婚約破棄から始まる、異世界スローライフと年下魔王の本気恋

タマ マコト

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第13話:暴走しかけた心と、手の温度

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 “猶予”という言葉は、刃物みたいだ。

 今すぐ殺さない、という意味で。
 今すぐは壊さない、という意味で。
 つまり、いつかは壊すと宣言している。

 王家の使者が去った翌日から、城の空気は目に見えない鎧をまとった。
 廊下の足音が揃う。
 レオニスの声が遠くで響く。
 セフィラが結界の点検をしている気配がする。
 ヴァルグリムの報告が短くなる。

 誰もアリアを責めない。
 誰も“お前のせいだ”とは言わない。
 なのにアリアは、ずっと胸の奥で自分を責めていた。

 ――私がここにいるから。
 ――私が逃げ込んだから。
 ――私が裂け目を作ったから。
 ――私が“力”を持っているから。

 誰も言っていない言葉を、自分が一番上手に言える。
 それが、長年の生き癖だった。

 昼のティータイムは続いた。
 続けることが儀式だから。縫い目だから。

 ミリィはいつも通り菓子を置き逃げしようとして、今日は置き逃げの勢いが弱かった。

「……ね、アリア。今日のタルト、甘いよ。甘いのは、まあ……ね。良いから」

「ミリィ、説明がふわふわ」

「ふわふわが癒し!」

 癒し。
 癒されるのが怖い。
 癒されたら、傷があることを忘れてしまいそうで。

 ヴァルグリムは湯の温度を少しだけ低くした。
 アリアの呼吸が浅いのを見抜いているから。
 熱い湯気は、今の彼女に刺さる。

 セフィラは一度だけ姿を見せ、「裂け目の縁が縫い直されています」と淡々と告げて消えた。
 縫い直される。
 縫い直されても、また裂かれるかもしれない。
 それが猶予。

 ルシフェルは、来たり来なかったりした。
 来た日は空気が変わる。
 来ない日は、アリアが少しだけ落ち着く。
 その事実に気づくたび、罪悪感が増える。

 ――私、あの人を疲れさせてる。
 ――私がいるだけで、統治者の時間を奪ってる。

 夜になると、その罪悪感は濃くなる。
 夜は静かだから、心の声が大きい。

 その夜、アリアは眠れなかった。

 離れの部屋の温度はちょうどいい。
 毛布は柔らかい。
 窓辺の花は静かに香る。
 それでも心臓だけが落ち着かない。

 猶予。
 帰還。
 封印。
 所有物。
 力は手放さない。

 使者の言葉が、耳の奥にこびりついている。
 丁寧な言葉の形をした刃が、何度も何度も皮膚を撫でてくる。

 アリアは起き上がり、外套を羽織った。
 誰にも言わずに、庭へ向かう。

 闇の庭は夜が似合う。
 空は赤が濃く、影は柔らかいのに深い。
 闇属性ハーブが、夜の香りを増している。
 甘くて、冷たい。

 アリアは菜園の前にしゃがみ込んだ。
 土に触れる。
 しっとり冷たい。
 この冷たさは、いつもなら熱を鎮めてくれる。

「……泣きたい」

 呟いた声は、風に持っていかれる。
 聞いてくれる人はいない。
 だからこそ言えた。

 泣きたい。
 泣けたら、楽になる。
 泣けたら、胸の奥の棘が抜ける気がする。

 でも――涙が出ない。

 目は熱いのに、出てこない。
 喉が詰まるのに、出てこない。
 泣くという行為が、途中で止められているみたいに。

 代わりに、胸の奥の熱が湧いてくる。

 泣けない悲しみが、行き場を失って、魔力になる。
 魔力になって、溜まる。
 溜まって、膨らむ。

「やだ……」

 アリアは土に指を突っ込んだ。
 冷たさを入れたい。
 熱を土に逃がしたい。

 でも今日の熱は、土が吸いきれない。

 草がざわめいた。

 風が吹いたわけじゃない。
 闇属性ハーブが、自分で揺れた。
 光の粒が、芽の周りで急に増える。
 増えて、暴れるように踊り始める。

 空気が歪む。
 歪みが、肌に触れる。
 まるで透明な布が引っ張られて、ピンと張るみたいな感覚。

 アリアの耳に、あの音が戻ってきた。

 ――きしむ。
 ――世界が、きしむ音。

「……だめ……!」

 アリアは息を吸う。
 吸えない。
 胸が熱で詰まって、呼吸が浅くなる。
 浅くなればなるほど、熱は増える。

 地面の影が、裂け目の形を取り始めた。
 黒い影が、細い線になる。
 線が太る。
 太って、口を開ける。

 まただ。
 また、世界を裂く。
 また、誰かを巻き込む。
 また、ここを壊す。

「やめて……! お願い、やめて……!」

 お願い。
 自分がお願いしているのに、止まらない。
 お願いが、魔力になってしまう。

 その時、足音がした。

 走る足音。
 石を蹴る音。
 息が切れる音。

「アリア!」

 ルシフェルの声が、夜を割った。

 次の瞬間、手首を掴まれた。

 強くない。
 痛くない。
 でも――離さない。

 その手の温度が、あまりにも現実で、アリアの視界が揺れた。
 熱い魔力の世界の中で、その温度だけが“人の体温”だった。

「……っ!」

 アリアは反射的に手を引こうとした。
 引いたら裂け目が広がる気がして、怖い。
 怖いのに、掴まれていることが救いで、さらに怖い。

 ルシフェルはアリアの前に立たなかった。
 横に立った。
 並ぶように。
 盾ではなく、支える位置。

 そして、震える声で言った。

「お願いだから、壊れないで」

 お願い。

 魔王が、お願いをする。
 命令ではなく。
 統治者の言葉ではなく。

 不釣り合いだった。
 不釣り合いすぎて、胸が締め付けられる。
 魔王は世界を命令できる存在のはずなのに。
 その魔王が、たった一人の人間に「お願い」をしている。

 アリアの喉の棘が、ぐっと痛んだ。

「……ごめん……」

 謝罪が出た。
 また癖だ。
 何かが起きたら、とにかく謝る。
 謝れば許されると思っている。
 許されないのに謝ってきたから。

 ルシフェルは首を振った。
 揺れる髪が夜の光を吸う。

「謝るな」

 短い否定。
 でもその否定は、冷たくない。
 むしろ焦りが混ざっている。

 裂け目が、さらに口を開けようとした。
 空気が引き伸ばされ、音が消えかける。
 アリアの耳鳴りが強くなる。

「止まって……」

 アリアが呟く。
 止まらない。
 止まらないから、怖い。

 ルシフェルの手首を掴む指が、少しだけ強くなった。
 強くなっても痛くない。
 痛くない強さは、守る強さだと分かる。

「聞け、アリア。俺を見ろ」

 命令に聞こえるのに、命令じゃない。
 必死な声。
 誰かを引き戻す声。

 アリアは顔を上げた。

 ルシフェルの瞳は夜の底。
 でも、獣の色ではない。
 怒りの色でもない。

 ――悲しい色だった。

 怖がっているのではなく。
 脅威を排除しようとしているのでもなく。
 彼は、アリアが壊れることを――悲しんでいる。

 その事実が、胸に落ちた瞬間、アリアの熱が揺れた。

 怖いという感情は、燃料になる。
 でも悲しみも、燃料になる。
 ただし、それは破壊の燃料ではなく、“守りたい”の燃料だ。

 アリアは、初めて気づいた。

 これまで誰かが自分の崩壊を恐れたことはあった。
 王家は恐れた。だから封印しようとした。
 父は恐れた。だから抱きしめなかった。
 周囲は恐れた。だから拍手した。

 でも――悲しんだ人はいなかった。

 壊れたら困るからではなく。
 壊れたら価値が減るからではなく。
 壊れたら“悲しい”から。

 アリアの喉が震えた。
 言葉が出ない。
 でも呼吸が、ほんの少しだけ深くなる。

 深呼吸。
 土の冷たさを思い出す。
 闇属性ハーブの香り。
 苗の周りの光。
 育つこと。

 アリアは掴まれた手首から、ルシフェルの体温を受け取った。
 温度が、魔力の暴走に楔を打つ。

 裂け目の黒い線が、ほんの少しだけ細くなる。
 細くなって、揺れる。
 揺れながらも、閉じようとしている。

「……私、泣けない」

 やっと出た声は、子どもみたいに弱かった。

「泣きたいのに……泣けない。だから……熱くなる」

 ルシフェルは瞬きをした。
 その瞬きが痛そうだった。
 彼はすぐに言葉を探すみたいに、少しだけ視線を落とす。

「……泣けないなら」

 ルシフェルは言った。

「泣かなくていい。泣く代わりに、言え」

「……言う?」

「怖いって。苦しいって。嫌だって」

 嫌だ。
 嫌だと言っていい。
 そんな単純なことが、今までできなかった。

 アリアの目の奥が熱くなる。
 涙は出ない。
 でも、涙の代わりに言葉が出る。

「……怖い」

 声が震える。

「私がここにいるせいで、みんなが戦うのが怖い」

 次の言葉が、胸を裂く。

「私が、また誰かを壊すのが怖い」

 言葉にした瞬間、熱がさらに増えそうになる。
 でもルシフェルの手が、離さない。
 温度が、支える。

「……俺がいる」

 ルシフェルが言う。
 短い。
 でも、夜の闇に釘を打つみたいな言葉。

「お前のせいにするな。……お前は、お前のままで生きろ」

 生きろ。
 命令じゃない。
 願い。

 裂け目が、ようやく閉じた。
 影の線が薄くなり、土の黒に溶けて消える。

 草のざわめきが静まる。
 光の粒が、暴れる踊りから、ゆっくりした揺れに戻る。
 闇属性ハーブが、甘い香りを残して落ち着く。

 アリアの肩が、どっと落ちた。

 膝が震える。
 立っていられない。
 その瞬間、ルシフェルがアリアの手首を掴んだまま、支えるように一歩近づいた。
 抱きしめない。
 でも、倒れないように支える距離。

「……ごめ、」

 また謝りそうになって、アリアは言葉を飲み込んだ。
 謝る代わりに、息を吐く。

 ルシフェルは、その息を見て、小さく言った。

「……生きてくれ」

 また願い。
 魔王が、願う。

 不釣り合いで、胸が痛い。
 痛いのに、嬉しい。

 アリアは、初めて泣けないまま、泣いた。

 涙は出ない。
 でも胸の奥がほどけて、熱がゆっくり温度に変わっていく。
 震えが、悲鳴じゃなくなる。
 震えが、ただの“生きている”揺れになる。

 ルシフェルの手の温度が、夜の庭の冷たさと混ざり合って、
 アリアの中の裂け目の縁を、静かに縫い始めていた。
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