婚約破棄から始まる、異世界スローライフと年下魔王の本気恋

タマ マコト

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第14話:年下魔王の本気の告白

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 翌日の空は、やけに穏やかだった。

 昨日、闇の庭で空気が裂けかけたことが嘘みたいに、薄桃の光が離れの窓からやわらかく差し込む。
 植物の葉に落ちる影も、いつも通り丸い。
 世界は、何事もなかったふりが上手い。

 でもアリアの中では、まだ昨日が終わっていなかった。

 ルシフェルの手の温度。
 「お願いだから、壊れないで」
 その声の震え。
 魔王が“お願い”をする不釣り合いが、胸の奥に鉛みたいに残っている。

 鉛は重い。
 重いのに、落ち着く。
 落ち着くのに、怖い。

 怖いのは、そこに“意味”が生まれてしまったからだ。

 自分が壊れそうになった瞬間、誰かが走ってきた。
 誰かが「悲しい」と顔で言った。
 その誰かが、魔王だった。

 そんなこと、起きていいのか分からない。

 ティータイムの時間が来た。

 ミリィはいつも通り――のふりをして、いつもより静かに焼き菓子を置いた。
 置いて、逃げない。
 逃げないで、アリアの顔を見た。

「……昨日のこと、言わなくていいからね」

 ミリィが小声で言う。
 言わなくていい。
 それが、優しさの形だと今のアリアには分かる。

「うん」

 アリアの返事は短かった。
 短い返事の中に、ありがとうが混ざる。
 混ざっているのに、口に出すと壊れそうで、言えない。

 ミリィは皿を置き、指先でそっとテーブルを叩いた。

「……でも、来ると思う」

「来る?」

「魔王様。たぶん、今日。すっごい考えてたもん」

 考えてた。
 考えてた、という言葉が胸に刺さる。
 自分のせいで考えたのだと思ってしまう。
 その思考が癖だ。

 ミリィは扉の方へ向かいながら、振り返った。

「アリア、逃げてもいいからね。逃げたら私が隠す」

「……隠すって何」

「隠すは隠す!」

 雑な宣言を残して、ミリィは出ていった。
 今日は置き逃げじゃない。
 置き置き。
 優しさの置き置き。

 ヴァルグリムが入ってきて、湯の温度を整える。
 今日は少しだけ温度が低い。
 アリアの呼吸がまだ浅いのを見抜いている。

 ヴァルグリムはアリアのカップに湯を注ぎ、香りを整えたあと、一礼した。

「……本日は、結界の点検で城内が慌ただしい。離れの外へは出ないよう」

「はい」

 返事は反射だ。
 でも今は反射でもいい。
 反射で生き延びられるなら、それも大切だ。

 ヴァルグリムは少しだけ間を置いて、何かを言いかけた。
 言いかけて、やめた。

 その“やめた”が、妙に優しかった。
 言葉を押し付けない。
 今日の空気が特別だと分かっているような、黙り方。

 ヴァルグリムは静かに出ていった。

 セフィラは今日は来なかった。
 来ないことで、空気を整えてくれている気がした。
 沈黙を、邪魔しないために。

 アリアは湯気を見つめながら、自分の心臓の音を聞いた。

 ドクン。
 ドクン。
 規則的で、でも少し早い。
 怖い時の心臓の音。
 逃げたい時の音。

 ノックがあった。

 控えめで、硬いノック。
 迷いがないふりをして、迷いが残っている音。

「……入る」

 ルシフェルの声。

 扉が開いた。

 ルシフェルが入ってきた瞬間、アリアの目は彼の“違い”を拾ってしまう。

 髪が整っている。
 いつもより丁寧に梳かされていて、額のあたりの流れがきっちりしている。
 外套も、皺が少ない。
 服の襟元も整っている。
 ――準備してきた。

 準備してきたのに、表情は硬い。
 硬いのに、目だけが揺れる。
 揺れるのに、逃げない。

 アリアは喉が詰まった。
 紅茶の香りが急に濃くなる。

 ルシフェルはテーブルに近づき、でも椅子に座らなかった。
 座らない。
 逃げ道を塞がない。
 距離を保った位置で、立ったまま、アリアを見る。

 その立ち方が、昨日の庭の“支える位置”と同じだった。

「……今日、来ると思ってた?」

 ルシフェルが小さく言った。
 会話の入り口が、妙に弱い。
 魔王の言葉じゃない。
 年相応の探り。

「……少し」

 アリアは答えた。
 嘘じゃない。
 ミリィが言ったから、だけじゃない。
 自分の胸が、分かっていた。

 ルシフェルは一瞬だけ目を閉じた。
 息を整えるみたいに。

 そして、カップを手に取った。

 指先が微かに震えている。
 昨日の震えとは違う。
 これは恐怖の震えではない。
 覚悟の震え。

 ルシフェルはカップを持ったまま、少しだけ視線を落とし、言った。

「……俺は魔王だ」

 それは名乗りのようで、言い訳のようで、決意のようだった。
 魔王。
 重い肩書き。
 その肩書きを、自分で持ち上げ直すみたいに言う。

「だがお前のことは、支配したくない」

 支配。
 その単語が、胸に棘を刺す。
 支配されたくない。
 支配は、王家の匂いだ。
 婚約も、愛じゃなく支配の契約だった。

 ルシフェルは言葉を探している。
 探しながら、正直に言う。

「……ただ、隣にいてほしい」

 隣に。
 いてほしい。

 恋の言葉としては不器用で。
 政治の言葉としては危険で。
 でも感情としては嘘がない。

 嘘がないからこそ、アリアの胸が苦しくなる。

 息が詰まる。
 肺が小さくなる。
 視界が狭まる。

 嬉しい。
 怖い。
 嬉しいが怖い。
 怖いが嬉しい。

 矛盾が胸の中で絡まって、ほどけない。

「……だめ」

 アリアは、やっと言えた。
 声が細い。
 でも拒絶だ。
 初めて自分で選ぶ拒絶。

 ルシフェルの指先が止まる。
 カップの震えが、一瞬で消える。
 消えた代わりに、瞳が揺れた。

「……理由を」

 短い言葉。
 命令じゃない。
 求める声。
 壊れそうな声。

 アリアはカップを握りしめた。
 熱い。
 熱が、今は痛い。

「私は……傷だらけ」

 言葉が、喉を裂く。
 言うだけで、過去が血を流す。

「怖くて、泣けなくて、すぐ熱くなって、裂け目を作りかける」

 言葉にするたび、恥ずかしさが増す。
 恥ずかしいのに、言わなきゃ伝わらない。
 伝わらないまま隣にいるのは、もっと怖い。

「あなたは未来がある」

 未来。
 若い魔王。
 統治者。
 彼の肩には領地がある。民がいる。城がある。

「私がいると、あなたは戦うことになる。王家が来る。境界が揺れる。みんなが危険になる」

 アリアの声が震えた。
 震えが涙の代わりに揺れる。

「……私のせいで、あなたが壊れるのが怖い」

 言ってしまった瞬間、アリアは息ができなくなった。
 自分が言った言葉が重すぎて、胸が潰れる。

 ルシフェルは唇を噛んだ。

 噛む音が聞こえそうなくらい、強く。
 子どもみたいに悔しそうな顔をする。
 悔しさを隠すのが下手で、眉が寄って、瞳が痛そうに揺れる。

「……俺は」

 言葉が詰まる。
 統治者の言葉なら、もっと上手に言えるはずなのに。
 外交の言葉なら、もっと整えられるはずなのに。

 でも彼が欲しいのは、外交の勝利じゃない。
 人を縛る支配でもない。

 彼は、息を吸って、吐いて、言った。

「それでも、俺は選ぶ」

 選ぶ。
 それは政治の言葉じゃなく、感情の言葉だった。
 責任の言葉であり、わがままの言葉でもある。

「俺が戦うことになってもいい」

 アリアが口を開きかける前に、ルシフェルが続ける。

「お前が壊れる方が、嫌だ」

 嫌だ。
 拒絶ではなく、懇願の嫌だ。

 アリアの胸が締め付けられる。
 苦しい。
 苦しいのに、温度がある。

 その瞬間、アリアは痛いほど理解した。

 ルシフェルは年下だ。

 見た目だけじゃない。
 肩書きだけじゃない。
 生き方が、年下だ。

 手加減の仕方を知らない。
 「大人の正解」を言ってやり過ごすことを知らない。
 傷つかないように距離を取るのではなく、ぶつかってでも守ろうとする。

 年下の本気は、刃物みたいにまっすぐだ。
 刺さる。
 でも刺さるのは、嘘じゃないから。

 アリアは息を吸った。
 吸って、震えた。

「……あなた、魔王なのに」

 言葉が漏れる。
 笑いそうで、泣きそうで、どっちにもなれない声。

「どうしてそんなに、不器用なの」

 ルシフェルは少しだけ目を見開いた。
 そして、また唇を噛む。
 悔しそうに。

「……不器用で悪い」

「悪いって言ってない」

 アリアはカップを置いた。
 手が震える。
 震えが止まらない。
 止まらないのに、今の震えは暴走の震えじゃない。

 怖い。
 でも、怖さが変わっている。

 拒むのが怖い。
 受け入れるのが怖い。
 でもどちらも、“選ぶ”怖さだ。
 今までの“強制”の怖さじゃない。

「……隣にいてほしいって」

 アリアは言葉を拾うように繰り返した。

「それって、私に選ばせるってこと?」

 ルシフェルは頷いた。

「そうだ」

 短い。
 でも真っ直ぐ。

「嫌なら、嫌と言え。俺は……引く」

 引く。
 入っていいかと尋ねた時の顔。
 拒まれたら引く覚悟の顔。

 その覚悟が、アリアの胸をまた痛める。

 アリアは目を閉じた。
 閉じると、夜会の拍手が鳴りそうで怖い。
 でも今日は鳴らない。
 紅茶の香りが、現実を繋ぎ止める。

「……今は、答えられない」

 アリアは言った。
 拒絶ではない。保留。
 それが許されることを、ここで覚えた。

 ルシフェルは一瞬、悔しそうに眉を寄せた。
 でも、その悔しさを飲み込む。
 飲み込み方が下手で、喉が動く。

「……分かった」

 それだけ言って、彼は一歩だけ下がった。
 距離を保つために。
 逃げ道を塞がないために。

 アリアの胸が、ぎゅっと痛む。

 こんなふうに下がる人を、アリアは知らない。
 王太子は下がらなかった。
 父も下がらなかった。
 王家は下がらなかった。
 皆、押した。押して、押して、押して、息を奪った。

 ルシフェルは下がる。
 下がっても、目は逸らさない。
 逸らさないのに、支配は単語ルビしない。

 その矛盾が、苦しくて、温かい。

「……でも」

 ルシフェルが、少しだけ声を落とした。
 言っていいのか迷う声。
 迷ったまま言う。

「俺は、本気だ」

 本気。
 年下の本気。
 手加減のない、本気。

 アリアの喉の奥が熱くなる。
 涙は出ない。
 でも胸の奥が、溶けていく。

 この告白は、恋の言葉としては未熟で、政治の言葉としては危険で、
 だけど生きる言葉としては、あまりにも真っ直ぐだった。

 アリアは目を開けた。
 ルシフェルの瞳が揺れている。
 揺れているのに、逃げない。

 アリアは、言葉にならない返事を胸の中で抱えたまま、
 紅茶の温度で指先を温め続けた。
 壊れないために。
 そして、いつか“選ぶ”ために。
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