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第1話 雨音の終電、薔薇の匂いの目覚め
しおりを挟む終電の車内は、眠気と汗と香水と、諦めの匂いが混ざったぬるい空気で満ちていた。
座席の端に押し込まれるように座った朝霧玲奈は、膝の上でスマホを握りしめている。握りしめているというより、落とさないために指を固めている、が近い。
車窓に雨が細い線を引いて、街のネオンをにじませる。
赤、青、白。信号の色が水彩みたいに溶けて、どれも「帰れ」と言っているように見えた。
画面には会社のチャットが開きっぱなしだった。
「助かります!」
「さすが玲奈さん!」
「この件、玲奈さんにお願いしていいですか?」
……助かっているのは、いつも他人だ。
玲奈は返信欄に指を置いて、何も打たないまま画面を閉じた。
閉じても、光の残像が瞼の裏に貼り付く。蛍光灯の白さが骨の奥まで冷やしてくる。
隣のサラリーマンが小さく寝息を立て、向かいの女子大生がイヤホン越しに微かに笑った。
その笑い声が、玲奈には遠い国の言葉みたいに聞こえる。
――私、どこにいるんだろ。
ふっと息を吐く。胸の奥が軽くなるはずなのに、空洞に風が通っていくような寒さだけが増した。
スマホが震えた。
画面に表示された名前は、恋人の「悠真」。
開く前に、玲奈は一瞬だけためらった。嫌な予感って、いつも当たる。
でも、当たることを知っていても、人は確認してしまう。
表示された文は、たった一行だった。
『ごめん、やっぱ無理』
それだけ。
絵文字も、余白もない。
無機質で、冷えた刃物みたいな文字。
「……え」
声が漏れた。自分の声だと分かるのに、どこか他人の声みたいに薄かった。
玲奈はすぐに返信しようとした。
『どういうこと?』
『何が無理?』
『話そう?』
打っては消し、打っては消す。
指が震えて、変換候補だけが無駄に明るい。
胸の奥がすうっと抜けていく。
怒りも悲しみも、置いていかれた感じ。
まるで誰かに、心臓の近くを指先でつままれて、そっと引き抜かれていくみたいに。
「……私、何かした?」
誰に聞いているのか分からない。
雨音が答えるわけでもない。
車内の誰もこちらを見ない。見ないのが正しいと思っている。
玲奈の喉は、乾いた紙みたいに貼りついていた。
――そうだ。私、いつもこうだ。
嫌われないように、空気を壊さないように、相手の気分を優先して。
「大丈夫だよ」って言って、全然大丈夫じゃなくて。
「任せて」って言って、自分が壊れていって。
車内アナウンスが、次の駅名を淡々と告げる。
玲奈は降りる駅を過ぎていることに気づいて、ようやく身体が動いた。
「……すみません」
誰にも届かない小声で呟いて、玲奈は立ち上がる。
肩が誰かにぶつかり、「あっ」と小さい声が聞こえた。
玲奈は反射で頭を下げた。
「すみません……すみません……」
謝ることだけが、呼吸みたいに自然だった。
次の駅で降り、改札を抜け、外へ出る。
雨は小降りで、冷たい霧みたいに頬へまとわりつく。
アスファルトは濡れて黒く光り、白線がぼやけていた。
玲奈は傘を開きながら、もう一度スマホを見る。
悠真からの追加はない。
そこにあるのは一行の拒絶だけ。
『ごめん、やっぱ無理』
「……なんで、今」
言葉にした瞬間、喉の奥が熱くなった。
泣きたいのに涙は出ない。
涙は、余裕のある人間のものみたいに思えた。
足が勝手に動き、横断歩道の前に立つ。
信号は赤。
車のライトが雨粒を照らして、無数の小さな星が地面に散っているみたいだった。
玲奈の頭の中で、会社のチャットがまた開く。
「助かります!」
「さすが!」
「お願い!」
――お願い。お願い。お願い。
悠真の文字も、同じ種類のお願いだったのかもしれない。
「都合のいいときだけ、側にいて」
「面倒になったら、いなくなって」
信号が青に変わる。
玲奈は足を踏み出した。
その瞬間、世界が少しだけ遅くなった。
雨音が遠ざかる。
心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえる。
白線の上の水たまりが、街灯を映して揺れた。
その光が、まるで「ここで終わり」と言っているみたいで。
――私、最後まで自分を選べなかった。
それが、最後の思考だった。
ブレーキ音が耳を裂く。
光が弾け、衝撃が骨を叩き割る。
痛みは遅れて来た。
痛みの前に、空っぽが来た。
そして、暗い。
深い深い、沈むみたいな暗さ。
底に触れたと思った瞬間、今度はふわりと浮かび上がる。
水面に顔を出すように、息が入る。
「……っ」
玲奈は目を開けた。
最初に感じたのは、匂いだった。
花。甘い。薔薇というより、薔薇に似せた高級な香油の匂い。
次に、布の擦れる音。
絹が風に揺れて、さらさらと囁き合っている。
眩しい。
けれど蛍光灯の白さじゃない。
朝の光。やわらかくて、肌の上を撫でるみたいな光。
玲奈はゆっくり起き上がり――そこで、動きを止めた。
部屋が、広い。
天蓋付きのベッド。
高い天井。
壁には金の縁取り。
カーテンは淡いクリーム色で、窓の外には庭園の緑が見える。
「……は?」
声が出た。
澄んだ声だった。
自分の声より少し高くて、鈴みたいな透明感。
玲奈は手を見た。
白い。細い。指先が小さい。
手の甲にはうっすらと光る紋様がある。刺青じゃない、魔法陣みたいな。
心臓が跳ねた。
鏡が目に入る。
大きな姿見が、部屋の隅に置いてある。
嫌な予感というより、ありえない予感。
玲奈はベッドから降り、ふらつきながら鏡の前に立った。
そこにいたのは――金髪の少女だった。
肩までの淡い金髪が、朝の光を受けて柔らかく輝いている。
瞳は薄い青。透明な湖面みたいな色。
頬は白く、唇は薄い桃色で、驚きで少し開いている。
「……誰」
鏡の中の少女も同じ言葉を口にした。
声のタイミングまで一致する。
当たり前だ。鏡なんだから。
なのに。
「……私、じゃない……」
玲奈は頬をつねった。
痛い。ちゃんと痛い。
夢じゃない。
頭の奥で、音が鳴った。
きらきらした旋律。
弦楽器と鈴の音。
耳に馴染みすぎたBGM。
――嘘でしょ。
玲奈は、息を飲んだ。
この曲を知っている。
深夜、スマホを握りしめて、現実を忘れるために何度も何度も聴いた。
乙女ゲーム『薔薇冠のレガリア』の、メインメニューの曲だ。
「……いや、いやいやいや」
少女――いや、玲奈は、鏡に向かって首を振る。
頭の中が熱いのに、手足は冷たい。
汗が背中に浮いて、絹の寝間着が肌に張りつく。
「待って、待って。落ち着け。落ち着く……」
言いながら全然落ち着けない。
だって、部屋の調度品も、壁の模様も、窓の外の庭の配置も、全部見覚えがある。
ゲームの序盤で、ヒロインが目覚める“貴族の部屋”。
そこは、攻略対象が初めて訪ねてくる場所。
イベントが始まる舞台。
玲奈は鏡の中の自分の胸元を見た。
寝間着の襟から覗く首筋に、小さなペンダントが揺れている。
薔薇の形の銀細工。中心に薄紅の石。
――リリア=エヴァンス。
頭の中で、名前が勝手に浮かぶ。
この子の名前。
ゲームで何度も見た。
そして同時に、もっと嫌なものが浮かんだ。
リリアの役割。
結末。
不遇ヒロイン。
踏み台。
誤解。
孤立。
断罪。
追放。
喉がきゅっと縮む。
酸素が足りないみたいに息が浅くなる。
「……うわ」
声が震えた。
恐怖が、背骨を伝って冷たい水みたいに降りてくる。
「最悪。知ってる、ここ」
言葉だけは本音だった。
本音が口から落ちた瞬間、部屋の静けさが一層くっきりとした。
すると、ドアの外から小さな足音がした。
控えめに、けれど確信のあるリズム。
コン、コン。
ノック。
玲奈――リリアは、反射で背筋を伸ばした。
ゲームの記憶が、勝手に次を告げる。
ここで入ってくるのは、侍女。
「お嬢様、起床のお時間です」
そして、その後に“学園入学”のシーンへ進む。
物語が始まる。
扉の向こうから、柔らかな声がした。
「リリア様? お目覚めですか……?」
玲奈は唇を噛みしめた。
怖い。
でも、逃げ場はない。
逃げたところで、イベントは追いかけてくる。ゲーム世界はそういうものだ。
だから――
彼女は深く息を吸い、吐いた。
肺の奥に残った雨の冷たさを、薔薇の香りで上書きするみたいに。
「……はい。起きてる」
言った声は、思ったよりしっかりしていた。
それが少しだけ嬉しくて、少しだけ悲しい。
前の世界では、こういう声は出せなかったから。
扉がそっと開く。
若い侍女が顔を出す。栗色の髪をきっちり結い、控えめな笑顔。
彼女の瞳は優しく、そしてどこか心配そうだった。
「よかった……。昨夜、少し顔色が悪かったので……」
玲奈は、何かを言おうとして言葉を飲み込む。
“昨夜”ってなんだ。
私は昨日、雨の夜に――死んだ。
でも、ここでは“昨夜”が存在する。
リリアとしての時間が、積み重なっている。
世界が、二つに割れて、重なる。
侍女が続ける。
「学園の入学式まで、あと一日です。お嬢様、今日は体調を整えましょうね」
入学式。
攻略対象たちが揃う場所。
正ヒロイン、ミレイア=ローゼンが光の中心に立つ日。
そしてリリアが、脇役として傷つき始める日。
玲奈は笑おうとして、うまく笑えなかった。
口角が上がりきらない。
その代わり、目が真っ直ぐになる。
「ねえ……」
侍女が首を傾げる。
「はい?」
玲奈は自分の手を見た。
小さくて、綺麗で、まだ何も傷ついていない手。
この手で、私は何を選べる?
喉の奥に、雨の夜に飲み込んだ言葉がまだ残っている。
「ごめん」「大丈夫」「任せて」
誰かのための言葉。
自分のためじゃない言葉。
でも今、口から出したいのは別の言葉だった。
「……私のこと、リリアって呼んだよね」
「もちろんです、リリア様」
「じゃあ、お願いがある」
玲奈はゆっくりと侍女を見上げた。
目の高さが低い。自分が少女だから。
その事実が妙に現実感を強めて、胸がざわつく。
それでも言う。
「私、今日は一人になりたい。……少しだけでいいから」
侍女が驚いた顔をする。
ゲームのリリアは、ここで「ううん、大丈夫」と言う。
大丈夫じゃないのに言う。
そして、ますます追い詰められる。
玲奈はその選択肢を、踏まない。
侍女は戸惑いながらも、頷いた。
「……承知しました。ですが、何かあればすぐお呼びくださいね」
「うん。ありがとう」
侍女が扉を閉める。
再び静けさ。
カーテンが風に揺れて、絹がささやく。
玲奈はベッドに腰を下ろし、両手で顔を覆った。
死んだ。
転生した。
乙女ゲームの世界に。
しかも不遇ヒロイン。
状況は最悪。
だけど――
指の隙間から見える部屋は、美しく、明るく、息ができる。
雨の夜の蛍光灯とは違う光。
世界の色が、まだ生きている色だ。
胸の奥に、熱が生まれる。
怒りでも復讐でもない。
もっと静かで、もっと頑固な熱。
――今度は、私を選ぶ。
玲奈は顔を上げ、鏡を見る。
金髪の少女が、こちらを見返す。
怯えているのに、目の奥だけが固い。
「リリア=エヴァンス」
名前を口にすると、体の中に馴染んでいく。
借り物の服を着るみたいに最初は違和感があるのに、徐々に温度が移る。
「……よし」
小さく呟いて、玲奈は立ち上がった。
まずは確認する。
この世界のルール。
自分の立場。
追放までのフラグ。
生き残るための手札。
何より――
“泣かされる前提”の物語を、壊す方法。
窓を開けると、冷たい風が頬を撫でた。
庭園の薔薇はまだ蕾で、雨の雫を抱えて光っている。
その雫は涙みたいで、でも落ちない。踏ん張っている。
玲奈はその薔薇を見て、ふっと笑った。
ほんの少しだけ。
それは自分のための笑いだった。
「うん。……この世界、知ってる」
そして、静かに続ける。
「でも、同じにはしない」
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