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第6話:何者でもない朝
しおりを挟む朝が来るのは、怖いことだった。
人間界では、朝はいつも「始まり」じゃなく「再開」だった。
昨日の失敗も、昨日の痛みも、昨日の恥も、ぜんぶそのまま持ち越して、同じ顔で再開する。
眠っても消えない。
むしろ眠ったぶん、体力が戻って、痛みを受け止める準備が整ってしまう。
だからアリアは、朝が嫌いだった。
夜の方がまだ楽だった。暗い方が視線が減る。表情を作らなくていい。
でも――悪魔界の朝は、遅い。
赤い空が一晩中燃え尽きずに、ゆっくりゆっくり色を変えていく。
赤が薄まり、深い葡萄色になり、そこから淡い桃へ溶けていく。
火が消えるんじゃない。火が柔らかくなる。
その変化は、まるで世界が「急がなくていいよ」と言っているみたいだった。
離れの窓から差し込む光は、やさしかった。
薄桃の光が、毛布の表面を撫で、床に影を落とす。
影は濃くない。尖っていない。
ただ、そこにある。
アリアは目を開けた。
眠れた。
ちゃんと眠れた――はずなのに、胸の奥にまだ棘が残っている。
いつか返される。
いつか利用される。
いつか、ここから追い出される。
その「いつか」が、まだ喉に刺さったまま。
なのに、身体は昨日より軽い。
肩が少しだけ下がっている。
緊張の癖が、ほんの一枚だけ剥がれている。
……そんな自分が、怖い。
扉が、勢いよく開いた。
「奥さま~! 起きて~! 朝だよ~! いや、朝じゃないかもだけど、とにかく起きて~!」
ミリィだった。
今日も元気が暴走している。
同時に、カーテンが一気に開かれる。
薄桃の光が、容赦なく部屋に流れ込む。
「ちょっ……!」
アリアは反射的に布団を引き上げた。
寝起きの顔を見られたくない。
髪が乱れている。目が腫れていないか不安。
完璧じゃない自分が見られるのが、怖い。
ミリィはケラケラ笑う。
「隠すな隠すな~! 寝起きの顔ってかわいいんだから!」
「かわいくない……!」
否定の言葉が出た。
出たのに、その声が弱い。
いつものキッパリした否定じゃない。
むしろ、照れてるみたいな弱さで、自分でも驚く。
ミリィが目を丸くして、にやっと笑った。
「え、いまの否定、弱い! 奥さま、照れた?」
「奥さまじゃない!」
反射で否定する。
でも、否定の勢いが昨日よりない。
否定しながら、自分の中で「奥さま」という響きが、なぜか痛くないのに気づく。
痛くない。
それが、少し怖い。
「じゃあ奥さま候補~」
「やめて……」
「やだ!」
ミリィは勝利宣言みたいに腕を上げた。
その動きがあまりにも軽くて、アリアの胸が少しだけ緩む。
軽さは、優しさより効く。
優しさは構えさせる。
軽さは、構える暇を奪ってくる。
「はいはい、起きます。起きるから、カーテンは……」
「ダメ! 光浴びないと元気出ない! ってヴァルグリムさんが言ってた!」
言ってたのか言ってないのか怪しい顔で、ミリィは胸を張る。
その嘘っぽさが可笑しくて、アリアはつい口元を押さえた。
笑いそうになって、慌てて咳払いする。
笑っていい。
でも、その「いい」を自分で許可できない。
許可を外に求めてしまう。
ずっとそうして生きてきたから。
「ほらほら、着替え! 今日はお庭見に行こ! 魔界の植物、面白いよ!」
「……庭」
アリアは布団から出る。
部屋の空気は冷たくない。
床も冷えない。
それが妙に安心で、同時に「安心してしまう自分」が怖い。
着替えは昨日用意された魔界の布の服だった。
触るとさらりとして、肌にまとわりつかない。
色は淡い灰紫。貴族の派手さはないのに、品がある。
鏡台の前で髪を整える。
整えながら、ふと思う。
――誰に見せるために整えてるの?
答えが出ない。
社交界はもうない。
王太子もいない。
王城の舞踏会もない。
それなのに、手が勝手に動く。
完璧に近づこうとする癖だけが、残っている。
それが、落ち着かない。
「できた~! じゃ、行こ!」
ミリィに腕を引かれ、アリアは離れの外へ出た。
廊下を抜け、庭へ。
空は薄桃で、風は冷たいのに澄んでいる。
硫黄の匂いは薄い。
代わりに、土の匂いが濃い。
生き物の匂い。湿り気のある匂い。
庭は、意外だった。
黒い土。
黒いのに、暗くない。
そこから伸びる植物は濃い緑、紫、時々青い光を帯びた葉。
花は小さく、控えめで、でも香りが強い。
「これ、闇属性ハーブ!」
ミリィが誇らしげに指差す。
「闇属性……?」
「うん! 触るとひんやりしてるやつ! ほら!」
ミリィが葉に触れ、指先をアリアの鼻先に持ってくる。
香りがする。
ひんやりした香り。
ミントみたいな清涼感と、甘い土の匂いが混ざっている。
アリアは恐る恐る葉に触れた。
――冷たい。
指先が冷える。
でも嫌な冷たさじゃない。
熱を持ちすぎた感情を、すっと冷ましてくれる冷たさ。
香りが指に移る。
その香りを嗅ぐと、胸の奥の棘が少しだけ鈍くなる。
「……すごい」
「でしょ! これね、心が暴走しそうな時に嗅ぐと落ち着くんだって! 魔王様も昔……」
ミリィが言いかけて、止まった。
あ、という顔で口を押さえる。
「……昔?」
「えへへ。内緒内緒! 魔王様、内緒って言ってたもん!」
「今しゃべりかけたのに」
「しゃべりかけただけ! しゃべってない! セーフ!」
その理屈の雑さに、アリアはつい笑ってしまった。
小さく、息が漏れるみたいな笑い。
ミリィが勝ち誇った。
「ほら! 笑った! ね、ここいいでしょ!」
アリアは笑ってしまったことに気づき、慌てて口元を押さえた。
笑いが胸の中で揺れて、消えない。
怖い。
でも、嫌じゃない。
その感情が分からなくて、アリアは目を逸らした。
庭の隅に、小さな花壇があった。
花壇には見知らぬ花が咲いている。窓辺の花と同じ、深紫の花。
「これ、窓のと同じ花だ」
「うん! 夜泣き花っていうの!」
「……夜泣き?」
「夜に咲いて、朝に閉じるんだよ。泣いてるみたいだから夜泣き!」
泣く花。
その名前に、胸が少し痛んだ。
泣く。
自分は泣けない。
泣きたくても、泣き方を忘れてしまった。
アリアは花に指を伸ばしかけて、止めた。
触れたら、何かが溢れそうで。
「……ねえ、ミリィ」
「ん?」
「私は、ここで何をすればいいの?」
気づけば、口から出ていた。
質問というより、焦りの吐露。
役割がないことが怖い。
役割がないと、自分が空っぽになる気がする。
ミリィはきょとんとした。
「え? えっと……生きる?」
「……生きる」
あまりにも大雑把で、逆に胸が詰まる。
「そう! 生きる! 食べて寝て、たまに笑って! それ!」
ミリィは当たり前みたいに言う。
当たり前みたいに言える世界が、眩しい。
でもアリアの中には、焦りが残る。
何かしなければ。
役に立たなければ。
価値を示さなければ。
価値。
その単語が胸の奥で鳴った瞬間、熱が少しだけ戻ってくる。
王家の使者の声が蘇る。
「価値」「資源」「管理」「封印」
アリアの呼吸が浅くなった。
その時、背後から静かな足音が近づいた。
足音がするのに、騒がしくない。
足音がするから、安心する。
「お早うございます、アリア様」
ヴァルグリムだった。
今日も背筋が真っ直ぐで、声が落ち着いている。
「ヴァルグリムさん!」
ミリィが手を振る。
「ミリィ。騒がしい」
「騒がしいのが私の仕事です!」
「違います」
「違くない!」
そのやり取りが軽くて、アリアはまた口元が緩む。
緩んだことに気づいて、今度は逃げずに、そのまま息を吐いた。
ヴァルグリムがアリアへ視線を向ける。
「散歩でございますか」
「……はい。ミリィが」
「当然です! 奥さまを健康にするのが私の使命!」
「奥さまじゃない」
否定した。
でも昨日よりはっきり否定できない。
否定しながら、心がどこかでくすぐったい。
ヴァルグリムは何も言わず、ただ小さく目を細めた。
それが笑いなのか、許容なのか、分からない。
でも嫌ではないのが分かる。
アリアは、さっきの質問を思い出して、ヴァルグリムへ向き直った。
「……ヴァルグリム。私は、ここで何をすればいいの?」
言った瞬間、声が震えた。
焦りが隠せない。
情けないと思う。
でも、情けないと言ってくる人がいない。
それが、さらに不安を生む。
ヴァルグリムは即答しなかった。
少しだけ空を見上げる。薄桃の空。
それから、淡々と告げた。
「何もしないことも、ここでは仕事でございます」
「……何もしない、が?」
理解できない。
何もしないのは、怠けだ。
価値がない。
人間界の常識が、反射で叫ぶ。
ヴァルグリムは、同じ温度で言葉を続けた。
「人は、壊れる前に休息が必要です。壊れてからでは遅い。アリア様は――今、壊れかけておいでです」
壊れかけている。
また言われた。
でも責められていない。
事実として言われるだけ。
「休むのも……仕事?」
「はい。生きるための仕事でございます」
生きるための仕事。
その言葉が胸に落ち、じわりと広がる。
熱ではなく、温度。
胸の奥を焼く熱ではなく、指先を温める温度。
アリアは息を吐いた。
長い息。
息を吐いたら、喉の棘がほんの少しだけ動いた。
抜けないけれど、刺さり方が浅くなる。
「……分からない。どうして、そんなに……」
そんなに、優しいのか。
そんなに、放っておくのか。
そんなに、役割を求めないのか。
言葉にならない疑問が、胸の中で渦を巻く。
ヴァルグリムは、答えの代わりに一礼した。
「この城の主がそう望まれます。魔王様は、アリア様に“役割”を与えるつもりはないと」
ルシフェル。
昨日の紅茶の湯気の向こうの真剣な顔。
「泣いてもいい」
「止めるために俺がいる」
思い出すと、胸が痛くなる。
痛いのに、落ち着く。
矛盾した感情が、静かに混ざる。
ミリィが両手を広げた。
「ほら! だから大丈夫! 役割とかいらない! 奥さまは奥さまで……」
「奥さま言わない」
「だって楽しいもん!」
アリアは、ふっと息を漏らした。
笑いではない。笑いに近い息。
それが、ちゃんと自分から出たことが嬉しい。
庭の闇属性ハーブが風に揺れる。
ひんやりした香りが漂う。
その香りを吸い込むと、胸の奥の熱が落ち着く。
アリアは葉にもう一度触れた。
指先が冷え、香りが移る。
その冷えが、過去の熱を鎮める。
――何者でもない。
昨日の言葉が、朝の光の中で形を変える。
何者でもない、は、空っぽじゃない。
何者でもない、は、まだ決まっていない。
まだ決まっていない、は、可能性だ。
そう思った瞬間、怖さが少しだけ薄れた。
薄れたのに、消えない。
消えない怖さも抱えたまま、アリアは立っていられる。
「……今日の仕事は、休むこと?」
アリアが言うと、ミリィが勢いよく頷いた。
「そう! 休む! そして食べる! そしてちょっと散歩! で、また寝る!」
「怠け者の予定表だ」
「違うよ! 回復の予定表!」
ヴァルグリムが淡々と補足した。
「回復は、怠惰とは異なります。怠惰は前に進む意志を捨てること。休息は前に進むために立ち止まること」
前に進むために。
その言葉が、アリアの胸を少しだけ押し上げた。
王都では、前に進む道が一つしかなかった。
正解の道。
役割の道。
ここには、まだ道がない。
だから怖い。
でも、道がないから、選べる。
アリアは薄桃の空を見上げた。
赤い世界が、柔らかく変わっている。
変わることを怖がらなくていい世界。
「……じゃあ、今日だけは」
言葉を選ぶ。
選んで、ちゃんと言う。
「今日だけは、何もしない」
ミリィが拍手しそうになって、ヴァルグリムに目で止められた。
代わりにミリィは両手をぶんぶん振る。
「えらい! 奥さまえらい!」
「奥さまじゃない」
否定の声は、もう弱くなかった。
でも怒ってもいない。
ただ、軽い。
その軽さが、朝の光みたいに胸の中へ差し込む。
何者でもない朝。
役割のない時間。
それは空っぽじゃなく、静かな呼吸だった。
アリアは、闇属性ハーブの香りを指先に残したまま、
初めて「今日」を、自分のために使ってみようと思った。
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