婚約破棄から始まる、異世界スローライフと年下魔王の本気恋

タマ マコト

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第5話:離れの部屋と、最初の紅茶

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 目が覚めたとき、天井が低かった。

 低い、といっても圧迫感のある低さじゃない。人間界の貴族の寝室みたいに無駄に高くなくて、息が天井に消えていかない感じ。
 息がちゃんと自分の周りに戻ってくる。
 それが、妙に落ち着く。

 アリアはまぶたを開け、ゆっくり瞬きをした。
 眠ったはずなのに、眠った気がしない。
 でも昨日のような“落下の残響”は、少しだけ薄れている。

 窓の外は赤い空だった。
 赤いのに眩しすぎず、部屋に入る光もやわらかい。
 赤い空は、怖いはずなのに――この城の中だと、むしろ温度を持っているように見える。

 アリアは身体を起こした。
 寝台の毛布が柔らかい。
 柔らかさが指に触れた瞬間、胸の奥の緊張がほんのわずか緩む。
 ふわ、と。
 氷の表面が、ひと呼吸だけ溶けたみたいに。

 部屋を見回す。

 豪奢ではない。
 金の飾りも、宝石の縫い取りもない。
 だけど、必要なものが必要なだけ揃っている。
 机、椅子、棚、洗面台。
 角が丸い木の家具は使い込まれているのに、傷が丁寧に手入れされていて、誰かがここを大切に扱ってきたのが分かる。

 そして、温度がちょうどいい。
 寒くない。暑くない。
 肌が「我慢しなくていい」と言われているみたいな温度。

 窓辺には、見知らぬ花が一輪挿してあった。
 色は深い紫。花弁の縁が黒く、中心だけが淡く光っている。
 見たことがないのに、不気味じゃない。
 香りが、かすかに甘い。

「……夢じゃない」

 呟くと、声が部屋に落ちて、静かに返ってくる。
 誰も笑わない。
 誰も扇の陰で囁かない。
 その“当たり前”が、まだ怖い。

 ――私は客。
 ――客は、いつか帰る。
 ――帰る場所?
 ――人間界?
 ――王家の管理?
 ――封印?

 喉の奥に棘が刺さる。
 息を吸うたび、その棘が少しずつ深くなる。

 扉がノックされた。

「失礼しますよ~! 起きてる~?」

 明るい声。
 明るすぎて、一瞬ビクッとした。
 王都の夜会で聞いた笑い声に似ているのに、質が違う。
 毒がない。
 ただ、元気。

「……はい」

 返事をすると、扉が勢いよく開いた。

 そこに飛び込んできたのは、小柄な少女だった。
 背はアリアの肩ほど、髪はふわふわの銀色。
 目が大きくて、瞳の色が赤紫。
 頬にそばかすのような点があって、それが妙に愛嬌を増している。

「おはよー! 私はミリィ! ここのメイド担当! あなた、昨日落ちてきた人間だよね?」

 落ちてきた人間。
 言い方が雑なのに、嫌味がない。
 アリアは一瞬、返す言葉に詰まった。

「……アリアよ。アリア・エルヴェイン」

「アリア! うん覚えた! 発音かわいい! よし、じゃあ今日からここがあなたの部屋ね!」

 今日から。
 その言い方が、胸を刺した。
 今日から。つまり、明日からは違うかもしれない。
 いや、違う。彼女は本気で“今日から”と言っている。

「……ここ、私の部屋?」

「そうそう! 離れの一番いいとこ! 湿気ないし、風通るし、あったかいし! 魔王様の命令~!」

 ミリィは勢いよくカーテンを開けた。
 赤い光が部屋に広がる。
 眩しくないのに、視界が一気に明るくなる。

「えっと、着替えとか必要? え、必要だよね!? 昨日の服、泥ついてるし! でも人間の服ってどんなのが普通なの? 私、王都の流行とか知らなーい!」

 矢継ぎ早の言葉に、アリアは少しだけ笑いそうになった。
 笑いそうになって、慌てて口元を引き締める。
 笑っていいのか分からない。
 笑うと、何かを失う気がする。

 ミリィはアリアの表情を覗き込み、ぱちっと瞬きした。

「……あ、もしかして、怖い?」

 怖い。
 その単語を、こんなに気軽に投げられたのは初めてだった。
 人間界では、「怖い」と言った瞬間に弱者になる。
 弱者は、利用される。

 アリアは喉が詰まった。

「……少し」

「そっか! じゃあ、怖くないように、私がめちゃくちゃ喋るね!」

「それは……逆に怖いかも」

 言ってから、アリアは固まった。
 今、冗談を言った。
 冗談が、口から出た。
 自然に。
 それが信じられなくて、胸がざわつく。

 ミリィはきゃはは、と笑った。

「いいね! しゃべれる! うん、しゃべれる人は大丈夫! だって黙ってると、変なこと考えちゃうもん!」

 変なこと。
 ――私は何のために生きてきたの。
 その声が、喉の奥で微かに動いた。

 ミリィは棚を開け、タオルを取り出し、寝台の端にぽんと置いた。

「とりあえず顔洗う? 髪もとかす? あ、あと朝ごはん! 食べられる? 食べないと倒れるよ! 倒れたら私が怒られる!」

 怒られる、という言葉の軽さが救いだった。
 怒られる。処罰じゃなく、叱られる程度。
 人間界の王家の「封印」と比べたら、あまりにも平和だ。

 そこへ、別の気配が入ってきた。

 音がない。
 扉が開く音がしないのに、空気が整う。

 ミリィが姿勢を正す。
 正したのに、まだ元気なままなのが彼女らしい。

「ヴァルグリムさーん!」

 扉のところに立っていたのは、一人の老紳士だった。
 白髪をきっちり後ろに流し、背筋は剣のように真っ直ぐ。
 黒い燕尾服が似合いすぎる。
 顔立ちは厳しいのに、目だけが静かに優しい。

 彼は無言で一礼した。
 音がない礼。
 でも礼そのものが、空気を優しく区切る。

「お目覚めのご様子で何よりです。アリア様」

 声は低く、丁寧。
 丁寧すぎて怖いはずなのに、この丁寧さは“距離を守る”丁寧さだった。
 踏み込まない。押し付けない。
 それが分かるから、逆に安心する。

「……あなたは?」

「ヴァルグリムと申します。魔王城の執事、兼――まあ、いくつか役目をしております」

 兼、の後を濁した。
 それが怖い役職である可能性を匂わせるのに、脅しではない。
 ただの事実。

「ミリィ。必要以上に騒がないように」

「えー! 必要なんだって! 怖いって言ってたし!」

「怖さを紛らわせるために、空気を破壊してはいけません」

「空気は破壊してない! 作ってる!」

 ミリィが頬を膨らませる。
 ヴァルグリムは眉一つ動かさない。
 その対比が、妙に可笑しくて、アリアの唇がほんの少しだけ緩んだ。

 ヴァルグリムはアリアへ視線を戻す。

「アリア様。お食事の前に、体調の確認を。……痛みはありますか。吐き気は。眩暈は」

 質問が具体的で、優しい。
 優しいのに、突き放していない。
 ちょうどいい距離。

「……だるいだけ。痛みは、あまり」

「承知しました。ならば軽い食事をご用意いたします」

 ヴァルグリムは、ミリィへ小さく顎を動かす。

「ミリィ。湯と洗面用具を。あと、衣服を」

「はーい! 任せて!」

 ミリィが駆け出そうとして、ぴたっと止まる。
 そしてアリアに向き直って、にっと笑った。

「ね、アリア。ここってね、変なルール少ないよ。だから安心していいよ。魔王様、意外と……あ」

 ミリィは口を押さえた。
 うっかり余計なことを言いそうになった顔。

「意外と、何?」

 アリアが問い返すと、ミリィは目を泳がせる。

「えへへ。意外と、やさしい! はい! じゃ、行ってきまーす!」

 逃げた。
 逃げ方が子どもみたいで、アリアはまた笑いそうになる。
 笑いそうになって、怖くなる。
 笑ったら、この世界に馴染んでしまいそうで。

 ヴァルグリムはミリィが去った後、静かに言った。

「……ここでは、急がずに」

 急がずに。
 その言葉が、胸に落ちる。

「あなたは……私を、怖がっていないの?」

 アリアはつい聞いてしまった。
 言った瞬間、後悔する。
 こんなことを聞いたら、相手は困る。
 困った顔をされる。遠ざけられる。

 でもヴァルグリムは、ほんの少しだけ目を細めた。

「怖がる、というより……慎重にはなります。アリア様は今、とても痛んでおいでですから」

 痛んでいる。
 その言い方が、体面でも価値でもない。
 心の状態を、そのまま言っている。

「……痛んでいる、なんて。そんなこと……」

 言いかけた。
 否定したかった。
 私は平気だ。私は大丈夫だ。私は強い。
 いつもの癖が喉の奥から出ようとする。

 ヴァルグリムは遮らなかった。
 ただ待つ。
 待たれると、アリアは言葉を引っ込めた。

「……ありがとう」

 代わりに出たのは、それだった。
 ありがとう、なんて。
 今までの「ありがとうございます」と違う。
 敬語ではなく、ただの感情。

 ヴァルグリムは一礼した。

「本日は休息を最優先に。魔王様も、そのように」

 魔王様。
 ルシフェル。

 昨日の外套の温度が、指先に蘇る。
 彼の「怖い」という声が、耳の奥に残っている。

「……魔王は、私をどうするつもりなの」

 聞きたかった。
 客人扱いが怖い。
 いつか返される。いつか利用される。
 その恐れが、喉の棘になって抜けない。

 ヴァルグリムは少し間を置いて答えた。

「魔王様は、アリア様を“個人”として扱うと決めておられます」

「個人……」

「はい。所有物でも、道具でも、交渉材料でもない。……それはこの城では、簡単なことではありません」

 簡単ではない。
 その言葉に、胸がちくりと痛む。

「……それでも?」

「それでも、魔王様はそう決められました」

 ヴァルグリムの声は淡々としている。
 でも淡々としているからこそ、重い。
 この城の執事が「決めた」と言うとき、それは冗談ではない。

 ヴァルグリムは再び一礼し、扉へ向かった。

「では、必要なものが整い次第、また参ります」

 扉が閉まる。
 静けさが戻る。

 静けさの中で、アリアは一人になった。
 一人になった瞬間、恐れが湧くはずだった。
 でも恐れより先に、疲れがどっと押し寄せた。
 肩が重い。まぶたが重い。

 しばらくして、ミリィが戻ってきた。
 湯を運び、衣服を広げ、石鹸の香りを振りまく。

「これね、魔界の布! 肌にやさしいよ! 人間の肌って弱いって聞いた!」

「……よく知ってるのね」

「私ね、図書室で読んだ! 『人間観察入門』!」

「それ、入門で済ませていい内容じゃない気がする」

「大丈夫大丈夫! 入門だから安全!」

 安全、という言葉が雑で、また笑ってしまいそうになる。
 笑いそうになって、喉がきゅっと締まる。
 笑っていい。
 でも、笑っていいって誰が許してくれるの?
 許可なんていらないはずなのに、ずっと許可が必要だった。

 顔を洗う。
 湯が温かい。
 指先の冷えが少し溶ける。

 鏡を見る。
 自分の顔は疲れている。
 でも、あの夜会の“人形”ほど冷たくはない。
 生きている顔になっている。

「……不思議」

 呟いた。

「ん? なにが?」

「ここ、変」

「変だよね! 私も最初そう思った! でも慣れるといい感じだよ! あ、朝ごはん持ってくるね!」

 ミリィが出ていく。
 その背中が軽い。
 軽さが、眩しい。

 朝食は、薄いスープとパンと果実だった。
 果実は黒っぽいのに、味は甘くて酸っぱい。
 口に入れた瞬間、身体が「生きろ」と言われた気がした。

 ――生きろ。
 そんな命令は、今まで誰もくれなかった。
 皆、「役割を果たせ」だった。

 食べ終えた頃、扉がノックされた。

 今度のノックは、控えめだった。
 礼儀正しい、でも不慣れな間。
 ノックするタイミングが少しだけずれている。

「……入るぞ」

 ルシフェルの声だった。

「どうぞ」

 返事をした瞬間、心臓が跳ねた。
 跳ねたことに、自分で驚く。
 なぜ、こんなに緊張するのか。

 扉が開く。
 ルシフェルが入ってきた。

 手には、ティーポット。
 それも、かなり本格的なもの。
 銀色ではなく黒銀で、光を吸うような質感。
 なのに持ち方がぎこちない。
 彼は“魔王の威厳”を纏っているのに、ティーポットだけが彼を裏切っている。

 ミリィが目を輝かせた。

「魔王様! 自分で持ってきたの!? え、偉い! かわ――」

 ヴァルグリムがどこからともなく現れ、ミリィの頭を軽く叩いた。
 音はしないのに、圧がある。

「ミリィ。黙りなさい」

「いったーい! でも、偉い!」

「黙りなさい」

 ルシフェルは二人のやりとりを見て、ほんの少しだけ眉を寄せた。
 困っている。
 困っているのに、叱れない。
 その様子が、やっぱり少年みたいで、アリアの胸が少し痛む。

 ルシフェルはアリアへ視線を戻した。

「……体調は」

「だいぶ、よくなりました」

 正解の返事じゃなく、正直な返事が出た。
 ルシフェルは小さく頷く。

「そうか」

 それだけ。
 でも、それだけで会話が成立する。
 王都では、成立しない。
 沈黙は常に攻撃だった。
 ここでは沈黙が、ただの間でいられる。

 ルシフェルはテーブルへティーポットを置いた。
 置き方が少し乱暴で、カップがかたんと鳴る。

「……紅茶だ」

「紅茶?」

 アリアは聞き返した。
 紅茶は、人間界の貴族の嗜み。
 魔界にもあるのか。
 あるとして、魔王が自分で淹れるのか。

 ルシフェルは椅子に座らず、立ったままポットを扱う。
 手元が不器用で、蓋が少しずれる。
 ミリィが手を伸ばしかけるが、ヴァルグリムが目だけで止める。

 ルシフェルは湯を注ぐ。
 その瞬間、湯気がふわりと立ち上がる。
 湯気の向こうのルシフェルの顔は、真剣だった。
 戦場に立つ騎士みたいな真剣さじゃない。
 もっと幼い、宿題に向き合う子どもみたいな真剣さ。

 香りが広がる。
 少しスモーキーで、甘い。
 人間界の茶葉とは違う香り。
 でも、懐かしい。

 ルシフェルはカップをアリアの前に置いた。
 置き方は丁寧。でも、手が少し震えている。
 なぜ震える。魔王なのに。

「……飲めるか?」

 その一言が、妙に優しかった。
 優しさを、誇示していない。
 見返りもない。
 ただ、確認してくれる。

 アリアは喉がきゅっと痛くなった。
 涙が出そうになる。
 でも涙は出ない。
 泣いていいのか、分からないから。

 泣いたら、迷惑をかける。
 泣いたら、壊れる。
 泣いたら、また裂け目が開く。
 そんな恐怖が、喉の棘になって残っている。

 だからアリアは泣かない代わりに、カップへ手を伸ばした。

 カップは温かい。
 温かさが指先に染みて、指の骨まで温めていく。
 その温かさが、泣きそうな心をぎゅっと支える。

「……飲めます」

 口に含む。
 熱が舌を撫で、香りが鼻に抜ける。
 少し渋い。
 でも渋さが、現実に引き戻してくれる。

「……どうだ」

 ルシフェルが、落ち着かない視線でアリアを見る。
 褒めてほしいのに、褒められるのが怖い子の目だ。

「……美味しい」

 嘘じゃない。
 上手ではない。
 でも、心がこもっている味がする。

 ルシフェルは一瞬だけ目を見開き、それから視線を逸らした。
 耳がほんの少し赤くなる。
 その赤が、赤い空の光とは違う、生きた赤だ。

「……そうか」

 たったそれだけ。
 でもその一言が、彼の中で小さな花火みたいに弾けたのが分かった。

 ミリィが口を押さえて、肩を震わせている。
 笑いを堪えている顔。
 ヴァルグリムは無音のまま、空気を整えている。

 ルシフェルは咳払いを一つして、言った。

「ここは離れだ。城の中心より静かだ。……嫌なら変える」

 嫌なら。
 またそれだ。
 拒否できる前提。
 それが、アリアの胸の奥をちくちく刺激する。

「……嫌じゃないです」

「そうか」

 ルシフェルは少しだけ肩の力を抜いた。
 抜いた瞬間、彼が本当に若いのだと分かる。
 威厳は鎧だ。
 その鎧の下は、まだ不器用だ。

 アリアはカップを両手で包んだ。
 熱で指先が温まる。
 指先が温まると、胸の奥の氷も少し溶ける。
 溶けた水が、痛みとして流れ出しそうになる。

「……私、いつまでここにいられるの」

 聞いてしまった。
 “客人扱い”が怖い。
 いつか返される。いつか利用される。
 それが喉の棘になって、どうしても抜けない。

 ルシフェルは少し黙った。
 黙り方が、考えている黙り方。
 逃げている黙り方ではない。

「……お前が望むまで」

「望むまで?」

「ここは俺の領地だ。人間界の都合で、お前を返すつもりはない」

 強い言葉。
 魔王らしい言葉。
 でもその強さは、支配じゃなく盾だった。

 アリアの胸が、また痛くなる。
 痛いのに、温かい。
 矛盾していて、泣きそうになる。

「……私が、迷惑をかけても?」

「迷惑かどうかは、俺が決める」

 即答。
 迷いがない。
 その迷いのなさが、怖いくらい優しい。

 アリアは笑ってしまいそうになった。
 今度は、ほんの少しだけ笑えた。

「……横暴ですね」

 冗談のつもりだった。
 でも声が震えた。
 震えたのは怖さじゃなく、嬉しさの震えだ。

 ルシフェルは一瞬固まり、次に、ほんの少しだけ口元を緩めた。
 笑い方が下手だ。
 下手なのに、その下手さが胸を撃つ。

「……魔王だからな」

 その返しが、あまりにも真面目で、ミリィがついに噴き出した。

「ぷっ……! 魔王だからって……!」

 ヴァルグリムが、ミリィを無言で引きずり出した。
 扉が閉まる直前、ミリィの声が聞こえる。

「だって~! かわ――!」

 バタン。

 静けさが戻る。
 紅茶の湯気だけが、ゆっくり昇っていく。

 アリアはカップを握りしめた。
 温かい。
 温かいのに、胸が痛い。

 ルシフェルは視線を落とし、ぽつりと言った。

「……泣いてもいい」

 その言葉が、突然すぎて、アリアは息を止めた。

「……え」

「泣きたい顔をしている」

 ルシフェルの声は低い。
 でも、押し付けない。
 ただ事実を言うだけ。

 アリアの喉の棘が、少しだけ動いた。
 動いて、痛みが増す。

「……泣いたら、壊れるかもしれない」

 正直な声が出た。
 怖い。
 泣いたらまた裂け目が開く。
 怖い。
 誰かを巻き込む。
 怖い。

 ルシフェルは、ゆっくり首を振った。

「壊れそうなら、俺が止める」

「……止められるの?」

「止める。止めるために俺がいる」

 魔王の言葉は、宣言だった。
 約束ではなく、決定。

 アリアは、泣けなかった。
 まだ泣けない。
 泣き方を忘れてしまった。
 でも泣けない代わりに、胸が震えた。

 震えながら、紅茶のカップを持ち上げ、もう一口飲む。
 熱が喉を通る。
 熱が、身体の内側を温めていく。

 泣いていいのか迷う。
 迷ったまま、アリアは指先を温める。

 ルシフェルはそれ以上何も言わなかった。
 沈黙が、優しい。
 沈黙が、何も要求しない。

 窓の外で、赤い空がゆっくり燃えている。
 城の離れは静かで、温度がちょうどよくて、花が知らない香りを放っている。

 ここは異世界。
 悪魔の世界。
 魔王の城。

 なのに、アリアの心は、ほんの少しだけ――
 “生きること”を許されはじめていた。
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