婚約破棄から始まる、異世界スローライフと年下魔王の本気恋

タマ マコト

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第15話:決裂と、選択の夜

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 距離を取るのは、得意だった。

 得意というより、それしか知らなかった。
 近づけば刺される。信じれば裏切られる。
 だから一歩下がる。笑顔を作る。優等生の皮を被る。
 そうすれば、痛みは最小で済む――と、思っていた。

 でも今のアリアが取ろうとしている距離は、守るための距離じゃない。
 逃げるための距離だった。

 あの日のティータイム。
 ルシフェルの整えられた髪。硬い表情。
 「隣にいてほしい」
 あの不器用な言葉が、アリアの胸の内側にずっと残っている。

 残っているから、苦しい。
 苦しいから、距離を取る。

 離れに閉じこもった。

 窓を開ける時間も減らした。
 菜園の土に触れることも減らした。
 闇属性ハーブの香りすら、今日は少しだけ遠い。

 ミリィが扉を叩く。

「奥さまー! ……じゃない、アリアー! 今日のお菓子はね、笑うやつだよ!」

 笑うやつ。
 意味が分からない。
 意味が分からないのに、今日はそれがいつもなら面白いはずなのに。

「……いらない」

 アリアは言ってしまった。
 言ってから、自分の声の冷たさにびくりとする。
 冷たい声は武器だ。
 武器を、ミリィに向けた。

 扉の向こうで、ミリィが黙る。
 その沈黙が刺さる。

「……そっか。じゃ、置いとくね」

 ミリィの声はいつもより小さい。
 軽さが消えた声。
 扉の隙間から皿が滑り込む音がして、足音が遠ざかる。

 アリアは胸を押さえた。
 苦しい。
 自分が嫌いになる苦しさ。

 でも、戻れない。
 戻ったら、ルシフェルの言葉に答えなければいけない気がする。
 答えが出ないのに、答えを求められるのが怖い。

 ティータイムの時間になっても、テーブルに向かわなかった。
 カップを持つ指先が震える自分を、見たくなかった。

 それでも、香りだけは届く。

 ヴァルグリムは無理に踏み込まず、ただ“紅茶の葉”を変えた。
 扉の向こうから漂ってくる香りが、いつもと違う。

 深い甘さ。
 夜泣き花のような、胸の奥を撫でる甘さ。
 それに、冷たいミントのような抜ける香りが混ざっている。

 香りは言葉より優しい。
 香りは責めない。
 香りは「どうして?」と聞かない。

 だから余計に、涙が出そうになった。
 でも涙は出ない。
 泣けない癖はまだ抜けない。

 夕方、セフィラがふいに現れた。
 扉を開けた音はしない。
 でもそこにいる。

 アリアはベッドの端に座ったまま、顔を上げなかった。

「……逃げていますね」

 セフィラの直球が刺さる。
 刺さるのに、痛みが違う。
 責める刺し方ではない。
 ただ、当てるだけ。

「逃げても心はついてきます」

 淡々と、残酷な真理。

 アリアは喉を震わせた。

「……分かってる」

「なら、なぜ逃げる」

「……怖いから」

 怖い。
 言えた。
 言えたのに、胸が楽にならない。

 セフィラは少しだけ目を細めた。

「何が」

 アリアは息を吸って、吐いた。

「……あの人の本気が」

 言葉にすると、胸がぎゅっとなる。
 本気。
 年下の本気。
 手加減のない本気。

「私が受け止められないのが怖い。受け止めたら、壊しそうで怖い。壊れたら、捨てられそうで怖い」

 捨てられる。
 それが、根っこにある恐怖だった。
 婚約破棄で、捨てられた。
 家でも、抱きしめられずに捨てられた気がした。

 セフィラは頷いた。

「合理的な恐怖です」

「……慰めてる?」

「分析しています」

 相変わらずだ。
 相変わらずなのに、少しだけ笑いそうになる。
 笑えない。
 でも笑いの気配は、胸に生まれた。

 セフィラはアリアの窓の方を見た。
 外の赤い空が、少し濃くなっている。

「今夜、また揺れます」

「……え?」

「人間界は猶予を“準備期間”だと理解している。礼儀の使者が帰ったのは、条件を整えるため」

 条件。
 裂け目。
 侵入。

 アリアの背筋が冷える。

「……来るの?」

「来ます。力ずくで」

 セフィラの声は淡いのに、言葉が刃だ。
 アリアの心臓が早くなる。
 逃げたい。
 でも逃げられない。
 逃げた先がこの世界だから。

 セフィラは立ち上がった。

「逃げるなら、せめて呼吸を持って逃げなさい」

 意味が分からないようで、分かる。
 呼吸を失うと、熱が暴れる。
 熱が暴れると、裂け目が開く。
 裂け目が開くと、誰かが傷つく。

 セフィラは消えた。
 影が薄くなるみたいに。

 夜が来た。

 城の空気が、昼より重い。
 重いのに、静かではない。
 どこかで鎧が擦れる。
 歩哨の足音が一定のリズムで続く。
 結界が低く唸るような音が、床の下から響く気がする。

 アリアは部屋で膝を抱えていた。
 怖い。
 怖いのに、ここにいる。
 ここにいることが、誰かの戦いを増やす。

 ――私がいなければ。

 その思考が、また頭を持ち上げる。
 何度でも湧く。
 毒みたいに湧く。

 その瞬間、城が揺れた。

 遠くで、爆ぜる音。
 空気が裂ける音。
 悲鳴ではなく、号令の声。

「総員、配置! 侵入だ!!」

 レオニスの声。
 でかい。
 でかいから、怖い現実がはっきりする。

 次に、窓の外が光った。
 白い術式の閃光。
 黒い裂け目が空に走る。
 昨日より太い。
 昨日より荒い。
 礼儀の裂け目ではなく、暴力の裂け目。

「……来た」

 喉が震えた。
 息が浅くなる。
 胸の奥が熱を持つ。
 怖い。
 怖いが燃料になる。

 城がもう一度揺れた。
 石が鳴り、窓が震え、遠くで剣戟の音が連鎖する。

 アリアは立ち上がった。
 足が震える。
 それでも立つ。

 ――私が出ていけば終わる。

 その思考が、まるで正解みたいに頭に浮かぶ。
 王家の論理。
 社交界の論理。
 貴族令嬢として刷り込まれた、自己犠牲の論理。

 出ていけば、戦いは止まる。
 出ていけば、城は守られる。
 出ていけば、ルシフェルは戦わなくて済む。
 出ていけば、皆が生きる。

 それが真実かどうかは分からない。
 でも“そう思う癖”が強すぎる。

 アリアは外套を掴み、扉を開けた。
 廊下は暗い。
 壁の文様が淡く光り、道を示す。
 足音が自分の鼓動と重なる。

 走ろうとして、走れない。
 息が浅いから。
 浅い息が、熱を増やす。
 熱が増えると、また裂け目が――

 だからアリアは、歩いた。
 一歩ずつ。
 呼吸を数えながら。

 角を曲がると、ヴァルグリムがいた。
 いつも通りの無音の存在感。
 でも今夜は剣を腰に提げている。
 執事の剣。
 その異様さが、戦場だと告げてくる。

「アリア様」

 ヴァルグリムの声は静かだが、鋭い。

「どちらへ」

「……止めに行く」

 アリアが言うと、ヴァルグリムの目が細くなる。
 否定しない。
 否定できないのを知っている顔。

「それは、あなたが消えることではないでしょう」

 言葉が刺さる。
 でも足は止まらない。
 止まったら、怖さに飲まれる。

「皆が戦ってる……私のせいで」

「あなたのせいで戦っているのではない。彼らは、城を守っている」

「……私も城の中にいる」

 その言葉が自分で自分を縛る。
 城の中にいるから、守られる。
 守られるから、戦いが起きる。

 ヴァルグリムは一瞬だけ沈黙した。
 その沈黙は、言葉を選ぶ沈黙。

「魔王様は、あなたを“守られる存在”として閉じ込めるつもりはありません」

 閉じ込める。
 その単語にアリアの胸がひくりとする。

「……でも私は、出ていけば」

「出ていっても終わりません。終わるのは“今夜の形”だけ。人間界は次の形を持って来る」

 次の形。
 封印。
 回収。
 猶予。

 結局、逃げ道はない。
 逃げ道がないなら、せめて自分が犠牲になれば――その思考に戻りそうになる。

 その時、前方の廊下に影が立ちはだかった。

 黒い外套。
 夜の底の瞳。
 息が少し乱れている。
 走ってきたのが分かる。

 ルシフェルだった。

 アリアは足を止めた。
 止めたくないのに、止まる。
 彼の存在が、身体を止める。

 ルシフェルはアリアを見た。
 視線が揺れる。
 揺れたまま、低い声で言う。

「どこへ行く」

「……私が出れば、終わる」

 口にした瞬間、胸が痛んだ。
 痛いのに、言ってしまった。
 言わずにいられないほど、追い詰められている。

 ルシフェルの目が、ほんの一瞬だけ獣の色を帯びた。
 怒りではない。
 恐怖でもない。
 もっと深い、壊れそうな怒り。

「終わらない」

 短い否定。
 強い否定。

「お前が消えることで終わるなら」

 ルシフェルは一歩前へ出た。
 一歩だけ。
 近づきすぎない距離を保ったまま。

「俺は世界ごと壊す」

 言葉が、熱だった。

 魔王の言葉。
 政治の言葉ではない。
 脅しの言葉でもない。

 ただの、感情の爆発。
 守りたいものを失うくらいなら、全部壊してでも守るという、手加減のない本気。

 アリアの心の氷に、ひびが入った。

 氷は、守るために固まっていた。
 痛みを感じないために固めていた。
 でもその氷が、今、彼の言葉の熱で割れ始める。

「……そんなこと、言わないで」

 アリアの声が震える。
 震える声が、涙になりかける。
 でも涙はまだ出ない。
 出ない代わりに、胸が痛む。

「あなたが壊れるのが怖いの」

「お前が消える方が怖い」

 即答。
 手加減がない。
 年下の本気。

 アリアはそこで、ルシフェルの“年下”をもう一度理解する。
 大人なら言わない。
 大人なら、もう少し賢く言う。
 大人なら、相手が逃げないように言葉を選ぶ。

 でも彼は選ばない。
 選べない。
 真っ直ぐにしか言えない。
 真っ直ぐにしか守れない。

 それが怖くて、嬉しくて、胸が苦しい。

 遠くで爆ぜる音がした。
 城がまた揺れる。
 レオニスの怒号が響く。

「第二波来るぞ! 結界、押されてる!!」

 戦場は進んでいる。
 選択は、今夜のうちに迫ってくる。

 アリアは唇を噛んだ。
 噛むと、鉄の味がする。
 生きている味。

「……私、どうしたらいい」

 自分でも驚く言葉だった。
 “正解”を求める癖。
 でも今の問いは、王家に向けた問いではない。
 目の前の人に向けた問いだ。

 ルシフェルの瞳が揺れる。
 揺れて、統治者の顔が少しだけ戻る。

「お前は、戻るな」

「命令?」

「……お願いだ」

 お願い。
 またお願い。
 魔王の口から出るお願いは、どれも胸を締め付ける。

 アリアは息を吸う。
 吸って、吐く。
 少しだけ深くなる。
 深くなると、胸の熱が落ち着く。

 ルシフェルの言葉の熱が、氷に入ったひびから、少しずつ入ってくる。
 冷たい世界に、温度が戻ってくる。

 アリアはようやく気づく。

 自分は、消えて終わらせる役じゃない。
 生きて、選ぶ役なんだ。

 それでも怖い。
 怖いけれど、今夜は逃げるだけの夜じゃない。

 決裂と、選択の夜。

 アリアは震える指先を握りしめ、
 ルシフェルの瞳から目を逸らさずに、
 自分の中の氷が割れる音を、静かに聞いた。
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