるタイプだ。

 アリアは木箱を覗き込んだ。
 苗の根元に、淡い光がちらつく。
 光は粉みたいで、虫みたいにふわふわしている。

「……光ってる」

「光ってる! 生きてる証拠! これ、植えるともっとキラキラするよ!」

 キラキラ。
 魔界の植物に似合わない擬音だ。
 でもミリィが言うと、似合ってしまうのが怖い。

 離れの裏へ回ると、確かに小さな空き地があった。
 黒い土が露出していて、草はまばら。
 ここだけ少しだけ日が当たりにくいのか、空気がひんやりしている。
 なのに嫌じゃない。
 闇属性の庭、という響きが、なぜか落ち着く。

「ここね! このへん! 好きにしていいって!」

 ミリィが両手を広げる。
 アリアはその土を見つめた。
 黒い。
 黒いのに、死んでない。
 むしろ湿り気があって、呼吸しているみたいだ。

 恐る恐る、しゃがんで土に触れる。
 指が沈む。
 しっとりして、冷たい。
 土ってこんなに冷たかったっけ。
 冷たいのに、手を引っ込めたくならない。

 アリアは手のひらに少し土を乗せた。
 黒い粒が、掌の線に沿って広がる。
 土の匂いがする。
 硫黄の匂いは薄くて、代わりに薬草の匂いがある。

「……いい土」

 思わず言っていた。

「でしょ! 魔界の土はね、感情食べるんだって!」

 ミリィがさらっと物騒なことを言う。
 アリアの手が止まった。

「感情……食べる?」

「うん! 怒りとか悲しみとか、そういうの! だから闇属性ハーブは“落ち着く”んだって! ね、すごくない?」

 すごい。
 すごいけど、怖い。
 この世界は、感情が価値になる世界だ。
 人間界で“資源”と呼ばれたものが、ここでは土にまで染みている。

 アリアは苗を一本手に取った。
 葉が柔らかい。
 触れると、ひんやりした香りが指に移る。
 それだけで胸の熱が少し引く。

「……植えてみる」

「やったー! じゃあ穴掘って~、根っこ入れて~、土かぶせて~、ぎゅってして~、最後に……」

 ミリィは指を立てた。

「気持ちを込めてね!」

「気持ち?」

「そう! 魔界の植物は気持ち大事! 無ってやると枯れる! たぶん!」

「またたぶん」

「たぶんは可能性! 可能性は正義!」

 勢いが正義すぎる。
 でも、気持ちを込めて。
 その言葉が胸に残った。

 アリアは小さな穴を掘り、苗をそっと入れた。
 土を戻し、指で軽く押さえる。
 根が揺れないように。
 指先が黒く汚れる。
 汚れることが、妙に新鮮だった。

 人間界では、手が汚れることは恥だった。
 手は白く、指は細く、爪は整っていて、香りは花でなければならない。
 泥は、働く人のもの。
 貴族令嬢の手に泥は似合わない。

 ――似合わない。

 その常識が、アリアの中でまだ息をしている。

 でも今、指が黒くなっても、誰も叱らない。
 扇の陰で笑わない。
 むしろミリィは嬉しそうだ。

「いいねいいね! もっとやろ!」

 苗を植え続ける。
 一本、二本、三本。
 土を触るたび、心が少しだけ落ち着く。
 手の中の冷たさが、胸の中の熱を冷ます。

 そして、気づいた。

 苗を植えるとき、淡い光の粒が――踊る。

 芽の周りに、小さな光がふわふわ舞い上がる。
 虫みたいで、星屑みたいで、触れそうで触れない。

「……きれい」

 アリアが呟くと、ミリィが得意げに頷いた。

「でしょ! これね、芽が喜んでるの!」

「喜んでる……?」

「うん! 喜んでる! たぶん!」

 またたぶん。
 でも、光の粒は確かに増えている。
 増えて、葉の表面を撫でるように揺れている。

 アリアは自分の胸に手を当てた。
 熱は、いつものようにある。
 でも暴れる熱ではない。
 静かな熱。
 手を動かす熱。

 ――私の感情が、魔力になる。

 それが怖かった。
 それが災いだった。
 それが、王家には資源で、爆弾だった。

 でも今、ここで――
 その熱は、植物を育てる方へ流れている。

 アリアは苗にそっと触れた。
 触れながら、胸の奥にある“悲しみ”を思った。

 婚約破棄。
 拍手。
 父の目。
 母の「耐えなさい」。
 王家の「価値」。

 悲しみが、胸の奥でじくりと疼く。
 その疼きが、指先へ降りる。
 土へ染みる。

 その瞬間、香りが変わった。

 甘い。
 さっきより甘い香りが、ふわっと立ち上がる。
 花の甘さじゃない。熟した果実みたいな甘さ。
 鼻の奥がくすぐられる。

「……え」

 アリアが目を見開くと、ミリィが両手を叩いた。

「わっ! 香り変わった! 悲しみ入れた!? 入れたでしょ!? すごい!」

「悲しみ……入れたって言い方」

「だって入れたもん! ほら、闇属性ハーブって悲しみで甘くなるの! セフィラが言ってた!」

 セフィラが言ってた、なら信用できる。
 信用できるのが悔しい。

 アリアはもう一度深呼吸をした。
 次は、安心を思い浮かべる。

 離れの温度。
 ルシフェルの外套。
 紅茶の湯気。
 ミリィの雑な「大丈夫」。
 ヴァルグリムの「休むのも仕事」。

 安心が胸に広がる。
 広がった安心が、指先から土へ落ちる。

 葉が、ふわりと揺れた。

 風が吹いたわけじゃない。
 葉そのものが柔らかくなったみたいに、しなやかに揺れる。
 触れると、さっきより滑らかだ。

「……柔らかい」

 アリアが指で撫でると、葉が指に寄ってくる。
 寄ってくる、という感覚。
 植物が“寄ってくる”って、そんなことあるの?

「安心だと葉が柔らかくなるんだって!」

 ミリィが言う。
 目がきらきらしている。
 植物のきらきらと、ミリィのきらきらが同じ種類に見える。

 アリアは、胸の奥が震えた。
 熱が怖くない。
 熱が、壊すためじゃなく、育てるために流れている。

 その事実が、涙に変わりそうになる。
 でも涙は出ない。
 泣き方を忘れたまま、胸だけが揺れる。

「……私の特異、災いじゃないのかも」

 ぽつりと漏れた。
 誰に言ったわけでもない。
 空に言った。土に言った。苗に言った。

 ミリィが急に真面目な顔になった。

「災いじゃないよ」

「……ミリィ」

「だって、災いなら、今ここでこんなにいい匂いしないもん」

 理屈は雑。
 でも、言葉はまっすぐだった。

 アリアは笑ってしまった。
 今度はちゃんと笑えた。
 声が少しだけ出る笑い。
 自分の笑い声が、自分の耳に届く。

 ――生きてる。

 その感覚が、土よりしっとり胸に染みた。

 昼が過ぎ、夕方になった。
 赤い空が少しだけ濃くなり、庭の影が伸びる。
 植えた苗は小さな列になって並び、芽の周りに光の粒がまだ踊っている。
 踊り方が、さっきよりゆっくりだ。
 眠そうに揺れている。

 アリアは手を見た。
 黒い土で汚れている。
 爪の間にも土が入っている。
 それが、嫌じゃない。
 嫌じゃないどころか、誇らしい。

 ――私がやった。
 ――私の手で。

 その時、庭の入り口の方から足音がした。

 静かな足音。
 石を踏む音が、少しだけ硬い。

 アリアが顔を上げると、そこにルシフェルがいた。

 黒い外套。
 いつもの魔王の装い。
 夕方の赤い光が、彼の輪郭を鋭くする。
 でも目は、いつもより柔らかく見えた。

「……何をしている」

 声は低い。
 でも追及じゃない。
 純粋な疑問。

「菜園を……」

 言いながら、アリアは急に恥ずかしくなった。
 土いじり。泥だらけの手。
 貴族令嬢の姿ではない。
 王太子妃の姿でもない。

 恥ずかしい。
 恥ずかしいのに、隠したくない。
 その矛盾が胸をくすぐる。

 ルシフェルは植えられた苗の列を見た。
 目が少しだけ見開かれる。
 彼は近づいて、葉の周りの光の粒をじっと見つめた。

「……光が出ている」

「出てます」

「お前の……?」

 お前の、で言葉が切れる。
 「力のせいか」と言いかけて飲み込んだように見えた。

 アリアは頷いた。

「たぶん。私の感情が……」

 言いながら怖くなる。
 感情が魔力になる。
 それは危険。
 また裂け目が開くかもしれない。
 また迷惑をかけるかもしれない。

 胸の奥が少し熱くなる。

 ルシフェルは、その熱を見抜いたみたいに、視線をアリアの手へ落とした。

 土で汚れた手。
 彼の視線が、そこに留まる。

 留まったまま、少しだけ目を逸らした。

 ――逸らした?

 ルシフェルが目を逸らすのは珍しい。
 彼はいつも、見逃さない。
 なのに今、目を逸らした。
 まるで、見てはいけないものを見たみたいに。

「……その手」

「……汚いですか」

 聞いた瞬間、後悔した。
 汚いと言われたくない。
 でも言われるのが怖い。
 怖いから、先に自分で刺しにいってしまう。

 ルシフェルは眉を寄せた。
 怒っていない。
 むしろ困っている。

「違う」

 短く言って、彼はまた視線を逸らす。
 そして、まるで自分でも驚いたように、ぽつりと呟いた。

「……似合う」

 似合う。

 その単語が、アリアの胸に落ちる。
 落ちて、じわっと広がる。
 土より湿って、紅茶より温かい。

「……え」

 アリアが声を漏らすと、ルシフェルが一番驚いた顔をした。
 言った本人が驚いている。
 言葉が勝手に出たみたいに。

 ルシフェルは咳払いを一つして、顔を背けた。
 耳が少し赤い。
 夕方の赤ではない、生きた赤。

「……変な意味ではない」

「変な意味って何」

 アリアが思わず言うと、ルシフェルが固まった。
 固まってから、視線だけ戻してくる。

「……お前が、土を触っているのが……」

 言葉が続かない。
 魔王が、言葉に詰まる。
 その様子が、あまりにも年相応で――年相応という言い方が失礼なくらい、少年だった。

「……生きているように見えた」

 最後に出てきた言葉が、それだった。

 生きている。
 その言葉で、アリアの喉の棘が少しだけ動いた。
 動いて、痛いのに、嬉しい。

「……生きてます」

 小さく言った。
 言えた。
 王都では言えなかった言葉。
 “生きている”と自分で言うことが。

 ルシフェルは、ほんの少しだけ目を細めた。
 微笑みではない。
 でも、柔らかい表情。

「……明日も、やるのか」

「やりたい、です」

 また敬語が出た。
 でも今度は、正解の敬語じゃない。
 自分の感情を守るための敬語。
 距離を測るための敬語。

 ルシフェルは頷いた。

「やれ。……必要なら土を増やす」

「土を増やすって言い方が、魔王っぽい」

 言ってから、アリアは固まった。
 今、ツッコミを入れた。
 魔王に。

 ルシフェルも固まった。
 固まって、次に、ほんの少しだけ口元が緩んだ。

「……魔王だからな」

 いつぞや聞いたくり返し。
 同じ返しをされて、アリアの胸がくすぐったくなる。

 ミリィが遠くで「うわーー!」と叫んで、ヴァルグリムに連れていかれる気配がした。
 今日も平和だ。

 夕方の風が吹く。
 闇属性ハーブが揺れ、甘い香りが少しだけ濃くなる。
 悲しみの香りと、安心の香りが混ざる。

 アリアは土で汚れた手を見つめた。
 汚れている。
 でもそれは、壊れた証じゃない。
 育てた証だ。

 ルシフェルが、少しだけ距離を取ったまま言った。

「……無理はするな」

「はい」

 今度の“はい”は、令嬢の正解じゃない。
 温度があった。

 アリアは思う。

 自分の特異は、災いだけじゃない。
 壊すだけじゃない。
 育てることもできる。

 そして、その可能性を最初に「似合う」と言ったのは、
 赤い空の下の、年下の魔王だった。
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