婚約破棄から始まる、異世界スローライフと年下魔王の本気恋

タマ マコト

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第4話:赤い空の静けさ

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 落ちる、という感覚は、痛みを伴うものだと思っていた。

 地面に叩きつけられる痛み。骨が軋む音。内臓が揺れる不快感。
 そういう、現実に縛り付ける痛みがあるから、人は「落ちた」と理解できる。

 だけどアリアが落ちたのは、痛みじゃなかった。

 冷たい。
 そして――無音。

 音がない。
 自分の呼吸すら、遠い。
 心臓の鼓動が、どこか別の場所で鳴っているみたいで、身体が自分のものじゃない。

 真っ暗な夜の中を、身体がゆっくり沈んでいく。
 沈んで、沈んで、沈んで……。
 その間に、頭の中の言葉が一つずつ剥がれていく。

 婚約。
 破棄。
 価値。
 資源。
 封印。

 その全部が、遠い。
 遠いのに、胸の奥の熱だけが、まだ生きている。

 ――助けて。

 あの声は、届かなかった。
 届かなかったから、世界が変わったのか。
 世界が変わったから、届かなかったのか。

 分からない。
 分からないまま、彼女は沈み続ける。

 そして――
 ふっと、空気の重さが変わった。

 冷たさは残っているのに、皮膚に風が触れる。
 風が触れた瞬間、世界に“音”が戻ってきた。

 ざわ。
 草が揺れる音。
 遠くで、何かが鳴く声。
 自分の喉が、かすかに咳をしようとする感覚。

「……っ」

 アリアは、目を開けた。

 赤かった。

 空が、赤い。
 夕焼けの赤ではない。血の赤でもない。
 もっと静かで、もっと深い。
 熟れた果実の皮の裏側みたいな赤――光を内側に抱え込む赤。

 雲は薄く、ゆっくりと流れている。
 その流れ方が、やけにゆったりしていて、現実感を奪う。

 地面は黒い草原だった。
 草は黒いのに、死んでいない。
 葉はしなやかで、風に合わせてしっとり揺れている。
 踏めば柔らかい。けれど、土は固い。

 鼻を突く匂いがした。硫黄。
 なのに、息を吸っても咳き込まない。
 澄んでいる。空気が、妙に澄んでいる。
 硫黄の匂いだけが、そこに“ある”のに、汚れていない。

「……どこ、ここ……」

 声が出た。
 出たことに、少しだけ驚く。
 声が、風にのって流れていく。
 ちゃんと世界が音を受け止めてくれる。
 それだけで、涙が出そうになる。出ないのに。

 身体を起こそうとすると、全身がだるい。
 痛いというより、疲れ切っている。
 骨が重くて、関節が砂で詰まっているみたいに動かない。

 アリアは、ゆっくり腕を伸ばした。
 手のひらを地面につける。
 黒い草が指に絡んだ。
 冷たい。
 でも、人間界の夜の冷たさとは違う。
 冷たいのに、拒絶がない。
 「ここにいるな」という圧がない。

 遠くに、城が見えた。

 闇色の石で組まれた巨大な城。
 尖塔がいくつも空へ突き刺さり、門は獣の顎みたいに大きい。
 なのに、怖いというより――美しい。
 黒い宝石を削って作ったみたいに、輪郭が滑らかで、無駄がない。

 城の周りの景色は、少し歪んで見えた。
 空気が揺れているのか、光が屈折しているのか。
 熱の蜃気楼のようでもあり、冷気の膜のようでもある。

「……行かなきゃ」

 理由はない。
 でも、ここに倒れていたら終わる気がした。
 何が終わるのかは分からない。ただ、終わる。

 アリアは這うように進んだ。
 膝が草を踏み、手のひらが土を掴む。
 ドレスはもうぐしゃぐしゃで、裾には黒い草が絡みつく。
 社交界の宝石みたいな布が、今はただの重い布だ。

 その重さが、少しだけ救いだった。
 私はまだ、形がある。
 消えていない。

 歩く。
 進む。
 どれくらい進んだのか分からない。
 時間の感覚が薄い。空の赤は変わらないまま、世界がずっと同じ顔をしている。

 途中で、誰かの気配を感じた。

 背中に視線が刺さる。
 あの夜会の針みたいな視線じゃない。
 もっと静かで、重い。
 獣が獲物を見る視線に近い。
 でも、食欲というより、警戒。

 アリアは振り返る。
 何もいない。
 黒い草が揺れているだけ。

「……幻?」

 喉が渇いた。
 唇がひび割れそうだ。
 でも、砂漠みたいな乾きじゃない。
 泣けないのに泣きたいときの乾きだ。

 やっと城門が近づいた。
 門は想像以上に大きい。
 石は黒く、表面に淡い文様が浮かんでいる。
 触れると、冷たいのに、指が吸い付くような感触があった。

 門番がいる――と思った。
 でも、いない。
 誰もいないのに、門は「ここから先は別の世界だ」と言っているみたいに圧がある。

 アリアは門の前で、膝をついた。

 もう、動けない。
 身体の底に溜まっていた力が、すべて空になった。

 視界が揺れる。
 赤い空が滲む。
 黒い草が、遠ざかる。

 倒れる前に、最後に思ったのは――

 ここで死んだら、誰も困らないな、だった。

 その考えが、あまりにも自然に浮かんだことが怖くて、アリアは自分を叱ろうとした。
 でも叱る力も残っていない。

 身体が横に倒れる。
 土の匂いが鼻に入る。硫黄の匂いが混じる。
 赤い光がまぶたの裏に透ける。

 ――終わり?

 その瞬間、足音がした。

 コツ、コツ、と。
 石畳を踏む音。
 近づいてくる。迷いがない。
 でも急いでいない。
 急がない余裕が、逆に怖い。

 アリアは目を開けようとした。
 開けようとしたのに、まぶたが重い。

「……人間?」

 声がした。
 若い声。
 少年のようで、でも単なる少年じゃない。
 声の奥に、何か大きいものが眠っている。

 アリアはぎりぎり目を開けた。

 そこにいたのは、少年だった。

 髪は黒に近い深紫で、光を受けると青くも見える。
 肌は白い。病的な白さではなく、夜の月みたいな白さ。
 顔立ちは整っている。整いすぎて、現実感が薄い。
 ――でも、その瞳だけが違った。

 瞳は、夜の底みたいに深い。
 覗き込んだら戻ってこれない深さ。
 感情が見えないのに、感情を全部飲み込めそうな深さ。

 少年は、アリアを見下ろしていた。
 無表情ではない。
 けれど表情の変化が小さすぎて、読み取れない。

「聞こえるか」

 彼はしゃがみこみ、アリアの顔の近くへ視線を落とした。
 距離が近いのに、威圧がない。
 威圧がないことが、不思議で、怖い。

「……聞こえます」

 声がかすれた。
 それでも答えられた。
 答えられたことに、なぜか安心する。

 少年は小さく息を吐いた。
 ほっとした、のかもしれない。
 でも彼自身が、それを自覚していないみたいな吐息だった。

「お前は、どこから来た」

 質問は短い。
 追及の刃ではなく、確認の刃。
 必要最小限。
 それが余計に怖い。彼は感情で動いていない。

「……王都から……」

 言った瞬間、言葉が滑っていく。
 王都。夜会。婚約破棄。価値。資源。
 全部が喉に引っかかって、出てこない。

 少年は首を傾げた。

「王都」

「人間の……国です」

「そうか」

 彼はそれ以上追わなかった。
 追わないことが、逆に異常だった。
 普通なら、疑う。捕らえる。利用する。追い返す。
 どれかをする。

 なのに少年は、ただアリアを見ている。
 見ている視線が、値踏みじゃない。
 哀れみでもない。
 それが分からなくて、胸が痛い。

 少年が立ち上がり、外套を脱いだ。
 黒い外套は重そうで、でも布が滑らかに揺れる。
 彼はそれをアリアにかけた。

 外套の内側は、驚くほど温かかった。
 熱いわけじゃない。
 冷えた身体に“ちょうどいい”温度。
 その温度が、胸の奥に引っかかっていた氷を、ほんの少し溶かした。

「……なぜ」

 アリアは、ほとんど無意識で言った。
 なぜ、そんなことをするの。
 なぜ、優しくするの。
 なぜ、私を見捨てないの。

 少年は、一瞬だけ目を伏せた。
 迷ったように。
 その迷いが、彼を人間っぽくする。

「俺は――この城の主だ」

 そう言って、彼は名乗る。

「ルシフェル・ノクス・アークレイン」

 名前を聞いた瞬間、アリアの背中に冷たいものが走った。
 どこかで聞いたことがある響き。
 禁書のページに書かれていそうな名。
 祈りの言葉の逆側にある名。

「……魔、王……?」

 口が勝手に形を作った。

 ルシフェルは、否定しない。
 肯定もしない。
 ただ静かに言った。

「そう呼ぶ者もいる」

 その言い方が、妙に寂しかった。

 アリアは目を閉じた。
 笑ってしまいそうになったからだ。
 笑う余裕なんてないのに、皮肉が胸の奥で泡立った。

 王太子に捨てられ、王家に資源扱いされ、家にも居場所がなくて。
 落ちた先が、魔王の城門。

 ――こんなの、冗談みたいだ。

 ルシフェルが、少しだけ声を柔らかくした。

「立てるか」

「……無理です」

 正直に言えたことが、自分でも驚きだった。
 人間界では、正直は弱さだった。
 弱さは即、刃になる。

 でもここで、正直に言っても、彼は笑わない。
 扇の陰で囁かない。
 拍手もしない。

 ルシフェルは、少し困った顔をした。
 困った顔の作り方が下手で、眉がほんのわずかに寄るだけ。
 それでも困っているのは分かる。

「……抱える。嫌なら言え」

 その言葉が、あまりにもまっすぐで、アリアの心が一瞬止まった。

 嫌なら言え。
 拒否できる。
 拒否しても怒られない。
 そんな選択肢を、彼女は久しく持っていなかった。

 アリアは喉を鳴らした。

「……嫌じゃ、ないです」

 声が小さい。
 でも言えた。
 言えたことが、怖いくらい嬉しい。

 ルシフェルは頷き、アリアの背中と膝裏に手を差し入れた。
 指が触れた瞬間、外套の温度とは違う熱が伝わる。
 彼の体温。生きている温度。
 それが、じわりと心臓に染みてくる。

 抱き上げられる。
 身体がふわりと浮く。
 怖い。
 でも怖さより先に、「落ちない」という安心が来る。
 落ちない。もう落ちない。
 それだけで、喉の奥が痛くなる。

 門が、音もなく開いた。

 石と石の間に隙間が生まれ、闇が口を開ける。
 なのに恐怖より、静けさが先に流れ込む。
 城の内側の空気は、外よりさらに澄んでいた。
 硫黄の匂いが薄れ、代わりに、冷たい水の匂いがする。

 ルシフェルはアリアを抱えたまま、廊下を歩く。
 足音が響く。
 その響きが、妙に落ち着く。
 音がある。私はここにいる。

 すれ違う影がいくつかあった。
 人影――なのに、人間じゃない。
 角がある者、尾が揺れる者、瞳の色が普通じゃない者。
 彼らはアリアを見る。
 見るが、騒がない。
 囁かない。
 値踏みしない。
 ただ、驚きと、少しの警戒。

「魔王様……人間?」

 小さな声が聞こえた。
 幼い声。
 でも、その声には敵意がない。

「俺の客だ」

 ルシフェルが短く答える。
 客。
 その言葉が、胸に引っかかる。
 客なら、いつか出ていく。
 客なら、いつか返される。
 客なら、ここに居続けてはいけない。

 不安が湧く。
 その不安を押し殺そうとして、胸の奥がまた熱を持ちかける。

 ――だめだ。
 今は、壊れたくない。
 もう一度縫い目を裂いたら、きっと今度は戻れない。

 ルシフェルが歩みを止めた。
 扉の前。
 扉は重そうなのに、彼が触れるとすぐ開いた。

「ここを使え」

 中は、部屋だった。
 豪奢ではない。
 でも、整っている。
 寝台、机、棚。
 窓があって、赤い空が少しだけ見える。
 布の匂いが新しい。水の匂いがする。
 誰かがここを「人が眠れる場所」として用意した匂い。

 ルシフェルがそっとアリアを寝台に下ろす。
 下ろし方が丁寧で、慣れていないのが分かる。
 慣れていないのに、丁寧にしようとしているのが分かる。

「……名前は」

 彼が問う。
 今度の声は、ほんの少しだけ柔らかい。

「アリア……アリア・エルヴェイン」

 名を名乗ると、胸が痛い。
 エルヴェイン。
 その家名が、まだ自分を縛っている気がして。

 ルシフェルは頷く。

「アリア。ここでは、何者でもなくていい」

 その言葉は、静かだった。
 大声でもない。誓いでもない。
 ただ、事実みたいに落ちてくる。

 何者でもなくていい。
 役割を演じなくていい。
 正解を出さなくていい。
 価値にならなくていい。

 アリアの胸の奥の氷が、ぱき、と音を立てた気がした。
 固く凍っていたものが、ほんの少しだけ溶けて、水になる。

「……そんなの、ずるい」

 思わず漏れた。
 声が、震えた。
 震えたことが、自分でも怖い。

 ルシフェルは目を瞬いた。
 ずるい、という言葉の意味が分からないみたいに。

「ずるい?」

「……そんな風に言われたら……私は……」

 言葉が続かない。
 続けたら、泣いてしまう。
 泣けないはずなのに、泣きそうになる。

 ルシフェルは少しだけ視線を逸らした。
 照れているのではない。
 どう扱えばいいのか分からない視線の逸らし方。

「……休め」

 それだけ言って、彼は立ち去ろうとした。

 アリアは、慌てて声を出す。

「待って……!」

 声が大きくなってしまった。
 自分でも驚く。
 引き止めるなんて、子どもみたいだ。

 ルシフェルが振り返る。

「……何だ」

 アリアは言葉を探す。
 何を言いたいのか、分からない。
 ただ、彼がいなくなったら、また落ちる気がした。
 また無音の夜に戻る気がした。

「……あなたは、私を……利用しないの?」

 核心が、ぽろりと落ちた。

 ルシフェルの瞳が、ほんの少しだけ揺れる。
 揺れて、それから深く沈む。
 夜の底みたいに。

「……力の話か」

「……はい」

 ルシフェルは、少しだけ眉を寄せた。
 怒っていない。
 ただ、理解しようとしている顔。

「俺は、今お前に何かを求めない。求めた瞬間、お前はまた壊れる」

 その言葉が、胸に刺さった。
 優しいから刺さる。
 私は壊れかけている、と、見抜かれている。

「……怖い?」

「怖い」

 ルシフェルは即答した。
 その即答が、意外だった。
 魔王が、怖いと言う。
 誰より強いはずの存在が。

「お前が壊れるのが怖い」

 声は小さい。
 でも、言葉はまっすぐに落ちる。

 アリアは息を呑んだ。
 喉が痛い。
 胸の奥の氷が、もっと溶けていく。

 ルシフェルは、視線を合わせたまま言った。

「ここでは、何者でもなくていい。……これは命令じゃない。俺の……願いだ」

 願い。
 その単語が、あまりにも柔らかくて、アリアは涙を飲み込んだ。
 涙はまだ出ない。
 でも、出る寸前のところで、胸が震える。

「……分かりました」

 小さく頷く。
 頷けたことが、信じられない。

 ルシフェルは、ようやく少しだけ息を吐いた。
 安堵の吐息。
 その吐息が、静かな部屋に溶けていく。

「明日、誰かを寄こす。世話役だ。嫌なら断れ」

「……断れるんですね」

「断れる」

 当然のように言う。
 当然のように言うから、アリアの胸がまた痛くなる。
 それまで当然じゃなかったから。

 ルシフェルは扉の前で立ち止まり、最後に一度だけ振り返った。

「アリア」

「はい」

 また正解の返事をしそうになって、アリアは口を噤んだ。
 ここでは何者でもなくていい。
 なら、返事も正解じゃなくていい。

「……眠れ」

 それだけ言って、彼は扉を閉めた。

 扉が閉まる音が、重い。
 でもその重さは、牢の鍵の音じゃない。
 外の世界を遮って、守る音だ。

 アリアは外套を握った。
 布が指に馴染む。
 温度がまだ残っている。

 赤い空が窓の向こうで静かに燃えている。
 黒い草原は遠く、もう見えない。
 ここは、魔王の城。
 異世界。悪魔の世界。
 なのに――不思議と、息ができる。

「……何者でもなくていい、か」

 呟くと、言葉が部屋の中でやさしく響いた。
 誰も拍手しない。
 誰も笑わない。
 ただ、静けさが受け止める。

 アリアは目を閉じた。
 胸の奥の熱は、まだ消えていない。
 でも今夜は、熱が暴れない。
 外套の温度が、氷の割れ目をそっと塞いでいる。

 落下は終わった。
 終わったのに、まだ震えている。
 それでも――

 赤い空の静けさの中で、
 アリアは初めて、
 「助けて」が届かなくても、世界が終わらないことを知った。
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