婚約破棄から始まる、異世界スローライフと年下魔王の本気恋

タマ マコト

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第7話:魔王城の人々

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 城の中は、静かだった。

 静か、というのは音がないという意味じゃない。
 足音はある。扉の軋みもある。布の擦れる音も、遠くで湯が沸く音も。
 それでも、人間界の屋敷とは違う静けさがあった。

 ――誰も、噂をしていない。

 少なくとも、アリアの耳に届く形では。
 あの社交界の、扇の陰で交わされる毒みたいな囁きがない。
 なくて、逆に落ち着かない。
 静けさが優しいと、慣れていない人間は不安になる。

「はい! 今日は城内案内デー!」

 ミリィが腕をぶんぶん振り回しながら言った。
 案内デー、って何。
 そんな休日みたいな言い方をする城、初めてだ。

「勝手に決めたの?」

「うん! 勝手に決めた! でもヴァルグリムさんには許可取った!」

「取ったんだ」

「取った! たぶん!」

「たぶん……」

 アリアがため息をつくと、ミリィは胸を張った。

「大丈夫! 怒られたら私が怒られる! あなたは怒られない!」

 それを「大丈夫」と言えるメンタルがすごい。
 怒られる前提で走れる人間は、強い。

 アリアは離れの廊下を出て、城の中心へ向かった。
 道は石造り。壁には淡い文様が浮かび、触ると冷たいのに嫌じゃない。
 窓から差す赤い光が、床に長い影を落とす。
 その影が尖っていない。
 尖っていない影なんて、初めて見た気がする。

 通りすがりの魔族たちが、アリアを見る。
 視線は集まる。でも、刺さらない。
 驚きはある。警戒もある。
 でも、好奇心で舐め回す視線じゃない。
 見て、確認して、それで終わる。

 それだけで胸が少し軽くなる。
 同時に、怖い。
 この優しさに慣れたら、人間界には戻れなくなる。
 戻る気があるのかも分からないのに。

「おっ、ミリィじゃねえか!」

 突然、声がぶつかってきた。
 ぶつかる、という表現がぴったりの声量。

 角の向こうから現れたのは、でかい男だった。
 背が高い。肩幅が広い。鎧がでかい。
 そして角がある。赤い角が、頭の両側から少し前へ伸びている。
 顔は凛々しいのに、表情はうるさい。

「今日は何だ? 荷物運びか? いや、その後ろの人間……えっ!? 人間!?」

 男は目を見開き、次に、全身が警戒モードに入った。
 空気が一気に硬くなる。
 アリアの胸がきゅっと縮む。

「危険では!? え、危険ですよね!? いや待て、城内に人間を入れるなんて普通は――」

「うるさいよレオニス」

 ミリィが軽く言った。
 軽すぎる。
 この筋肉の塊に「うるさい」でぶつかれるの、ミリィの強さの方向性が違う。

「うるさい!? 俺は近衛隊長だぞ! 危険を見逃すわけには――」

 近衛隊長。
 その肩書きが、さらに怖い。
 王家の騎士たちの顔が一瞬脳裏に浮かんで、胃が冷たくなる。

 男――レオニスはアリアを指差した。

「おい、人間。名は! 目的は! 何を企んで――」

「レオニス」

 低い声が、廊下の空気を切った。

 声は大きくない。
 なのに、空気が一瞬で静まる。
 音が吸い込まれるように止む。

 アリアは息を止めた。

 ルシフェルが、そこにいた。
 いつから。
 足音がしなかったのに。

 黒い衣装を纏った少年のような魔王は、廊下の先に立っている。
 表情は薄い。薄いのに、目だけが深い。
 その目でレオニスを一瞥した。

 たった一瞥。

 レオニスの背筋がぴん、と伸びた。
 声が、ぴたりと止まった。
 さっきまでの暴風が嘘みたいに沈黙する。

「……魔王様。失礼しました。ですが、城内に人間が――」

「俺が入れた」

「……はい」

 レオニスが一瞬でしゅんとなる。
 筋肉の塊がしゅんとなると、逆に可愛いという感情が芽生えそうで、アリアは顔をしかめた。
 可愛いって思うの、危険だ。
 油断すると、心が楽な方へ行ってしまう。

 ルシフェルはレオニスに向けたまま言った。

「アリアを威圧するな」

 アリア。
 名前で呼ばれた。
 胸がちくりとする。
 名前で呼ばれるだけで、少し救われるのはなぜだろう。

 レオニスは拳を胸に当てる。

「……承知しました。ですが、危険かどうかの確認は必要です。近衛として――」

「確認は終わっている」

「終わっている……?」

 レオニスが首を傾げる。角が揺れる。
 その動きまで大げさだ。

 ルシフェルは視線をアリアへ向けた。
 その視線は、見極めの視線じゃない。
 確認の視線でもない。
 ただ「ここにいるか」と確かめる視線。

「体調は」

「……大丈夫です」

 嘘じゃない。
 でも本当でもない。
 “大丈夫”は癖だ。
 癖が勝手に口から出る。

 ルシフェルはそれ以上突っ込まない。
 突っ込まないのが、彼の優しさの形なのだと、少しずつ分かってきた。

 ミリィが横でにやにやする。

「ほらね~! 魔王様、気にしてる~!」

「ミリィ」

 ルシフェルが名前を呼ぶ。
 低い声。
 ミリィが口をつぐむ。
 でも目は笑ってる。
 叱られているのに、楽しそう。
 叱られても安全だと知っている顔。

 レオニスがアリアへ向き直り、咳払いをした。
 声のボリュームを意識的に下げようとして失敗している。
 努力してるのが分かって、少しだけ胸が緩む。

「……失礼した。俺はレオニス。近衛隊長だ。城内の安全を預かっている」

「アリアです」

「アリア……。人間にしては、礼儀が……まあ、いい。とにかく何かあれば言え。危険があれば排除する」

 排除。
 その単語で、胸の奥がきゅっとなる。
 排除。
 王家が自分を排除したときの拍手が蘇る。

 でもレオニスは、排除の対象を「アリア」だとは言っていない。
 危険を排除する、と言っている。
 守る、と言っている。
 言い方が不器用なだけだ。

 アリアは小さく頷いた。

「……はい」

 ルシフェルが微かに眉を寄せた。
 排除という言葉に反応したのかもしれない。
 でも彼は何も言わず、レオニスにだけ言った。

「声量を落とせ」

「はい……!」

 レオニスは反射で返事をして、すぐに自分の声量に気づき、顔をしかめた。
 本人も自覚している。
 声が大きいことを。

 ミリィが吹き出しそうになって、またヴァルグリムにいない場所から怒られそうな顔をした。

 ルシフェルはアリアに向けて、短く言う。

「無理はするな」

「……はい」

「また“はい”だな」

 ルシフェルがぽつりと言って、視線を逸らした。
 責めてはいない。
 でも、気づいている。
 アリアが正解の返事をする癖に。

 アリアはカップの紅茶の温度を思い出した。
 あの温かさ。
 泣きそうになった時の、逃げ場。
 ルシフェルは自分を“客”ではなく“個人”として扱うと言った。
 でも、扱われ方に慣れていない。

 ルシフェルは去っていった。
 去り方が静かで、背中が小さく見えた。
 魔王なのに、背中が少年みたいに見える瞬間がある。
 その矛盾が、胸をざわつかせる。

「……魔王様、やさしいだろ」

 レオニスがぽつりと言った。
 さっきまでの大声はどこへ。
 声が小さいと、別人みたいだ。

「……やさしい、の?」

 アリアが聞くと、レオニスはむず痒そうに頬をかいた。

「やさしい。だが、甘くはない。……俺は魔王様を知ってる。あの方が人間を城に入れるなんて、普通はありえない」

「普通は」

「普通はな。だから警戒した。……だが、魔王様が決めたなら俺は従う。従うだけじゃない。守る」

 守る。
 その単語が、胸に落ちた。

 王家の「守る」は、国を守るだった。
 父の「守る」は、家を守るだった。
 レオニスの「守る」は、目の前の人を守るのに近い。

 アリアは、うまく返事ができなかった。
 返事をしたら、何かが溶けてしまいそうで。

 ミリィが肩を叩いた。

「次行こ次! 次はもっとヤバい人紹介するよ!」

「ヤバい人って言い方」

「ヤバいよ! でも優しい! 優しいけどヤバい!」

 その説明、情報量がゼロだ。

 廊下を進み、図書室のような場所へ入る。
 棚が高い。天井まで届きそうな棚に、分厚い本がぎっしり詰まっている。
 紙の匂い。インクの匂い。
 人間界の図書室よりも、少しだけ土と薬草の匂いが混ざっている。

 奥の机に、一人の人物がいた。

 長い黒髪。
 顔立ちは中性的で、男とも女とも言い切れない。
 肌は淡い灰色に近く、瞳は薄い金。
 年齢は分からない。若くも見えるし、古くも見える。

 その人は本を閉じ、ゆっくり顔を上げた。

「……人間が来たのですね」

 声は静か。
 静かすぎて、逆に耳に刺さる。
 水面の下から聞こえる声みたいに。

 ミリィが手を振る。

「セフィラ~! 紹介するね! アリア! こっちはセフィラ! 魔法顧問! めっちゃすごい!」

「こんにちは」

 アリアが言うと、セフィラ――魔法顧問は、じっとアリアを見つめた。

 見つめ方が、違った。

 値踏みではない。
 でも、見透かす。
 視線が皮膚を通り抜け、骨の奥まで届く。

 アリアは息を止めた。
 見られることに、身体が反射で硬直する。
 社交界の視線が蘇る。
 でもセフィラの視線は、噂の視線じゃない。
 もっと直接的で、もっと冷静で、もっと――怖い。

「……心が割れかけていますね」

 セフィラが、静かに言った。

 直球。
 あまりにも直球で、アリアは一瞬、息が止まるどころか心臓が止まりそうになった。

「……っ」

 言い返せない。
 否定もできない。
 当てられた。
 当てられた上に、責められていない。

 責められていないことが、混乱を生む。
 人間界で直球の言葉は、攻撃だった。
 セフィラの直球は、観測だ。
 事実確認だ。
 それが、怖い。

「割れ、かけて……」

 アリアの声が震える。
 震えたことに気づいて、さらに恥ずかしくなる。
 恥ずかしいと感じる自分が、まだ“貴族令嬢”のままだ。

 セフィラは頷いた。

「はい。割れています。完全には割れていない。……だから、まだ戻れます」

「戻る……?」

 戻る。
 どこへ。
 人間界へ?
 “正解”へ?
 それとも、心が壊れていない状態へ?

 セフィラは淡々と続ける。

「あなたの感情は、魔力に変換される。変換率が高い。抑え込むほど圧縮され、臨界を越えると境界を裂く」

 境界。
 裂く。
 落ちた時の裂け目が蘇り、アリアの手が震えた。

「……知っているの?」

「知っています。魔王様が連れてきた時点で、城全体が気づきます。歪みの匂いがしました」

 歪みの匂い。
 そんなものがあるんだ。
 自分は、匂ってしまうんだ。
 存在するだけで、危険の匂い。

 アリアの胸が冷える。
 冷えた瞬間、熱が戻りかける。
 怖い。
 この熱がまた暴れたら、また裂け目が開く。

 ミリィが慌てて割り込む。

「ね、セフィラ! 言い方! 言い方こわい! アリアが固まってる!」

「固まっているのは、事実です」

「事実って言えばいいってもんじゃないよ!」

 ミリィの必死さが、少し救いだった。
 この子は、誰かのために空気を壊す。
 壊し方が、優しい。

 セフィラは首を傾げ、ほんの少しだけ目を細めた。

「……責めていませんよ、アリア」

 その一言が、胸に落ちた。
 責めていない。
 じゃあ、何のために言ったの?

 セフィラは続ける。

「私が言ったのは、あなたが“痛かった”という事実です。痛かったから割れた。割れたから、ここに落ちた。――それだけ」

 痛かった。
 その単語が、胸の奥に触れた。
 痛かった、と言われた瞬間、アリアの中の何かが少しだけほどけた。
 でも同時に、涙が出そうになって、慌てて飲み込む。

 泣くのは危険。
 泣いたら魔力が暴れる。
 その恐怖が、まだ棘になっている。

「……痛いって、言っていいの?」

 アリアは自分でも驚くほど小さな声で言った。
 言っていいの?
 そんな質問、情けない。
 でも、今の自分は情けない。
 情けない自分を、ここでは許されるのか。

 セフィラはあっさり答えた。

「言っていい。痛いものは痛い」

 当たり前みたいに言う。
 当たり前。
 その当たり前が、アリアには眩しい。

「……でも、私は」

「あなたは、演じる癖が染みついている。痛いのに“平気です”と言う。怖いのに“問題ありません”と言う」

 アリアの喉が詰まった。
 当てられすぎている。

「……怖いです」

 ぽろりと、出た。
 出た瞬間、心臓が跳ねた。
 言ってしまった。
 弱音を言ってしまった。
 恥ずかしい。
 でも、言ったのに、空気が壊れない。

 ミリィが「ほら~!」と嬉しそうに拳を握る。

 セフィラは静かに頷いた。

「怖い。だからここで休むのが正しい」

「……正しい?」

「正しい、という言い方が嫌なら……合理的」

 合理的。
 魔法顧問らしい言葉。

「そして、魔王様があなたをここに置いたのも合理的です」

 その言葉に、アリアの胸がまたちくりとした。

「……利用、じゃないの?」

 どうしても聞きたかった。
 どこへ行っても、結局自分は“資源”にされるのではないか。
 その恐れが、喉の棘になって抜けない。

 セフィラは少しだけ間を置いて言った。

「利用するなら、あなたを城に入れた瞬間に鎖をつけています。魔王様は鎖をつけていない。……だから違う」

「……でも、いつか」

「いつか、の恐怖は理解します。あなたはそのように扱われてきたから」

 理解。
 理解されることが、こんなに胸を揺らすなんて思わなかった。

 セフィラは机の上の小瓶を指で弾いた。
 小瓶の中で淡い光が揺れる。

「これは鎮静用の香。あなたの暴走が怖いなら、必要な時に嗅ぐといい」

 アリアは目を見開いた。

「……私を、怖がってないの?」

「あなたの“力”は怖い。けれど、あなた自身を怖がっているわけではない」

 その言葉が、刺さった。
 刺さったのに、痛みが違う。
 痛みが、治癒に近い。

 アリアは息を吐いた。
 長い息。
 胸の奥の棘が、少しだけ抜けた気がした。
 抜けないけれど、抜ける可能性が見えた。

 ミリィが肘でアリアをつつく。

「ね、言ったでしょ! セフィラはヤバいけど優しい!」

「ヤバいは余計です」

 セフィラが淡々と言う。
 ミリィが「えへへ」と笑う。

 その時、また足音がした。
 今度は重い足音。
 レオニスだ。

「魔王様に報告だ。……ん? 人間がここにいる。いや、アリアか」

 さっきより声が小さい。
 努力が見える。

「俺はまだ完全に信用していない。だが、魔王様が決めたなら守る。……だから勝手に死ぬな」

「勝手に死ぬなって言い方!」

 ミリィが突っ込む。
 レオニスがむっとする。

「だって……死なれたら、魔王様が……」

 言いかけて止まる。
 それ以上は言わない。
 言わないけれど、言いかけた内容が胸に刺さる。

 魔王様が、どうなる。
 ルシフェルが、どうなる。

 セフィラが淡々と補足した。

「魔王様は、あなたが壊れるのを怖がっている。だから近衛隊長も怖い」

「怖いって言うな!」

 レオニスが顔を赤くした。角まで赤い。
 分かりやすい。

 アリアは、胸の奥がざわつくのを感じた。
 自分が壊れるのが怖い、と言われるのは、まだ慣れない。
 でも、誰かが自分の崩壊を“恐れてくれる”こと自体が、今までなかった。

 王家は、壊れるのを待っていた。
 家は、壊れないふりを求めた。
 ここでは、壊れるのを止めようとしてくれる。

 優しさ。
 それが優しさだと理解するには、まだ傷が深い。
 優しさは、信じた瞬間に裏切られるものだと学んでしまったから。

 それでも――

「……ありがとう」

 アリアは小さく言った。
 言葉は震えた。
 震えたけれど、言えた。

 レオニスは「うっ」と詰まり、目を逸らした。

「……礼はいらん。俺は仕事をしているだけだ」

 そう言いながら、声量がまた上がりかけて、本人が慌てて下げる。
 その不器用さが、少しだけ可笑しい。

 セフィラは本を開き直した。
 会話は終わり、という合図みたいに。

 ミリィがアリアの腕を引く。

「ほらほら、次行こ! 今日はたくさん会う日!」

「……たくさん会うと、疲れない?」

「疲れたら休む! それが仕事!」

 昨日ヴァルグリムが言った言葉が、ミリィの口から雑に引用される。
 雑なのに、胸が少しだけ温かい。

 城の廊下を歩きながら、アリアは思った。

 ここには、値踏みがない。
 ここには、拍手の処刑がない。
 代わりに、痛かったね、がある。
 怖かったね、がある。
 壊れないで、がある。

 それが優しさだと認めるのは、まだ怖い。
 怖いけれど、否定もできない。
 否定できないほど、言葉がまっすぐすぎるから。

 赤い光が廊下に差し込み、影が柔らかく伸びる。
 アリアはその影の中で、少しだけ呼吸が深くなるのを感じた。

 魔王城の人々は、怖い。
 怖いけれど――

 怖さの中に、救いが混ざっている。
 それを、彼女の心はまだ上手に受け取れない。

 でも、少しずつ。
 少しずつだけ、受け取ってしまいそうだった。
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